たまご蒸しパンの話パンは嫌いだ。小麦の味がするだけの白いそれは味気ないし、焼いてカサカサになれば口の中にいつまでも貼り付いている。そんな俺が、わざわざパン屋までついてきてやっているのだ。ドフラミンゴには後でそれなりの対価を要求してやろう。
小麦にこだわりがあるらしいそのパン屋は、目つきの悪い長身の男が切り盛りしている。うちのドラ猫のお気に入りの店で、たまに散歩がてら菓子パンやら食パンやらを買い出しに行かされるのだ。
毎回ドーナツをオマケしてもらえるから、コイツも味を占めたらしい。しかし、この猫の目的はソレではない。
ダイニングテーブルで湯呑み片手におかきを摘んでいる俺の目の前には、珍しく猫が座っていた。正しくは“ドフラミンゴがソファに座っているのに”だ。
椅子の上で膝を抱えたまま、そのちまい口で蒸しパンをもくもくと食べてはいるが、目線はリビングに向いている。正しくは“リビングで寛ぐドフラミンゴに”だが。
こちらに背を向けて座っているので、表情はわからない。どうせロクな顔をしていないだろうが。
そしてコイツも、ドフラミンゴの顔など見えなくともいつものように何が嬉しいのか、瞳をキラキラ輝かせているのだ。どうせロクなことを考えちゃいねェ。
元野良のコイツのことは誰もよくわからない。おそらく拾い主のドフラミンゴでさえも。しかしいつの間にか、最初からこの家にいた人間みたいに、するりと日常に溶け込んでいる。いつしか冷蔵庫と戸棚の中身はコイツの好物だらけになった。
猫は黄色い蒸しパンをちぎって、何やら嬉しそうに眺めていたが、俺がじっと見つめているのに気づいてこちらを向いた。
「ローくんもたまご蒸しパン、たべる?」
「いらねェ…」
「おいしいよ?ふわふわで、あまくて、いい匂いがして、かわいい」
俺の返事などに構わず、一口大にちぎったかけらを差し出される。思わず眉が寄るが、黙って口を開けてやる。…甘い。炭酸水素ナトリウムのせいで空いた穴のせいで、噛んだ気がしねェ。口の中にいつまでも残る甘味と小麦の粘りは、やはり好きになれない。
湯呑みに口を付けると、すでに猫は俺の方など向いてはいなかった。
リビングに佇む黄色いあたま。午後の日差しにきらめく金糸。整髪料の付いていない、柔らかな髪────コイツ、まさか。
「…ウソだろ」
食っちまったじゃねェか、という俺の舌打ちなどこの部屋の誰も聞いちゃいねェ。
最後のひとかけらを口に放り込んだ猫は、ぴょんと椅子から飛び降りた。一直線に向かうのは、ソファの向こうのまるくて黄色いあたま。
後ろからあたまを抱き込まれても、ドフラミンゴは動じない。この男には何もかもお見通しなのだ。
「フフ、油断した。後ろを取られるとはな」
ウソつけ、という声は飲み込む。イチャつき始めたアイツらに関わるとロクなことがない。
「たまご蒸しパンたべてた」
鼻先をつむじにくっつけてご機嫌の女は、くすくす笑いながら思い切り体重をかけている。無論、仔猫一匹にじゃれつかれたところで、大男が怯むはずはない。
「ふふ。ふわふわで、あまくて、いい匂いがして、かわいいね」
ああ、世界でおまえだけだと思うぞ。その男に“かわいい”なんて口をきくのは。俺の心の声は誰にも届かない。
そればかりか、その悪の権化みたいなその男は満更でもなさそうな顔で振り返った。珍しくサングラスをしていない。
「そりゃおまえだろう」
小さな顎を捕まえて、穏やかな声で答えて。細められた目尻には、ふわふわたまごと同じ色のまつ毛と皺がたたえられている。
なんだか見てはいけないものを見た気になった俺は、誰もいないキッチンを向いて頬杖をついた。
「ドフィさん、かわいい」
懲りずに口説き文句を口にするドラ猫が、きゃ、と小さな悲鳴を上げたところで、俺は椅子を引いて立ち上がった。膨らんでガスが抜けて何もかも腑抜けてしまえ、悪魔野郎。
口の中にまだ残る甘みを苦い緑茶で飲み下して、俺は甘い匂いのリビングダイニングを後にした。