背筋を伸ばして① いつでも身軽に、荷物は少なめに。
胸には、大切なカメオ。
鞄の中には、沢山のパンと一瓶の葡萄酒、少しばかりのルーン、そして……。
そして。この黒塗りの瓶が一つ。
でもこれは見なかったことにしよう。カメオも服の下にしまってしまおう。私には関係のないものだから。
今の私はただの抜け殻。
脱いでしまった皮みたいに、脆くて儚い、薄っぺらの何か。
それでも私は生きなければならない。
私の魂は穢れているけれど、自分で命を断つ勇気も気概もない臆病者は、仕方なく生きる理由を見つけるほかないのだから。
だから「母の志を継ぐ」というのも、突き詰めればそういうことなんじゃないかって…。
結局のところは、死ねないからそれらしい理由で生きるのだ。
「それではタニス様、行って参ります」
生まれ育った寂しい館を後にする。
もう小さな子供でもないのに、用向きがあれば遠くまで一人でも何度となく出歩いたのに、私は今外に出るのだなと胸に迫るものがある。
さあ、行きましょう。自由なゾラーヤス。
どうやら私は、何処にだって行けるらしいから。
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「全然知り合いに会いませんね……」
額の汗を拭いながら、思わず川辺で独り言を言ってしまった。
知り合いどころか、そもそも人に出会わない。少し前より、一層人が減ってしまった気がする。
ここリムグレイブですらそうなのだから、他は尚更そうなのだろう。
ただ飛び出しただけではあてがなさすぎるので、まずは自分にゆかりのある地に。
そう思って火山館に出入りしていた中でも一番まともなベルナールさんが使っていたボロ家を一番に尋ねたが、やはりあそこはもぬけの殻だった。
ダメ元とはいえ少し残念だ。彼にはよくよく話を聞いてみたかったのだけれど。
あの人は、火山館の目的をよく熟知していた。
というより、恐らくは身を持って識ったのだろうと思う。他の人達に比べると事情が深そうだったから。
それならと思い別方向に足を向かせて曇り川方面(こちら側)にも来たけれど、こちらもあてが外れてしまった。
どうせここにいるだろうと思っていたパッチさんの姿もないとは…。
あの人も色々やってる人だから、またふらふらと放浪しているんだろうか。
ベルナールさんと違ってのらりくらりと生きていそうだから、旅をしていたら何処かで会えるんだろうか。
でもあの人の場合、会ったところでどうしたらいいかよくわからない。
お世話になったことはいくつかあるけど、私を通り越して直接タニス様のところに行って火山館入りした変わった人だから、正直得体が知れない部分が多い。
「でもタニス様がお認めになったんですよね…」
そういえば何故タニス様はあの人を許したんだろう。軽薄でズルくて信用に足るような人ではないように見えるけど。
…いえ、きっとタニス様のことだから、私にはわからない確信が持てる部分を見出したのでしょう。
そんな考え事をしていたら陽が陰ってきた。適当にぐずぐずと過ごしていたら夜になってしまう。
「寝るところ探さなきゃ」
とは言え、パッチさんのアジトは論外だし、ベルナールさんのボロ家に戻っても寒そうだな。あそこはら辺は霧が多いからジメジメしてる点は少し好きだけど。
「……そういえば、近くにエレ教会があったっけ。たしかマトモな商人さんがいる」
*
少し歩くつもりが結構距離があって存外に時間がかかってしまい、結局夜になってしまった。こんなことなら素直にテレポートしてしまえばよかった。
何はともあれ教会には着いた。商人さんは…角に座っている赤い服を着たあの人がそうだろうか。
「こ…こんばんは、商人さん?」
「あぁ、いらっしゃい。商人は俺だ。カーレって呼んでくれよ。蛇のお嬢さん」
思わずドキッとして自分の両手を見たが、しっかり人間の滑らかな手を保っていた。
「どうして……私今、」
「俺には君みたいにちょっと変わった友達がいるもので、なんとなく雰囲気でね。尤も、彼は蛇ではくて狼なんだが。……ナイショにしていたのだったらすまないね。俺は目があまり良くないものだから、今君が実際にどんな姿をとっているかはわからないんだ」
ああ、なるほど。少し合点が言った。
私のこの変身は高度で複雑だけれど大部分が目を狂わせる術に頼っているから、目で物を見ていない人にはあまり効果がないのかもしれない。
「ところで何か入用かい? 生憎とお得意さんがみぃんな買ってっちまったから、ダガーだの矢だのしかないが」
「ああ、いえ、すみません。今日の寝所を探していて。もし宜しければ場所をお借りできませんか。端の方でいいので」
「なんだ買い物じゃないのか……。でも構わないよ。食べ物はあるのかい? 別に何か買って行けとも言わないから、端と言わずもっと火のそばまで来て、好きなだけ温まりなさい」
「ありがとうございます。でもそんなに親切にして頂くのも…」
「なに、こういうのはお互い様だし、未来のお客さんは大事にしないとね。それに、」
それに?
「夜に蛇の女の子が訪ねてくるなんて、素敵な御伽噺みたいじゃないか」
カーレさんはそう言って嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て私も笑った。
言われてみれば確かに、昔母様に読んでもらった絵本にこんなシーンがあったかもしれない。
*
「カーレさんのお友達は、どんな方なんです?」
自分のパンと葡萄酒で食事を済ませて気持ちが落ち着いたところで、気になっていた狼のお友達のことを訊いてみた。
「さっきもちらりと言ったが狼だよ。半分だけな。だからフサフサの毛を生やしていて顔も狼そのものだが、がっしりとした強い男の身体をしている。そうだな…若くて、多分君よりも少しお兄さんかな」
ふーん、私とは少し事情が違うのかな。私は半分じゃなくて、殆ど蛇だもの。
「真面目だが冗談好きでもある気持ちのいい青年だよ。茶目っ気があってな、かわいいところもある。あとそうだ、正義感が強くて剣の腕だっていい。名前はブライヴって言うんだが、……」
朗らかにお友達の話をしていたカーレさんが、それきり眉を寄せて黙ってしまった。
「……ブライヴさんに、何か事情が?」
「お得意さんがこないだ教えてくれたんだ。少々訛りの強いお侍さんだから難儀するんだが、聞き取れた範囲で言えば『暫くは戻らない』と。…深刻そうにね。俺は多分、それには少し嘘が混じっていると思う」
「どうして?」
「なんでかな。そういうのはわかっちまうんだ。『暫く』というのは彼女なりの優しささ。きっと俺の友達はもう戻らない」
そのお侍様を、私は知っている気がする。
誠実で、残酷で、厳しくて、時々恐ろしい…けれどとても優しい英雄様。
あの人ならきっとそうするだろうと、今ふと思った。
「カーレさん…ごめんなさい、私…」
カーレさんは穏やかな顔に戻って緩く首を振った。
「……いいかい、お嬢さん。人間誰にでも止むに止まれぬ事情を抱えることがある。正しいかそうでないかに関わらず、そうせざるを得ない時が来る。それでもそれは、過去の選択の積み重ねの結果で、誰のせいでもないってことをよくよく覚えておくといい。結果それで命を落とすことになっても、だ」
「命を落とすことになっても…?」
「そうでなきゃあ、自分が浮かばれないからね。……きっとアイツもそうだったんだろうさ」
そういうとカーレさんは、寂しそうに笑った。
「さぁさ、もう寝なさい。火は俺が見ている。取って食ったりしないから、安心してよく眠るんだ」
今夜見知ったばかりの男性の前で眠るのは不用心が過ぎるかもしれないが、慣れない旅で体力の限界がきている。眠気には勝てない。
まぁ、いざとなれば常にバリアも張ってあるし、いいか。
それにこの人からは悪意を感じない。
「……カーレさん、私、ラーヤと申します」
「そうか。ラーヤ。素敵な名前だね」
名前を褒められて、とても嬉しい気持ちと真の名を名乗らなかったことに少しばかりの罪悪感が胸をよぎった。
初対面で私の真の姿を知って普通に接してくれるこの人は、きっと本当にいい人だろうから。
「私、旅を続けます。その先でもしブライヴさんにお会いできたら、きっとカーレさんのお話をしますよ」
「…あぁ、ありがとう。きっと君達はいい友達になれる」
目を細めて笑うカーレさんに私は複雑な思いを抱いた。
私のこの言葉に重みはない。
それでも私は、この親切な人に幸いがありますようにと願わずにはいられなかった。
それに、……叶わないかもしれないけれど、ブライヴさんとお話がしてみたかったのも本当だ。
「お話ししてくださってありがとうございます。おやすみなさい」
「おやすみ。ラーヤ」
身体を丸めて目を閉じると、蕩けるように眠りがやってきた。
カーレさんの話を聞いたからだろうか。
眠りに落ちる直前、さらさらとした優しい風の音の中に、狼の切ない遠吠えが混じって聞こえた気がした。
続