「ん」
頬に水滴が落ちる。
見上げると、つい数時間前までは真っ青だった空は灰色に変わっていて、雲の隙間からぽつぽつと水が零れ落ちていた。
「わっ、雨だ」
洗濯物を取り込もうとするタイミングで助かった。
お日様を浴びてすっかり乾いた洗濯物をベランダから家の中に放り込む。
すべて取り込んでベランダの窓を閉めたときには、雨粒が窓を叩く音で家中が包まれていた。
「すっごい降ってる……通り雨だといいけど」
ふいとリビングにかかっている時計に目をやる。
もうあと数十分もすれば、愛する旦那様の定時時間だ。
朝のニュースで今日は一日晴れると言っていたから傘は持っていっていないはず。
普段の彼なら折りたたみ傘を持っていっているのだけど……タイミング悪く先日壊れてしまって捨てたばかり。
「……よし!」
どうせ今日はこのあと買い物に行く予定だったし、せっかくだから彼を迎えに行くついでに二人でスーパーに寄ろう。
彼が定時通りに退勤して直帰するのであれば夕飯の時間には少し早いし。
そう思い、傘を持って長靴を履いて……念の為合羽も着て、自宅を出発した。
◆ ◇ ◆ ◇
「まことじゃん! ぶちょーのお迎え?」
彼が働く会社の前で彼が出てくるのをぼうっと雨に打たれながら待っていると、元同僚である桜花が傘の中にひょっこりと顔を出した。
「うわっ、びっくりした」
「ごめんごめん! それにしても、お迎えなんて献身的じゃん、新婚さん❤」
そう言い、身体の小さな彼女は自分の隣にすっぽりと収まる。
獣人用の傘だから大きめではあるけれどまさか入ってしまうとは。
「もう、からかわないでよ」
「いいじゃん、新婚なのは事実だし? それより、こんなところで傘差しながら待ってないでロビー入っちゃえばいいじゃん。まことなら大歓迎だと思うけど?」
「それは申し訳ないよ。前の職場とはいえ僕はもう退職した身なんだから」
「真面目だなあ。ま、そこがまことの良いとこか」
にぱ、と花の咲くような笑顔を浮かべた彼女はバッグから可愛らしい花がらの折りたたみ傘を取り出す。
「部長ならもうそろそろ出てくると思うよ。さっきデスク片付けてたから」
「そっか。ありがと、桜花」
「どーいたしまして」
こちらの傘を飛び出して自分の傘を広げた彼女はその場でくるりと回った。
傘から落ちてくる花柄を浴びながら水たまりを踏み越えた彼女の尾が揺れる。
なんか楽しそうだなあ。
「どうしたの、桜花」
「んー? ふふふ。なんか、嬉しくて」
「? 嬉しい?」
「……ちゃんと新婚さんしてるんだなって思ったら、なんか、嬉しくなっちゃった」
少し恥ずかしそうに頬を掻いた彼女。
「結婚式の時も言ったけどさ。おめでと、まこと。末永くお幸せにね」
「……うん。ありがとう、桜花」
「でも!あたしにもちゃんと構ってよ? まことのことを一番よーく分かってるのは親友であるこのあたしなんだからね!」
頬を膨らませながらもう一度傘の中に飛び込んできた桜花の手を握る。
ふわふわの、幾度となく自分を導いてくれた大好きな親友の手。
「わかってるよ。……そうだ、今度一緒に新しく出来たデザートビュッフェに行かない? 気になってたんだ」
「えっ! 行く行く! 絶対行くよ!」
「決まりだね。日程は桜花に合わせるよ。土日の方が良いよね?」
こくこくと何度も頷いた彼女は僕の手を握り返した。
さわり心地の良いぷにぷにの肉球に挟まれて、なんだか幸せな気分になる。
「ふふ、楽しみ! 新しいお洋服買わなきゃ!」
「服も一緒に買いに行こうか?」
「いいの?! やったー!」
ぴょんぴょんと跳ねる彼女の足元で水たまりが踊った。
その時、
「楽しそうだね」
ずい、と傘の中に顔を出したのは、愛する旦那様。
彼の肩口が濡れているのを見て慌てて傘を渡すと自分と桜花が入りやすいように少し高めに持ってくれた。
「デートの約束かい?」
「ふふ、そうなんです! 部長、近々どっかの土日、まこと借りますね!」
桜花の手が腕に巻き付いて、彼女の体温がじんわりと伝わってくる。
あ、いい匂い。
香水変えたっぽいな、桜花。
「もちろん。楽しんでおいで」
にこりと微笑む彼に同じように笑みを返した桜花は今度こそ自分の傘を差して帰っていった。
連絡するねー!と大声を上げて大きく手を振る彼女を見送って、彼の顔を見上げる。
目が合うと彼は傘を持っている方の手にカバンも一緒に抱えた。
何してるんだろうと思っていると、空っぽになった彼の手が腰をなぞる。
「っわ」
次の瞬間引き寄せられて、彼の胸元に閉じ込められた。
「いすみさ、」
すぐ近くで鳴っているはずの雨の音が自分の心臓の音にかき消されていく。
唇に触れた体温はなんだかいつもより高いような気がして、じんわりと浮かんだ汗が頬を滑り落ちた。
目の前にあった彼の真っ黒い瞳がゆっくりと離れていくのが少し名残惜しい。
「帰ろうか、まこと」
そう言った彼と一緒に雨空の下を歩き出す。
火照った頬が、水たまりに映らないように隠しながら。