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    nuasi_ko

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    nuasi_ko

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    むかーしこちらの小説アンソロ小料理屋菊さんに寄稿したものです。へたりあ。たぶん最初で最後のセカキク。
    http://www.kan-na.sakura.ne.jp/H/c/

    小満『五月二十一日』

    「古人曰く、蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)といいまして」
     よっ、というかけ声と共に、菊がガラス瓶を調理台に乗せた。密閉されたガラス瓶は、一抱えほどもある。
     調理台はこじんまりとしたカウンターのすぐ奧にある。木製の天板は、シンクの隣にあるにもかかわらず、良く乾いて清潔だった。
     掃除も下ごしらえも済み、後は開店を待つばかりという時間帯だった。
     巨大なガラスの密閉瓶の中でとろりと揺れる、透き徹った紅玉色の液体に、アルフレッドが目を輝かせる。
    「WOW、イチゴシロップ! 今日はかき氷なのかい?」
     菊が、微笑んで頭を振る。
    「まだ五月ですよ。流石にかき氷には早すぎます」
     先ほど言ったでしょう、蚕起食桑と。菊の言葉に、アルフレッドは笑顔のまま、頭の上に巨大な疑問符を浮かべる。顔にははっきりと『そんなこと言ったっけ?』と書かれている。
     流石はアメリカン。表情だけでこれだけ考えていることが丸わかりになるのは、ある種の才能だ。日本人にかかれば、アメリカ人などすべてサトラレだ。
     興味あること以外は全て聞き流し、記憶の片隅にも残らない。
     穏やかさが信条でありまた平素の性質でもある菊は、アルフレッドの態度に、表情ひとつ変えない。アルフレッドのゴーイングマイウェイな馬耳東風イヤーにもすっかり慣れたものである。
     菊が丁寧な手つきで密閉瓶をあける。
    「菊」
    「何ですか?」
    「さっきのもう一度言ってよ」
    「蚕起食桑」
    「カイコオキテクワヲハム」
     アルフレッドが口の中で音を転がして、首を傾げる。
    「何の呪文だい?」
    「七十二候(しちじゅうにこう)……ああ、まあ、季節を表す言葉の一つですね。一年を二十四に分割、更にそれを三つに分けて、全部で七十二となります」
    「ふぅん……?」
     ほおづえをついたアルフレッドが、全くわからないという顔をしながら、話の先を促す。アルフレッドは興味のないことに全く意識を向けない一方で、こうしてわからない話を妙に聞きたがるところがある。
    「先ほどの言葉は、お蚕さん……ああ、蚕という絹を吐く虫が、餌である桑を盛んに食べるようになる時節という意味になります」
    「それがこのイチゴシロップとどういう関係があるんだい?」
     菊が、小さな柄杓で液体をすくいあげ、用意しておいた二つのグラスに注いだ。紅玉色の液体が、ガラスの底部でゆらりとひらめいている様は、まるで金魚のようだ。
     一つ目のグラスに炭酸と氷を入れると、マドラーで優しくかき回すと、アルフレッドにさし出した。
    「はいどうぞ」
     アルフレッドが、ガラス瓶を改めて見る。液体の下半分に、沢山の小さな果実が沈んでいるのに気づいた。形はラズベリーや野苺に似ている。
    「果実酒かい?」
     まさか、と菊が笑った。いくら小料理屋といっても、昼間からお酒は出しませんよ。まして未成年にはね。菊がそう言うと、アルフレッドがすこしだけ膨れて、もうすぐ二十歳になるさとつぶやいた。
    「お酒なんて飲まないけどね」
     アルフレッドがグラスを手に取り口に持っていく。半分ほど飲んだところで口を離す。アルフレッドの顔には、『意外に悪くない』と書かれていた。
    「意外に悪くないでしょう?」
     アルフレッドが首をすくめる。
    「甘味は足りないけどね。でさ、菊。ちゃんと飲んだんだし、そろそろ種あかしをしてくれてもいいだろ?」
    「桑の実ですよ」
     さらりと菊が答える。
    「桑の実? って、さっきの……ほら、あー……えっと……」
    「はい。蚕起食桑にちなんでみました。去年、桑畑を見に行ったときに、お願いして摘ませてもらったんですよ。あんまり見事な実をつけているもので、勿体なくてですね」
     喋りながら菊が、もう片方のグラスにシロップと牛乳を注ぐ。シロップも菊のお手製だ。グラニュー糖と水を煮詰めて作る。酢と氷砂糖と桑の実で作られたシンプルな液体が、冷たい牛乳と混ざり合って凝固して、どろりとした飲み物に変わる。
    「カルピスの牛乳割、お好きでしたよね」
     アルフレッドの前に、布のコースターとグラスが置かれる。アルフレッドは受けとったそれに、慎重に鼻を近づける。何度かにおいを嗅いだ後、アルフレッドがパッと目を輝かせ、それから一気に中身を飲み干した。
    「うまいんだぞ!」
     鼻の下に牛乳のヒゲをつけて叫んだアルフレッドに菊は笑う。
    「今も昔も、子どもには受けがいいですねぇ」
     子どもじゃないんだぞ! と憤慨して叫ぶアルフレッドの声をさらりと聞き流しながら、菊が小さな黒板に本日のおすすめをチョークで書き足す。

     桑の実ジュースあります。
     炭酸割と牛乳割がおすすめです。
     甘味はお好みで。


    『五月二十六日』


    「まいど、おおきに~」
     開店前の店内に、明るい声が響く。勝手口からひょっこりと顔を覗かせたのは、浅黒い顔の青年だった。
     青年は、名前をアントーニョ・ヘルナンデス・カリエドという。
     東京ではやや目立つ上方の言語を駆使する彼は、数年前まで普通に母国であるスペインで暮らしていた。
     まさか自分が海外の、しかも東の果ての島国で働くことになろうとは夢にも思っていなかったのである。
     卒業後、貿易関係の仕事に就いたアントーニョは、出張先の日本で『運命の出会い』を果たした。
     運命の相手は、ジャパニーズキモノであった。
     そこからアントーニョの怒濤の進撃がはじまった。アントーニョは、ただ好きの一心で日本語を習い、着物と着物に関する日本の伝統を吸収した。良い意味で何も考えてないアントーニョに、日本人独特の迂遠な厭味や陰湿なイジメは全くもって無力であった。ひたすらの喜びをもって、日本での日々を乗りこなした。繊維関係の仕事に就いていたことも有利に働いた。
     あっけらかんと貪欲に、知識と実践の両方から着物という一つの世界を侵略していった。学んだ日本語がうっかり上方の言葉であったことすら、彼の魅力の一つになった。
     彼の愛と意欲は、間違いなく本物であった。人種やその他ありとあらゆる障害を軽やかにホップステップジャンプして、ついには都内でも有数の老舗呉服屋に就職を果たした。前代未聞にして空前絶後、緑目のキモノ営業マンの誕生であった。
     老舗の呉服店が、客寄せパンダとしてアントーニョを雇ったわけでないことは、一年もたたない内に明らかになった。アントーニョの目は確かなものだった。
     菊は、アントーニョが勤める呉服店を以前から良く利用していた。広尾周辺の御用聞きをこなすアントーニョが菊の店に出入りするようになるのに、さして時間はかからなかった。
     何かと忙しい菊にしても、アントーニョがあれこれと季節の着物や小物を手配してくれるのは、非常にありがたかった。
     勝手口から入って、奧の部屋にあがる。店の奥にある部屋には畳が敷かれ、菊が仮眠や着替えなどに使っていた。
     正座のアントーニョが、乱れ箱に乗った着物と帯を見せる。風呂敷包みから現れた着物をじっと見つめて、そして触れた菊が、ちいさく頷いた。
    「いただきましょう」
    「よっしゃ」
     アントーニョが体の脇で、小さくガッツポーズを作る。菊は笑って、それから立ちあがった。
    「食べていかれるのでしょう?」
    「もちろんやで!」
     溌剌とした返答に、菊が口許をほころばせた。


     その日の小料理屋菊は、すこしだけ早い開店となった。アントーニョはカウンターに座り、冷えた白ワインをゆっくりと飲む。
     カウンターの中では、真っ白な割烹着姿の菊が働いている。テキパキというよりも、見ている者をほっとさせるようなゆったりとした動きだった。
     今日のつきだしは、豆腐の塩麹漬けと紅花のおひたしだ。豆腐の塩麹漬けは、水切りした豆腐に塩麹を塗って何日か冷蔵庫で寝かせている。チーズのようなねっとりとした味わいが、外国人の多い客層に好評だった。紅花のおひたしは、紅花の若葉にすこしだけ混ざった早咲きの紅花の花弁が目に美しい。紅花の花は、その名前に反して咲きはじめの頃は、鮮やかな黄色だった。
     菊が割烹着の下に着てる着物と帯は、先ほどアントーニョが運んで来たものだ。紅花染めの紬に焦茶色の帯はアントーニョの見立て通り、菊の小柄な体にしっくりと馴染んでいた。
     紅花染めと言っても、鮮やかな紅色の着物では決してない。紅花の花から取れる色素は黄色と赤の二種類であり、それに藍をくわえることで、様々な色に染めあげることが可能になる。
     黄色と藤色のぼかした縞模様で染めあげられた着物は、草木染め特有のふわりとした淡い色合いだった。
     帯は、灰色がかった焦茶色地に大小の丸模様が浮かんでいる。丸模様は、周防や松葉色や芥子などの深い色合いだ。割烹着の隙間から見えるぽわんとした周防色の丸模様に、アントーニョが目を細めた。
    「はい、お待たせしました」
     アントーニョの前に、一人前の蓋つき土鍋が置かれた。菊が土鍋の蓋を開けると、ふわりと白い湯気が立ちあがる。アントーニョが大きく息を吸い込む。つやつやとした真っ白なご飯の真ん中に、丸ごとのトマトが埋もれていた。アントーニョの大好物である丸ごとトマトの土鍋リゾットだった。
     菊が、土鍋のトマトにしゃもじを突きたてる。米の中で蒸しあげられた完熟トマトが柔らかく崩れ、米と混ざっていく。柔らかく炊きあげられた米の一粒一粒にトマトの熱い果肉と果汁が染み込んでいく。白米がトマトの色でほんのりと黄色くそまったところで、菊が取り器によそう。
    「はい、どうぞ」
     アントーニョが受けとった器を手にもったまま、レンゲで中身を掬いあげる。ふーふーと何度か息を吹きかけてから、ぱくりと口に入れる。
    「ん~~~~~っ!」
     アントーニョが目を閉じレンゲを握ったままぷるぷると震える。米そのものの味を壊さない程度に足された、ほんのりとした塩味とトマトの旨味が口のなかに広がる。大袈裟でなくいつ食べても感動する。
    「はぁ~たまらんわぁ……」
     レンゲを口にしたまま、アントーニョの目がほわんと宙を泳ぐ。美味しいお酒と肴と料理。そして目の前には微笑む菊。
     たとえ次の瞬間には、騒々しい客人達の乱入で、ふたりきりの時間が台無しになったとしても、今この時、アントーニョの楽園はここにあった。

     本日、七十二候の次候。
     紅花栄(べにばなさかう)。
     紅花の紅黄色の花が盛んに咲く頃。


    『五月三十一日』


     菊の店ではポテトサラダは二種類作られる。毎日二種類作るのではない。日によって変えるのだ。
     二つのポテトサラダの最大の違いは温度だ。一つは冷蔵庫で冷やされ、もう一つは常温で出される。どちらが正解、ということはない。お国柄であり文化の違いなのだ。
     菊が常温のポテトサラダを作る日は、月曜日と木曜日だ。その曜日のかっきり決まった時間に、ルートヴィッヒは現れる。常温のポテトサラダは、ルートヴィッヒの好物だった。無論寡黙なドイツの青年が、自分から好物だと言ったわけではない。
     ルートヴィッヒの表情は常に厳めしく、口数も少ない。滅多に笑うこともない。だが、何を考えているかは比較的わかりやすい。『目は口ほどにもの』を言うが、彼ほど似合う人間もいない。と菊は言うのだが、客たちは皆一様に首をかしげるのだった。
     ルートヴィッヒが、菊の店を訪れたのは今から一年ほど前の木曜日だった。悄然としたルートヴィッヒの内心と裏腹に、彼の顔は厳めしかった。恐ろしかった。どう考えても怒っているようにしか見えなかった。
     しかし、菊だけは、その日のルートヴィッヒのナイーブな内面を読み当てた。何か悩みを抱えて弱っていると察した菊は、何杯目かのドイツビールと共に常温のポテトサラダを出した。できたてのようやく味が染み込んだばかりの、ポテトサラダだった。
     ルートヴィッヒが顔をあげた。菊は微笑み、サービスです、と告げた。普段のルートヴィッヒなら金を払うか、断固として断るところだった。だがその日のルートヴィッヒは弱っていた。珍しく流されるままに、ポテトサラダにフォークを入れた。浮かない顔のまま一口食べる。と、ルートヴィッヒの動きがとまった。フォークをゆっくりと口から引き抜き、口を動かす。しっかりと噛みしめ味わった後、ごくりと喉が動いた。
    「――――」
     低くちいさなつぶやきは、誰の耳にも届かなかった。
     その後、ルートヴィッヒは顔をあげてそっと菊に告げた。
     故郷の味を思い出す、と。
     ルートヴィッヒの目がほんのすこしだけ潤んでいるのに、菊は気づかないふりをした。
     ドイツではポテトサラダのことを、カトッフェルザラートという。ドイツのポテトサラダは、種類が非常に多い。日本の味噌汁やおにぎりのようなものだ。それぞれの家で代々伝わるレシピもある。その多様なポテトサラダの中で、菊がルートヴィッヒの知るものと全く同じものを作ったとは到底考えられない。
     後日、菊は常連客のひとりが出したその疑問に答えた。ドイツの定番レシピに従って作ったのは確かだが、一番大切なのは温度なのだと。
     それから、ルートヴィッヒは菊の店の常連になった。最初は週に一度、木曜日に訪れた。半年ほど経って、月曜日にも訪れるようになった。時間も大体決まっていた。そしてどんなに遅くても、彼の帰宅が午前零時を回ることはなかった。飲み物の種類も量も、料理の数も、全て決まっていた。その料理の中には必ず菊のポテトサラダがあった。

      ****

     菊の店には常連客が多数いる。大使館が集中する場所柄、客は外国人が多い。
     フランシスもそんな常連客のひとりだった。フランシスが菊を気に入っているのは、菊以外の全ての常連客が認めるところだった。わかりにくいフランシスにしてはわかりやすい態度を取っていると、誰もが口を揃えていった。
     見た目の華やかさと軽妙な会話、当たりの柔らかい態度に反して、フランシスには辛辣で冷たい面があった。優しい外見と態度に安心して不用意に近づき、痛い目に遭う者も多いと、フランシスを知る別の客が菊に教えてくれた。良い意味でも悪い意味でも、フランシスは目立つ人間だった。
     フランシスが店を訪れる時間帯は、深夜と決まっていた。そして曜日は、月曜日と木曜日以外。
     ルートヴィッヒとフランシスが知り合いで、ふたりの仲が大変悪いことは、仕事の愚痴と訪れる時間帯からすぐにわかった。ルートヴィッヒもフランシスも、名指しで相手を責めることは決してなかった。だが、ルートヴィッヒとフランシスが仕事で衝突していることは、誰の目にも明らかだった。
     ルートヴィッヒとフランシスは一緒に仕事をする以前からの知り合いだった。彼等は、プライベートでもビジネスでもとにかく『合わない』。
     一方で、相手が嫌いなのかと訊かれれば、ふたりは好きとか嫌いの問題ではないのだ、と異口同音に答えるのだった。
     ルートヴィッヒはガラスのデザインを得意とするプロダクトデザイナーであり、フランシスは調香師であった。某有名ブランドが新しい香水を作り出すにあたって、ふたりはプロジェクトチームの一員となった。ビジネスの場で対面した時の驚愕を、ルートヴィッヒとフランシスは各々の語り口で菊に語った。
     日が進むにつれて、ふたりの仕事の嘆きは増えつづけた。どうにも作業がうまくいかない。意見が、方向性が、合わない。


     香水のテーマは『いとしいひとのそばで』だった。
     ルートヴィッヒは、大きな手に握られたぬるいドイツビールを見つめながら、訥々と時間をかけて菊に語る。
    「彼の作る香りは甘すぎて、官能的すぎる。そんな香水はこれまで沢山作られてきた。『いとしいひと』とは恋人である――という固定観念が、彼の作る香りを縛っているように思えてならない」
     フランシスは、冷たい辛口の白ワインをすっと飲み干すと、軽やかに歌うように菊に語りかける。
    「あいつの用意するカタチには、圧倒的に甘さが足りないのさ、それにどうにも硬い。そりゃ頑張ってるのは認めるさ。馬鹿の一つ覚えみたいに曲線を多用してる。なのに、硬いんだ。要するにだ。あいつはなーんにもわかっちゃいない。女性の肌を、空気を直接彩る香水なんだぜ? しかも『いとしいひとのそばで』だ。そりゃもうどうしようもないさ。あいつの方向性が、この仕事に向いてないとしか言いようがない」
     フランシスとルートヴィッヒは、決して店で鉢合わせはしなかった。フランシスのいない時にルートヴィッヒは訪れ、ルートヴィッヒのいない時間にフランシスは現れた。
     それぞれひとりで来て、それぞれの愚痴をこぼす。
     それが気に入らないと、アルフレッドは菊に言った。
    「ずるいよ!」
     アルフレッドが菊に訴える。
    「ふたりともこの店に相手が通っているのを知っていてさ、菊がお互いの愚痴を聞いてるのも知ってるだろ?」
     ふくれっ面でアルフレッドがつぶやく。
    「ふたりとも菊を通して、互いを探っているだけじゃないか。菊を利用してるんだ」
     菊は笑って、そういう風に触れ合う関係もあるということですと答えた。気に入らないんだぞ、アルフレッドは言った。
     アルフレッドが腕を組み、頬をぷくっと膨らませる。でも一番気に入らないのは、ふたりとも菊に気があることだ。
     菊は気づいているのだろうか。気づいていて、素知らぬふりをしているのだろうか。それが店を営むということなのか。
     自分の淡い気持ちにも気づいているだろうに。
     アルフレッドが溜息をつく。そこまでわかっていても『菊はずるい』と思えないのが、何とも切ないアルフレッドだった。
    「それにしても困りましたね……」
     菊が、軽く顎に指で触れながら思案する。リーダーは、彼等の意見の衝突を完全にもてあましているようだった。
     平行線のふたりを近づけるのは難しい。
     水と油のような価値観だ。
     そしてどちらも妥協はしないだろう。
    「どうにかなるのかい?」
     アルフレッドが訊ねると、菊が小さく首を振った。
    「私は、ご飯を食べてもらうこと位しかできませんからね」

     六月二日

     二日後の二十三時、菊の店に現れたフランシスは、店内を見た瞬間、形良い眉をひそめた。本音を表に出さないフランシスにしては珍しい反応だった。L字型のカウンターの奧に座るルートヴィッヒの眉間にも、一気に深い縦皺が寄る。大なり小なり似たような反応だった。
    「フランシスさん、どうぞお座りください」
     菊がさりげなくフランシスに着席をうながす。一瞬もの言いたげな表情を作ったフランシスだったが、すぐににこやかな顔に戻る。フランシスが席に着きながら試すような目つきをして、菊にしか聞こえない声で話しかける。
    「何を企んでいるんだい? 菊ちゃんは」
    「私はただ、おふたりにご飯を食べてもらいたいだけです」
    「ま、そういうことにしといてあげるよ」
     菊は、目を伏せ僅かに笑んだ。
     フランシスが日本を訪れたばかりの頃、日本人の、この何を考えているかわからない曖昧な表情が嫌いだった。今は嫌いどころか……と、フランシスは料理を盛りつける菊の横顔をぼんやりと眺めながら思う。
     フランシスもルートヴィッヒも仕事の間に食事は済ませていた。が、食事から数時間が経過し、既に小腹は空いている。
     酒と共につきだしが出てくる。ルートヴィッヒにはドイツビールと常温のポテトサラダ。フランシスには良く冷えたワインとポテトサラダだ。菊の見立てはロゼだ。勝沼産のロゼは、不思議と日本人好みにアレンジされた冷たいポテトサラダに良く合う。
     春を偲び夏を思うこの季節に、ぴったりのチョイスだと、フランシスはポテトサラダを箸でつまみながらしみじみと思う。頑迷なドイツ人に、この風情は理解できまい。フランシスは箸を上手に使う。ルートヴィッヒは、相変わらずフォークで食べている。
     次の料理は、ホワイトアスパラガスだった。ホワイトアスパラガスは、春の訪れを実感できる特別な野菜である。日本でいうとタケノコがこれにあたるだろうか。四月から六月が旬の野菜で、これまたすぎゆく春をしみじみと想うには良い野菜だ。
     良く冷やされたホワイトアスパラガスに、ビネグレットソースをかけて食べるのがフランシスの好みだった。オレンジが効いた冷たいマリネも良い。器もほどよく冷やされ、フォークも適度にひんやりとして、気が利いている。
     菊の店には揃いの食器はほとんどない。ホワイトアスパラガスが乗った器も、それぞれ異なるものだった。
     フランシスの器は、透き徹るような白さが際立つボーンチャイナの丸皿だった。
     一方ルートヴィッヒの器は、ぽってりと厚みのある和食器だ。色味もあたたみがあり触れると手に優しい。その器に、菊は茹でたての湯気の立つホワイトアスパラガスを盛りつけ、卵黄とバターで作ったとろとろのオランデーズソースをかけた。副菜は茹でた皮付きじゃがいもで、加えて白ヴルストがついていた。通常であればハムをつけるが、白ヴルストがルートヴィッヒの好物であるため、菊はこの組み合わせで出している。
     同じ材料でも客の好みに合わせて、料理法や副菜も器も変えてくる。そこがフランシスが菊を気に入っている理由の一つだった。
     数ある理由の中でも、フランシスが菊を気に入っている一番のそれは、無臭に近い菊の体臭だった。調香師であるフランシスにとって香りの多い場所は、雑踏にも似て休まらない。人気のない時間帯の菊の店は、料理店であるにもかかわらず、香りがきわめて少なかった。
    「これが最後です」
     割烹着の菊が、ルートヴィッヒとフランシスの前にスープを置いた。まだふたりのアスパラガスの皿は、空になっていない。だがここは気楽さが信条の小料理屋だ。店主がどんなスピードで料理をくり出してきても、大した問題にはならない。
     フランシスがすこし残ったアスパラガスの皿を横にずらして、スープ皿を目の前に置く。しばらくしてルートヴィッヒが食べ終わり、空の器を菊に返した後、ゆっくりとスープ皿を移動させた。
     翡翠のように鮮やかな緑のスープだった。不透明でとろりとしていて、濃厚な香りが鼻をくすぐる。
    「ピスタチオのポタージュです」
     そう言われて、ルートヴィッヒは納得した。最初はエンドウ豆のポタージュかと思ったが、どことなく見慣れた豆料理とは違うような気がしていたのだ。
     フランシスは最初からわかっていたようだった。当然だった。このまったりとした質感のスープの匂いを、フランシスはルートヴィッヒよりも更に濃厚に感じているのだ。あまりローストされていないのだろう、香ばしさよりも果実に似たピスタチオ特有の香りが強い。なのに甘さよりも、清涼なすっとした香りが印象に残るのは、ハーブを入れているせいだろう。
     ルートヴィッヒがスープを口にする頃には、フランシスの器の中身は三分の二まで減っていた。これまでと違って、スープの器はふたりとも同じものだった。
     ルートヴィッヒがスプーンをスープにひたし、そっとすくいあげる。思ったとおりスープは濃厚で、口にいれると舌全体を柔らかなクリームのようにまったりと覆った後、トロトロと溶けていった。
     一口飲んだあとスプーンを置き、ルートヴィッヒはため息を吐いた。素直に感嘆した。料理の出来などわからない無骨な舌だと自認しているが、これはうまい。
     華麗な外見に反してなかなかに気難しいフランシスも、料理を気に入ったようだった。
     スプーンですくったスープをまじまじと見つめたあと、先端を唇の中に入れ、そっと舌の腹で味わっていく。口の中に含んだスープの味と香りをじっくりと楽しむフランシスの目が細まり、それからゆっくりと喉が動く。味覚だけでない。視覚と嗅覚と触覚のすべてを使ってフランシスは料理を味わっていた。
    「お味はいかがでしたか?」
     菊の声にふたりが顔をあげる。珍しい菊の問いかけだった。料理の出来について、菊が感想を求めることなど滅多にない。
    「非常に旨かった」
    「美味しかったよ」
     ほぼ同じタイミングで、ふたりの口から感想が出た。一瞬黙り込み、相手に目線を送るタイミングまでほとんど一緒だ。まるで気が合わないのに、不思議にこうした間合いはよく似ている。
     ふたりはしばらく黙り込んでいたが、相手に遠慮するいわれはないと、再び口を開く。
    「特にこのスープが」
     ふたりの声がぴったりと重なる。だが、もうお互いの声に鼻白み、黙ることはなかった。
    「甘くて」
    「塩味が効いていてね」
     再びの沈黙がふたりを覆った。相手を見て、それからほとんど同じタイミングで、ルートヴィッヒとフランシスが菊を見た。
     スープ以外の料理は、同じ食材を使いながらも、料理法がかなり違っていた。ならば、このピスタチオのポタージュも――。
     ふたりの予想を裏切るように、菊が静かに頭を振った。
    「おふたりには、同じスープをお出ししました」
    「ならば」
    「じゃあ」
     何故――と、ふたりが言外に滲ませた感情を、菊はきちんと拾いあげた。
     菊がちいさな種明かしをはじめる。
    「一つは時間です。ルートヴィッヒさんが食べはじめる時間と、フランシスさんが食べはじめる時間の差」
     確かにスープは同じ時間に提供されたが、食べはじめる時間はそれぞれ違った。フランシスはルートヴィッヒよりも八分ほど遅かった。
    「次に、スプーンの違いです」
     ふたりが同時に自分のスプーンを見た。ルートヴィッヒのスプーンは丸味を帯びた漆器製で、フランシスのそれは銅製だった。
    「漆塗りのスプーンは、舌に当たる感触が柔らかくて、熱さや冷たさにあまり影響されないのです。銅製のスプーンは、比較的冷たさを維持してくれますから」
     フランシスさんにお渡しする直前まで、ずっと冷やしておきました。と、菊が言った。
    「ポイントは温度なのです」
    「おん」
    「ど」
     ふたりの口から『温度』という言葉がバラバラの音になってこぼれ落ちる。菊は曖昧な表情の裏に、微笑ましい気持ちをそっと押し隠す。本当にこのふたりは、気が合うのか合わないのかわからない。
     菊が小さく舌を出す。その普段の様子とかけ離れた菊の動作に、フランシスとルートヴィッヒはふたり同時にどきりとする。
    「味覚は、甘味、酸味、塩味、苦味、旨味の五種類に分けられます。味を知るのは舌です。味を感じる舌のセンサーは、温度によって変わります。甘味は体温よりも高い温度で感じやすく、塩味はより低い温度で感じられます」
     菊が、フランシスを見る。
    「フランシスさんは嗅覚に非常に優れている方なので、香りの部分をすこしいじらせていただきました。人間は匂いと味をセットで捉え、二つの情報を混同してしまうのです。たとえば、オレンジの香料を付けておけば、単なる砂糖水をオレンジジュースと感じてしまう。ピスタチオの香りだけでは、おそらく甘味を強く連想してしまう。ですから、塩気を連想させるハーブを追加しました」
    「ああ、だから……」
     フランシスが得心がいったようにうなずく。
    「俺とあいつの料理がずっと冷菜と温菜で統一されてたのも、口の中の温度を変えるためだったのか」
    「はい」
     菊がうなずく。
    「ルートヴィッヒさんには甘味を感じていただきたかったので、温かい料理を提供しました。フランシスさんには塩気を感じていただきたかったので、逆に冷菜を食べていただいて口の中を冷やしてもらいました」
    「そして、最後に同じ料理を出した」
    「はい」
     フランシスが組んだ指に顎を乗せて、菊を見あげる。
    「食べるタイミングがずれることを見越して、口の中の温度までコントロールして、菊ちゃんは俺達に何を言いたいんだい?」
    「それは……」
     菊がフランシスににこりと微笑み、それから視線を別の方に遣る。菊の視線の向こうには、ルートヴィッヒの姿があった。ルートヴィッヒが厳しい目つきで、じっとスープに目を落とし、何やらぶつぶつとつぶやいている。
    「同じ素材……温度の違いで……」
     菊が、フランシスに視線を戻して微笑む。
    「ルートさんは気づかれたようですよ。そしてあなたも」
     菊の笑みに柔和さが増す。
    「もう、わかってらっしゃるのでしょう?」
     優しい菊の声に、フランシスが軽く首をすくめた。
     急にルートヴィッヒが、目を覚ましたかのように瞬いた。一瞬腰を浮かしかけた後、思い出したように座り直すと、ピスタチオのスープを丁寧に全てたいらげた。急いで札を置くと、足早に店の出口へと向かう。
    「釣りは今度でいい。ありがとう」
     言いながら、ルートヴィッヒが出口近くに座ったフランシスの首根っこを掴んだ。
    「ちょ! おまっ!」
    「行くぞ、フランシス。仕事だ」
     フランシスを引きずるようにして連れて行くルートヴィッヒの手がドアノブを握る。
    「感謝する」
     短い挨拶を残して、重たいドアが閉まる。
    「――!! ……――ッ!!」
     スマートさやエスプリの欠片もない罵詈雑言が、靴音と共に遠くなっていく。
     しばらくきょとんとしていた菊が、不意に噴き出した。
    「あのふたりは、ふふっ……本当に仲がよろしくて」
     菊のくすくす笑いはしばらくつづいた。
     ふたりの客の去った店は無人で、故に、菊の珍しい感情の発露をおがめる幸運に浴した者は、残念なことにひとりもいなかったのである。

      ****

     一年後。
     カウンター席に、珍しくフランシスとルートヴィッヒが並んで座っていた。ふたりの前には、一本の香水瓶が置かれていた。
     カウンターに置かれた香水瓶は、発売日の決定した製品の、最終試作品だった。鶴に似たシルエットは、シンプルだがそっけなくない。角度を変えると、花のカラーを思わせるシルエットになる。ガラスには、中の香水の色がわかる程度の淡いフロスト加工が施されていた。
     菊が香水瓶を手で握りしめる。握った感触がとてもやわらかく、冷たさを感じない。
    「温度によって色が変わる素材を使っている」
    「中の香水もね。気温によって、ミドルノートでメインに感じる香りが変わるようにしたんだ。いやぁ流石のお兄さんも苦労したよ」
    「季節によって、瓶も香りの印象も変わるのですね」
    「そう。嗅覚と味覚の情報が混同されるように、香りも視覚に影響されるからね。春夏秋冬で、つける本人の印象は随分変わると思うよ」
    「ポスターも春夏秋冬で、四種類用意する。テーマは『いとしいひとのそばで』で変わっていない。ポスターにも使われる」
     菊がふたりを交互に見る。香水瓶は、ふたりから菊へのプレゼントだった。見るだけでなくぜひ使って欲しいと、ふたりから懇願されている。
     菊が香水瓶を手に持つ。香水といっても、パルファムではなくオードトワレだ。店を開く頃には、香りはほぼ消えているだろう。ふたりの指南の通り、肘の裏につけてみる。
     三十分ほどで、香りが菊の肌に馴染み、花の香りのトップノートの奧から、ミドルノートが立ちのぼってくる。
     どこか懐かしくあたたかい。
     そしてほのかに色気がある香りだった。
    「香りのことはよくわかりませんが、私はこの香りが好きですよ」
     菊の言葉に、フランシスはウィンクを一つ返し、ルートヴィッヒは面映ゆそうに俯いた。
    「実はね、この香水。もう一つ公にしてないテーマがあるんだよ」
    「テーマですか」
     フランシスが悪戯っぽく笑い、ルートヴィッヒが生真面目に頷く。
    「そうだ」
    「この作品の隠れたテーマは」
     ふたりがそろって口を開く。
    「母」
    「恋人」
     店内に沈黙が落ちる。菊はくすくすと笑い、ふたりはふんッと互いにそっぽを向いたのだった。
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