ひとところの窓 いつものように、窓に手をかける。
契約の国・璃月、とある建物の一角、道からは死角となる位置。伝統的な細工の施された、薄明かりの漏れる窓枠に、タルタリヤは手をかける。が、窓枠はびくともしない。普段だったら空いているはずの箇所。疑問に思ったものの、別の場所を探ってみると、こちらはすんなりと開いた。開ける場所を間違えたのだろうか?いや、鍾離先生がそうするとは思えない……そう考えながらも、開いた空間にするりと身体を滑り込ませて、室内へと入る。中を進むと、こちらに気づいた鍾離先生は読んでいた本から顔を上げた。傍らの机に置かれていた、繊細な模様の施された栞を挟み、徐に本が閉じられる。
「こんばんは、鍾離先生」
にこりと人当たりの良い笑みを浮かべて言う。
「こんばんは、公子殿」
微笑で返される。特に機嫌が悪いとか、怒っているとか、そういう気配は無さそうだった。何か意図があるのでは?と思い、けれども回りくどい探りを入れるよりは、まずは単刀直入に聞いてみる事にする。
「いつもと違う場所が開けられていたんだけど、あれって何か意味があった?」
自分の背後、月の光が差し込む窓を後ろ手で指差す。
「いや?特に意味はない」
微笑を崩さぬまま返された。いや、流されたと言うべきか。何かを企んでいる気配はあるような気がするが、大きな物事というよりは、ささやかなものという雰囲気がした。何故かって聞かれるとわからないが、なんとなく、勘だ。それなりに長い付き合いをしている鍾離先生の仕草から察したのと、戦闘における観察眼の応用により。ふうん、と形だけの返事をする。
「まあいいか。さて鍾離先生、前に話していた酒を持ってきたんだけど…良かったら今夜どうかな?」
片手に持っていた袋を解き、透明な液体の入った瓶を胸の前辺りまで持ち上げて見せる。ちゃぷん、と中身が揺れて、瓶の内側で音を響かせた。
「いただこう」
頷くと、鍾離先生は本を置いて立ち上がり、奥の部屋へと消えていった。ややあって、杯を二つ手に戻って来る。透けた表面に混ぜ込まれた、流麗に光る箔が室内の光を浴びてきらきら光った。
そうして、また別の日。
以前押し開いた窓、そしてその前の普段からよく使っていた窓、どちらも開いていなかった。前もこんな事があったよな、と思いながらも、別の場所の窓に手をかけてみる。そうすると、かちゃりと控えめな蝶番の音が鳴って、呆気なく開いた。鍾離先生に聞いてみたけれど、以前と同じような受け流し方をされた。
またさらに別の日も、次の日も……鍵が開いている窓は、日によって変化した。面白がられているのだろうか?初日に聞いた時と似たような返答で、けれども揶揄っている風には見えない。もはやお約束のようなやりとりになりつつあった。
そうして何日目かのある日、やって来てみると、どこの窓を探っても鍵がかかっていた。今日は予定が入っていて都合が悪いか、もしくは会う気分ではない、ということだろうか。まあそういうこともあるだろう。そのような結論に至って離れようとすると、玄関の扉が密やかな音を立てて開いた。
驚いて振り返ると、室内の黄色い光を背にして、鍾離先生が立っていた。いつも通りの、ジャケットは脱いでいるラフな格好だ。俺の姿を認めるや否や、数秒間視線を下に落とした後、躊躇いながらも真っ直ぐに見つめてきた。
「……ここ、なら開いているが」
いつもの朗々とした声とは違い、最初に飛び出した勢いは何故だか急に失速して、めずらしく小さな声となった。しかし声量は落とされていても、芯の通った声は確かに耳に届く。平たくも、仄かに期待を滲ませたような色の声が。
ずっと窓から入っていて、玄関から入っていいと明確に、行動を伴って言われたのは初めての事だったので。不覚にも数秒の間、あろうことか俺は固まってしまっていた。だって、そこから入る事を本人から面と向かって言われるなど、思いもしなかったから。
呼び慣れたはずの、返答を待っている相手の名前を呼ぼうとして、何故だか喉で留まってしまって。ようやく音として、出しかけた言葉を言う前に、
「入りたくなければ帰って良い」
そう言って即座に閉めようとするので、慌てて俺は静止の声をかける。
「ま、待った!」
ぴたりと扉は止まる。伏し目がちの両の瞼が開かれる。
「お邪魔させてもらおうかな、鍾離先生」
にこりと笑ってそう言うと、鍾離先生はああ、と答えて、つられたようにふっと笑った。最早見知った家なのに、この時初めて、俺は先生の家の玄関の扉をくぐったのだった。
「ところで、鍾離先生もそういうことをやるようになったとはね」
「ん?そういうこととは、なんだ」
「うーん、自覚なしか。いや、何日にも渡って準備していたのかなと思ったけど、違ったかな」
「なんの話をしている?」
「まあ、そのうち分かってくるよ」
にやりと少し意地の悪い笑みを浮かべると、鍾離先生はむっと僅かに眉を寄せた。なんだかその表情が、拗ねた子どもみたいに幼く見え、思わず笑ってしまった。その直後、小さな天星が加減した速度で頭にぶつけられて、目立たない形ではあるがたんこぶが出来てしまったのは、まあ、忘れておきたいことである。