カタツムリ 座敷には心地よい沈黙が流れていた。主は無論、常連の関口も当然、そして久しぶりの非番で京極堂を訪れていた木場も、みなじっと静かに座って本を読んでいた。
しかしその静寂はどすどすと響く足音によってあっという間に破壊された。三人の顔が一様に渋くなる。
スパン、と障子が開いて榎木津が現れた。
「なんだお前たち、ここは図書室か!?」
座敷を睥睨して榎木津が喚く。京極堂と関口がちらりと木場を見た。この狂人の相手はすっかり自分に押しつけられている。深々と溜め息をついて罵声のひとつでも浴びせようとした木場は、彼の姿を見て片眉を上げた。
「なんでぇ、礼二郎。そりゃあ」
榎木津は片手に小さな水槽を抱え、別の手には丸めた模造紙を持っていた。嫌な予感しかしないが、榎木津はふふんと得意げに笑った。
「探偵事務所の近くで捕まえた! 僕は彼らで試したいことがあるッ!」
「彼ら?」
関口が恐る恐る発言する。榎木津は三人に向かって水槽を掲げた。
「つむ子とつむ男!」
「はぁ!?」
「カタツムリ!」
カタツムリは確か雌雄同体ではなかったのか、なぜつむ子とつむ男なのだ――木場は現実逃避のように内心で突っ込みを入れた。関口は呆気にとられ、京極堂は完全に無視している。
榎木津が座卓の上にそっと水槽を置いた。つい好奇心に駆られ、木場と関口は水槽を覗き込んだ。水槽には土が敷かれ、葉と花のついた紫陽花の枝が入れられている。そして紫陽花の枝に白っぽい殻のカタツムリが這い、土の上には黒っぽい殻のカタツムリがいた。白いのがつむ子で黒いのがつむ男、と榎木津が馬鹿真面目に説明する。
「昨日捕まえたばかりなんだが、ちっとも動かないからつまらないッ!」
「カタツムリがあくせく動くかよ」
「餌があれば尚更動く必要はないんじゃないか?」
木場と関口は律儀に突っ込みを入れた。この男は昨日から一日中カタツムリの水槽を眺めていたのだろうか。呆れた暇人ではある。
二人の合いの手を完全に無視しつつ、榎木津が座卓に模造紙を広げた。
「だから今からレースを執り行う!」
「はぁ?」
「カタツムリレース!!」
大きな瞳をきらめかせて榎木津が宣言する。「千鶴さんから貰ってきた」と言いつつ、水の入った小皿と筆を取り出した。京極堂がちらりと榎木津に視線をやり、溜め息をつく。
「カタツムリは水で線を描くとその上を這うらしいぞ。どっちが速いかな!?」
「……あんたはなんだかんだでお父上にそっくりですよ」
京極堂が低い声でボヤいた。「ああ、ヤシガニ競争の……」と関口も苦笑している。榎木津は「あんな変態と一緒にするなッ」とご立腹だが、すぐに気を取り直して水をつけた筆を模造紙に走らせ始めた。
「……よしできた。おい馬鹿修、お前つむ子を出せ。僕はつむ男を出す」
いきなり指名されて木場は「やなこった」と反射的に拒否した。
「なんで俺が片棒担がにゃなンねぇんだよ。手前でやれこの変態野郎」
「二匹とも僕がスタンバイさせたら無意識に手心を加えてしまうかもしれないだろ」
「別にいいじゃねぇかよ。こんなくだらねぇことにそこまで公平性を求めるなよ。大体こいつらに少々の手心でレースに支障を来すような俊敏さはねぇだろうが」
「お前はつむ子たちを馬鹿にしてるのか!?」
「馬鹿なのは手前だッ!!」
木場はついにキレた。模造紙を挟んで胸ぐらを掴み合うと、「……旦那」と京極堂が口を挟んだ。
「もういいからさっさと始めて終わらせましょう」
木場は鬼のような形相で舌打ちすると、榎木津の胸ぐらを離した。「なんなんだよ……」とボヤきつつ、水槽に手を突っ込む。白い殻をそっと摘まんで水槽から出すと、続いて榎木津が黒い殻のカタツムリを取り出した。お互いに殻を摘まんだままカタツムリたちをスタート地点におろす。
「よーいどんで同時に手を離すからな。いくぞ……よーいどん!」
木場は猛烈に馬鹿馬鹿しい気分になったが、榎木津の掛け声に合わせて殻から指を離した。当然ながらカタツムリたちがすぐさま走り出すはずもなく、触覚をゆっくりと動かして辺りを観察したり、頭部をゆっくりと伸び縮みさせたりと、二、三分ほどは動きがなかった。
木場が怒鳴り散らしたくなっていると、「あ」と関口が声を上げ、「おおっ」と榎木津も身を乗り出した。水で引かれた線にようやく気づいたのか、二匹がじりじりと線の上を這い始めた。木場もつい観察してしまう。
「のんびりしたレースだな」
関口が和んでいる。榎木津は真剣に見守り、京極堂も本を読みつつもちらちらと視線を投げていた。もの凄く間抜けな構図だなと苦笑を漏らしながらも、木場も黙ってカタツムリたちを見下ろした。
二匹はほぼ同スピードで線の上を這っていたが、やがて唐突につむ男がコースアウトした。触覚をゆらゆらと揺らしながら舵を切り、向かう先は――つむ子の方だった。
「あ」
四人は異口同音に声を上げた。ぬらぁ、と這いながらつむ男がつむ子に接触する。伸びきったつむ子の胴体に乗り上げるようにして頭部を押しつけた。するとつむ子もゆっくりと頭部を動かし、つむ男を迎え入れた。
そして互いに、頭部の辺りからなにやら白い突起を出し、相手の身体に差し入れた。触覚がゆらゆらと動き、時に啄むように身体が接触し、ぬめぬめと粘液が光って二匹は淫靡に絡み合っていく。
気まずい沈黙が流れる。咳払いが響いた。京極堂だ。
「交尾だな」
淡々と、ストレートに京極堂が説明する。
「カタツムリは雌雄同体だから、こうして恋矢(れんし)を互いに突き刺し、生殖器から精子を交換する。そして二匹とも卵を産むんだ。相手が居なければ単独で卵を産む自家受精も可能だが、やはり自分の遺伝子だけでは生まれてくる子孫も弱い傾向にある。少しでも多くの個体と受精したいところだが、カタツムリは行動範囲が狭いから別個体に出会うだけでも彼らにとっては僥倖だろうな。榎さんは結果的に彼らの仲人となったんだろうね」
訊かれてもいないのに一息にそう言うと、京極堂は再び貝のように押し黙って本に目を落とした。その間もつむ子とつむ男は緩慢な動きで交尾を続けている。五分ほど経った頃、関口が気まずそうに口を開いた。
「……ずいぶん長いな」
「カタツムリの交尾は三時間はかかるからな。十時間に及ぶこともある」
関口がぎょっとした。木場もいつもの罵言がなんとなく引っ込んでしまい、仏頂面でカタツムリたちを眺めるしかなかった。すると、
「……よしわかった、解散ッ」
榎木津が大声で宣言した。三人が同時に視線を向けると、「解散だ解散だ!」と繰り返す。
「レースは終了! 京極、つむ子たちはお前に預ける! 明日カマに引き取りに来させるからそれまで世話しろ!」
「嫌ですよ、なんで僕が――」
「お前という奴は、つむ子たちがこんなに一生懸命睦み合っているというのにその邪魔をするというのか!? 連れて帰れないだろこの状況じゃ!?」
「いやまぁ、それは……」
京極堂が珍しく口ごもる。榎木津は鷹揚にうなずくとすっくと立ち上がった。
「そういうわけで解散!……馬鹿ツムリ、お前もだッ」
木場を睨みつけてびしりと命令する。「なんでだよツムリじゃねぇ」と舌打ちしつつ、木場は流されるように腰を上げた。このまま額を突き合わせてカタツムリの交尾を眺めているのが気まずかったのもある。
「にゃんこから守れよ!」
そう叫ぶ榎木津の後に続き、木場もすごすごと座敷を後にしたのだった。
京極堂を辞すと、二人の足はなんとなく探偵事務所へと向かっていた。道すがら、榎木津は「キャベツをあげたら緑の糞をした」だの「霧吹きをかけると殻から出てくる」だのとやたらと饒舌だった。木場が「おう」「ああ」「うるせぇよ」と相槌を打っている間に探偵事務所に到着し、応接に入ると室内は無人だった。
ぱたん、とドアが閉まり、からん、とベルが小さな音を立てる。榎木津はしばし突っ立っていたが、突然くるりと振り返った。
「じゃあ僕らもやるか、精子の交換!」
大声でそんなことを叫んだ。あまりに酷い。木場は反射的に蹴りを入れていた。続いて罵声を浴びせようと口を開いたが、彼の顔を見て言葉を引っ込めた。
榎木津はそっぽを向いて赤面していた。
「……おい照れてんじゃねぇよ、カタツムリの交尾で」
木場は思わず笑った。傍若無人なくせに妙なところで照れ屋なものである。榎木津は顔を赤らめたまま「生命の神秘だったな!」と笑っている。
木場はしばし黙っていたが、「やんねぇのか」とぼそりと呟いた。榎木津がきょとんとする。が、すぐに快活に笑った。
「やるぞ!」
そう言って木場の身体を掻き抱き、情熱的に唇を吸った。
そして三週間後――木場の下宿の電話が鳴った。受話器からは、
「つむ子とつむ男が卵を産んだぞ!」
嬉しそうな榎木津の大声が響いたのだった。