おかえりなさい (少し張り切りすぎたかな)
ひとりで頭の中でそう呟く。見えない力によって、ぐわんと頭が揺さぶられて、思わずたたらを踏む。任務で魔物の巣窟に向かって、暴れ回った際不意打ちで頭を殴られたのが今更効いてきたらしい。殴ってきた奴は即座に切り裂いてやったので、塵となり跡形も無くなったが。
討伐を終え、詳細な報告は部下に任せて璃月の山間部まで来たところで、気がようやく落ち着いてきたのか身体の不調が出始めていた。ふうと一息つく。暫く何処かで休んだほうが良いと判断し、止めていた足をまた歩ませ始める。
この辺りは、角と尻尾が生えた幼い鍾離先生から分たれたとされる、同じく角と尻尾を携えたモラクスが、よく散歩をしている場所だと聞いている。今日はどこそこの花が咲いていた、気候が快かった、品質の良い鉱石を見つけた、などの話を聞いているうちに、俺自身も地形に詳しくなってしまっている。少しうねりのある、小ぶりな銀杏の樹と古びた石碑を起点にして、左へと曲がる。そうすると、岩肌に洞窟が見えてきた。入り口付近の岩には草が生い茂り、少し奥まった位置にあるため、注意深く観察しなければ魔物に見つかることはなさそうだった。大人一人がようやく通れる程の大きさの入り口を潜ると、中は案外広々とした空間になっている。人が座れるような椅子と、その高さに合わせた、机と思しき長く平べったい岩もある。ここはたまにモラクスがやって来て過ごしている場所だ。洞穴内の所々に石珀が生えていて、間接照明のようにぼんやりと光を放つ。とりあえず身体を休められる場所まで辿り着いた、そう思ったところで眠気が襲って来た。ぐらり、暴力的なまでの目眩がする。どうにか腰を落ち着けて、壁に寄りかかる。少し休んだら出発しよう。そう考えている途中で、ふっと意識が滑り落ちていった。
***
鍾離は顔を上げる。すっかり物語の世界に入っていたというのに、何かが意識の端っこを掠めていった気がしたのだ。それは大切なものの手触りや温度を纏っていたので、辺りを探るように見回す。すると、部屋に入って来たモラクスと目が合った。
「いま、おまえも感じたか」
「ああ」
「心当たりがある。でるぞ」
それだけ言って、踵を返しすぐに部屋を出ていく。特に説明はなかったが、最初は不明瞭だった輪郭が、今でははっきりとした形をしているのが分かる。言われずとも、行き先も、目的も分かっていた。
黙々と連れ立って歩いて来た鍾離とモラクスは、山道を登って、ここ最近生えてきた銀杏の樹と、目印として密やかに建てた石碑を横目に洞穴へと辿り着く。そうして中を覗いてみると、寝息を立てて眠っているタルタリヤを見つけた。洞穴に足を踏み入れるも、起きる気配はない。人の気配を察知する能力に長けている青年が、野外で深く眠っているというのは珍しいことだった。洞穴内でじんわり灯る石珀の光に照らされながら、身体の具合を観察してみると、至る所に細かな怪我をしているらしい。ふうとため息をつく。
「またどこかであばれてきたらしいな」
「そうだな」
鍾離の言葉に対して、隣にいるモラクスは素っ気ない返事を寄越して来たが、気づかれないようそっと顔を伺ってみると、安心したように眉を下げているのが見えた。モラクスは呟くように言う。
「前におれがはなしたことをおぼえていたとはな」
「おまえは、聞いてもらいたくてはなしていたのではなかったか?」
む、と不服そうに眉を僅かに寄せて、モラクスは鍾離を見る。ぎっと睨むような金色の視線は、それだけで見た者をぶるりと震え上がらせてしまうだろう。しかしあいにく、相手は元は同じ存在なので、まったく効果はないようだった。暫く間を置いて、まあいい、とモラクスの尻尾がゆらりと揺れる。先程の鋭い視線は既に消えていた。
「しかしこの場所をおぼえていたということは、こうしどのはしっかりモラクスのはなしを聞いていたのだな」
そう鍾離が笑って言うと、モラクスは、む……とぽつりと発したきり黙ってしまった。尻尾はゆったり振り続けているが、先をくるくると落ち着かなさげに丸めている。その仕草に心当たりがあったので、にこりと笑って、鍾離は支度を始める。
一定の間隔で繰り返される呼吸を聞いて、眠っていることを確認した後、ポケットに入れて来た平たい円柱形の容器を取り出す。鍾離の小さな手のひらに収まる大きさで、鈍い翡翠色をしている。蓋を回して開けると、清心の爽やかな香りが鼻へと届く。白く滑らかなそれを指にとると、タルタリヤの頬に出来た傷のところにそっと塗ってやる。ん…と微かに反応があったが、起きるほどのことではなかったようで、また寝息が聞こえ始めた。触れられる箇所にある傷は薬を塗ってやり、本当は傷は全て治してやりたかったのだが、目が覚めて「そこまでしなくていい」と言われることが容易に想像出来たため、あとは手を翳して元素の乱れを整えてやるまでに留めた。できる範囲での治療を終えて見てみると、幾分か表情が和らいだ気がする。家でこの洞穴にタルタリヤが来たことを察知した時点で、内心波風を立てていたらしく、ざわついた気持ちがようやく落ち着いた。起きるまでは様子を見ていよう、と二人でタルタリヤを挟むように並んでみる。じんわりと照らし、時折明滅するように揺れる石珀の光を眺めていると、眠っている様子につられたのか、ゆっくりと瞼が重くなってくる。どうにか持ち堪えていたけれど、うとうととし出した意識は、するりと滑り出すように溶けていった。
***
は、と意識が浮上する。
どうやら暫く眠っていたらしい。少しのつもりが、しっかり休んでしまっていたようだ。早くここを出なくては、と思考を巡らせたところで、両脇にある小さく暖かな体温に気がついた。滑らかな鱗が生え揃った、小ぶりな龍の尻尾が、自身の脚にゆるく巻き付いている。すやすやと気持ちよさそうに眠っているので、起こすのを躊躇ってしまう。自分を挟むようにして寝ている鍾離とモラクスを起こさないようにしながら、腕を軽く頭上へとのばすと、眠る前に感じていた痛みがずいぶん和らいでいると分かる。不思議に思っていると、ちりちりと痛みを発していた、頬に出来たはずの傷もなくなっている。両隣ですやすやと眠っている鍾離とモラクスを交互に見て、
「…鍾離先生達、なんかやってくれたね?」
独りごちて、やれやれと首を左右に振る。放っておいても治る範囲の怪我だ。確かに、暫く休まなければ動けない程ではあったけれど…と、そこまで思い至って、それを勘づいてここまで二人はやって来たのだと気づいた。人のことは言えないけれど、随分と世話焼きだ。む、と返事をするかのように声を出して、鍾離先生が身じろぎをする。起きたのかと思ったがそうではないようで、良い具合に収まる位置を見つけたのか、ぴたりと止まって、またすやすやと寝息を立て始めた。身体の脇をふすふすと、暖かな息が撫でていく。二人が起きるまではこのままでいようか、と考えて、角には触れないようにして頭を撫でる。さらりとした髪の感触とともに、陽だまりのような匂いがした。