朝がいちばんふさわしい1
───────神様というものがいるならば、こういう形をしているのだろうと、男はその時、確かに思った。
「まあまあ、親分さん。このひと、こんな場所に慣れていなかったんでしょう。ゆるしてあげたら?」
男の前に現れたのは、少女だった。どれだけかさを重ねて見ても、十ほどにしか見えない少女。真っ黒な髪が、畳を擦っていぐさの切れ端をさらってゆく。
そんな幼子が、今自分を庇っていることを、男は信じられなかった。
「……だがなあ、こっちも賭け事だ。無償で帰すってのは、面目が立たねえ。これは金額の問題じゃないんだよ嬢ちゃん。面子の問題なんだ。おれは例えこいつが一銭チョロまかそうが、同じように許さないだろうさ」
「あら、それも確かにそうですね。では、ええと……そうだ。それに見合うものをお渡しすれば、親分さんは納得していただけるのですよね?」
「フン、ああいやこう言う。そりゃあそうかもしれないが、お前に一体何が出来る?」
そんな言葉を受けた少女は、振り返って男の方を見る。そこで男は、少女の瞳が常人のそれとは違うことに気がついた。
─────透明なのだ。白と言うよりも、硝子と呼ぶに相応しいそれ。どこまでも人間離れしたその瞳が男を捉え、それから細まる。
「お侍さん、これ少しお借りしますね」
「なっ、おい!」
押さえつけられた際に懐からこぼれ落ちたのだろう、男の小刀を勝手に引き抜いた少女は、それを相手に向けるではなく自分に向けながら、親分さんと呼ぶ男背を見せながらこう囁いた。
「いつの日か、仰ってくださいましたよね。お前の瞳は何よりも美しい、その価値は値千金だと」
「…………それがどうし……なっ、おいまさか!やめろ!」
それは、一瞬の出来事だった。
少女は何の躊躇いもなくその小刀を自分の右目に突き刺す。
流れ落ちた血が、少女の服を、足を伝って畳にこぼれ、男の指先を汚す。
少女は男を微笑んで見ていた。そこには何の感情もない。天井の光を背にした女は、ただただ微笑みながら男を見下ろし、それから小刀と共にその瞳を引き抜く。
周囲の人間が引きつった声を上げ、吐き気を催したらしき人間が音を立てて外へ出ていく。
その全てを無視した少女は振り返って、「はい、どうぞ」と声を上げた。どうやら親分さんとやらにその瞳を渡したらしい。
「これで、どうでしょう。足りますか?」
男も、親分と呼ばれた男も、何一つ言葉を発することは出来なかった。少女はそれを肯定と捉えたらしく、何事も無かったかのように荷物をまとめて「では、私はこれで」と外へ出ていく。
男が動けるようになったのはそれから数分後で、誰も止めないのをいいことに男は刀だけを手に取り走り出した。
「……おい!待ってくれ!」
子供の歩幅ではそう遠くへはいけなかったらしく、そもそも走る素振りもなかった少女へ男は簡単に追いつくことが出来た。
「あら、お侍さん。どうしました。なにか忘れ物でも?」
「………………なんで、あんなことをした」
そのあまりにもいつも通りの口調に、男は言葉を迷って、結局そう言ってしまう。
「なんでって、お侍さんが困っていたから」
「……もっと、他にやりようはあっただろう」
「あはは。それ、あなたが言うんですか?」
あはあはと笑う少女の片目は閉じられていたが、今も尚血が零れていた。どちらにせよこのまま放っていくという選択肢は男には無かった。そんなことをすれば、自分だけではなく主君の面を汚してしまうことになる。
「とりあえず、今はその目をどうにかしないと……」
「ええ、良いですよ別に面倒な……」
「なっ、何が面倒だ馬鹿!お前はまだ子供なんだぞ!?」
男が思わずというふうに叫べば、少女の表情がきょとんとした、あどけないものになる。それを見た男もまた、なんだか呆気に取られたような気持ちで少女を見た。
「私、あなたじゃなくたって、今じゃなくたって同じことをしていましたよ。いつかきっと、自分で自分の目を引き抜いていました」
「……だからなんだ!そんなものは何の励ましにもならない!それなら今ここで引き抜いた自分を恨め!」
男はもうヤケクソだった。自分の半分ほどの幼子に庇われた悔しさ、こんな賭博に手を出してしまった自分の浅ましさ、そして何よりもこんな子供の目を損なわせた自分が一番許せなかった。
少女はそんな男を不思議そうなものを見る目で見て、それからあはは、と笑う。それはまるで神様が自分の仕出かした行いを、後悔しているかのような乾いた笑いだった。
2
「きゃっ」
「ちょっと……」
廊下を鼻歌混じりに通り抜ける女に、ぶつかった人々は不満げな声を零す。それを無視して女はふらふらと小走りで廊下を進んでいく。時たま「お嬢」「お嬢だ」「次は何を賭けたんだい!」「また借金かい」「親分に殺されるよ」「お嬢」「まだ生きてたんか」という野次がかけられ、女は手を上げるだけで返事とした。
「あら」
廊下で角で食事を運んでいる女郎とぶつかりそうになった時、女はそう零すだけで、止まる動作は一切見せない。
「なっ……!」
驚いた女郎を尻目に、その細っこい肩に手を乗せ、そのまま逆立ちの要領で飛び上がったかと思うと、そのまま女郎を超えて向かい側へ。「邪魔してごめんね」と声が零されたのはあまりにも一瞬のことで、女郎はその女の背中を呆然と見つめることになった。
「小紫さま」
「来ると思った。外が恐ろしいぐらいに騒がしいから。それと様を付けて」
はふはふと息を荒立てて襖を開いた女を、小紫は半目で見返した。口から出るのはもう言い慣れた皮肉だ。
女も小紫のそれにはすっかり慣れているのか、疲れた、と零しながら畳の上に当然のように横になる。
「小紫さま、みず……」
「どうしてそんなに走ってくるのかしら。急げのいの字も言った覚えはないのだけれど」
そう小言を零しながらも、小紫は水の用意と人払いの指示をしてやる。しばらくすると仕えの者もいなくなり、部屋は二人きりとなった。
「……あなた、また指を切ったわね」
盆に乗って届いた水を渡してやりながら、小紫は女の手を取る。その上目遣いは傾国のそれだったが、女は小紫のそれを真正面から受け止めて、「そうだったかな」と惚けて見せた。
「惚けても無駄よ。指の数ぐらい童でも分かるわ」
「それは十本ある場合でしょう。七本なんて半端な数字、覚えられない」
「いいえ、前は八本だった。それとも今ここで狂死郎を呼ばれて、確認されたい?」
狂死郎の名前を出した途端、女は嫌そうな顔をする。
「…………別に、中指なんてあってもなくても変わらないでしょう」
「小指を残したことだけは褒めてあげる」
「ええ。小指がいないと寂しいものです」
そんな減らず口を叩く女を睨めば、彼女はころころと笑って「小紫さま、かわいい」と宣うだけだ。暖簾に腕押しとはこの事だろう。
女は昔から賭け事が好きだった。好きというよりも、狂っていると言うべきか。とかく彼女にはどこまでも根深い破滅願望と希死念慮が根付いており、こうせずには居られない。生きるか死ぬかの狭間に身を置いて賭け事をして、体がバラバラになるのを見ることでしか、心の安寧を得ることが出来ない。そんな破綻した構造を持った人間が、目の前の女だった。
今日小紫が女を呼んだのも、また彼女が無茶な賭けをしたと聞いたからだ。しかも指をもがれたのは、あの百獣海賊団との賭けの最中だという。生きた心地がしないのも当然だった。
「本当はね、腕全部持っていかれる予定だったんですよ。でも相手の人がああお前は度胸があるなあって、それに免じて指だけにしてやろうって…………」
そう酷く億劫そうに零す女の瞳は、どこまでも暗い。夜よりも、川の底よりも、灯りの影よりもずっと暗い。小紫はこの目を見る度に途方も無い気持ちになって、どうしようもなくなるのだった。
「私は……あなたが生きていて、良かったわ」
そう行って、小紫は女に抱きつく。この熱が彼女に移りますようにとどれだけ祈っても、女は不思議そうな声色で「はあ、そうですか」と言うだけだ。どうしてそんなことを小紫が言うのか、ちっとも理解できないというような口ぶりだった。
「……決めた。やっぱり狂死郎の親分さんにお説教をしてもらわないと」
「げえ。小紫様はどうしてあの男をいつも呼ぶんですか。まさか、好きなんですか?」
「冗談言わないでちょうだい。信頼してはいるけれど、そういうことではないの。それに彼は、」
言葉を続けようとしと小紫はごほん、と態とらしい咳をして口をつぐむ。女ははなから興味がなかったのか、ただ無くなった指の断面を触っているだけだ。
「……結局、あの人の方があなたを怒るのが私よりも上手いから」
「私は小紫さまの方が上手いと思いますけどねえ」
「だって私はあなたを甘やかしてしまうもの」
小紫はそう呟いて、昔たしかに見たはずの女の指を思い出す。例え奪われたとしても、小紫の小さい手がその長い指を掴んで、二人歩いた日のことを忘れはしないだろう。
そしてあの時女が呟いた「……なにも、見えない」というような言葉も、小紫は決して────決して、忘れることが出来ないのだった。
3
「この気狂いめ」
狂死郎はかつての面影を覗かせながら、女の消えた中指の断面を摩った。適切な手当がなされていないのか、包帯の上からでもそこは膿んでいることが分かった。膿んでいるなりの、独特の匂いがするからだ。女は「痛い」と声を上げたけれど、その表情は笑顔だった。
「そんなに楽しいか?小紫や拙者達を心配させて」
狂死郎は女と同じように笑いながらそう言った。けれどその表情の下には、女と違って怒りがあった。その怒りは、断面を掴む手に更なる力を込めたことに現れている。だから女は生理的な涙を流しながら痛い、と言った。それでも彼女の表情は笑ったままだ。その歪さにどこか薄ら寒さを覚えたのは雪のせいだと、狂死郎は思いたかった。
女の体は、賭けごとによって壊されていく。破損し、欠損していく。そしてそれはいつだって本人が望んだことだった。自傷と呼ぶには歪で、自壊と呼ぶには醜悪なそれを、狂死郎は破滅と呼んだ。より正確に言うのなら、女は破滅に取り憑かれている。自分という物体をバラバラにして、砕かないと気が済まないのだ。
「ねえ、狂死郎さま」
女は狂死郎が持つ傘から飛び出たかと思うと、その黒い髪の上に雪を撒き散らしながら振り返った。その顔には、笑みが浮かんでいる。彼の記憶の中にある彼女は、いつだって微笑んでいた。
「──最近、大きな買い物をしたって聞きました」
一瞬、ほんの一瞬だけ彼の細い目が更に細まる。
「……さァ」
「宝石だって聞きました。綺麗で、まあるくて、きっとこの世に二つしかないような宝石だって」
女はパタパタと近づいてきたかと思うと、自らの顔半分を覆う布を外した。その下には、がらんどうの眼窩が一つ。
「勿体無い。欲しいのなら、もう一つあげたのに」
そう微笑んだ女の小さくて白い顎を、狂死郎は掴んだ。笑顔は崩れ、冷えきった顔が女を射抜く。女はその顔を見てきゃらきゃらと笑った。
「馬鹿にして楽しいか」
「まさか」
「嘲笑って楽しいか」
「まさか」
「……………」
「ねえ、泣かないでよ」
気がつくと、狂死郎の手は女の顎から外れていた。その手は彼自身の目を覆って、傘は雪に落ちた。高いその背が踞ることによって、女の下にやって来る。だから女は少し笑って、落ちた傘を拾って彼の頭の上で指してやる。
「今更買い戻してどうするの。勿体無い」
「うるさい」
「そのお金でなんかこう……もっと、美味しいものでも食べたらいいのに」
「うるさい」
「抉っちゃったから、もう戻らないよ」
「…………うるさい」
変なの。そう言って女は笑った。女の指は七本しかない。三本は無くなった。臓器もいくつか無くて、片方の足は義足だった。女の体は、狂死郎が傅ジローだったころからどんどんと欠けていって、もう三分の一が砕け散った。
女の残った美しい瞳が彼を眺める。彼女は傘を捨ておいて、狂死郎の前に手を差し出した。それは自分が起こしてやるという挙動だったけれど、その義足を視界に認めた狂死郎は女の手を無視して自分で立ち上がった。それから白い息をこぼして、傘を拾い上げる。
「夜まで降るみたいですよ、これ」
「商売上がったりだ」
それからなんでもないみたいに歩き出すものだから、女は後ろでくすくすと笑った。冷えきった義足がキシキシと音を立てて、冬の静かな空気によく響いた。