高潔とParaphilia「今日は、」
ソファから立ち上がったシノが口を開く。
「今日は……?」
今度はヒースクリフが首を傾げる番だった。幸せな夫婦の真似事は、いつしか不健全で後ろめたい行為に姿を変えていた。今となっては食べさせることよりも、口の奥に触れることが行為の目的となっている。
今日はやらない。いつもそう言おうと思うのに、シノが欲しがるものを与えずにはいられない。食べさせてほしいと。滅多に望みを零さぬ小さな口が紡ぐ願いが心底愛おしい。目的を見誤ってはならないと言い聞かせる一方でシノの欲望を満たしてやることを楽しんでいた。
前に立つシノを見上げる。目が合うと、シノはいつもと変わらぬ口調で言った。
「今日は、ここで食べたい」
ぎょっとした。
シノが、ゆっくりと、丁寧な動作で片方ずつ床に膝をつく。両方の膝をついたシノを今度は見下ろすと、ぐらぐらと頭の中で何かが大きく揺れ動いた。愛おしさと倫理と。快楽と愛情と。そういう様々なものが思考を揺さぶってくる。
「ここ、って……」
ちょうど膝の位置と同じ高さにあるシノの顔が上を向く。戸惑う主君を前に、シノは少し申し訳なさそうな顔をした。
「主君と従者が同じ場所に並んで座って食べるのは変な気がしていたんだ、こっちの方がしっくりくる」
違和感があったと。目の前で跪くシノが言う。
「え……?」
「お前は嫌がりそうだけど、」
シノがそう続けるのに、ヒースクリフは眉根を寄せた。嫌がりそう、ではない。嫌だと思っている。
「ここで食べてみたかった」
「……」
嫌だと思っているのに否定と拒否を口に出来ないのは、迷っていたからだ。当たり前のようにシノが望むことを叶えたいと思ってしまっている。シノが口腔内に触れられる快感を忘れられずにねだるのと同じように、ヒースクリフもまたシノの望みを叶える悦びに溺れていた。
シノには圧倒的に体験が足りない。偏り過ぎている。対等に、隣に並んで、同じ場所で。それが夫婦で、恋人同士で、友情で、仲間だ。遜ることなく分け合える喜びを教えないといけない。これまでだって、少しずつ、少しずつ、それを共有しあってきたはずだ。
「シノ……」
だけど、跪いた相手に食べ物を与える行為は一体何に当てはまるのか。夫婦か、恋人同士か、友達か、仲間か、或いは。考えても、それはヒースクリフが思い描く理想的な関係性ではない。
優しい時間の中で甘くて美味しいお菓子を食べさせ合う。それが楽しくて嬉しいと、これが恋の喜びだと感じてほしい。それを与えるのが自分であってほしい。望むのはそれだけなのに、望めば望むほど理想からは離れていく。
「ヒースがしてくれたら、オレは嬉しい」
ヒースクリフの膝先に額をつけ、夢見るようにシノが言う。それを嬉しいと思う。歪んでいる気がした。きっと気のせいじゃない。シノが感じている幸せは、ヒースクリフの理想ではない。
「……顔を、上げて」
声が、少し掠れていた。喉がカラカラに乾いていた。シノは膝につけた額を離して、再びヒースクリフを見上げた。シノがワクワクしていることは、その表情から伝わってきた。長い付き合いだから、よく分かる。赤い瞳は驚くほど澄んでいて、曇りも濁りもどこにもない。
「あ、」
その行為が『理想的』であると錯覚してしまうほどに、シノは楽しそうに嬉しそうに、口を大きく開いた。