再会 時がきた。時がきた。
トランペットが鳴り響く。
世界中に聞かせるように高らかに。神の再臨にふさわしく清らかに。
起きなさい。起きなさい。
土の中で眠るすべての人に命じるかのように厳格に、天使の演奏はいつまでもどこまでもつづく。
「……お……て…………」
ふと、別の音が混ざりだした。
「……き……て……おき……」
人の声だ。
あたたかくて、やさしい。なつかしい声。
ぼんやりした意識に浸透するさまは、まるで雨が大地に染み込むよう。
そしてついに、小さな花が咲くように言葉になった。
「おきて」
アンドルーがゆっくりまぶたを開くと、目の前に女の顔があった。
懐かしい。その微笑みも、こうやって優しくゆすり起こされるのも、すべてが懐かしい。
たゆたう意識の中、アンドルーは優しい眼差しに問う。
「かあ、さん……?」
「アンドルー!」
母なる女はたっぷりと両腕を広げ、我が子を抱きしめた。
「また会えてよかった。本当によかった。ああ、アンドルー。こんなに大きくなって……」
ふたりの年齢はさほど変わらず、母子というよりは姉弟だ。アンドルーの背は母よりずっと大きいから兄妹に見えなくもない。
しかしどんなに大きくなろうが年の差がなくなろうが、自分の子であるという思いは変わらないのだろう。母はアンドルーの頬を両手で包みこみ、見守ることができなかった成長をじっくり慈しんだ。
「母さんが、どうして……僕は、一体……」
いまだ状況が呑み込めないアンドルーに、母はせつなげに微笑んだ。
「あなたは死んだのよ」
「僕、が?」
と聞いてから、アンドルーはすべてを思い出した。
その異常に強張った表情から、母は息子の若すぎる死の原因が病気や事故でないことに気づいただろう。
しかし優しさからか、それとも再会できれば何でもいいのか、なにも聞かずに頷き「そして蘇ったの」と嬉しそうに付け加えた。
「さあ、行きましょう」
「行くって、どこに?」
子どものように手を引かれながらアンドルーは訊ねた。
「神様のところへ」
「それって……天国?」
「に、行けるといいね」
アンドルーはうつむいた。
母はまっすぐ前を見て歩きつづける。
「ねえ、母さん」
「なあに、アンドルー」
「煉獄って、知ってる?」
「ええ。償いきれなかった罪を清める場所よね」
「それってあるのかな」
「どうだろう。審判は始まっているから、ないんじゃないかな」
アンドルーは深くうなだれた。
トランペットの音がよりいっそう大きくなる。
「僕、人を殺しちゃってさ」
不意に、子どもが友だちと喧嘩したことを親に告げるような調子でアンドルーは言った。
「わざとじゃなかったんだよね?」
同じような調子で母は返した。
うん、とアンドルーが小さく頷く。
「生きようとしたの?」
「そう……だけど、死ぬためでもあった」
「死ぬため?」
「どうしても天国に行きたかったんだ。それで……」
「……そんなに天国に憧れていたのね」
「だって、母さんもいるし」
母に不足があったわけじゃない。誤解を解きたかったが、恥ずかしさもあったのだろう。アンドルーの言葉は不貞腐れているみたいになってしまった。
けれども母は「あらあら」と嬉しそうに笑って、昔と変わらずさびしがり屋であることをよろこんだ。
「親子だね」
アンドルーと離れたくなかったから、誰になんと言われようとそばにいてほしかったから、神の教えに背き春をひさいでいたことを思い出し、母は言った。
アンドルーは思わず笑ってしまった。がっかりされると思っていたぶん、おかしかった。他人から理解の得るのと同じぐらい母に嫌われるのは難しいだろうな、と胸があたたかくなる。この温もりもまた、懐かしかった。
「神さまにきちんと謝った?」
「うん……。毎日、何度も」
「それなら大丈夫だよ」
「無理だよ。“誠意”が足りない」
アンドルーの手から力が抜けた。
「アンドルーが天国に行けないんじゃお母さんも行けないわね。悪いことしたなんてちっとも思ってないんだから」
母は抜け落ちそうなアンドルーの手をぎゅっと握りしめた。
「巡り会えたことを、一緒にいれることを、喜びましょう」
そう励ます母は震えていた。しかし、口調と、手にこもる力は強かった。
親子は歩く。神のもとへ。
裁きを受けるために、審判の列に並ぶ。
天国に行けるのは極わずかだというのは本当だったようで、ほとんどの人が罪人の判決を下され地獄に堕ちていった。
絶望の叫びに裁きを待つ人々は恐怖した。地獄に行きたくない、といまさらになって熱心に祈ったり懺悔をしたりするヒトの群れの中で、アンドルーは平然として見えた。痛みと苦しみが日常であった彼にとって地獄とは今までとさほど変わらないもので、特に恐怖を覚えるところがないだ。ゆえに「天国に行きたかった」という遺憾にしか浸かれない。
それは幸福なことなのか、不幸なことなのか、母は考えた。
けれど答えを見つけるより先に、自分の番がきてしまった。
「行ってくるね」
ずっと繋いでいた手を名残惜しそうに離し、母は神の前に出た。
大天使の天秤に、母の魂と罪がのせられる。
ゆらりと揺れる間もなく沈んだのは、魂をのせた皿だった。
神から祝福を与えられ、母は唖然とする。自分は間違いなく神に背いたのに。どうして。まったく理解できなかった。
「母さん!」
喜びに叫んだアンドルーが、母に駆け寄り抱きしめた。
よかった。よかった。本当によかった。すすり泣きながら強く強くしがみつく。母の行いが「善」と認められたことを、自分のことのように喜んだ。
アンドルーの涙に、ようやく母は我に返った。子どもをあやすように、息子の白い髪を撫でる。
「大丈夫。神様は正しく審判してくださるわ」
さあ、行ってらっしゃい。と息子の善良性を疑うことなく信じて、母は神の前に出るようアンドルーの背中を押した。
正当のある罪は赦される事実はアンドルーに大きな希望を与えた。だが、安易に安心したりはしなかった。自分の犯した罪はどうだろう。人を殺したのも、死体を盗掘したのも、神の名を借りて人々を陥れる教会を愚直に信じてしまったからであり、そんな奴らを愚直に信じてしまったのは敬虔な信者ゆえである。これに正当はあるだろうか。アンドルーはひざまずき審判を願った。
大天使の天秤に、アンドルーの魂と罪がのせられる。
ゆらり、ゆらり、ゆらり、ゆらり。
ゆらり、ゆらり、ゆらり、ゆらり。
天秤の皿は上がったり下がったりを交互に繰り返す。
ゆらり、ゆらり。
ゆらり、ゆらり。
善と悪、どちらが重いであろうか。アンドルーは粛々と、悩ましげに揺れる天秤を見守った。
ふたつの皿の高低差が、徐々にせまくなってゆく。
ゆら、とついに揺れが止んだ。
沈んだのは、罪をのせた皿だった。
「そんな……!」
母は叫んだ。
「神様、なぜですか。どうして私の罪が赦されて、アンドルーの罪は赦されないのですか?」
頭をたれたままのアンドルーを抱きしめながら母は訴える。
「私にアンドルーが必要であったように、アンドルーには救済が必要でした。どれだけ必要だったか、神様、天から見ていたあなたなら、この子のお祈りを毎日聞いていたあなたなら、よくご存知でしょう? この子は好きで人を殺したのではありません。あなたを信じているがゆえに罪を犯したのです。私と同じです。神様。あなたを信じれば救済を与えてくれるとおっしゃってくれたではありませんか。私よりもこの子の方がよっぽど貴方を信じて、自分の罪だって認めて悔いているのに、それなのに、ああ、なぜですか……どうしてですか……」
神は何も答えてくれない。ただただ厳格な表情を浮かべている。
それでも母は問いつづけた。いったい自分の何が善くて、アンドルーの何が悪いのか。もういいからとアンドルー本人達に止められても、恐れもなく抗議しつづける。
母の感情は激しさを増してゆき、今や楯突いていると表現しても過剰ではない。それでも神は黙したままであったが、護衛のような天使たちが動きだして母をアンドルーから引き剥がした。やめて! という悲痛な叫びは何の力にもならない。
「私に救済を与えてくださるのならば、どうかお願いです。アンドルーも一緒に天国に連れてってください」
母は自分を天国へと導こうとする天使の振りほどき、アンドルーを地獄に連れて行こうとする天使の足にしがみついた。お願い。この子を連れて行かないで。私がこの子の代わりに地獄に行きますから。炎でもなんでも罰を受けますから。だからどうかお願いよ。アンドルーを天国に行かせてあげて。噂と悪意に奪い取られた幸福をこの子に与えて……! ずるずると引きずられながら必死に懇願する。けれども、天使も神も、何も応えてくれない。アンドルーを地獄に落とすべくどこか機械的に断崖へと向かう。
「母さん」
いや、いやと泣き崩れる母とは反対に、天使に拘束され断崖に立つアンドルーは落ち着き払っていた。
「ありがとう」
アンドルーは微笑みのまま地獄に投げ込まれた。
「アンドルー!」
母は立ち上がり、迷うことなく断崖に身を投げる。そして我が子を炎から守ろうと両腕を広げて、地獄へと落ちていった。