TwitterSSまとめ【三年ぶりに帰省したら実家に間男な鳩がいた件】
微かな震えは緊張からくるものだと、最初はそう思った。
三年の空白、すべてにおいてがらりと変化した環境、目の前に横たわる最愛の人。ここまできたらもう初夜といってもいい状態だ。だから初めてのときと同様に震えがきたのだと思った。
いや、違う。これは……。
「ウィル?」
キスの寸前で動きを止めたウィリアムをアルバートが不思議そうに見上げてくる。
「……兄さん。背後から殺気を感じます」
「それは穏やかでないね。しかし私は感じないが——悲しいかな、この三年ですっかり感覚が鈍ってしまったのだろうか」
「そんなことないですよ。すみません、僕の気のせいかも……」
いや、気のせいではない。
ウィリアムはベッドの後方を振り返った。自分にだけ向けられた殺気の正体は予想通りのものだった。
視線の先には、寝たふりをして鳥籠におさまる一羽の鳩。あいつだ。あいつのせいだ。
「兄さん。あの鳥籠、リビングへ持っていきませんか。所詮鳩だとわかっていても覗き見されているようで視線が気になります」
『所詮』『鳩』を強調してあいつを挑発してみる。一瞬鳩の目が鋭く光った気がした。
「わかったよ。お前が言うならそうしようか」
特にこだわりはないのか、兄はすんなりと弟の意見を聞き入れた。そのまま体を起こし、静かに鳥籠へ近づいていく。
「起こしてすまない、チャーリー」
優しく声をかけるアルバートに対して、鳩はバサバサと羽を広げ籠の中で暴れ出した。無駄な抵抗、狙い通りだ。
「どうやら彼は餌が欲しいみたいですよ。やはりリビングへ移すのはちょうどいいかと」
「そうか、お腹が空いたのか。鳩の気持ちもわかるなんてさすがだね、ウィル」
「ありがとうございます。僕にとっては容易いことです」
アルバートへ向けた笑顔のまま鳩をちらりと見ると、鳩は「違う!」と言いたげに羽をばたつかせていた。暴れるだけ暴れればいい、これも計算のうちだ。
「だいぶ餌に飢えているようですね。早く与えたほうがよさそうですよ、兄さん」
「ああ、そうだね。気づかなくて悪かった、チャーリー」
アルバートはウィリアムのアドバイスを疑う様子もなく、そっと鳥籠を持ち上げた。
「では行こうか」
「じゃあね。おやすみ、チャーリー」
兄が鳥籠を抱え部屋から出ていったのを確認し、ウィリアムは対アルバート用の笑顔から真顔に切り替えてベッドへ腰掛けた。
「……落ち着こう……相手は、鳩だ……」
そうだ、鳩に邪魔をされたくらいで腹いせにこの頭脳を使うことはない。仮にも犯罪卿を名乗った自分が、たかが鳩に対抗心を燃やすなどあってはならないことだ。
事前のリサーチで兄の周囲に怪しい影がないことは掴んでいたが、対象を人だけにしていたのは詰めが甘かったのかもしれない。
塔での演出についても綿密に考えたのに。感動の再会、わざと控えめにした抱擁。タイミングよく昇る朝日。どさくさでプロポーズもした。完璧だった。それなのに、今日になってマイクロフトがあいつを預けにやってきたのだ。
しかしこれもあと数日の我慢ですむ。鳩はたまたまマイクロフトが不在にする数日間という約束で預かっただけで、ずっと居続けるわけではない。それに、アルバートが鳥籠を置いて戻ってくれば今日のところの問題は解決————。
「戻ったよ」
ノックの音とアルバートの声にウィリアムは顔を上げた。悶々としている間にそれなりの時間が経過していたようだ。
「お疲れ様でした、にいさ……」
兄専用の笑顔で迎えようとしてあれ? と思わず言葉に詰まる。
「ケージを開けたら急に飛び出してきてしまってね。餌も食べようとしないし、なかなか離れてくれなくて」
仕方なく連れ帰ってきたんだ。アルバートは嬉しそうに笑っていた。
手には空の鳥籠。そしてその肩には、憎いあいつ。鳩は心なしか勝ち誇った態度でベッドに座るウィリアムを見下ろしている。
「暴れたのは空腹ではなく、寒さのせいだったのかな。かわいそうに。今日は一緒に寝ようか」
「いやこれだけ着膨れていて寒さを感じるなどありえません甘やかしては駄目です。それと、甘やかすのは僕だけにしてください。さっさとケージに戻しましょう」
「しかしこう懐かれると情がわいてしまうな。どうだい、うちの子になるかい?」
アルバートに撫でられ、鳩は気持ち良さそうに身を任せている。こちらを見下ろす鳩の目がまたキラリと光った、気がした。いや、多分もう気のせいでも『気がした』でもない。
鳩からの挑戦、望むところだ。
「兄さん、今日は……楽しい夜になりそうですね」
鳩に焦点を合わせ、ウィリアムはゆっくりと立ち上がった。
【ともだち】
「兄さん、今日は来客が多いですね……」
部屋に入ってまず目に飛び込んできたのは、すでにウィリアムにとって見慣れた日常となった鳥籠だった。中にはライバル(認めたつもりはないが恐らく彼の方はその認識のはず)が大人しくおさまっている。そこまではいい。どうせまたマイクロフトから預かっているのだろう。飼っている鳩のことを思いやり、こうして定期的に兄のもとへ寄越すようになったのだ。理由もはっきりしている。
問題は、ソファに座る兄の周りをチョロチョロと動き回る中型の牧羊犬と、膝の上で寛ぐ茶トラ柄の猫だ。
「彼らのことかい? 犬の方はワトソン先生の患者の老婦人から先生経由で、猫はフレッドから。どちらも今日いっぱいの一時的な預かりだよ。私は暇な身だからいくらでも面倒を見られる。逆を言うと皆忙しいから、私くらいしかいないのだが」
アルバートはのんびりとした様子で膝の上の猫を撫でた。気持ちよさそうに猫が喉を鳴らす。
「二人とも聞き分けの良い、いい子たちだ」
犬が尻尾を振りながら、自分も撫でろという仕草で兄の足元へ寄って行った。
「そう……ですか」
今日は賑やかなティータイムになりそうだ。特に気にもせず兄へ近づこうとして、
「……チャーリー?」
ふと、ウィリアムは鳥籠へ目をやった。
一瞬感じた鋭い気配。以前、アルバートとの初夜(気分的には毎回初夜だから表現は間違っていない)を邪魔されたときと似たものだ。ただ、今回のそれはウィリアムではなく二匹の新参者へ向けられているようだった。
なるほど。
「兄さん、ちょっとそのままでいてください」
ウィリアムは進めた足を引っ込め部屋を後にした。
廊下を進みキッチンを通り過ぎ、パントリーへ立ち寄り棚を見回す。あった。目当てのものはすぐに見つかった。それは袋詰めされた馬肉だった。フレッドなら必ず用意してくれていると思ったが、食べやすいサイズにスライスされていて想像以上だ。これなら申し分ない。
再度リビングへ戻る。まだ犬猫と戯れている兄を横目に、肉の入った袋を開けた。
匂いに反応した二匹があっという間にウィリアムの足元に群がる。どちらもよく躾られている上に賢いのか、犬も猫もそれぞれの皿の前に行儀よく座り、ウィリアムを尊敬と期待を込めた目で見上げてきた。
「おや、もうエサの時間だったかな」
「少し早いかもしれませんが、彼らがお腹を空かせているようでしたので」
いい子だね。二匹を交互に撫でてから皿に肉を散らす。
「ほら、喜んで食べてくれてます」
「本当にウィルはすごい。動物たちにも寄り添ってやれるなんて……お前の優しさがそうさせるのかな」
犬猫からだけでなく、兄からも尊敬の眼差しを向けられる。
「はい。少なくとも鳥の気持ちはわかりますよ」
そう笑顔で答え、ウィリアムは鳥籠の扉を開けてやった。
鳩はすぐさま飛び出すと、指定席になっているアルバートの肩に止まった。彼にとっての邪魔者がいなくなり、愛しい人を独占できる状態に満足しているように見える。
お前、なかなかやるな。そんな声が聞こえた、気がした。「なかなか」ではない。僕は常にやる男だ、いまさら気づいたのか。伝わるかはわからないが、アイコンタクトで鳩に呼びかけてみる。
「そうだ、兄さん。気になったことがあるんです」
鳩助けを終え、ウィリアムはアルバートの隣に腰掛けた。
「彼らは『彼』ですか? つまり、オスですか?」
食事を楽しむ二匹を見守りつつ疑問を口にする。
「両方オスと聞いているが」
「……やはりそうでしたか」
「やはり、とは?」
「ヒト以外になるとオスにモテるんですよね、兄さん。最近僕が発見した法則です。例えば……彼とか」
二匹からチャーリーへ視線を移す。
「いったいどこから何のフェロモンが出ているのか。ぜひ研究したいものです」
「お前の研究なら喜んで協力するよ。ああ、研究者スタイルのウィルもいいね。眼鏡をかけて試験管でも持って……そろそろ白衣を着たウィルを見たいと思っていたんだ」
「いえ、研究は冗談ですよ。兄さんが相手だと、いかがわしい遊びになりそうなのでやめておきましょう。まぁ、そのうちいずれ……近いうち……明日とか……してもいいかなと思っていますが……」
「では、早速明日どうだろう」
話が変な方向へ逸れてきた。穏やかな午後のティータイムにふさわしくない想像をしてしまい、ウィリアムは曖昧に頷いてから話題を戻すことにした。
「でも、興味深い法則でしょう?」
「そうだね、意識したことはなかったが」
「ただ、その法則だと僕はヒトではない分類になってしまうんですよね」
「その通りではないか」
冗談で済まされると思っていたらあっさり肯定され、驚きをもって兄を見つめる。
「兄さんそれって……」
「ウィルはヒトではない、天使だからね」
アルバートの表情は真剣だった。本気だ、この人は本気で言っている。
「僕が、天使……」
「ああ、君もだよチャーリー。君の羽はまさに天使そのものだ」
照れるウィリアムをよそに、兄は鳩の背を優しい手つきで撫で始めた。鳩が嬉しそうにアルバートの頬へ頭を擦りつける。
「なんだ、結局僕はそっち側ですか」
鳩と同列なのは釈然としないが、今日のところはまぁいいか。ウィリアムは笑いながら冷めた紅茶に手を伸ばした。
翌日、白衣を羽織ったウィリアムのもとへ、チャーリーからヒマワリの種が届けられた。
【アフター保証】
「部屋を間違えていないか、ウィル」
入浴を済ませて寝室へ戻ると、ベッドの上で寛いでいるウィリアムと目が合った。
お茶会も滞りなく終了し、アルバートは『計画』遂行以上の達成感すら感じていた。ただ、同時に襲ってきた疲労感もいつもの夜会以上だった。
だから今日は早めに休もう。重たい足を引きずってバスルームから出てみると、弟にベッドを占領されていた。
「お前も相当疲れているようだ。早く自分の部屋へ戻って寝なさい」
「兄さん……僕が間違えるわけないでしょう。兄さんの方が疲れているのではないですか」
大丈夫ですか、と見上げてくる。
「僕は部屋で休むとは皆に伝えましたが、自分の部屋で、とは一言も言っていませんよ」
そう言ってウィリアムはアルバートの手を引きベッドへ座らせた。まるで自分の部屋で過ごしているようなウィリアムに、こちらがゲストの気分にさせられる。しかしここはアルバート自身の部屋だ。弟にはぜひそのことを再認識してほしい。
「お茶会、無事開催おめでとうございます」
「ああ、皆のお陰で上手く運んで助かったよ。ありがとう、ウィル」
ねぎらいの言葉をわざわざかけにきてくれたのだろうか。礼を伝え、隣に座るウィリアムの手をとった。
「はい。兄さんもお疲れ様でした——と言いたいところですが、まだ兄さんの任務は終わっていません」
「何かやり残したことでも?」
「僕への労りと反省会が残っています」
私への労りはないのか……疲れた頭でぼんやり考える。
「反省すべきところは見当たらないが」
「最大の反省点は、兄さんのご婦人方への距離が近かったことです。僕には昼間からあそこまで密着する必要性は感じませんでしたけど。その点、僕はあえての講義形式で彼女たちとは適度な距離を保つことができました」
「おや、とあるご婦人に迫られていたではないか。それはもう、香水の匂いが残るくらい密着されて」
「あれは……想定外の出来事で……」
作戦勝ちを宣言したばかりのウィリアムの顔から、『自信』の文字が消えていくのがわかった。
かわいい。珍しく動揺する弟の頭をアルバートは優しく撫でた。それにしても、ウィリアムをここまで困らせるとは。あのご婦人こそ世界一の強者ではないかと突拍子もないことを考えてしまう。当然、アルバートにも勝てる見込みはない。
「随分と熱いアプローチを受けていたようだったから、さすがの私も妬けてしまったよ。集まったご婦人方もお前のほうが多かったしね」
何はともあれ、お互い猛者相手に戦いを生き抜いた同志だ。疲れている弟を慰めるため彼が喜びそうなことを付け加えると、ウィリアムの表情に明るさが戻った。
「では、そんな嫉妬深い兄さんにお詫びをしないと」
「私がお前を労わらなくてもいいのかい」
「ご心配にはおよびません。僕への慰労も反省会も兄さんへのお詫びも、全部やることは一緒ですから」
『妬けてしまう』の一言が思った以上にウィリアムを喜ばせたようだった。ウィリアムが勢いよく抱きついてきたことで、アルバートは弟ごとベッドへ倒れ込んだ。
「兄さんの任務はこれから……で…す……」
「うっ……重っ、待っ…!」
重い。覆いかぶさってくるウィリアムの下敷きになり、アルバートは思わず呻いた。
「……ウィル?」
もしやと耳を澄ませると、静かで規則正しい寝息が聞こえてきた。
「相当疲れていたのだね」
無理もないと思った。アルバートですら激しく体力も神経も消耗したのだ。ジャックの言葉どおり確かにあの庭は戦場だった。普段そこまで女性の、それも集団に接する機会のないウィリアムには酷な一日だったはずだ。
弟の下敷きになっていた状態からなんとか抜け出し、アルバートはウィリアムを仰向けに寝かせた。二人で寝ても余裕のあるベッドだから、今日はこのまま隣で眠ることにした。
「お休み。いい夢を」
そっと彼の頬に口づける。見下ろした先の寝顔は穏やかだった。
翌朝のアルバートの目覚めは、窓からの日差しでも鳥のさえずりでもなく、ウィリアムからの揺さぶりという人工的で強制的なものだった。
「おはようございます、兄さん」
良質な睡眠の成果なのか、ウィリアムは晴れ晴れとした顔でアルバートを起こしてきた。
「ん……ウィル?」
「まだ兄さんの任務〝だけ〟、完了していませんでしたよね」
ウィリアムはベッドの端に座り楽しそうに笑っている。さすが、若いだけあり回復が早い。そしてその若さが羨ましい。
「……日付けが変わったらリセットされるものではないのかい」
「そのような条件は提示していませんし、聞いたこともありませんが。ですので、続きをしましょう」
勝手に先に寝てしまっておいて何を言い出すのか。それでも、最愛の弟からの『依頼』は絶対に受け入れるのがアルバートの信条でもあり、喜びでもある。
「わかった。残った任務を片付けようか」
おいで。アルバートが腕を伸ばすと、ウィリアムは満足そうに微笑んで兄の胸に飛び込んだ。
【路線変更】
朝目覚めて今日こそはと意気込んで、夜になって決心が揺らぎまた明日にしようと目を閉じて、翌朝には今日こそはと勢いをつけて起き上がる。そして諦めとともに日付が変わる。そんなことを繰り返しているうちに一週間が過ぎた。
なんて非効率な。自室のソファに深く腰掛け、ウィリアムは小さくため息をついて窓の外を見つめた。
夜道を行く靴音も馬車の音も街灯も消え、外は静かで暗い。今日も一日が終わろうとしている。後悔しても失われた時は戻ってはこない。誰もいない部屋でなんとなくアンニュイな雰囲気をつくってみせるが、少しも気分は晴れなかった。
なぜ。あの人にできて僕にできないことはない、数学的にもあり得ない。
寝る前にどうぞとルイスの淹れてくれた紅茶を一気に飲み干し自分を鼓舞する。酒のほうがよかったかもしれない。一瞬生まれた迷いは早々に取り払った。邪道だ。アルコールに頼ってはいけない。
そうだ、そもそも兄の上司だった〝だけ〟の男が気安く『アル』呼びしているのだ。兄にとって〝運命〟の男であるウィリアムが同じ呼び方をするのになんの支障もない。むしろ権利としては早々にこちらが勝ち取っているものだ。
それなのに、なぜ。一度でいいから『アル』呼びしてみたいのに。一度といわず、慣れてきたらベッドの上でも『アル』と囁きたいのに。そうすれば『兄さん』の弟でいたいときと、『アル』の恋人でいたいとき、その日の気分で選べて二度美味しいのに。つい『兄さん』をつけてしまうのはなぜなのか。
原因はすぐに思い当たった。お互い兄弟でいる期間が長すぎたせい、それ以上でも以下でもない。
癖と傾向は掴めている。では、対策は。
重要なのはアルバート側の意識改革だとウィリアムは分析した。
どちらかというと受け入れる兄のほうに問題があるように感じる。『兄さん』と声をかけると本当に嬉しそうにするから、こちらも弟として甘えてしまい、いつまでたっても『かわいい弟』から脱却できないのだ。
兄さんのせいだ。本人不在をいいことに、勝手に責任転嫁した。
ただ、アルバートの好みを矯正するには、まずはウィリアム自身が変わる必要がありそうだ。路線変更を迫られていると思った。
かわいい弟からワイルドかつクールな男へ。しばらく兄の胸に顔を埋めるなんてことは封印する、膝枕も我慢する。少し強引なくらいリードしていけば『アル』呼びも不自然ではなくなるだろう。
やはり今晩こそ。アルバートがやってきたら真っ先に『アル』と言う。
気合いを入れ直して立ち上がったところで、ノックの音が聞こえてきた。絶妙なタイミング、ウィリアムにとってはチャンスだ。
入るよウィル。小さな声がした後に兄の姿が現れた。今だ。
「どうぞ、アル!…………バート兄さん」
——ああ、また失敗した。
ちらりと時計を見る。深夜十二時ジャスト。日付は変わり、今日という日は終わっていた。
【癖ありダイアリー】
日記をつけるのは誰かに読んでほしいからだ。ウィリアムにとっての『誰か』は、不特定多数の他人でも身近にいる仲間でもなく、未来の自分だった。どうせ最期に燃やすのに、未来なんてどこまであるかわからないのに、機会があるとついペンをとってしまっていた。
内容は箇条書きで済ませることが多かった。稀に、素晴らしい建造物や心踊らされる芸術作品に出会えたときは長文になった。忘れたくない感動や興奮は書き留めておくようにしていた。
だから兄弟でなくなったあの日のことは敢えて書かなかった。絶対に薄れない記憶を記録に残す必要はなかったのだ。
「そういえばキスが上手くなったね、ウィル」
リビングでワイン片手に談笑している中で唐突にキスという言葉が飛び出し、ウィリアムは笑うしかなかった。
「ありがとうございます、アルバート兄さん」
とりあえず褒められたので、向かいに座る兄に礼を言う。なぜ、淡水魚と海水魚の生態の違いと生命の神秘について気持ちよく語っているときにキスの話になるのか。そこには触れないでおいた。単に兄にとって興味のない話題だっただけ、よくあることだ。
「最初はたどたどしかったが、今はすっかり……お前は何でも完璧にこなせるのだね」
「それは以前の僕と比べて、という認識でよろしいんですよね?」
「もちろんだ」
暗に『他の誰か』との比較でないかの確認に、アルバートは笑顔で頷く。空になっていたウィリアムのグラスにワインが注がれた。
今日の兄は特に機嫌が良さそうだ。
「兄さん、一つ訊いてもよろしいですか?」
話の流れとして今が好都合かもしれない。せっかくなのでこの機会に一つ質問をぶつけてみようと思い、ウィリアムは姿勢を正しひと呼吸おいてから口を開いた。
「ご存知の通り僕はこういったことには不慣れで当然兄さんが初めてなのですが、兄さんの事情を確認していなかったことに気づきました」
相手に直接尋ねるのはスマートではないが、初めての日からどうにも心の隅で燻っているものを取り除きたかった。
「私の?」
「はい。すみません、誰かと比べられているのではないかと不安になってしまって」
あの日感じた一抹の不安。ウィリアム自身には多少の緊張と焦りがあったのに対して、アルバートは妙に落ち着いていて慣れた様子だった。巷の男たちが持つ処女信仰を一蹴しつつも、相手にも自分と同じく「はじめて」でいてほしいと願ってしまう矛盾に、ウィリアムはたびたび悩まされていた。
しかし華やかな世界にいてこの歳まで何もないわけがない。熱烈なアプローチを受け、どこかの淑女数人とのロマンスくらいはあったかもしれない。ある程度の衝撃を覚悟し答えを待つ。
「心配することはない。私はウィルでちょうど二十三人目くらいだが、お前を他の誰かとなど比べはしないさ」
「え?」
想像より多い数字と、天気の話でもするように淡々と言ってくる兄の姿にウィリアムは思わず声をあげた。いつの間に? 離れて暮らしていても定期的に会ってはいたから、おおよその行動パターンは把握していたはずだったのに。
ハニートラップを指示したこともないし、逆に罠にかかるタイプでもない。が、預かり知らないところで何が起きていたか詳細まではわからない。身内を調査や監視対象にするわけにはいかないからだ。つまり、可能性はゼロではないということになる。兄は軍にいたこともあるし社交シーズンは留守がちだ。むしろ可能性はある、大いにある。
「兄さん、まず歴代の相手の氏名と年齢と性別と日時と場所を一人ずつ正確にフルネームで言ってください。時系列にまとめてリスト化とグラフ化してインプットしてそれを僕専用のファイルへアウトプットして今年度のPDCAサイクルを見直しておかないと今後の計画にも支障がでます、これはモリアーティ家のリスクマネジメントの一環です」
息継ぎをせずに一気に喋ってしまった。ついでに、兄宛で招待状を送ってくるご令嬢たちを分析、管理する専用ファイルの存在も明かしてしまい、ウィリアムは後悔と一緒にワインを喉に流し込んだ。
「わかった……たしか最初はイートン校で。あれは何年生のころだったか」
「イートン校?」
初耳だった。そしてウィリアムには衝撃的な告白だった。
「男子しかいないではないですか……」
当時の記憶を呼び起こす。同級生、上級生? もしかするとこの人の長男力に魅了された自分と同じようなタイプの下級生だったのかもしれない。だとしたら余計に悔しい。ワインが足りない。
「何年生かは重要ですよ、兄さん」
当時の名簿を取り寄せ現在の様子を探る必要がある。卒業生には貴族の子弟も多いから調査次第ではターゲットになり得る。そんな私怨まみれの『計画』を立てかけて思いとどまった。いや、しかし、少し。少しだけ調べるくらいは許されるだろうか。
「それと名前。今どうしているか早急に調査しないといけません。一週間あれば当時の生徒全員を……」
普段の『仕事』なみに頭を使っているうちにグラスを持つ手が止まっていることに気づき、ウィリアムは気持ちを落ち着かせるためにまたワインを口に含んだ。飲んだ量が思ったよりも多く、喉に染みた。
「ウィル、ウィル、落ち着いてくれ――嘘だよ」
冷静な声に視線を目の前の兄へ戻すと、アルバートが困った顔でワインボトルを手にしていた。
「すまない、冗談のつもりだったのだが……」
追加のワインがウィリアムのグラスを満たす。詫びのつもりか、先ほどより量が多い。
「悪い冗談はやめてください。変に数字がリアルで対処に困ります。嘘をつくなら桁数を増やしたりして誇張していただかないと、兄さんの場合冗談になりませんから」
「心外だな。私のことをそんな目で見ていたのか」
「残念ながら日頃の行いから推測するとそうなりますね」
ウィリアムはため息をついて兄のグラスにワインを注いだ。ため息の半分は呆れ、もう半分は安心だった。
「仕方ない、名誉挽回のために正直に言うよ。お前が初めてだから比べようもないのだ」
「本当ですか?」
今度はゼロ? 本当なら嬉しいがこの数字もあり得ない。リアリティゼロの回答に疑いの目を向ける。
「嘘だと言ってほしいのかい? では、本当は……」
やはり真実を言うつもりはなさそうだ。ウィリアムは身を乗り出し、両手をアルバートの前に突き出して「ストップ」のサインを出した。
「もうそれ以上は言わなくていいです。純情な弟をからかって楽しいですか?」
「ああ、楽しい。楽しいよ、とても」
即答だった。アルバートはウィリアムの左手を掴み、手の甲へ唇を寄せ口づける。
「もっと早くこうしていればよかったと後悔しているくらいだ」
まっすぐ見つめてくる目は、嘘とは無縁にみえた。結局経験人数はあやふやにされてしまったが、別にどうでもいいと思わせてくれる程度に瞳は澄んでいた。
「大丈夫ですよ。まだ終幕まで時間はありますから」
皮肉の一つでも投げたかったのに、思わず励ます言葉を口にしてしまった。
同時に寂しさをおぼえた。
終わりが近づくにつれ、アルバートにとって一緒にいる時間がより濃密で貴重な思い出になる。〝ウィリアム〟が消え去った後でも痕跡は残り続ける。それは今日のようなくだらないやり取りとか、喉を通るワインの渋みとか、きっと些細なものだ。ふとした時に淡水魚の話も懐かしがってくれるかもしれない。小さな思い出が層になって積み重なり、日記に書き留める必要のないくらい兄の記憶に残り続けてほしいと願った。
「兄さん、明日のパーティーは夜からでしたね」
「ウィルもまだロンドンにいられると言っていたね」
「はい。せっかくキスを褒めていただけたので、感覚を忘れないようにしておきたいのですが」
「ずいぶんと研究熱心でいらっしゃる、教授」
「研究成果は僕の部屋で発表します。貴重な資料があるので、ここではちょっと」
左手をそっと離し、ウィリアムは静かに立ち上がった。触れられていなかった右手を差し出し、アルバートの頬を撫でる。
「残ったワインを空けたら行こう」
アルバートはまだ少し赤の残ったグラスに手を伸ばすと、弟を見上げて優しく微笑んだ。
この笑顔も触れた頬の熱もこれから過ごす時間も、忘れることはないだろうとウィリアムは思った。
だから今日のことも、日記には書かない。
【思い出のニューヨークシティー】
「ここから……」
両手を広げたまま、ルイスは広々としたアイランドキッチンの端から端へ移動した。
「ここまで!」
キッチンとダイニングスペースの間に立ち、ウィリアムとアルバートの前を塞ぐ。
「今日は一日キッチン利用禁止ですから」
強めの視線に、目の前の兄二人は一瞬怯んだようにみえた。
「理由、知りたいですか?」
「私は知りたい。参考までに聞いておこう」
「ルイス、なんだか目が怖いね」
心当たりがなさそうな兄たちへ向け、ルイスは一呼吸おいて口を開いた。
「兄さんたちがチョコレートに関わらないように、ですよ。去年、お互いの指や頬に溶かしたチョコつけあって『おいしそう〜〜』とか言って舐めたりして、キャッキャしながらいかがわしい雰囲気を醸し出していましたよね? さらに神聖な台所を散らかして! 言語道断です。なので今年は立ち入り禁止です。今日の予定は組み直してください。天気もいいので出かけてみては?」
「……残念だ」
「いかがわしいのは兄さんだけなのに……」
二人の兄は残念そうに肩を落としている。
少し言い過ぎたかと思い優しくしようとした矢先、ウィリアムが「あ、そうだ」と嬉しそうに手を打った。
「では兄さん、これから僕が兄さんをニューヨークへお連れします。いつか自由の女神を兄さんに見せたいと計画していたんです」
ニューヨーク? 突然出てきた都市の名前にルイスは眉を寄せる。そんなスパダリがタワマン最上階で囁きそうなことを、アルバートに対してはカワイイを売りにする兄が言うなんて意外だ。
「ほら、高速のインター入る時に見かける、自由の女神が屋根に建っていて……」
高速道路のインターチェンジ、自由の女神、ニューヨーク——。ルイスの口からため息が漏れる。
「それ、ラブホじゃないですか……」
ダメだ、吸い込む空気より吐く息の量のほうが圧倒的に多い。酸素が足りない。きっとそのうち呼吸困難になる。
「ニューヨークか、楽しそうだ。そんな素晴らしい場所があったとは。ウィルの観察眼は世界一だね」
観察対象が偏っている気がする。
「ありがとうございます。都会的な兄さんにピッタリだなと思って」
都会的?
「しかしこの前の船も良かった。何といったか、お前が『ノアティック号に乗りましょう』と言って連れていってくれた」
なかなか不穏な名前が出てきた。
「あそこも広くて良かったですね。ホテルの名前はタイタニックでしたけど」
あの曲が頭の中で流れ出す。
「次はニューヨークか」
いや、ニューヨークは遥か海の向こうだ。
「先にセントラルパークを散歩してからにしましょうか」
セントラルパーク——どうせインター近くにある市民の森のことだろう。
「……兄さんたち。僕はもうツッコミを入れるのに疲れました。早くどこかへ出かけてください」
ニューヨークでも船でも、シャトーでも楽園でも。どこへでも行けばいい。
「わかったよ。でもねルイス、これだけは伝えておきたいんだ」
急に真顔になり遠くを見つめはじめたウィリアムに、
「まだ何か」
嫌な予感がしつつも次の言葉を待ってみる。
「僕はね、ルイス。白紙だった人生について、色々考えたんだ」
「……」
「生きるからには精一杯できる限りのことがしたい、色々な場所を訪れてみたい。あらゆるパターンのデートを試したい、兄さんと——そう、思ったんだ」
やっぱり。
多分、今の自分から表情を読み取ることは誰にもできないだろうとルイスは思った。そして多分、これが「無」の境地だ。たどり着くつもりはなかったけれど。
「ウィリアム……」
「行きましょう、ニューヨークへ」
無言のままのルイスに「行ってくるね」と声をかけ、二人は笑顔で頷きあいながら部屋を出ていった。
「……さて」
静かになったキッチンでルイスは大きく伸びをした。よかった、何とか追い出せた。
今日は手作りチョコを作ると決めた日だ。兄二人と仲間たちへ、お世話になっている人たちへ。サプライズだから、二人が帰ってくるまでに仕上げておきたい。帰ってきたら、これでもかというくらいの量を食べさせよう。きっと食べられないとぼやきながら、一生懸命頬張ってくれるはずだ。
「取りかかりますか」
セーターの腕を捲り、ルイスは冷蔵庫の扉に手をかけた。
【こだわり検索】
「これなんか、どうかな」
何度目になるかわからない兄の問いに、ルイスは溜め息をつくことで返事のかわりにした。
「ここもいいね。でも、料理はもっと高級な食材を使っていたほうが兄さんの好みにあうか……」
悩める兄ウィリアムの手の中にあるのは、ウィリアムお気に入りのタブレット端末。画面には旅行サイトの検索結果が映っている。
リビングへやってきたルイスが兄に呼び止められ、ソファの隣に座らされ、温泉旅行についての意見を求められてから約一時間。判断力に優れた賢すぎる兄にしては、珍しく迷っているようだ。
「——ウィリアム兄さん」
「なんだいルイス」
「兄様は兄さんの決めたプランならなんでも喜ぶと思いますよ?」
「そうなんだけどね。最近忙しそうだったから、アルバート兄さんにはベストな状態でリラックスしてもらいたいんだ」
改めてルイスは画面を覗く。
「兄さん。これ、どう考えても兄様がゆっくりお休みになれないかんじのところばかりでは……」
絞り込み検索のタグには「カップル向け」「露天風呂付き客室」「離れ」「朝夕部屋食」といかにもなワードしかない。そして温泉地や観光地を特定せず、どの宿に泊まるかで行き先を決めようとしているところがかえって潔いとさえ思える。完全にアルバートではなく、ウィリアムのための旅行だ。
「そんなことないさ。アルバート兄さんは僕の前以外で脱ぐの嫌がるから客室に風呂は必要だし、温泉宿に行くなら露天のほうが雰囲気出る。せっかく都会の喧騒から逃れてきているのに周囲の騒音に悩んでほしくないから離れは必須だし、ゆっくりしたいときに食事処へ身支度整えて行くのも億劫だ。ほら、全部兄さんのためだよ」
疑いの目で見つめるルイスをかわすように、饒舌にウィリアムは語る。
「『カップル向け』はどうなんです?」
「それだけ静かに周りを気にせず過ごせるってことだろう? だからチェックをつけだんだ」
「あくまでも自分のためとは認めないんですね……では、僕が兄さんの本音を代弁します」
「ルイス?」
「大浴場ではイチャイチャ出来ないから露天風呂付き客室にしたいんですね。露天風呂のほうがたしかに雰囲気は出ますよね。洗いっこしましょうとか言ってキャッキャしたいんでしょう?」
「ルイス……」
「離れにしたいのなんてわかりやすすぎます。『声、今日は我慢しなくても大丈夫ですよ』とかなんとか耳元で囁きたいんでしょう? 部屋食にしたいのは、兄様に食べさせてもらいたいから。魚の骨取ってもらったり肉を切ってもらったり。まったく、マザコンごっこなんて……兄さんたちのこのプレイ、外に言ったらダメなやつですからね。恥ずかしすぎます」
「……」
「カップル向けは文字どおりカップルが夜することをしたいから——下心を隠さないところはいっそ男らしさを感じますが。兄さん、これ、兄様ゆっくりできますか?」
「ルイス」
「そんな『さすがは我が弟よ』みたいなキメ顔しても無駄ですよ」
「ルイス」
「なんです」
「マザコン遊びのこと、この前シャーロックに話したよ」
「は、話したんですか?」
「授業のあとワトソンさんと三人でランチしたんだけど、刺身定食を食べたんだ。そのとき家でのご飯の話になってね」
「……」
「シャーロックは『ドン引き〜』て笑ってた。ひどいよね、たまにしかしないのに」
「まあ、正常な反応ですね……」
今度、シャーロックたちに何か菓子折りでも持っていこう。うちの兄がいつも大変お世話になっておりますと頭を下げて……いや、ホームズも兄と同類だから、お菓子はワトソンさんにだけ用意すればいいかもしれない。
「ただいま」
菓子折りをどこで買おうか考え始めたとき、帰宅を告げるアルバートの声が聞こえてきた。夕食の準備をするつもりでこの部屋へ来たことを思い出す。
「お帰りなさい。すみません! 夕飯の準備がまだ」
「かまわないよ。せっかくだからみんなでどこか食べに行こうか。ルイス、何が食べたい?」
ルイスの慌てように気にする素ぶりも見せず、アルバートは脱いだコートをハンガーにかけながらルイスに笑いかけてきた。こういうときは、味に無頓着なウィリアムではなく必ずルイスの意見を求めてくる。
菓子折りの次は夕食メニュー。何がいいだろう。ルイスが一瞬迷った隙に、隣のウィリアムが「兄さん」と会話に入ってきた。
「最近お疲れですよね。たまには動物に癒されたくはないですか?」
「? ああ、いいね。最近忙しいから、癒しはほしいかな」
突然の提案に、それでも楽しそうにアルバートが答える。
「兄さん、次の休みはサファリパークに行きますから。空けておいてください」
動物に癒されたいのなら、駅前の猫カフェか近隣の動物園にでも行けばいい。水族館でもいい。あえて日帰りよりも泊まりのほうがいいかな? と考えさせる距離感のテーマパークに誘導しようとするウィリアムに、ルイスは今日何度目かになるかわからない溜め息をついた。
思ったとおり、兄はサファリパーク近くの温泉地に狙いを定めている。どうやら目星はつけたようだ。
「……決まってよかったですね、兄さん」
これまでの一時間は何だったのか、そしてこの間に何品作れたか。色々と悔やまれる。とはいえ、久しぶりの兄弟での外食は嬉しい。
今日は何を食べよう。
「次は僕の番です」
ウィリアムからタブレットを取り上げ、ルイスはグルメサイトへ画面を切り替えた。