続ビューティフルドリーマー ② もう、彼の事は乗り越えたと思っていたのに―――。
不二の家から自宅に帰るとゆりは早々に夕飯を済ませ、お風呂に入ることにした。
風呂は、考え事をするのに良かった。
誰にも悟られず、一人で考えを整理することができる。
国光がいなくなってから、私はずっと心に鉛を隠したままでいる。
彼と別れた時はそれこそ、笑顔で送り出すことが出来たが、その後はひどいものだった。
今でも手に取るように、あの時の感情を覚えている。
幸い、高等部になっても中等部からの持ち上がりがほとんどだし、知っている友達もクラスにたくさんいたから、友人関係には悩まなくて済んだ。
でも、みんな知ってた。―――私と国光が、別れた事を。
当たり前だ。生徒会長で、男子テニス部の部長で、成績優秀で品行方正。その上ルックスも良い。そんな人と付き合ってたんだもの。でも別に、彼の肩書があったから私はあの人を好きになったんじゃない。全部、後から付いてきたものだ。
私は中学の間、ずっと国光のことが好きだった。ずっと。―――今でも。
周助は私が国光のこと好きなままでもいいって言ってくれた。
そんな周助に、私は救われてた。穏やかに優しく包んでくれる周助に。好きだよって言ってくれる周助に。
間違いなく、私は彼に心の傷を癒してもらうことができた。
今は、周助のことが好き。
でも、私と国光は、一つの賭けをした。
―――三年経っても、二人が同じ気持ちだったら、結婚しようって。
(あ、のぼせそう…)
そこまで考えて、ゆりはお風呂を出た。このままだと確実にのぼせてしまう。
(周助も国光も好きって、私…どうしようもない。最低)
手塚のことはもう、一生、これ以上好きになれる人はいないだろうと判るほど、ゆりの中で手塚が全てだった。
けれど、そんな彼と別れることにして、隣でずっと支えてくれた不二に情が移るのは当たり前のことだった。
それだけ、この三年という年月は大きかったのだ。
どんなに手塚のことを思っていても、手塚はいない。悲しみと寂しさは増していくばかり。だからほんの少しだけ、目の前の優しさに甘えたくなってしまう。だってもう、手塚との関係は終わっていたのだから。たとえどんなに手塚のことを思っていたとしても。
「やだな……もう。ずっと悩んでばっかり」
(もう悩むのは嫌だ。私は散々国光には悩まされたんだ。だから、もうやめよう。
周助を好きなままで何がいけないのか。何一つ他人から後ろ指差されるようなことはしていない。
何が結婚よ、向こう行ってから一回も連絡してこなかったくせに。それなのに周助や跡部くんとは相変わらず連絡取ってたくせに!
そもそも、国光が海を渡ってから、一度も連絡してきたことはないんだ。
それなのに、他の人とは連絡を取っていることも知っている。
私にだけ、連絡がない)
「国光が帰ってくるからって、別に何も変わるわけじゃないもの。逢わなければ、それでいいんだから」
自分に言い聞かせるようにわざわざ声に出した。
風呂を上がって部屋に戻ると、洋服箪笥に自然と視線が向かう。
白くて女の子らしいデザインのこの箪笥がゆりはお気に入りだった。その箪笥の一番上の引き出しに、「それ」は入っている。
ゆりは箪笥に手をかける。引き出しをそっと引いた。
そこには、卒業式で手塚からもらった青学レギュラージャージの上着と、ガラスのシャーレの上に置かれた指輪があった。
何一つ変わることなく、3年前からずっと今もここにある。
(何度も何度も考えた。こんなものを渡して、国光は何を考えているの? だって、指輪よ?このレギュラージャージだってそう。
これじゃまるで、)
「これじゃまるで、国光の気持ちは絶対に変わらないって言ってるようなものじゃない」
ゆりはレギュラージャージを手に取り、それを胸に抱きしめた。次々に思い出が昨日のことのように脳裏に蘇る。
初めて国光と会った日。三年間一度も同じクラスになったことはなかったから、部活で。
初めて一緒に帰った日。部活で遅くなったから、途中まで送るって。
初めてキスをした日。突然の夕立でびしょ濡れになって、雨宿り出来そうだった校庭の隅にある木の下で。
それから、初めて国光に抱かれた日。
世界に私達だけしかいないんじゃないかって思った。幸せなのに、泣きたくなるほど切なかった。
ぽろ、と涙が一粒の零れる。
まだ、こんなに覚えてる。
こんなに鮮明に、昨日のことのように蘇る。
どうしてこれを私に置いていったの?
どうして、指輪なんか渡したの?
あれからずっと一度の連絡もないのに、どうして私は、まだ国光のこと待ってるの?
この3年間、何度呟いたか、わからないその言葉。
「会いたいよ…国光……」
遠距離恋愛が辛くて、もうあんな苦しい思いが嫌で、彼と別れることを決めたのに、結果は同じだった。
だって、まだ忘れられてない。ずっと何一つ変わらず、国光のこと思ってる。
「雑誌なんか見るんじゃなかった…」
こんなに心が乱されるなら、国光の写真なんか見たくなかった。そしたら、今までと何も変わらず周助のこと好きでいられたのに。
こんな気持ちで周助と付き合い続けるなんて出来ない。私がどうかじゃない、周助に対してひどすぎる。
自分で自分にひどく嫌悪した。
突然、ピピピピと、電子音が鳴り響く。スマホのディスプレイに表示された名前は、【周助】だった。
ゆりは一瞬この電話に出るかどうか逡巡した。でも、出ないのも変だと思い直し、通話をスライドする。
「はい。なぁに? 周助」
「あ、ゆり? ごめんね、僕、途中で眠っちゃって」
「大丈夫だよ、気にしないで。私も何も言わずに帰っちゃってごめんね。周助、ぐっすりだったから、起こしちゃかわいそうかなって思って」
「ありがと。平気だよ。ねえ、もう少しこのまま話してても平気?」
「あ、う~ん…。私、ちょっと英語の勉強したいの。今週中に覚えておきたい英単語、進んでないんだ」
「わお、真面目だね。感心しちゃいますよ」
「それはそうですよ。持ち上がりとはいえ、一応受験生ですから」
「わかった。…じゃあ、また明日ね」
「うん、ごめんね。周助」
「いいよ。じゃ、おやすみ」
「うん。おやすみ」
向こうが電話を切るのを確認してから、ゆりはスマホを置いた。
勉強したいなんて嘘だった。不二にはたぶんあのテニス雑誌を見たことはバレてないはずだから、信じたはずだ。
今日はもう他のどんな人とも話す気分になれない。こんな相談、友達にだって出来ない。
(国光が帰国するのは、春先だって書いてあった。向こうのハイスクールを卒業してからだって。てことはまだ半年はある。でももう…だめ。もう嘘付けない。…国光のこと…忘れられるわけなんてない)
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通話終了をタップして、不二はスマートフォンを机の上に置いた。
はあ、と小さくため息をついてから、視線を本棚へと移す。
―――自分が入れた場所とは違う。あの雑誌。
ということは、十中八九、取り出したのはゆりだ。というか、他にいない。不二はやり場のない憤りを持て余して、髪の毛を乱暴に掻いた。。
(今の電話の感じからして、読まれたな。これは)
ゆりの様子は、普段と変わらずといえばそうだった。でも自分には解かる。嫌でも解かってしまう。いつもとは違う、ちょっとした違和感に。
「―――最悪。」
なぜ、もっと彼女の目につかない場所に置いておかなかったのか。なぜ自分は眠ってしまったのか。思うところは多々あった。
(ゆり、動揺してた。もう少し様子を見てみるか…。今頃泣いてないといいけど)
不二はそう考え、ベッドに潜り込む。少しだけ彼女の残り香がした。
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「他校に進学したい? どうしたんだ、急に」
数日後、ゆりは担任の男性教師がいる国語科教務室に居た。
昼休み、お弁当を早々に食べ終え友人たちとのおしゃべりも切り上げ、ここに来たのだ。
担任に進路変更のことを相談しに。
「姫野は青学の大学部にそのまま上がるつもりだったんだろう?」
「そうなんですけど…でも、やっぱり違う大学にも興味が出て来て。中学からずっと青学だったし、大学ぐらい違うところにしてもって」
「んー、まあ実際、お前みたく大学は他の私大や国立大に変えたいっていう奴も結構いるよ。でも…今から受験勉強始めるとなると、結構無理しないとなぁ…」
「わかってます。もう夏休みも終わったし勉強始めるには遅いってことも。とにかく私、今から受験勉強始めます」
「それで、具体的にどこを志望校にするんだ?」
「…氷帝とか、立海とか…」
「うーん、それならなおさら頑張らないとなぁ、厳しいぞ。実際、うちより偏差値は高い。それなら滑り止めも受けろよ」
担任は少し困ったように眉を寄せ、棒立ちのままのゆりを見た。
「まあ姫野がそう言うならやりたいようにやってみなさい。またなんかあれば相談に乗るから」
「はい、ありがとうございました」
ぺこりと一礼し、ゆりは国語科教務室を出ると、教務室を出た廊下で大石秀一郎に出くわした。
大石とは3年の今年、初めて同じクラスになった。中高合わせて6年間もあったのに、今回が初めてだ。
「お、姫野。なんだ、お前も先生に用事だったのか?」
「うん…ちょっと。ね、大石。少し相談があるんだけど…。いい?」
「ああ、もちろんだ。なら先にテラス行っててくれるか? 俺も用事済ませたらすぐ行くよ」
「ん、わかった。待ってるね」
大石は医学部志望で、青学ではなく他校受験組だから、相談する相手にはこれ以上ない人物と言える。
ゆりは先に一人で校舎の1階にある食堂が併設されたテラスに向かった。
食堂には昼休みの喧騒が漂い、生徒がたくさん居る。自販機で缶ジュースを2本買うと、空いていたテーブル席のイスに座って大石を待った。大石にはカフェオレ、ゆり自身はアロエ果肉入りのアロエジュースだ。
しばらくそこでぼんやりしていると、大石が小走りでこちらに向かってくる。
「はい、これ私のおごり」
「お、いいのか。サンキュー、姫野」
大石もゆりの隣に座り、缶を開けた。
大石はゆりと不二が高1から付き合い始めたことをよく知っているし、ゆりにとってこの面倒見がよく成績もいい彼は、同い年ながら兄のような印象も持っていた。
「それで、相談って何だ?」
「大石、他校受験でしょ? 私もそうしようと思って」
「え? お前はこのまま持ち上がり組だっただろう? 急だな。今から勉強始めるのか?」
「うん。だから、なんかオススメの参考書とかあれば教えてもらいたいなって」
「いや、その前に、何故だ? なにか理由があるのか?」
「…やりたいことが出来たの。それに私たち、ずっと青学でしょ? ずっと同じところに通い続けるのも悪いことじゃないって思うけど、でももっとチャレンジしてみてもいいんじゃないかなって」
「その心意気は認めるけど…それで、志望校は?」
「…立海。か、氷帝」
「どっちも青学よりレベルが上じゃないか。不二にはこの事、話したのか?」
「…話してないよ。さっき先生に言って、それから、大石が初めて」
「…あのなぁ姫野。こういう大事な事は、俺じゃなくてまず不二に話すべきだろう。不二が知ったらなんていうか…。あ、それに姫野知ってるか? 手塚が来年帰国するそうなんだ。また青学に通うかもしれないって言ってたぞ」
ドクン、とゆりの心臓が大きく鼓動を打った。
手塚・帰国・青学――――。
言葉の羅列に目眩がしそうだった。
「それ、大石は手塚から直接聞いたの?」
「ああ。そうだけど…」
そこで大石はハッと気づく。ゆりには、手塚からの連絡が入っていないのだ。
「姫野、答えたくなかったら答えなくてもいいんだけど…。あれから、手塚とは連絡取ってたりするのか?」
ゆりは小さく首を左右に振った。
「全然。一切取ってないよ。―――だって、もう、私達とっくに別れてるんだから」
大石は視線を合わせなくなってしまったゆりを黙って見つめた。
掛ける言葉が見つからない。大石も、手塚とゆりの事はよく知っていたからだ。
その時、昼休みの終わりを告げる予鈴がなる。周りにいた生徒は次々と席を立ち上がり始めた。
「時間だ。もう行こう。とにかく、姫野は不二にこの事を話すべきだ。参考書は帰ったらチェックして、メールしておくよ」
「わかった。ありがと、大石」
二人はテラスを後にし、教室へと向かう。
大石はこの三年で随分背が伸びた。
それは不二や他のテニス部の面々も同じだが、いつの間にか皆、ゆりよりもかなり目線が上に行ってしまった。必然的に見上げるようになるのだが、ふと、ゆりの脳裏に過ぎる。手塚も、背が伸びたのだろうと。
「この前、手塚に手紙を送っておいたよ。夏休みの合宿に行った時に皆で集合写真撮っただろ? あれを入れておいたんだ。そしたらさ、手塚の奴、返事で羨ましがってたよ。皆が楽しそうなのが伝わってくるって。姫野の事も書いてあったぞ。髪が伸びて大人っぽくなったって。中学からみんな成長したしなぁ。今じゃ桃より海堂のほうが女子に人気ある…って、姫野?」
と、大石は横に並んで歩いていたはずのゆりが突然視界から消えたことに気付き、振り返った。
ゆりは両手で口を覆い、今にも零れそうなほどの涙を、瞳に貯めている。
「姫野…、どう…し」
「私、気分悪いから保健室行ってくる」
「あ、おい待て! 姫野…!」
大石が引き留める間も、突然の涙の理由も聞く余裕もないまま、ゆりは背中を向け、走り出した。
あっという間に姿が見えなくなり、大石は廊下に一人立ち尽くす。
「これは…まずい事を言ってしまったな…」
手塚の事は彼女にとって鬼門だったのだ。
大石は読み違えてしまった。
(不二と付き合うようになってずいぶん経つし、もう吹っ切れたのかと思っていたけど…。でも、ということは、不二も同じか…)
とうとう授業の開始を告げる本鈴が鳴った。大石は仕方なしに、教室へ向かうしかなかった。
ゆりはそのまま本当に保健室に行くことにした。
屋上は鍵がかかっているから入れないし、かといってテラスや食堂などには戻れない。
保健室と言う、普段あまり足を踏み入れないその場所は、意外にもゆりをすんなりと受け入れてくれた。すでにその時ゆりは大粒の涙を零しており、養護教諭もただならぬ様子の女子生徒を無碍に授業に戻れと追い返すこともなかった。
「どうしたの? どこか痛いの? 体調悪い?」
保健の先生の声はとても優しく穏やかなものだった。この先生が自分の様子を理解してくれているのだと思うと、さらに涙が込み上げて止まらない。ゆりは首を大きく左右に振ることで答えた。
「そう。なら、ベッド使って良いから。落ち着くまで居て良いわよ」
ゆりは言われるがまま、ベッドに入り込むと、頭の上から布団をかぶる。
自分ひとりきりになったのだと思うと、もう嗚咽が止まらなかった。
国光。国光。国光―――。
ひとしきり泣き終えた後、いつの間にか泣き疲れて眠っていたようで、ゆりは保健室のベッドの上で目を覚ました。まだ覚醒しきらない頭のままゆっくりと身体を起こし、自分の状況を把握しようとする。
(…私、眠っちゃった…。でもずっと眠れてなかったから、ちょっとスッキリしたかな)
ゆりは「んー」と両腕を天井に向かって伸ばし、伸びをしていると、養護教諭の女性がベッドの周りを仕切っていたカーテンを開けた。
「あら、起きたのね。もう放課後だから、そろそろ起こそうと思っていたところよ」
「先生…ありがとう。なんだかすっきりしました。よく寝た…」
「それは良かったわ。でも、顔洗っていったほうがいいわよ。目がぱんぱんに腫れてるから」
「えっ!?」
ゆりは勢いよくベッドから出ると、備え付けの洗面台の鏡を覗き込んだ。先生に言われた通り、両目が涙と充血でぱんぱんに腫れあがって目がちんまりと埋もれている。
「やだ、どうしよ…。こんな顔じゃ帰れない…」
言うが早いか、ゆりは手首にはめていたヘアゴムで髪を素早く括り、蛇口を捻って顔を洗い始めた。特に目は念入りに何度も水の中で瞬きを繰り返し、眼球に籠った熱を取る。しばらくそれを繰り返してからタオルで顔を拭き、再び鏡を覗き込んだ。
「あー。全然変わってない…。先生、どう? 私の顔、変ですか?」
あれだけ大粒の涙を零しまくった挙句、そのまま眠ったのだ。両目は違う事なく、現実の結果を突き付けた。腫れ上がるのは当然の結果だ。
「そうね、さっきよりはマシになったんじゃないかしら。心配しなくても大丈夫よぉ、目が腫れてたって全然可愛いから」
ゆりが絶望しているのを横目に先生は笑ってさえいる。その返答にがっくりと項垂れたが、もう開き直ってこのまま帰ることにした。別も帰るだけだ。どうせ誰も見ていないんだし、とゆりは自分に言い聞かせる。
「先生ありがとうございました。帰ります」
「はい。いつでも来ていいからね。気を付けて帰りなさい」
「はい」
ゆりが保健室を出ると、すでにほとんどの生徒が部活に行くか帰宅した後で、校舎内には放課後の喧騒が静かに漂っていた。
(あーあ、授業さぼっちゃった。寄り道しないで真っ直ぐ帰ろ…)
ゆりは自分の教室まで戻ると、ドアを引いた。
教室に一人残っている人物を見て、思わず自分の目を疑ってしまった。
不二がいた。
他の生徒は全員帰宅したようで誰もいない。
ゆりの机に座って、不二は頬杖を付きながらぼんやりとグラウンドの方を眺めていた。夕陽が不二の顔をオレンジ色に染めている。
「あ、おかえり。そろそろ迎え行こうかと思ってたんだ」
「…周助。待っててくれたの?」
「大石から6時間目にライン来て。ゆりが保健室行っちゃったまま帰ってこないからって。大丈夫? まだどっかしんどい?」
「あ、うん。もう大丈夫だよ、平気・平気」
不二が待っているとは予想していなかったゆりは、不二と目を合わせるのが少しだけ気まずくなった。思わず視線が泳ぎ、それを誤魔化そうとして荷物をまとめ始める。机の引き出しから教科書やノートを取り出し、カバンにつめた。
その様子をじっと見つめてくる不二の視線が、痛いほど感じられる。視線を振りほどこうとして、ゆりは心なしか饒舌になった。
「最近ちょっと寝不足だったの。気づいたら保健室でスヤスヤ熟睡しちゃってて、目が覚めたのはほんとついさっきなんだ。だからもう逆にすっきりしちゃったくらいなの」
「ねえ…ゆり、僕になんか話すことない?」
「…え?」
ぴた、と荷物をまとめる手が止まってしまった。そしてすぐに本心を気づかれないように再び手を動かし、笑顔を作る。
「話って、何が? 特に改まってする話もないよ?」
最後のほうは声が上ずってしまった。でも、それもギリギリ誤魔化せるラインだ。まだ不二に話せるほど、いろんなことが整理しきれてない。
「最近眠れてなかったって、どうして?」
「……勉強、してたの…」
(嘘はついてない。本当に毎晩勉強はしてたもの)
「どうして勉強してたの? ゆりの成績なら推薦に問題ないでしょ」
「…でも、念のためっていうか…」
「ここのとこ、全然連絡くれなかったね。僕がしても返事なかったりしたし」
「それはちょっと色々立て込んでて…。ごめんね、気を付けるから」
「―――ねえ、ゆり。僕には本当のこと、話してくれないの?」
ズキンと胸が締め付けられた。
本当に心臓の軋む音が聞こえてきそうだった。
不二は寂しそうに笑っている。
「…周、助…」
「ごめんね。受験の事は大石から聞いたよ。誤解しないで、別に他の大学に行くことを引き留めてるんじゃないよ。でも、僕にも教えて欲しかったなって。そしたら僕も連絡するの控えたし、返事なくても納得出来たし」
「ごめ、ごめんなさい…。ほんとにごめんなさい…。悪気があった訳じゃないの、ただ、どうやって話そうか考えてたら、言えなくて…」
不二はゆりの両手をそっと握りしめた。
そして、じっとゆりの瞳を見つめる。
視線を逸らすことは、出来なかった。
「もう一つ、僕に話してないことあるよね」
「…え? ない、よ」
不二の瞳が優しいのに、怖い。
逃げたいと思ってしまった。
「手塚の、こと」
言葉が出ない。
頭が真っ白で、思考が止まる。
「気づいてないと思った? ずっとゆりの様子が変だったこと。毎日、泣いてたんでしょ? でも…ごめんね。それ、僕のせいだよね」
「…ちが、違う…。周助のせいじゃ…」
ゆりはゆっくりと、左右に首を振って否定する。だが、うまく言葉を紡ぐことはできなかった。
「あの雑誌、見たんでしょ? 僕があれを部屋に置いといたりしたから。もっとゆりの目の届かないとこに置くべきだったのに。ごめんね」
「違うよ! 周助のせいじゃない! 私、私が…!!」
やっと止まったと思った涙が、また零れた。
彼の優しさが、こんなに悲しいなんて思いもしなかった。
「違うの、私が悪いの…! 私が…!」
「手塚が帰ってくるって、また青学に一緒に通うかもしれないって。この前、直接メールが来たよ。また皆でいられるのに、ゆりは他校受験するの?」
「…周助、私…」
ぐっと言葉に詰まった。
不二に話してもいいものか考えあぐねて、それでも本当の事を話すのが一番いいと思えた。どんなに誤魔化そうとしたところで、不二を傷つけてしまう。こんなに優しい人をこれ以上自分の身勝手で傷つけたくなかった。たとえそれがどんなにゆりの偽善だったとしても。
ゆりはうまく吸えなくなった酸素をなんとか吸って、不二の手を握り返した。
「私ね……あの人からこの3年間、一度も連絡来たことないの。周助には言わなかったけど、何度か自分から連絡した事があって…。でも、一度も返事はなかった。何度も手紙書いたよ。メールしたよ。でも、返事はなかった。だから…だから、本当に思い切って、これが最後って思って、電話したことがあるの。あんなに手が震えたこと、今までなかった。……でも、出てくれなかった。呼び出し音はしてた。折り返しもなし。……これがどういう意味が解らない程、私もバカじゃないもの」
「…ゆり……」
「やっと忘れられたと思った。私、こんなに周助のこと大好きになれたの。周助に好きになってもらえてすごく嬉しかった。ほんとよ? でも、なのに、たったあんな…あれっぽっちの記事見ただけで、心がぐちゃぐちゃになっちゃった。あの人が帰ってくるって、写真見ただけで、こんなに、こんなに…、思い知らされた。やっぱり国光のことが好きだって、忘れられないって…!」
夕焼けがどんどん沈んでいく。
オレンジに包まれた教室が次第に紺色に染まっていく。
教室にはゆりと不二の二人のシルエットが浮かび上がった。
「やっと忘れられたと思ったの。やっと泣かなくても大丈夫になれたの。でも、たったあれっぽっちの記事で、こんなに乱される。でも、でも…、あの人の中に、もう私はいないの…! それなのにまた一緒に学校通うなんて出来ない! 出来るわけないよ…! あの人のそばに居ること、許されなくなっちゃったんだもん。もう二度と逢いたくないから、逢ってもう一度こんな絶望を突き付けられるくらいなら、帰ってくる前に私がいなくなる。でも、逢いたいの…やっぱり、逢いたいって思っちゃうの…。私、心がもうぐちゃぐちゃで、だから大学はゼロから始めたいって、そう考えたの」
「…僕じゃ、ゆりの支えにはなれなかった…? ごめんね」
「違う…そうじゃない…!!」
ぼろぼろ涙が溢れて止まらない。
(違うよ、そうじゃないの。あなたは本当に私を支えてくれてたの。だから、そんな顔しないで。
――――違う、こんな顔させてしまってるのは私だわ。他の何でもない、紛れもなく私の心のせいなんだ)
「言ったでしょ、周助の事、大好きになったって。ほんとだよ…! ここにいない人のために、私達が振り回される事なんてないもん」
「でも…ゆり、だったら手塚の存在は…僕達にとってそれだけ大きいって事なんじゃないかな。だって、僕達二人とも…彼の事を本当に好きでいるから。今までも、今も、僕達はずっと手塚のことが好きなんだ。だから、君の気持ち、すごくよく判るよ。……僕もね、ゆりと同じように何度も手塚に連絡してたよ。僕が返事をもらえてたのは、彼の中で僕の存在は友人だったからだよ。君とは違ったんだ。だって手塚はテニスをするためにドイツに行ったんだから。手塚も同じだけ、必死だったんだよ。君を忘れる事に…。それは、手塚の中で、まだゆりの存在が残っているからでしょ? それってまだ好きだってことなんじゃないのかな?」
ゆりは大きく首を横に振った。
もう何も解からない。頭が一杯で、考えたくないのに勝手に考えてしまう脳を取り払ってしまえたらいいのにと思える程、その事で頭が一杯だった。
もう長い事、その事ばかり考え続けた。
忘れようとしても、不意に思い出してしまう。そしてまた、忘れようとして他の何かに意識を向ける。その繰り返し。
「わかんない…。もうわかんない…。だってあの人からは何の連絡もないの。私にとってそれが真実なんだもん。どんなに信じようと思っても、寂しいの。もうあの人の中で私が残ってるとかそうじゃないとか、そんな事考えて泣くのはもう嫌。だからもういいよ。私、周助のこと好きでいたかった。でも……もう一つの気持ちを隠し切れなくて、どうして周助の一番でいられるの? こんなの周助がかわいそうだよ」
隠し切れない感情と、理性のせめぎあいの中で、心が揺れる。
(まだこんなにあの人の事が好きなのに、あの人の中にもう自分はいない。なら、もう忘れなきゃいけない。こんな自分を受け入れてくれる周助のためにも、忘れるべきだ。
わかってる。わかってるよ、そんな事。
じゃあ、どうしたらこの気持ち、消えてなくなるの―――?
どうしたらあの人のこと、忘れられるの――――?)
「ごめんね…。ごめんね、周助…」
不二はこんなにも激しいゆりの気持ちに初めて触れた。
目の前の小さな女の子はただただ泣き続けている。思わず抱きしめようとして、でも、この子を本当に慰められるのは、自分ではもうないことに気づいてしまった不二の手は止まる。
ごめんね、と何度もつぶやくゆりが酷く痛ましかった。
「こんな私、捨てちゃっていいよ。ごめんなさい…周助」
「……ゆりは、僕に別れて欲しいの?」
ゆりはハッとして顔を上げた。
(声が、声が…。こんな周助の声、聴いたことない…)
不二が酷く悲しそうに笑っていた。
そこまで来て、初めて気づいた。
悲しくて眠れなかったのは、自分だけじゃない。こうやって心配してくれていた不二にも同じだけ不安を感じさせてしまったのだ。
(私…なんてこと…。こんな優しい人になんて事してるの――――)
ぷつん、とゆりの中で何かが切れた気がした。
優しくて冷たい不二の手を、そっと振り解く。
覚束ない足取りでゆりは窓際へと向かった。
「ゆり―――?」
教室の外のベランダへ続くドアの鍵を解く。
ゆりはそのままドアを押し開き、ベランダへと出た。秋の心地よい風が、ゆりの髪を撫ぜる。校舎の3階にある教室から見えるグラウンドには、部活をしている運動部の面々が小さく動いていた。
身体の半分ぐらいまでの高さのある柵に、ゆりは軽く両手を乗せた。
不意に、不二は言いようのない不安に駆られる。
考えるより先に、不二はゆりを追いかけてベランダへと出た。
下を覗き込むようにゆりは両手で身体を持ち上げ、柵に乗り上げる。
「ゆり――――!!」
ゆりの身体を両腕で掴むと、不二はあらん限りの力で持って、ゆりの身体を柵から引き剥がした。そのまま二人は勢いよく後方へと倒れ込む。
たった一瞬の出来事なのに、不二の呼吸は荒く乱れ、肩で息を繰り返した。背中には冷や汗が伝っている。全身から血の気が引いているのを不二は茫然とする意識の中で感じていた。
自分の両腕の中に納まっている小さな肩をぎゅっと抱きしめるが、その手も大きく震えている。
(今、ゆりは何をしようとしていた――――?)
「……ゆ、り……」
不二がゆりの顔を見ると、彼女の目はもう自分を見ていなかった。
どこか虚空を見つめ、やっと聞き取れるような小さな声で、呟いた。
「ごめんなさい…ごめんなさい…。私のせいで。もう私、何も望まないから。もう何もいらないから。消えちゃいたいの。苦しいの」
ゆりの頬に、ぽた、と一粒の涙が落ちた。
それが自分の流した涙だと気づくのに、不二は少し時間が掛かった。
そうして気づいてしまうと、もう止まらなかった。
不二はゆりを強く強く抱きしめたまま嗚咽を抑えることもせずに泣いた。
その後の事を、僕はあまり覚えていない。
ただゆりの手を取って、絶対に彼女の手を離さないように、自宅まで送った。
その時、ゆりの母親と少し話した。
そして初めて、彼女がもう長い事塞ぎこんでいた事実を知った。
手塚が留学してからずっとゆりは泣いて過ごしていた事。僕と付き合うようになってやっと笑うようになった事。けれどここ数日手に負えない程の取り乱し様で、お母さんが彼女から目が離せなかったという事。
不二は、自分の気持ちとは裏腹に、夜空で煌めく無数の星々を見上げながら、スマホを取り出した。
電話帳から目的の人物の番号を見つけ、発信する。
数コールでその男は出た。
「もしもし。急に悪いね。――――こんな事、君に言うのは癪だけど助けてほしい」
「ゆりが…限界なんだ―――」
第一章 END
というわけで、ここまで続ビューティフルドリーマーの第一章でした。
ビューティフルドリーマーをご覧頂いた方ならお判りかと存じますが、最後はまあ、あのラストなんです。
だからあの不二くんなんです。
そこに辿り着くまでの数年間を「続~」で書きたかったのですが、上記のように悲しくて悲しくて、私当時泣きながら書いてましたwww
大人になったら、3年間なんてあっという間ですよね。
でも十代の、高校生の3年間は大きいです。
ノーリアクションで一切コンタクトが取れなくなったら、大人なら切り替えることができます。
いわゆる「察して」というやつ。
だけど手塚は、残して行ってるんです。指輪と、3年間一緒に居たっていう証拠を。
これが手塚の手塚たり得るというか、実に手塚らしいというか、手塚はテニスが一番なんです。
だから連絡してこないし、返事もしない。
だけど、自分の心はしっかりと残して来ている。これが俺の気持ちだからって。
現に、手塚のプロフィールから、好みの女の子が消えて「今は考えないようにしている」に変わりましたから。
(これ、ビューティフルドリーマー書き終わってから公式プロフィールが変わったので、ちょっと恐ろしかったです。でも同時に、やはり手塚はテニスが一番なんだな、と思って、あ・自分の解釈間違ってないんだwwと思ってキモオタキモイなって笑いましたww)
でも女の子はたまったもんじゃない。
だって高校生の女の子が、それに耐えられるかって言ったら、私は耐えられないと思いました。
一言でも良いから、「待ってて」って言う言葉があれば、女の子も待ってられるのにって思って、もう少しなんとかならんもんかと思って描いたのがpixivに上がってる「ドイツに行った手塚とW杯で再会した夢漫画」ですwww
ヒロインは、この後、自分の夢を見つけます。
それが「やりたいことがあるの」って言ってたところです。
それは「世界で戦うアスリートをサポートできる人間になる」という夢。
世界アスリートの奥さんって、本当にすごいと思います。言葉で言えないほどの苦労と影の努力があるんだと思います。
だから、手塚を支えられる人間になるためには、たくさんの勉強と努力をしようとそう決めて、大人になる。
実はこの大学を変えようって行動を起こした時点で、ヒロインの心は「たとえ手塚と結ばれなくても、世界で戦う人をサポートする人間になる」という漠然として目標が出来ていて、不二や手塚と一緒にいては甘えてしまうと思ったのもあって、違う大学に行こうと思った。
という過程を書こうとしていました。
だから、この話のタイトルが「ビューティフルドリーマー」なんです。
これは手塚の夢、ヒロインの夢、大石や不二、リョーマくんの夢、みんなの夢が掛かってます。
テニプリって、夢を追う姿がとても眩しくて、彼らの軌跡を見届けたい、夢を叶えてほしい、叶えたい、そんな気持ちにさせてくれる作品です。
なのでヒロイン目線からの「夢を追う彼らをサポートする女の子」の話、そしてその女の子さえも、ビューティフルドリーマー、そんな話を描きたかったんですね。
ちなみに、不二が最後に電話していた相手は跡部くんです。
恐らくもうこれの続きは書けないと思うので、これにて終了です。。。
この後どんなストーリーにするか忘れてしまって・・・(オイオイ)
今から書くとすると、全く別物になりそう。
ここまでご覧下さり、ありがとうございました。