047.つまるところ僕は、君が、好きだった。 その感情は、気づいたときにはとうに芽生えていた。花が咲くほど、実がつくほどには育っていなかったけれど、毎日の水やりや暖かいお日様を存分に注がれた種はきちんと芽を出し、つやつやと日差しを反射する水滴を通して輝く緑は色鮮やかで目に眩しいほどだった。これからも枯れることなく立派に育ちきるだろうと誰もがそんな都合のよい予感を抱くような命の色は力強く、故に冨岡は、ただまっすぐに考える。
(……知られたくない)
密やかに声を落として、目をつぶる。
心に芽生えた感情に罪はないし、それを知らぬ間に育てていた冨岡自身にもまた罪はない。けれども恋は罪悪だった。少なくとも当時の冨岡にとって、よりにもよって彼女に向けたそれこそが悪い行いの形を成していた。
◇
授業終わりの廊下は窮屈な机と椅子から解放された生徒たちの喜びによってどうにも騒がしくなる。眉を顰めるほどでもないけれど、静けさを好む冨岡に授業後の廊下は些か居心地の悪い場所だった。
生憎と移動教室の後はどう足掻いても廊下を歩く必要がある。どんなに嫌がっても厭っても教室に戻らねば次の授業を受けられないし、いつまでも人の声に晒されていては耐えられそうにもない。人とぶつからないよう器用に隙間を縫って人混みを渡り歩く冨岡の気配は薄く、誰にも気づかれないまま教室に入れるかと思いきや。出入り口が視界に入り、ほんの僅か気を緩めた瞬間──
「あ、義勇くん」
──たった一つの声が動きを止めた。
目的地手前、教室の窓から顔を覗かせる彼女。ひらりと振られた手のひらを無視出来るほど、冨岡は人に無関心ではいられない。特に昔馴染みの相手ともなれば余計に。
「……どうした?」
敢えて呼び止めるからには何かしら用があるのだろうと歩み寄れば、胡蝶は嬉しそうに目を細めて笑う。三つ下の、彼女の妹とはまるで違う態度にいくらか複雑な思いはあれどわざわざ表情に出すことでもない。いつも通りの平淡な表情であっても彼女は臆することなく、それどころか一層穏やかな声で「今夜は何か予定があるの?」と尋ねてくる。
「……特にないが」
「だったら、招待しても良いかしら」
招待。ひとつ瞬きを挟んで考える。姉の、今日の予定はどうなっていただろうか。リビングのホワイトボードを思い出して「ああ、」と視線を上げれば逸らされることなく真っ向からかち合う瞳。花色を思わせる瞳には澄み切った美しさがよく馴染んでいる。
「姉さんも大丈夫だと思う」
「蔦子さんも? 良かった、楽しみにしているわね!」
蔦子の名前を出した途端に輝きを増す瞳は純粋な思慕を滲ませ、冨岡はどこか微笑ましくなる。二人の妹を大切に慈しむ彼女は、それでも一番年上の蔦子によく懐いていた。キメツ町に戻ってきたのはごく最近のことだが、やはり戻ってくることを選んで良かった、と思うのはこういう時だ。
両親に連れられて目新しい土地を転々とする生活も決して悪くはなかったけれど、腰を据えた暮らしに対する憧れはどうしても捨てきれなかった。だからこそ大学進学を機にキメツ町に戻ると言った蔦子と一緒に、冨岡もまたこの町に再び足を踏み入れたのである。
「……ありがとう」
「あら、お礼を言うのは私の方じゃないかしら」
胡蝶と話しているうちに視線が集まりつつある状況に気づき、「また夜に」と告げて即座に会話を切り上げる。隣の教室の戸口を潜って短く息を吐いた。自席に歩を進める途中、「お前胡蝶さんと仲良いの?」と声をかけてきた村田に軽く頷いて「昔からの友人だ」と答えながら言い添える。
「胡蝶はやはり人気者なんだな」
「まぁ、そりゃあね。可愛いし、優しいから憧れの的っていうか……高嶺の花というか……」
「そうか」
「……あー、っと。もしかして興味ない?」
「そうだな」
胡蝶に対してそういう感情を持ったことはないし、これから先もその予定はない。彼女はどちらかと言えば身内に近い。姉の妹のようなものだ。身内に対して恋愛感情は持たないし、持てない。彼女にしてもそうだろう。だからお互い無防備になりすぎて、彼女の三つ下の妹に怒られてしまうのだ。
「……人気者は大変だな」
他人事のような顔をしているが冨岡もまた人の目を集めやすい。端正な顔立ちは涼しげで見目麗しく、口数は少ないが話しかければ割合気安く応じるし、無愛想だが困っている人がいれば然り気なく手助けしていく姿にふらふら引き寄せられる人は多い。
人は〝特別〟を愛する。冨岡自身に自覚があるか否かは、たかだか二週間程度の付き合いしかない村田には分からないが、間違いなく冨岡は〝特別〟だ。そういう作りをしている。
けれどもたかだか二週間とは言え、隣の席になってそれなりに交流を重ねてきた村田は断言こそしないが何となく勘づいてはいる。冨岡は無自覚だ。そもそも自覚をする気がない。自身の影響力について把握する機能が元から抜け落ちているのだ。
だから村田はそっと呆れた顔をつくり、大袈裟に肩を竦めて笑った。「そうだなぁ」と。
◇
冨岡家は過去、キメツ町に住んでいた。
一年ほど過ごした際に仲良くなったのが胡蝶家の三姉妹である。その縁あって、戻ってきた時も真っ先に挨拶したくらいだ。
連絡こそ取り合っていなかったが、お互いに忘れることも記憶の彼方に押し込むこともなく五人はそれぞれの再会を喜んだ。おおよそ五年ぶりに顔を合わせたが、過去に積み重ねた親しみが欠けることなく残っていることを知れば、彼らが再び交流を始めたのは最早必然とも言える。
「……義勇さん、」
「どうした?」
胡蝶家に招待されることが日常化した頃、冨岡はリビングで教科担任より出された課題を進めていた。キッチンで楽しそうに料理をする蔦子とカナエを横目に冨岡へ話しかけたのは末のカナヲだ。彼女もまた中等部で出された課題を進めていたはずだが、どうやら早々に終わらせたらしい。
勉強が出来る上に賢い姉を二人持つカナヲは課題に頭を悩ませることは殆どなく、量の問題でいつも冨岡の方が遅い。その冨岡も決して成績が悪いわけではなくむしろ良い方なので、多少話しかけたところで困らせることはないとカナヲは解っている。
「しのぶ姉さんと喧嘩してるの?」
「……」
ピタ、とシャーペンを握る手が止まった。耳の上に掛かっていた髪がはらりと落ちて、カナヲから見える横顔がきれいに隠される。
「しのぶ姉さん、最初はすごく喜んでいたのに段々帰りが遅くなっている気がして……二人とも、あまり話してないみたいだから」
気になって。
困ったように眉を寄せながら付け加えられた言葉が全てだろう。カナヲは気にしている。冨岡としのぶのどこかぎこちない遣り取りや距離感、そして二人の間に流れる空気を。気にして、気にかけて、気を遣っている。多分他の二人も。言葉にはしないだけで、触れないだけで。とても心配をかけている。
冨岡は、片手間に答えるべきではないと判断してシャーペンを置いた。コロンと転がした指先で頬にかかる髪を耳に掛ける。向き直れば、カナヲは少し緊張した面持ちながら冨岡を正面から見返した。そこに警戒の色合い──たとえば、冨岡がしのぶを傷つけているのではないかといった疑惑──がないようすを見つめ、冨岡は口許を緩めて仄かな笑みを浮かべた。
「……俺は、しのぶが好きなんだ」
「えっ……そ、れは、私が聞いても良いこと……?」
「構わない。カナヲはしのぶの妹だから」
「はぁ……」
そういうものだろうか、と不思議そうに目を瞬かせるカナヲの様子に嫌悪や軽蔑の色がないことを確かめて苦笑する。胡蝶家の中で恋を罪悪と識るのはしのぶだけだ。その彼女にこそ恋をしたのだから冨岡はつくづく物事の儘ならなさというものを痛感させられる。
「しのぶは、恋が嫌いなんだ」
「……そうなの?」
「そうだ。人の恋に対しては特に何も思わないらしいが、自分が巻き込まれると途端に嫌悪の対象になる」
「けんお……」
言葉の意味を掴み損ねたようなたどたどしさでカナヲは繰り返し、それから「もしかして…」と流石の賢さで気づいたようだった。冨岡はこくりと肯く。
「うっかり俺が言ってしまったから、しのぶは今すごく怒っている」
「あ、その程度で済んでる……?」
「どうだろうな。友人の誼みで多少嫌悪感が緩和されているようだが」
「どうして言ったの……」
こうなるって解っていたのに。冨岡の物言いから即座にその結論を弾き出すカナヲにゆっくりと瞬きをして、そうだな、と相槌代わりの声を落とす。
「……昔諦めたけど、諦めきれなくて」
「うん」
「ずっと引き摺って、ずっと忘れられなかったから……」
「…うん」
「次に会えたら取り敢えず言うだけ言ってしまおうと決めていた」
「……そっかぁ」
どことなく投げ遣りな返事をするカナヲに眉を下げつつ、だけど、と言葉を続ける。「失敗したとは思っているんだ」
「あ、そうなの」
「せめてもう少し、切り捨てられないほど仲良くなってからにすれば良かった」
「……」
それは多分大丈夫、と無言のまま思ったカナヲの内心など露知らず、冨岡は、話は終わったと解したのか再び課題に取り取り組んでいる。その生真面目そうな横顔をぼんやりと見ながら、カナヲは静かに得心した。
しのぶのことについて語る冨岡は、確かに誰かを慈しむ表情をしていた。
◇
告げることは決めていたが、実際に告げてしまったのは単なる気の緩みだったと冨岡は自覚している。少なくとも直ぐ様告げるつもりはなかったし、彼女の感情面にも十分配慮してから実行に移すつもりだった。
けれど。
『──胡蝶さんが好きです』
偶然居合わせた、告白現場。躊躇いはなくとも丁寧に断りを入れる彼女の横顔がどこか疲れて見えて、冨岡は思わず口に出していたのだ。好きだ、と。取り繕いようもなく、飾り気のない本心だけをコロリと。気づいたときにはもうとっくに口から吐き出してしまっていた。
しのぶは。
裏切られたと傷つくでもなければ、疲れたように痛みを堪えるでもなく。
ただ、まっすぐに。「一昨日来やがれってんですよ!」と冨岡にキレた。どこからともなく持ち出した塩もばら蒔こうとしたので流石にそれは止めたが。中庭の草木に影響があっては後々正気に戻ったしのぶが頭を抱えるだろうと思って。
あの日以降よく通っている中庭の隅で立派な木の幹に凭れかかる。この場で昼寝でもしたら気持ちが良いだろうなと思っても、流石に公共の場でする振る舞いではないと自重している。
過去、しのぶは恋を罪悪だと表した。それ以下でも以上でもなく、ただそれだけの感情だと切り捨てた。そこにどんな意図があったのか、冨岡は詳しいことを知らない。本の影響かもしれないし、そう思うだけの何かを知ってしまったのかもしれない。あの時期、胡蝶家の親戚が何かしらごたついていたということだけ冨岡の耳にも入っていたから、そこで何かがあったのかもしれない。なかったのかも、しれない。なかった故に罪悪と表した可能性だってある。冨岡には何も分からない。少なくともしのぶには話す気がなかったし、聞き出そうとすればその場で即絶交と叩きつけられてもおかしくない様子で、当時の冨岡は下手を打つわけにはいかなかった。もうすぐ離れ離れになる好きな子に好き好んで嫌われるほど捻くれてはいなかったから。
ただ、今のしのぶは多分九割方乗り越えている。
そうでなければ傷つくでも痛むのでもなく、キレる方向に舵は取らないだろう。怒れるだけの気力を、意思を、しのぶが取り戻しているという証左に他ならない。
だから、多少の後悔はあれど。避けられる悲しみはあっても。冨岡はあまり落ち込んでいないし、頭を抱えるほど深刻に悩んでもいない。
冨岡には諦めるという選択肢がない。ずっと隣にいたのなら違ったかもしれないが、少なくとも別離を経験した冨岡はそれを選ばない。彼女がほしい。胡蝶しのぶの心が愛しくて、手に入れたい。冨岡の心をどうにか受け取ってほしくて、差し出したい。
それしかない。
それだけを、見ている。
木漏れ日の落ちる世界を見上げながら冨岡はそっと目をつぶる。軽い足音がゆっくりと近づいてくるから、敢えて息を潜めるように眠ったふりをした。
「……ぎゆうさん?」
おそるおそる、といったようすの声が聞こえる。返事はしない。したら、逃げられるという確信があったし、次からは何があっても近づいて来なくなるような気がした。
「……義勇さん」
知らず知らずのうちに芽生えていた感情は、今も尚すくすくと育ち続けている。蕾がついて花が咲き、実が成ったとしても。この声がある限り、彼女が名前を紡ぐ限り、冨岡がしのぶを好きでいる限り。
延々と。
永遠に、育ち続けるのだろう。