ハイネ少年はノックの音で目を醒ます。
覚醒したにもかかわらず、いまのは幻聴だとまっさきに思った。または、まだ夢の世界であるのかもしれない。そうでなければ困る。かりに人の立てた音であるなら、それの神経がまともであるわけがないのだから。
しかし続いて解錠の音があたりに鈍く響いた。廊下の照明光を背に連れた侵入者は堂々と部屋に入り込む。後ろ手で扉を締め、手探りになって進み、やがて人の布団を無情な手つきで引き剥がしてしまった。そして寝台のはじに腰をかけると、まだ寝台に沈んだままの相手の肩に手をかけ、その真っ黒い目を見開き暗闇に滲む白い顔をまじまじ見てから、心のそこから嬉しそうにわらって、「Heureka!」
――あ 寝るときはピアスしてないんだ?
続いた素朴な疑問である呟きといえば日本語で、耳には届けども理解できるものではなかった。
ただ、いずれにせよ、すなわちそれがドイツ語だろうが。必然の問いであろうがなかろうがいっそ誰の問いでもその内容ですら、いまこのときのハイネにとってはまったくどうでもいいことだ。なぜならどの質問にもかれはこう答えるはずだから。
「…………いま何時だと思ってんの」
そのとき、ドレスデンは丑三つ時であった。
*
「覚えてませんか」
侵入者あらため日本人の少年は口を開く。その声は冷たいようでいて熱っぽい。アンビバレントのさなかにあり、また声変わりただなかであるこの声は、まっくらい部屋でいやに響いた。かれは自分の喉からそんなあまりに情熱を御しきれていない音が出たのが信じられないと思った。それで一度咳払いをして鹿爪らしい顔を作ってからこう続けた。「あんたおれに『ドレスデンに来い』って言ったの。だから来ました。おれとコンビ組んでください」
「寝起きに2年前のこと思い出させるの酷とか思わない?」
「すいません、ドイツ語の勉強はしたけど、あんまり難しいこと言われるとわからないですよ」
あっけらかんと流暢に出てきたその言葉が皮肉かそうでないのか、寝起きであるハイネにはどうにもよくわからなかったし、どうでもいい。もしやいまの状況はもう一度目を閉じれば消える類のそれじゃないかと思いかけるも、その気配を察してか、無防備に投げ出されていた手を、はしっ――もしくはひしっと掴んできたかれの手の温度で目が冴えた。「たしかに、まあ言ったような、気も、すんね」これはその場限りの言葉ではない。
叩き起こされた頭で(些かの逆回転をしながら)遠い記憶をたぐり寄せていま思い出した。理解した。言っていた。自分の口で。目の前にいるやつと同じくらい、もしくはもっと浮かれた調子で、ドレスデンに来なよって――たしかに、言った。「マジで来るとは思ってなかったんだって」
む。「本気じゃなかったってこと?」
「そうは言ってないじゃん。いや、せめて連絡してよ、びっくりしただろ」少しは眠気がさめてきた。ほんの少しだけ。瞼はまだ重い。「ぜったい口止めとかしたよね? そうじゃなきゃ今日まで監督からなにも言われないなんてことあるわけないんだから。オレ当事者でしょ? なんでサプライズにしたの?」「えへへ」「えへへじゃなくて‥‥」少年にまったくめげる様子も反省もなさそうだ。その顔には高揚しかない。まさに、喜色満面といったところ。
「ほんとにオレとコンビ組むためだけにきたのかよ」ねえ、それってすっごい行動力! 揶揄する響きがうまくいかなくて揺蕩うに留まり、ただ褒めているみたいになってきまりが悪い。
「そうですよ、片桐さん――ああ、サポーターみたいな? 合ってるのかな、この表現で、まあその人に相談して、留学プログラムに行けるように、勉強も、サッカーも、頑張って」
「ふーん」
掴まれていた手を動かしてみればあっさりと外れる。押さえつける意図はなくただ触れていたいみたいな、殊勝というか、まあなんとも女々しいというか、かわいいんだか憎たらしいんだかわからない力加減だったのがわかった。
そのまま顔にこそふれてみれば、かつての23番は、大げさなくらいびくりと震えたけれども逃げなかったから、それをいいことに指の腹でそっと頬をなぜた。「あっ?」かれはいよいよ驚いて目を瞬かせる。
「なんだよ、ちょっとかわいいな」
焼けた頬が赤くなっていくところが、まだ深い眠気に澱む暗闇のなかでやけにはっきり見えた。
なにか期待したような熱っぽい視線に絡めとられかけて類焼が生じかけ、ハイネは首を振ってそれを振り払わなければいけなかった。