逢魔が刻 夕闇、茜色と影だけの二色に構成された世界の中で、ふと少女は足を止める。
それは些細な違和感だった。
つい先ほどまで聞こえた木々のざわめきも、小型のモンスターの鳴き声も、小動物の走る音もそのすべてが消えうせていた。だから少女は、一切その場で振り向かずに先ほどまで隣にいた二匹のオトモの名を呼ぶ。
『なぁに……?』
「っ!!」
反射的に少女は弾かれたようにその場から走り始める。彼女の健脚はぐんぐん速度を上げていくが、後ろにいたはずの気配はすぐそこにある。
――まずった!! よりによって!
『どごいぐのお……』
しゃがれた老婆のような、幼い子供のような、若い男性のような……そのすべてが混ぜ合わせられたような声がすぐ耳元で聞こえ、思わず涙目になる。頬に触れる手のような感覚も、時折足にかすめる何かも心を折るには十分なものだ。
逢魔が時というのは、普段は見えないはずの世界のずれから良くないものが現れる時間だ。その良くないものというのは、大抵幽霊や化物と称されるもので、少女にとってはモンスターよりも得たいのしれないもの。だが、悲しきかな彼女はその時間と波長が合うらしく、過去数度この奇妙な場所に来た事があった。だが、対処法など知るはずもなく。できることと言えば、時間いっぱいまでただひたすら逃げること。時間が過ぎれば自然といつもの大社跡に戻ってこれる。
だから、日が完全に沈むこのわずかの時間、少女にとってモンスター相手よりもきつい追いかけっこが始まるのである。
『どうじだのぉおおおお』
「もう! もう、もう!!」
怯えながら少女は崖の上にある祠を目指す。何しろモンスターよりも理性や本能がなく、動きや考えが読めない『何か』は神域を嫌うからか、朽ちていても祠や社には近づこうとしないのだ。もっとも、祀られていたであろう神(ナルハタタヒメ)は少女が討伐してしまったのだが……。
「っ!」
やってきた老婆を模した何かをつけている籠手で殴り飛ばし、飛び降りてきた血みどろの男のようなものの眉間に苦無を指す。目の前に落ちた大柄のなにかに向かって跳躍し、膝を叩き込んでから再びトップギアを維持したまま走る。鍛えているはずの身体は悲鳴を上げ、もう休もうなんてネガティブな考えが頭をよぎり、首を横にふる。それこそあいつらの思うつぼだ。
翔蟲はいないので、迂回するルートしかない。必死に坂を上り、跳躍し持ち前の身体能力で祠の目の前までやってくる。
やっとだという安堵の気持ちを抱いた時だった。
「えっ!」
がくん、と何かに足首を掴まれた。
ふと足元を見れば、小さな子供の手が物凄い力で少女の足に絡みついていた。
「っ!」
振り払おうにも、力の差は歴然で動くことすらできない。あと少しなのに! と涙目になりながら足を切り落とすことも考えていれば――
――どんっ!
突如手が爆発した。それだけではない。うごめいていた何かが風船のように膨れ上がり爆発していったのだ。そうしてふと視線を動かせば、そこは茜の空ではない、薄墨をこぼしたような帳が空に降りていて、星がちりばめられていた。
「もど、ってこれた……」
思わず息を吐くと、背後から抱きしめられる。慣れたぬくもりは見えなくてもわかった。彼女が心から一番信頼できる人間だ。
「よかったー……」
「きょ、きょうかんー!!」
「君のオトモたちが慌てて帰って来たから、急いで駆け付けたけど、間に合ってよかったよ……」
「マジで幽世に連れ攫われる寸前でした」
「あ、爆発させてよかった」
あっさりととんでもないことを言うウツシは、少女の頭を撫でてもう見えない何かの残骸を見つめる。昔から良くないものに好かれやすい少女だったが、今回は向こうが強硬手段に出たのに、思わず顔つきがこわばってしまう。こうなれば暫く少女は狙われるだろう。
ウツシは大きくため息をついて、少女と目を合わせる。
「しばらく、酒で結界作るしかないね……」
「うぐ……」
「君の家をたたら場の近くにしてから暫く寄ってこないと思ったのに……」
「ご、ごめんなさい」
「ごめん、責めている訳じゃないよ
ただ、人のものに手を出そうとするあいつらが許せないなって」
だからこうして、ウツシは幽世に引き込もうとするものを壊すのだ。彼女が魔性に好かれやすいのと同時に、彼は嫌われやすく壊す力が強い。
だからこそ手を離したくないのだが……。
「いっそ、祝言でも上げたら収まるかな」
「しゅ!?」
有象無象が手だししていいものじゃないのだ。とウツシは腹の奥底で獣をなだめながら笑うのだった。