灯りの話年末に向けて慌ただしくなるばかりで、街がイルミネーション一色であることにクリスマスイヴ当日になってようやく気が付いた。師走の汚れはあとでまとめてクリーニングに出そう。さっさとバスルームに入ってすぐに出たドフラミンゴが時計を見ると、そろそろ日付が変わろうとしている。
誰もいないリビングは静まりかえっていた。聖夜だ何だと騒ぐ大人も、はしゃぐガキもいないのだから当然だ。この家には忙しい男と、夜勤の男と、多忙な医学生と、暇な猫しかいない。
そういえばクリスマスの食べ物やプレゼントを強請らないのだな、と気が付いて、ドフラミンゴは寝室のドアを静かに開けた。予想に反して眠っていなかった猫は、出窓のキャンドルライトに照らされた顔で「おかえり」と言った。
「ロシーもローも今日は遅いようだな。寝てるかと思った」
ひとりだってわかってたらもっと早く帰ったんだが、と言い訳にもならない言葉をかけると、猫はふやふやと笑って「大丈夫」と答えた。
「クリスマスイヴは夜更かしするのがクセなの」
ゆらゆら揺れるLEDの灯を指で捕まえようとする。茶色い前髪がオレンジの光に透けてきらきらと輝いていた。思わず目を細めると、出窓の外に雪がちらついていることに気がついた。
ベッドサイドへ、静かに腰を下ろす。
「ドフィさんのとこ、何歳まで来てた?サンタさん」
キャンドルライトへ伸びる指を捕まえると、すっかり冷えていた。唇へそっとくっつけて、指で包んで温める。
「ロシーが小学校卒業するくらいまでは来てたぞ。俺はもうとっくに信じちゃいなかったが、黙っていればプレゼントを貰えたしな。ロシーはクッキーだミルクだと、枕元に置いてたぞ。…おまえは?」
何歳まで信じてた?と聞き返す。
まだ小さかった弟が、サンタクロースに手紙を書くのだと、クレヨンで大きな字を練習していたことを思い出して、ドフラミンゴは静かに笑った。
そしてふと、もしかしたらこの猫はサンタとやらをずっと信じているのかもしれない、と思いつく。その証拠に、指へ口付けられても窓から目を離そうとしない。
ドフラミンゴは人知れず口角を下げた。しかし猫は、曇る窓ガラスを見つめたまま、ぽつりと口を開く。
「クリスマスが終わって、友達と『サンタさん、来た?』って話すのがね、ちょっと怖かったんだ」
こわい、と滅多に言わぬ口が解けるのを、男は静かに聴いている。
「誰かの家に行くのをサンタさんが忘れてて、『うちには来てない』っていう子がいたらどうしようって。小学生のときにね、転校してきた子がいてね。その子が引っ越したこと、サンタさんは知ってるのかな、って」
ふわふわと粉雪のように舞い降りては溶ける声が、静かなベッドルームへ響いた。ほとんど溜め息のようなそれを、男はまだ相槌も打たずに聴いている。
「だから、サンタさんに『みんなのところにプレゼントを配り終わってから来て』って言うために、クリスマスイヴはずっと起きてたの」
もちろんいつも寝ちゃってたけど、と溢して自嘲する声もつめたい闇へ溶けた。窓ガラスから冷気がシンと降りてきて、猫の指先を、鼻先を冷やす。
ドフラミンゴは布団ごと、小さな身体を抱き込んだ。
「何歳まで来てたのかな。覚えてないや。世界に子どもはたくさんいるから、きっとわたしにプレゼントが届くまえに、夜が明けちゃうんだね」
──だからもう来ないの、サンタさん。
ふわりと振り返った顔は、言葉に反して随分と嬉しそうだった。ああ、頬が冷たい。自分の番がこないように朝を待つ子どもがそのまま大人になって、こんなところで冷えている。
ドフラミンゴは喉の奥へ甘重いものがわだかまるのを無視できず、ついに「う」と喉を鳴らした。曇りガラスの向こうでぼやける街のイルミネーションが、まるで別世界の灯りに見えた。身体は湯冷めしていたが、胸の奥はひどく熱く、苦しかった。
「…マヌケなまでにお人好しだな」
──呼んでやろうか、サンタ。
それでもなお、いつもの声色で言ってみせる男は、半分くらい本気である。自分のもつ財力や権力や人脈を駆使すれば、サンタらしきものなどいつでも手配できる。カネにならないからやったことはないが、おそらく簡単だろう。
ふわふわの掛け布団ごと、愛しい主人の胸へ掻き抱かれた猫は、肩まですっぽりくるまれておとなしくしている。冷えた鼻先を逞しい首筋へくっつけると、やはり冷たいのかそこがぴくりと震えるのがかわいい。
そう、かわいいのだ。このひとはいつも。
いつも傍にいるのは、なんでも与えてもらえるからではないのに、そうだと決めつけている。何かを与えて満足させないと、いつか離れていくと思っている。
そういうところが、かわいいのだ。猫はとっくに知っていた。
伸びあがっておとがいにも鼻先をくっつける。頬へ擦り寄ると、湯上がりの体温がわずかに残っていた。なめらかな素肌は闇夜にも美しい。この可愛らしく美しいひとがいるだけで、何も要らないというのに。
うすい耳朶へそっと唇を当てた。
「じゃあサンタさんが来たら、『ドフラミンゴくんのおうちにはもう行きましたか?』って聞くね」
「……………、」
「そいつは嬉しいね」とか「なんだそりゃ」とか、相槌なんてなんでもよかった。それでも喉から出たのはパウダースノーみたいな溜め息と、少しばかり早くなった心臓の音だけ。布団のぬくみで暖められた猫が、「ん」とあえかな声を漏らすので、つい口が滑る。
「…一緒の家なんだから、向こうも一緒に持ってくるだろ」
言葉にしてみて、ドフラミンゴはひどく後悔した。
ここはイルミネーションに輝く街じゃない。ドフラミンゴが日陰から指を伸ばすと、太陽がそれを容赦なく焦がしていく。そこへ何も知らぬいきものを引きずり込んで、絡め取って、閉じ込めて。それがどんな罪になるのか知らないが、きっと地獄に堕ちるのだろう。ここへ居てくれと縋ることもできず、麻薬のような菓子を与え続けている。
そんな悪魔の手口など知らぬ顔で「それもそうだねえ」と呑気に宣う唇を、無理矢理塞ぐことなどたやすいと言うのに。
「…ドフィさん、寒くなっちゃう」
お布団入ろう?と、広げられた柔らかな布。ドフラミンゴは指先ひとつ動かせぬまま、ぬくみに包まれた。そちらの世界へ身体だけをひたすと、心地のよい温度が自分のせいで次第に冷えていくのが耐えられない。
「わたしたちに、サンタさんは来ないの。でも、それでいいの」
冷えた指先で頬を包まれて、男はサングラスの奥で目を閉じた。たまらず両手を自分のそれで包む。真っ暗闇でも、二人なら少しはぬくみを維持できる気がした。
「おまえは、」
どうして俺のそばにいるんだ、と口を開きかけた男は、それを呑み込むかわりに目の前のいきものへ口付ける。息を、欲を、渇望を吹き込んで、身体の内側からあたためて、穢して、育てて。こうすることが精いっぱいであった。
手荒に暴きたくない。そのひと押しをしないような遣り口で満足させていたのに、粉雪のように扉から漏れ出るそれを「きれい」とおまえが笑うから。
なめらかな口内をそっと舐め取って、ドフラミンゴはしろい身体をシーツへそっと横たえた。
「…きれいだ、世界のなによりも」
縋るような声色を、キスの合間に猫は聴いただろうか。今夜はしっとりと瞳を閉じているのがもどかしくて、ドフラミンゴは鼻先にそっと擦り寄って願う。俺だけを見つめてきらめいてくれないか、と。
街の灯りを締め出した暗い部屋。サングラスに反射したオレンジの光だけが聖夜を称えていた。