猫の手を借りた話馬子にも衣装ならぬ、ニートにもオフィスカジュアルだなと、ヴェルゴは感心した。無論、心がいたく動かされたのは旧友のセンスの良さにである。
「おさらいするぞ。挨拶したらどうするんだ?」
「名刺をもらってパンフレットを渡す」
「上出来だ」
トレードマークのピンクのコートは本日休業。スーツにネクタイという珍しい出立ちのドフラミンゴには、普段のカジュアルな姿とは打って変わって洗練された美しさがあった。ヴェルゴも今日はシャツの腕を捲らずに、相棒から贈られた揃いのブランドのネクタイを締めている。
──ここはドンキホーテグループの本社ビル。代表のドフラミンゴがいるのは当然であるが、今日はどうしようもない事情があって、普段この時間はドフラミンゴ家のリビングでドラマの再放送を観ているドラ猫が連れて来られていた。
『相棒…ベビー5が風邪を引いたそうだ。頼りになるモネは今日、妹の学校の行事で有給。不本意だが奥の手を使う』
今朝、額に手を当てたドフラミンゴがまだ寝ぼけた顔の猫を連れて出勤してきたときは、さすがのヴェルゴも驚いた。しかし生憎と、ドンキホーテ社の社員には皆、毎日きっちりとタスクが割り当てられていて、今さら「誰でもいいから受付に立ってくれ」と言える状況でもない。愛想よく挨拶ができてパンフレットを渡せるなら誰でもいい、できれば女子、という条件に合致したのが、不本意ながらこの猫だったというわけだ。
渋い顔をしている旧友に、B to B、しかも付き合いのある企業しか来ない説明会なのだからいくらなんでも大丈夫だろう、とヴェルゴは口添えした。普段家でぐうたらしている猫だが、確かに愛想くらいはある。下手なことを喋らせなければ、バカには見えない。そして──
「パンプス、痛くねェか?絆創膏貼るか?」
「ん、だいじょうぶ」
出勤してきたドフラミンゴの手にはブランド店のショッパーが提げられていた。コーラルピンクのカットソーに、クリーム色のジャケット。くるぶしが見える丈のパンツに、ヒールの低いパンプス。ゆるく巻かれた髪とナチュラルメイクは、全てドフラミンゴのプロデュース。見た目だけなら完璧である。
ただまあ、愛猫の靴擦れを気にして、膝をついて甲斐甲斐しく確認している代表取締役の様子を誰かに見られたら、色々と誤解される可能性はあるが、この際仕方ない。
「今日、ワニさん来る?」
アキレス腱やら踵やらを摩られながら、猫は小首を傾げる。
「フフ、来ねェよ。アイツは出張だ」
口の端を吊り上げたドフラミンゴの顔には、ざまあみろと書いてあった。
ここにいない者を牽制しても意味がないと思うし、何でライバル会社の社長のスケジュールを把握しているのかという疑問は野暮だが、その確証があるからこの猫の手を借りることにしたのだろう。今日は珍しくトラブルの心配は無さそうだ、とヴェルゴは二人を見つめた。
そしてドフラミンゴもヴェルゴもみんなホールに入ってゆき、外の入り口が開く。
知らない人だらけだけど、ほぼコンビニの店員と来店客レベルのコミュニケーションしか必要ないな、と猫はパンフレットを手渡しながら思った。挨拶以外を口にする人はいないし、ほとんど目も合わないので、人見知りする隙もない。それに、もうじき時間になるからきっと誰も来なくなる。
案の定、開始時間の5分前には人の出入りがほぼなくなり、1分前にはホールの扉が閉められてしまった。
用意されたパイプ椅子に腰掛けた猫は、もらった名刺と残ったパンフレットを整理しながらぼんやりしていた。ホールの中からは、マイクで話すドフラミンゴの声が漏れている。しかし「いい声だなぁ」とホヨホヨしていると、急に目の前が暗くなった。
「あらら、見たことない子がいるじゃない。何?新人?いくつ?」
説明会のプログラムは半分以上過ぎていたが、当然の如く名刺を出されたのでパンフレットを手渡す。珍しく、ニンゲンと目が合った。
「あ…」
おっきいひとだ。猫は首を後ろに反らせて目を丸くした。ヨレヨレのシャツにジャケットを羽織った男の胸ポケットからはアイマスクがはみ出ている。
「…もう、始まって、マス」
「あー…そうだなあ。なんだ、その…うーんと、あー………まあ、いいか」
嬢ちゃん、何か飲む?
まだプログラムが終わるまで30分はある。猫はとりあえず、このままだと首も足も痛くなりそうなのでパイプ椅子に座り直し、「ハイ」と答えておいた。
+++
滞りなく全ての進行が済んで、ホールの客たちと共にロビーへ出てきたドフラミンゴは、見送りもそこそこに受付に向かった。急に駆り出して悪かった、とか、ご褒美に何がほしい?とか、おまえは何着てもカワイイな、とか、言うことはたくさんある。
しかし、パイプ椅子に腰掛けるクリーム色のスーツ姿の猫の隣に、ここ3ヶ月ほど顔を見ていなかった男が腰掛けていたので、ドフラミンゴは思い切り顔を顰めた。
あいつ、よりにもよって何で今日来やがるんだ。とは言わない。
「…フッ、フッフフフフフ!おいクザン、久しぶりだな」
青筋を立てつつも、つとめて爽やかかつ物腰柔らかに声をかける。その声に、猫の耳がぴょこんと反応して、きらきらの瞳がこちらを向いた。
「ドフィさん!」
勢いよく立ち上がった猫だったが、慣れないパンプスのせいで体勢を崩す。しかしドフラミンゴが腕を伸ばすよりも、隣に座っていたクザンが手を伸ばしたので、床とキスすることは免れた。…そのかわり、
「ちょっとちょっと、危ないじゃない。お転婆なのもカワイイけど、気をつけなよ」
「ん、ありがと、ゴザイマス」
腹に腕まわしてんじゃねェぞ助平オヤジが。というか腰を撫でるな。いつまで触ってやがる。
ドフラミンゴは笑みを顔に貼り付けたまま、こめかみをひくりと動かした。クザンに支えられて床に爪先をつけた猫は、ぽてぽてと転がるような音を響かせてこちらへやってくる。腰にぎゅうと抱きついてくる頭を撫でると、見知らぬ香水の匂いがした。
「フフ…何もされなかったか?」
「ウン。カフェラテもらった」
「…されてんじゃねェか」
「ちょっと、人聞き悪くない?」
軽口を叩いてはいるが、クザンは内心驚いていた。受付にいる若いコがちょっと可愛かったし暇だったから声をかけただけなのに、あのドンキホーテ・ドフラミンゴは随分とご執心らしい。妹か?いや、ロシナンテからそんなエピソードが語られたことはない。娘?隠し子?まさかな。
「──へェ」
眠そうな目が剣呑と輝くのを見て、ドフラミンゴはついに口をへの字にした。今日はピンクのコートがないから猫を中へ隠せない。せめて自分の背中側にくるりとまわして、洞察眼だけは氷のように鋭い男を睨みつけた。
「こんな可愛い子がいるんなら、次もサボらず顔出しちゃおうかなァ」
「フフフフフ…残念だがコイツは今日限りだ。もうおまえに会うこともないし会わせる気もない」
しかしクザンの目は、代表取締役ではなくすっかりただの男に戻っている“天夜叉”──の後ろで、呑気に欠伸をしている女に向いていた。どおりで地に足がついていないような、フワフワした受け答えだと思った。なるほど、あれは複雑なゴカンケイってやつね。
聞くのも野暮だし、馬にも蹴られたくないが、これは面白いものを見つけたと、青雉の瞳はアイスブルーにきらめくのだった。