きっと魔がさすには充分だ女神様、と縋られているのを見たことがある。たぶんあの時彼女に救われた人はこんなふうに見えていたんだろうと少しだけ納得した。惜しみなく与えられる優しさというものがあまりに体に染み渡ったので。
体調を崩した。自分の体の限界というものを超えて無茶をして、急な雨に冷やされて。とどのつまり自業自得の風邪っぴきごときを、かの英雄が看病している。一体どういうことだと一番動揺したのはグ・ラハ・ティアその人であったけれど、療養のために借りた石の家の一室に粥を持って現れたかと思えば、「冒険者ってほとんど何でも屋ですよ」の一言で全てを片付けられてしまったのだ。朦朧とした頭では深く考えられやしない。吸い込んだ息が鼻に詰まって、余計に思考を浅くさせた。
「……でも、あんたに、うつすわけには」
「病人は心配されるのが仕事ですよ。わたしの手ひとつ払いのけられない人が看病を拒めるわけないでしょう。いいから、早く寝て、早く治してくださいね」
軽く身を起こした口元にぬるい粥を食ませるのも、てきぱきと汗を拭くのもあまりに手際がよく、ぼう、としているうちにことが済んでいた。そんなところにすら彼女の冒険の軌跡が窺える。いつだって戦場の真ん中を駆けているはずなのに、誰かの手記では療養所で手を貸している。回復魔法をかけてもらっただとか、錬金薬を手ずから処方してくれただとか。たぶんどれも本当で、体を起こすのもままならないような人の面倒を見てきた経験がこの小さな手には詰まっているのだろう。何度も、何度も読み返したいっとうお気に入りの英雄譚の破片たち。そんなことを考えながら掴んだのは、他ならぬ彼女の手だった。オレの手にすっかりおさまるのに、頼りなさを感じないのはどうしてだろうか。
視界の端で驚いたように小さく肩を揺らしたのが見える。ゆるりとこちらを覗き込んで、「どうかしましたか?」と尋ねるので、しっかり手を握り直した。体調を崩すと回らない頭で考え事は増えるわ、いやに心細くなるわで、いけない。もうすっかりいい大人だというのに。
「なにか足りませんでしたか? えっと、水分?」
「ううん」
「寝付けないとか」
「うーん、……いや……なんだろう、寂しいのかな」
「風邪を引くとそうなんですか」
「あんた引いたことねーの」
「まあ、はい。風邪っぴきの看病も、初めてなもので。不足があったらすみません」
「はは、足りないなんてことねーよ、すげぇな、あんた……。手、手だけ、握っててくれ」
「そんなことでいいんですか」
「そんなことがいいんだ」
意識的に握り返された手から伝わる温もりがよくきいた。この人がいればなんだって平気だと思わせる安心感がそこにあった。たかだか風邪菌にやられただけのくせに、随分贅沢な独り占めをしてしまっているなぁ、なんて優越感も、少しある。だからきっと、口が滑った。滑らせてしまったのだ。うっかり、ころりと。
「このままあんたをお嫁さんにしたいなぁ」
夢うつつの自分がそんなことを言ったのをどうしてかこのぼんやりした頭はきちんと記憶している。繋いだ手が永遠になったらどんなにいいだろうなんて想いがそのまま言葉になってしまったのを。ゆるり、まぶたが落ちる。あたたかくて、どんどんと、まどろんでゆく。
「……素面じゃない人に口説かれる気ありませんよ」
英雄の声が記憶の端にひっかかる。ミコッテ族は、耳がいいのだ。