財布を忘れた話炎天下、猫はピザ屋の前で途方に暮れていた。ピーカン照りの午後。道路の向こうに陽炎が見える。「げ、財布忘れた」と店の前でロシナンテがポケットの中身を全部ひっくり返してみせたのが5分前。日陰もなく容赦なく焦がされる背中に、ジワジワと賑やかなアブラゼミの声が刺さる。
アツアツのトロけたチーズの乗ったピザが食べたかった。サラミとピーマンと一緒に、フレッシュなトマトが乗ったピザが猛烈に。それだけなのに。
道路の向こう側に見える自販機が恨めしい。ロシナンテが財布を持ってきていると思っていたのだから、当然、猫は財布を持ってきていなかった。
「あつ…」
チーズより先にこっちが溶けてなくなりそうだ。前にテレビで見た、夏のクルマのダッシュボードに放置されたアヒルのフィギュアが、でろでろに溶けている様子を思い出して、猫は、ひん、と眉を寄せたその時。
「ッ、クソが!!」
バタンと大きな音と怒鳴り声がして、猫はびくう!と半分くらい飛び上がった。見れば、ピザ屋から赤い髪のコワモテのメンズが不機嫌そうに出てきたところだった。
しかしその顔には見覚えがある。かぶっていたつばの大きな麦わら帽子を押さえて、猫は大股で歩いてくるその男を見上げた。
「あ。おまえ」
男はTシャツの両袖を捲って、太い上腕筋を晒していた。こんなに暑くても赤いリップは欠かさない。
キッドは大股で猫へと近づくと、何してんだこんなトコで、と首を傾げて訊いた。大きな体躯に怖い顔だが、映画館で打ち解けているから猫は怯まない。
「ピザ受け取りに来たんだけど、お財布忘れたから待ってるの」
麦わら帽子の隙間からさした光が、少し日に焼けた顔をつぶつぶと照らしている。暑さで火照った頬と鼻の頭は、すっかりピンク色に染まっていた。
「…俺と同じじゃねェか」
トラファルガー待ってんのか?と、キッドは会いたくない名前を出して警戒するが、猫が首を振ったので胸を撫で下ろす。こんなクソ暑い中でアイツに揚げ足取られたら、殴り合うだけじゃ済まねェ気がする。
イラつくキッドとは裏腹に、猫は暑さで小さな肩をさらに落としていた。太陽光の照射面積を減らそうと本能がそうさせるのか、しおしおと次第に小さくなる身体を見下ろして、キッドは舌打ちをする。
ダメージジーンズのポケットは4つあるが、それぞれに手を奥まで突っ込んで目当てのものを探す。見つかったのは50円玉が1枚と、10円玉が6枚。
キッドは大股で道路を横断すると、自販機へ硬貨を押し込んだ。戻ってきた手には、100円で買えるビッグサイズのペプシコーラが。プルタブを開けてやると、ホラ、と猫の頬へとくっつける。
「つめた」
「これしか買えなかった」
暑ィだろ、と呟く声は低いが、怖い顔を見上げた猫はホワァと微笑んだ。
「ありがとう。えーっと…」
「キッドだ」
「キッドくん」
くっつけられた缶から滴る水滴が、ぽたりと首へ落ちる。ひんやり冷たいそれに目を細めて、猫はコーラを受け取った。こくこくこくと喉を鳴らして、ぷはぁと息をつく。いい飲みっぷりにキッドは「ハ、」と牙を剥き出しにして笑った。
しゅわしゅわと喉を潤す炭酸に、猫はフウと満足げな溜め息を吐くと、「ん、」とキッドに向かって缶を差し出した。
「…俺はいい」
「キッドくんのお金だもん」
「いいって」
「ん」
暑い。缶を差し出す二の腕が白くて眩しい。麦わら帽の下できらめく瞳が眩しい。熱い。どうやら言っても聞かないだろうと悟ったキッドは、白い指からそっとコーラを抜き取った。
ぐび、と喉へ流し込むと、なんだかいつもより甘い気がする。いつもの癖でカラにしてしまわぬよう、ごくりと慎重に飲み込んで、残りを猫の元へと返してやった。キッドが飲んだことに満足したのか、猫は残りのコーラをチミチミ飲み始める。目の前へ伸びる影が少しだけ長くなったような気がした。
そうか、とキッドは気がついて、猫の隣ではなく斜め後ろに立つことにした。こうすると小さな背丈がすっぽり自分の影に入る。
ポケットに手を突っ込んだまま、位置をズラしたキッドに気づかず、猫は呑気に入道雲を見上げていた。シャツワンピースの襟ぐりが頼りない。剥き出しの首筋も、二の腕も頼りない。なるほどな、トラファルガーが世話を焼くわけだと、キッドは陽炎を見つめながら火照ったアタマで納得した。
しかし不意に、白いワンボックスが緩やかにスピードを落としてハザードを点けて止まったので、入道雲も陽炎も見えなくなる。ピザ屋の前へ堂々と路駐したアルファードから降りてきたのは、妙竹林なサングラスを掛けた男だ。
キッドは自分でも気づかず「げ」と声に出していた。これならトラファルガーのほうがマシである。
「おいロシナンテ、早く取ってこい。転けるなよ」
「めっそうもないぜ!…ってイテェ!」
助手席から降りてきたロシナンテが店先で早速転けるのを見遣ったドフラミンゴは、炎天下の歩道で健気に待っていた猫の姿に溜め息を吐いた。
「ドフィさん!」
「ロシーが汗だくで帰ってきたとこに鉢合わせたからクルマ出した。おまえ…日陰にいろよ」
頬や額を触って熱を計るが、どうやら大丈夫らしい。手にコーラの缶を持っているのが幸いだ。
その実、猫は日陰には入っていた。斜め後ろに立っている若い男が、影になっていたからだ。ドフラミンゴはこの男と面識はなかったが、ローごしになんとなく知っていた。大体、麦わら帽子の小僧と三人集まると、ロクでもないことになるからだ。
「ウチのが世話かけたな」
「いや?別に」
「顔に似合わずヤサシートコあるじゃねェか」
「それはそっちも同じだろ」
不遜な顔にそぐわぬ不遜な口である。しかし野良犬のような若造にいくら睨まれても、ドフラミンゴはいつもの笑みを崩さない。
猫の手を握ると、行くぞと促す。「じゃあなキッドクン」と煽るように付け足して。あのオッサンには名乗ったことねェんだが?と訝しんでも遅い。
さらに、スライドドアを開けてやり、まるでお姫様でも乗せるように、猫を横抱きにして座席へ座らせるドフラミンゴが、これ見よがしに小さな唇をペロリと舐め上げた。
これは煽られている、とキッドは青筋が立つのをそのままに、奥歯を噛み締めた。他意は無かったが、ああもあからさまにされると腹は立つ。顔に似合わず、なんだって?顔の通りじゃねェか。
若造にそんなことを思われていると知ってか知らずか、ドフラミンゴは猫の顎をすくって、唇についた赤いリップを親指で拭った。コーラの飲み口にも付いているそれは、見覚えのある色だ。
「…野良犬が。虫除けが足りねえようだな」
「むし?」
「フフフ、こっちの話だ」
不思議そうに見上げてくる猫の手のひらから、やんわりと缶を奪い取る。最後にもう一度だけ、そっと口付けると、ドフラミンゴはドアをロックした。
アルファードが去って数分後──ガラガラ音を響かせてやってきたインプレッサから、呆れ顔の男が降りてくる。
「車検に出す前でよかったな、キッド」
「うるせェ。さっさと寄越せ」
「それが財布忘れた奴の態度かよ」
キラーの小言を背中に受けて、再びピザ屋の扉を開けたキッドの頸は、随分と日に焼けていた。