壁と共に。 急ぎのメールを済ませ書斎を出ると、薄暗い廊下で己によく似た上の子が壁に向かって立っていた。
驚いたのは一瞬で、すぐに叱られている途中なのだと察した。そういえば、キーボードを叩いている時に聞こえていた楽しげな子らの声はいつの間にかやんでいた。
「どんな『悪さ』をした?」
背中から漂う悲壮感が妙なことに愛らしく、つい頬を緩ませてたずねると、上の子は額を壁につけたまま首を捻って拗ねた顔を見せ「ちょっと噛んだだけだよ」と答えた。
「噛んだ? リチャードをか?」
「うん。リチャードの腕、むちむちだから」
「だからといって、噛んでは駄目だろう」
「笑ってたから大丈夫だと思ったんだ。でも泣いちゃった」
「それで反省中か」
「母上が、三十分立ってなさいって」
「三十分か……」
少しばかり長く感じる。まだ幼い子には酷ではないか。
バッキンガムは上の子の頭を撫で、少し待っていろと告げて、二階に足を向けた。
小さなリチャードの部屋を覗くと、上の子が泣いたといっていた子は天使の寝顔ですやすやと昼寝をしていた。
「リチャード?」
伴侶の名を呼ぶと、二人の寝室から、低く落ち着いた声が聞こえてきた。
子らに沙汰を下した伴侶は、ヘッドボードにもたれてベッドに腰をかけ、神妙な顔でタブレットを眺めていた。
「兄上から、クリスマスパーティーの招待が届いた。先にメールで知らせるが、あとでカードも送るから楽しみにしているように、と……」
「ヘンリーとリチャードは喜ぶだろう」
「あの子たちは、な」
無言で見つめ合い、同時に重く息を吐き、力なく笑う。
身内の集まりに参加するのは嫌ではない。だが、伴侶の兄……エドワード主催のパーティーとなると話は別だった。彼が好むような派手さ、賑やかさは、伴侶と自分にとっては遠慮したい部類のものだ。だが都会から離れて日々慎ましく暮らしている子らには伯父が招いてくれる屋敷は絵本から飛び出したような幻想的なものに見えているようで、大勢の客に囲まれても苦ではないらしい。終始にこやかで、その後数日は「楽しかった」「パーティーしたい」と口にするくらいに気に入っているようだった。
ともあれ、招待されたのならば断る選択肢はない。
返事を打っている伴侶の傍に腰をおろし、目にかかる黒絹の髪を指先ですくってやる。
「ところで、ヘンリーが立たされているようだが」
本題を切り出すと、伴侶は画面から目を離さぬまま「あぁ」と答えた。
「理由を聞いたが、本人も理解して反省しているようだ。それなのに、三十分は長すぎじゃないか?」
「もう何度も叱っているのに、やめようとしないからだ。再三聞かせたが、まったく効果がなかったからな。多少の罰も必要だろう」
「廊下に一人では、あまりに可哀想だ」
陽の当たる室内であれば、これほど哀れみを抱くこともなかっただろう。しかし上の子が立っていたのは、ちょうど陰になる場所だ。ぽつんと佇んでいる姿を思い返して、眉を寄せる。
「それに、あんただって何度言っても俺を噛むだろう」
つい、こぼれ出た一言に、伴侶は手を止め、ゆっくりと首を回してバッキンガムをみた。
「お前は喜ぶから別だ」
「そ、」
そんなことはない。俺がいつ喜んだ。
と反論しかけて、開いた口を閉じる。
噛まれて喜ぶなどという奇妙な趣味は持ち合わせていない。そう感じたというのなら、たしなめられて怯むのではなく、目を細めて笑う伴侶の、己しか知らない姿に魅入られていただけだ。
口が裂けてもいえはしないが。
「ヘンリーも昼寝の時間じゃないのか」
話をそらすと、伴侶の柳眉がぴくりと動いた。
近頃の上の子が昼寝を必要としていないことくらい分かっている。だが、あの子をあの場から離してやるには、昼寝をさせるのがちょうど良い。
「まだ仕置の時間は残っている」
誤魔化したことへの追求はなく、伴侶はアプリを開いてタイマーの残り時間を表示させた。
頷いて、立ち上がる。
大人には些細な時間だが、こどもが孤独に過ごすには長い。
「ならば引き受けよう。俺も反省しなければならないようだからな」
「減刑を望んだくらいで?」
「いや、噛まれて喜んだ。享楽にふけるのは罪だ」
訝しげに見上げてくる伴侶の顔が、呆れたものに変わる。
ため息のあとの唇は、たしかに「ばか」とかたどっていた。
「ヘンリー、もう終いだ。昼寝にしろ」
小さな背中に告げると、上の子は壁から額を離した。
「まだピピッていってないよ? それに、眠くない」
タイマーを気にする子の肩を抱いて、階段へと促す。
「母はそれで構わないといったし、リチャードも昼寝をしている。そうしなさい」
不安げに躊躇っていたが、短く切り整えた髪を撫で、頬をくすぐってやると、漸く上階へむかった。
「はは……ぇ……」
伴侶と上の子の密やかな話し声が、微かに届く。
バッキンガムは壁に向きあい、我が子がそうしていたように額を当てた。