【相轟】表面張力.
1. Eighteen
「先生のことが好きなんです」
正月が明け、冬の寒さが一段と厳しくなってきた日にその生徒は言った。
相澤は内心驚嘆しながらも、表情だけは平静を装って後ろを振り返った。もちろんこのタイミングを見計らったのだろうが、静まり返った教務員室には相澤と轟しかいない。扉を閉めた密室に二人きり。だからそれが自分に向けられた言葉だというのは明白だった。
二メートルほど先にある赤と白の髪の毛が揺れて、同様にこちらを見つめてきた轟と視線が絡む。
その美しいオッドアイの瞳はあまりに真っ直ぐで。
だから相澤は、押し黙ったまましばらく口が開けなかった。
――――すき。好き。
たしかに、この青年からの好意に一切気付いていなかったかと言えば嘘になる。
轟が雄英高校に入学してからもうすぐ三年。担任として時には厳しく教鞭を執り、時には共に死線をくぐり抜けてきた。
元々才能の塊だった轟はめきめきと腕を上げ、今やトップクラスのヒーローと言っていい。まだ学生だというのに、すでに名実ともに今後の世界を担う立派な青年だ。そんな彼が。
いつの頃からか、時折こちらに向けられる意味深な視線に感づいていなかった訳ではない。ふとした瞬間に感じる熱っぽい視線は、いつも何かを言いたげだった。もしかしたら轟本人は隠しているつもりだったのかもしれないが、それを察しないほど相澤は鈍感ではなかったし、意味を理解できないほど子どもでもなかった。
しかし教師と生徒という関係である以上、二人がどうにかなることはあり得ない。だから気付かないふりをしていたし、それを分かっているのであろう轟も何か行動を起こすことはなかったのだ。
それが今。
「えーーっと……好き、か……」
上手く返事ができないことを誤魔化すように頭を掻くと、お世辞にも綺麗な髪質とは言えない黒髪がゆらゆらと揺れた。まるで相澤の心境を表しているようだった。
轟はこんな冗談を言うタイプで無いことは分かっている。だから本心なのだろう。
だが、まさか卒業前の今告白されるとは思ってもみなくて、相澤は柄にもなく狼狽してしまったのだ。完全に不意打ちを食らった気分だった。
どうやって伝えようか。轟を傷付けないような言葉を選んでいる内に、ゆっくりと近づいてきた彼がまた口を開く。
「俺、今日誕生日なんです。十八になりました」
「……そうか、おめでとう」
急に話題が変わったことに面食らいながらも、努めて冷静に返事をする。そういえばこの青年の誕生日は一のゾロ目だったな、と見当違いな思考が一瞬よぎった。
「十八歳ってもう結婚できる歳ですよね」
「けっ……いや、うん、まぁ、そうだろうね」
「自分の将来は自分で決められる歳になったんで。つっても、まだ高校生だけど……」
「…………」
だからって、告白とは。
内心では困惑しきりな相澤とは真逆に、轟は随分落ち着いているように見えた。まるで「今日は良い天気ですね」と、当たり障りのない会話をしているみたいだと相澤は思う。その様相からは、まさか自分の担任教師に愛の告白をしている最中だとは到底信じられなかった。
本当のところは夢なのかもしれない。最近仕事が忙しくて疲れているし寝不足だ。現実ではなく夢の中にいる可能性はゼロではないだろうと、ありえない方向に相澤の思考が引きずられる。
馬鹿なことを考えているのは分かっていたが、現実逃避せずにはいられなかった。
「すみません、迷惑ですよね」
「いや、迷惑という訳では……俺のことを良く思ってくれているなら、その気持ちは嬉しいよ。ただ、俺は教師だからお前の気持ちに応えることは……」
「分かってます。別にOKもらえるとも思ってないんで」
手を伸ばせば指先が触れそうなくらいの距離で、轟は立ち止まった。
その目線の高さは相澤とほとんど変わらない。出会った時は五センチ以上の身長差があったはずなのに、いつの間にか追いつかれてしまった。伸びた身長に比例して、筋肉量だって増した。制服の下の身体は大人と同等に成長している。
身体だけではない。轟の容貌からも、日を重ねるごとに幼さが剥がれ落ちていった。あどけなさが残っていない訳ではないが、やはり精悍な顔つきになったと思う。今はそこに危うい美しさが加わっているから、強い視線を向けられると、相澤は不覚にもドキリとした。
そう、彼はもうとっくに十五歳の少年ではなくなってしまったのだ。彼は美しい十八歳の青年だ。誰がどう見たってそう言うだろう。
「今付き合ってもらえるとは思ってせん」
「…………」
「だから今はまだ返事はしないでください。俺ずっと待ちますから。まぁアンタが迷惑じゃなければ、だけど……」
「それは……」
それは――――?
構わないよ、なのか。駄目だ、なのか。
自分でも何と言おうとしたのかが分からなくなってしまって、先が続けられなかった。
自分はどうしたいのか。相澤の思考がぐる、と廻る。
黙り込んでしまった相澤の態度を、一応の肯定と解釈したのだろう。轟は少し安堵したように息を吐いた。強張っていた彼の表情と、張りつめていた空気がわずかに緩む。
そうか、この子も緊張していたのか。平然としているように見えて、強がっていただけなのだ。
動揺していたせいとは言え、相澤はそんなことにも気付けなかった自分を恥じた。
「もうすぐ卒業式ですね」
「え? あ、ああ、そうだな」
「俺が卒業してからも会ってもらえますか」
「それは……別に、大丈夫だと思うが……」
なんという歯切れの悪い回答。三十路も超えて情けないと、ますます自己嫌悪に見舞われる。
それでも轟は一応満足したようで、遠慮がちに微笑んでからぺこりと頭を下げた。踵を返して、教務員室を出ていこうとする。
「――先生」
「なんだ」
扉の前で足を止めた轟が何かを言った。
ただその声が小さくて、相澤には何と言ったのか聞こえなかった。「え?」と聞き返すと、轟は思い直したように首を振った。
「いや、いいんです。何でもありません。突然すみませんでした」
じゃあ、と言いながらまた頭を下げた轟が、扉を開けて姿を消した。
訪れる静寂。相澤はひとつため息をつくと、額に手をやり首を傾けた。ごき、と骨が鈍く軋んだ音を立てる。
――――これからも好きでいていいですか。
本当に聞こえなければ良かったのに。
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ぽた、と水滴が垂れて水面が揺れる。
一滴。また一滴。ゆっくりと。
これまでも、これからも、何も起こらないはずだったのに。
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