出世し過ぎたミュラーの話(続き)■I.軍務省占拠の夜■
――自分はここまでなのだろうか。
軍務省になだれ込んで来た武装兵たちは、荒くれで有名な黒色槍騎兵艦隊だ。上空に覆い被さる漆黒の艦艇を見紛う帝国軍人は居ない。
正規軍による『来襲』の報を受けたナイトハルト・ミュラー中将は彼我の被害を最小に抑えるため、自らの声の届く範囲でとにかく抵抗や妨害をせず、武装兵の指示に従い刺激しないよう指示を徹底した。
近い未来にこうなる事はわかっていた。趨勢は決している。帝国軍同士戦っても勝てないばかりかまったく無意味な争いだ。ローエングラム元帥にあからさまな敵意を抱いていた貴族の高級士官たちは大半が職務を放棄して持ち場を去っていたため、混乱も被害も少なかった。
ミュラー自身も中将という立場から一時銃を構えた兵士たちに囲まれたが、彼に抵抗の意志が無いとわかると4人の屈強な見張りを残して一度執務室を去っていった。
執務机の椅子に座って、扉の向こうを往来する軍靴の音を聞く。数十秒の間を置いて駆逐艦のサーチライトが窓から部屋の中を薙ぐのを眺めながら、ミュラーは4年前の面会を思い出していた。
◆◆◆
皇帝の寵姫の弟、金髪の孺子、成り上がり者…派手で否定的な噂の絶えない人物からの呼び出しを受けた時は面倒な事になったと思った。彼と自分は同じ作戦に従事したが、軍事機密に関わる極秘作戦であり互いに名を知る事も無い筈だった。どうやら先方から探り出されたようで、苦情にしろ、褒辞にしろ、正直関わり合いになりたくない。あの不可能と思われる作戦を生き抜いた才覚は大したものだと思うが、姉が皇帝の寵を失った瞬間破滅するとの評判の人物だ。関係があると思われたら、自分の身も危うい。帝国軍人として出世すればいずれどこかの貴族の派閥に寄ることになるかもしれないが、それは人生のずっと先の話で、相手はよく選ばなければ。貴族の後ろ楯を持たない平民の自分は余計な事で目立たぬよう、他者に足を掬われる隙を見せぬよう、慎重に実績を積まなければならないのに。自分の人生や家族のために。
そうは言っても階級が上でしかも貴族の呼び出しを平民の自分が断れるはずも無く、使者として訪れた赤い髪の少年に遠回しに慰められながら迎えの地上車に乗ったのを覚えている。赤い髪の少年は背は高いが面差しに幼さが残っていて、名乗られた姓名にフォンが無い事から自分と同じ平民であるはずにもかかわらず、階級章は自分の1つ上だった。
その憂鬱が、案内された部屋に入った途端に吹き飛んだのだ。
「一度会ってみたかった。」
美貌の少年はそう言って、ミュラーが数ヶ月前に参加した作戦への評価を述べた。簡潔明瞭な人事考査を読み上げているような内容であるのに、美しい旋律を奏でているような声で。それから、作戦当時の事についていくつか質問をし、ミュラーの答え1つ1つに怜悧な笑みをたたえて満足そうに頷いた。
初めて面識を得たラインハルト・フォン・ミューゼルと言う人物は噂に違わぬ美貌の持ち主であったが、その印象、纏う空気は容貌以上にあまりに鮮烈だった。非現実的なまでに。
この少年、いやこの御仁は危険だ。誰もがそう感じるだろう。貴族たちがよってたかって排除しようとするのもうなずける。
同時に、『この人だ』とも思った。
この人は、貴族たちが噂する『飾り人形』では有り得ない。自らの輝きと力で大きな事を成し遂げる。
見た目は少年だが、既に大佐の器には収まりきっていない。
これまで身分の高い貴族の前で儀礼的に頭を垂れ膝を折って見せる事は日常的にやってきたことだがあくまで形だけのもので、その所作を自然にとりたくなる存在に初めて出会った。現状としてはそうする事が不自然になるためそうはしないが、礼を尽くしたいのにそうはしない、という未知の感覚にミュラーは据わりの悪さを感じた。
その少年が短い面談の後に涼しい顔で言った。
「いずれ私が元帥府を開く時には、卿を麾下に招きたい。現時点での卿の意向を確認しておきたいのだが、どうか。」
『未成年』の『大佐』が『元帥府を開く』……?
彼の隣に立つ赤い髪の副官がすこしだけ驚いた顔をするのが見えた。蒼氷色の瞳がそれを見て年齢相応の悪戯っぽい笑みを浮かべるのも、その後、その同じ瞳で副官が何か言おうとするのを静かに制するのも見えた。
あとから落ち着いて思い出せば自分が試されていたことがわかる。だが普通に聞いたらただの調子に乗った世間知らずの貴族の坊やの大言壮語でしかない。自分の口から出た事は何もかも思い通りになると信じて疑わないような物言いで、その直後、平民出の格下の士官に対し本人の意向を尋ねてくるというギャップ。ミュラーはいよいよ『これは現実だろうか』と、傾げたくなる首をまっすぐに保つのに苦労した。
そしていきなり人生の岐路に立たされている事を理解した。
目の前の少年の手を取ることはあまりに危険な賭けだと、激しく警鐘を鳴らす自分が居る。
けれど、これが最初で最後の機会だという確信もある。理屈では無い。
ーーあの時、自分は『是』と答えた筈だ。
階級は自分より上だが所詮大佐、しかも少年相手の面会に、ナイトハルト・ミュラーは緊張し、動揺し、高揚し、その日のその後の記憶が曖昧で、気がつけば元の自分の将来の目標もすっかり霞んでしまっていた。
若すぎる大佐の経歴を調べた。カプチェランカでの軍事衝突と第5次イゼルローン防衛戦からの生還。『運が良かったのだろう』と噂される通りの事しかわからなかった。それぞれうわべだけを見ればそうかもしれないが、自分の関わった作戦に関しては決して運だけで切り抜けられるものではないと知っている。
自分は同期の中では早目とは言え中尉に昇進したばかりで、まだまだ年齢も階級も不足している。かの人に呼ばれたときに何ができるだろうか。そう思うと、何がなんでも力が欲しかった。
『あの方が元帥府を開かれるまでに』
ナイトハルト・ミュラーが全力で出世の階段を駆け上がる間に、ラインハルト・フォン・ミューゼルはその階段の上を飛翔する速さで昇進を重ねみるみる内に頭角を露にした。はじめ宮廷の権力争いの中から漏れ聞こえていた彼の噂は、すぐに戦場の勇名とそれに対する賞賛と嫉妬の声に塗り変わっていった。彼がいま何をしているかわざわざ調べなくても、輝かしい武勲が帝国中に鳴り響くようになった。彼を敵視する貴族も増えたが、彼の戦いの手腕を高く評価する諸将や彼を支持する兵士も増えた。ヴァンフリート、第6次イゼルローン、ティアマト、アスターテ、誰よりも鮮やかに敵を屠り、誰よりも多くの兵士を生かして家族の元へ還した。
そして帝国歴487年3月、ローエングラム元帥府が開設され、宇宙艦隊の半数が彼の指揮下に入った。ロイエンタール中将やミッターマイヤー中将をはじめとする名のある司令官が幾人もローエングラム伯の招きに応えてその名を連ねた。
しかし、アスターテ会戦当時軍務省に所属していたナイトハルト・ミュラー中将にローエングラム元帥からの辞令が届く事は無かった。
◆◆◆
あの時の無力感を思い出し、ミュラーは執務机に肘をついたまま、見張りに気づかれぬよう組んだ両手にそっと溜息を吐きかける。
後方勤務から前線への転属希望は、概ね好評価に繋がりかつ通りやすいものだが、ローエングラム元帥府開設後に提出したそれは形だけ受理はされたが実りは無かった。ローエングラム軍に憧れる将兵は多く、多数の希望者の中に埋もれたのだろう。
カストロプ動乱、アムリッツア星域会戦、ローエングラム軍の勢いは止まらず、皇帝の崩御、新皇帝の擁立を経て帝国軍宇宙艦隊はすべて侯爵となったローエングラム元帥が掌握した。それでも自分は軍務省配属のままで、その麾下に入れずに居る。
そして今夜の軍務省襲撃。恐らくここ軍務省だけでは無い。帝国の要衝を同時に押さえられただろう。宇宙港から飛び立った無数の艦艇が大気を低くうならせている。
執務室の前にまた慌ただしい足音がして人の声がした後、内側に居た見張りの兵士の合図で外側に立つ見張りが扉を開けた。執務室に入ってきたのは、オレンジの髪が目を引く若い高級将校だった。歳は自分とそう変わらない。肩章も自分と同じ中将の階級を示していた。では彼が、有名な黒色槍騎兵艦隊の司令官ビッテンフェルト提督その人だろう。
「所属と姓名を。」
部屋に入るなり強い声がミュラーを誰何した。同格の中将だ。用があり訪ねてきた側から敬礼をするのが礼に適うにも関わらず、彼の右手は下ろされたまま名乗りもしない。真っ直ぐにミュラーを見下ろしている。この状況で当然と言えば当然だが、ならばこちらも慣例通り立ち上がって迎える気にはならない。
「軍務省高等参事官、ナイトハルト・ミュラー中将。」
椅子に座ったまま背筋を伸ばして返答すると、勝者である方の中将は手に持っていた端末の画面とミュラーを見比べた。それから満足そうにひとつうなずいて、躊躇いの無い動作で踵を返し部屋の内側と外側の見張りに声をかけて意気揚々と出ていく。
「よし、こいつは逃がすな。」
抵抗したり妨害する意思が無い事は伝えた筈だが、これも仕方のない事なのか。まるで反逆者扱いだ。
自分と同じ中将の階級にあるローエングラム麾下の将の輝かしいこと。年齢だけを重ねた古い世代を排し、新しい実力主義の権力基盤を築いた。この銀河帝国の軍の全権を彼らが握ったのだ。
再び閉ざされた扉を見つめると、出て行ったばかりの中将の不遜なまでに誇らしげな笑顔が思い出された。
彼が選ばれて、自分は選ばれなかった。
――結局自分は、あの方に必要とされなかったのだ。
あの時は候補として合格だったが、後から見つけた人材の方を気に入ったのかもしれないし、
そもそもあの面会の答えが不合格だったのかもしれない。
彼を危険だと感じて、その問いに即答できなかった事は確かなのだから。
自分はこのまま後方で一生終わるのだろうか。軍務省高等参事官と言えば、通常前線で実績を積んだ熟年以上の将官が艦を降りた後その経験をもって後方の仕事に助言を与えるベテランの役職だ。本来30にもならない自分には分不相応で、報酬は高額ではあるが、昇進に直結する「武勲」にはならないし、それこそ経歴の「終着点」であってもおかしくない。今度は見張りの兵の視線に構わず深くため息をついた。
暗澹たる気持ちで今後の事を憂えていると、また扉の外で足音と話し声がした。次に入ってきたのは武装兵に伴われて来た副官ドレウェンツだった。
「ミュラー提督!ご無事ですか!?」
ミュラーが立ち上がると同時にその傍へドレウェンツが駆け寄り怪我の有無を確かめるように視線を上から下へ往復させた。
ドレウェンツには襲撃直後に自分の指示を他部署へ届けるよう他の士官たちとともに省内を走ってもらっていた。互いに無事を確認し、わかる範囲で抵抗したり負傷した者が居ない事を確認してほっと胸をなでおろす。ドレウェンツを連れてきた武装兵には士官が1人ついてきており、こちらはミュラーにむかって丁寧に敬礼し名乗った。
「黒色槍騎兵艦隊司令補佐リヒャルト・オイゲン大佐です。ミュラー提督には大変な不自由をおかけします事、今はお許しください。」
体格の良い強面の大佐は、その見た目に反して礼儀正しく理性的な言葉を発した。少しは話の分かる人間が居たようだ。
オイゲン大佐が言うにはエーレンベルク軍務尚書はすでに拘禁されているとのことだった。武装兵に抵抗しないようにとミュラーが省内の説得にあたったのだとドレウェンツが訴え出たため、彼を伴ってミュラーの執務室を訪ねたそうで、現在のミュラーの拘禁状態を解く代わりに軍務省内の業務の『正常化』への協力を求めてきた。
――あの方が望んでいる事なら、そうしよう。
なんとも空虚な気持ちで武装兵に伴われ執務室を出た。エーレンベルク軍務尚書の副官の1人が抵抗して重傷を負ったらしい。そのため他の副官たちも危険と判断され拘束されたようだ。武装兵の立ち会いの下、自分の指示を守り抵抗せずに無事で居た職員を集め、ローエングラム元帥の管理下で業務を行うよう説得して采配する。オーディンに残っていたエーレンベルクとその直近の貴族たちが排除されると省内には高官がほとんどいなくなり、実質中将でしかないミュラーが軍務省内で最高位に近いという惨憺たるありさまになったが、その分、話は速かった。
一通り各員のやる事が決まると、貴族が出奔して穴になっている部署や役職の聴き取りがあった。新しい軍務尚書も含めてローエングラム侯の配下が送り込まれて来るのだろう。
裁可待ちの命令書の中に、輸送船と護衛艦をオーディンから他星域へ向かわせるものが何通も見つかった。発行されていれば、ローエングラム陣営はそれなりに面倒な事になっただろう。
淡々と凍結する業務の選別や調整を進めている途中、廊下で吹き抜けの下にオレンジの頭を見かけた。何を怒鳴っているのかと思ったが、よく聞くと隣の副官に指示を出しながら歩いているだけだ。興奮気味で、元気溌剌を絵に描いたような様が暑苦しい。苦手なタイプだ。自分の僻みだとわかっていても悔しいし腹が立った。
「あいつはどうしている。絶対逃がすな。」
何故だか直感的に自分の事を言われているのだと気づいてカチンと来た。副官がすかさず「説明したでしょう…」とかぶせ気味に言いつのる。その内容でやはり自分の事だと確定した。別に自分は捕虜でもお尋ね者でもない筈だ。自分がそう思った通りの事を彼の副官が丁寧に説明している。
「ミュラー提督は進んで省内の掌握に協力下さっています。おかげでここまでスムーズに事が進んでいるんですよ。」
「はん!さっそく勝者に阿るか。変わり身の早い事だ。」
軍務省で働いていただけで、別にエーレンベルクの派閥に属していたつもりは無い。が、傍目にはそう映るのか。一周回ってすっと頭の芯が冷えるのを感じたミュラーは、黙ってその場を後にした。
翌日からローエングラム侯の要請に応えられるよう、深夜までかかって体裁を整えたら、佐官以下は帰宅を許されたが将官は軍務省内に留め置かれた。他の将官同様ミュラーも不満ではあったが、敢えて抗議するほどの気力も持てず黙って執務室に戻り仮眠のためソファに横になった。
そう言えば昼食を食べたきりで夕食はまだだった。他の者もそうだろう。明日の朝食も手配されないなら抗議してやる。今日のことはもう、流石にどうにかする気になれない。『もうどうでもいい』と思いながら、焦燥と落胆でジリジリと胸の奥が灼けて朝までほとんど眠れなかった。
翌早朝、昨夜帰宅できたドレウェンツがパンや飲み物を抱えてミュラーの執務室をノックした。正面玄関で警備していた武装兵に抗議して入って来たらしい。礼を言い、武装兵相手に危ない事はしないよう窘めて、食べ物を受け取った。人気の少ない省内で他の将官と顔を合わせる。皆似たような有様で疲弊していた。朝食は各々部下に届けられて食いはぐれた者は居ないが酷い気分だ。
「これからどうする?」
「ローエングラム元帥閣下の御意のままに、だろうよ」
軍務尚書の執務室も省内のコンピュータも武装兵に押さえられていて、勝手に何かできる状態でもない。することも無いのに中途半端に留め置かれて…と会議室で珈琲を前に愚痴をこぼしあっていたのは早朝の内だけで。
普段の登庁時刻よりかなり早い時間に、ローエングラム元帥府の武官が辞令と命令書と書類の束を携えて乗り込んで来た。それとほぼ同時に黒色槍騎兵艦隊の武装兵は黒い装甲車や上空の駆逐艦ごと来た時と同じように突然姿を消した。
最初に読み上げられた命令を要約すると『所属の各員は新任の軍務尚書の下で通常の業務にあたれ』と。ローエングラム侯爵は宇宙艦隊司令長官でありながら正式に統帥本部長と軍務尚書にも任命されたのだ。
ーー昨夜あんな時間までかかって調整した意味は!?
しかも『通常業務』と言うには量的に無理がある。離反した貴族たちを討伐するための出征に関わる業務が一気に持ち込まれた。ローエングラム侯が正規軍を全部抱えているのだから、軍務省から邪魔さえしなければ、当座は向こうで勝手にやるのだろうと思っていたら、軍務省が管轄すべき仕事は決まり通りきっちりこちらに回されている。膨大な上に細かい。ご丁寧に、軍務尚書の決裁が必要な書類にはすべて既にラインハルト・フォン・ローエングラムのサインが入っている。
いつ作成したのか考えるまでもない。すべてが予め準備されていたのだ。
ーー昨夜あんな時間までかかって調整した意味!!!
制圧から12時間以内で、軍務省は軍務省としての機能を些かも損なうこと無く運営されるようになっていた。残業しなければ夜間は人が居ないのだから、空白の時間はほとんど無い。
軍務尚書本人が、留守なだけで。
慌ててその場の全員で手分けして各部署の職員たちに連絡し早めの登庁を促した。貴族たちが自分の部下を連れて抜けてしまっているので、ただでさえ人が足りない。このために帰宅させずに留め置かれて居たのか。
この上、さらにミュラーを落胆させる事があった。
軍務尚書本人が不在で通常業務を行うにあたり、また、持ち場を放棄した貴族たちの役職を正式に埋めるため、ローエングラム元帥府から来た武官は残った武官と事務官に新たな辞令を運んできた。が、ほとんどの士官に新たな肩書が与えられた中で、ミュラーの名が記されたものは無かった。他にも辞令の下りない者は居て、そのままの肩書きで、いつも通りの仕事をしろと言う事で、このままでも十分過ぎる権限が今の自分の手にはあるが、「名を呼ばれなかった。」ただそれだけのことが気持ちを沈ませる。
ーー馬鹿馬鹿しい。4年も前の、たった1度の面会で。むこうはとっくに忘れている。俺が1人で夢を見ていただけだ。4年も…。
士官以下の人員が登庁するといよいよ忙しくなり、ミュラーは悔しくて泣きたいのだか馬鹿馬鹿しくて笑いたいのだかわからない気分を忙しさで紛らわせた。
ローエングラム元帥府から…否、ローエングラム軍務尚書から課された仕事は文字通り山のようで、実際落ち込んでいる暇は無かった。『手始めに』とか『取り急ぎこれだけ』とかを想像していたら、離反した貴族討伐関係の仕事だけでなく、平時の通常業務に関しても指示があり、どさくさに紛れて業務やシステムの改善・改革の命令まで混ざっている。ローエングラム元帥は大将だった間にミュラーの前任で高等参事官に就いていた。彼の業務改善案のファイルが省内のPCに残されていて、持ち込まれた仕事にざっと目を通すとかなりの範囲で重複している。間違いない。それにしても今やるのか。ミュラーが残されていたファイルの案の通りに既に直してしまった仕事もある。選別して各部署に割り当てるだけでも一仕事だ。
ローエングラム侯が統帥本部長兼宇宙艦隊司令長官として反乱貴族を討伐しながら本気で軍務尚書をやろうとしている事はわかった。宮廷に詰めていた事務官が軍務省に戻り、ローエングラム軍務尚書が離反した貴族たちの公称を『賊軍』と定めた事を報せた。
軍務省が機能を維持したこともあり、ローエングラム軍の出征準備は急速に整いつつある。10万隻を超える大艦隊の出撃のため、まだ地上に留まっていた各艦隊が順に地表を離れて惑星オーディンの周辺宙域に待機をはじめた。全艦隊が揃い次第、各艦隊の旗艦が進発して合流、移動開始の手筈だ。
宇宙港はフル稼働で艦艇を送り出し続け、省舎の窓からも宇宙へ上っていく艦艇の群れが見えた。
軍務省に配属になる前に、座乗艦として旗艦級の大型戦艦リューベックを賜っていた。それは前線指揮官としての進路を軍に約束された証であった筈。その艦で分艦隊を任され、反乱軍との戦いで武勲を挙げ、中将に昇進した。
次の出征には一個艦隊を率いる筈だった。
中将にまで昇進しながら軍の主流には乗れなかった。
悔しくて諦めきれなくて、ミュラーは奥歯を噛み締めて窓から目を逸らした。
■II.ジークフリード・キルヒアイス上級大将■
黒の公用車が軍務省正面玄関に止まったのは昼近い時刻だった。後部座席から降りた長身の将校がしなやかな動作で階段を駆け上がる。
「ミュラー中将は居ますか!」
朗々とした声がエントランスホールに響いた。
「お久しぶりです、ミュラー中将。」
透き通る宝石のような赤い髪の色を覚えている。
4年ぶりに目の前に現れた青年に、ミュラーはたっぷり2秒フリーズした。ミュラーの執務室で作業にあたっていた他の武官たちは突然来訪した人物の見た目の年齢に完全に釣られて、襟や肩の階級章に気づくのにさらに3秒はかかった。
「時間がありません。人払いをお願いします。」
用件を切り出されて我に帰り、ミュラーは慌てて椅子から立ち上がり姿勢を正して敬礼した。すばやく答礼を返した青年は青い目を少し和らげ、ミュラーと同じ部屋で作業している武官たちに断りを入れた。
「そちらの業務は今はそのままにして構いません。こちらが優先です。」
「…了解しました、キルヒアイス上級大将。」
返事はできたが会話が完全にワンテンポずれている。ミュラー以外の武官が持てるだけの書類や端末を抱えて急いで執務室を退出する。
赤い髪の少年ジークフリード・キルヒアイスは自分より背の高い青年になっていた。わけが分からない。時間が無いのは当然だろう。彼は旗艦バルバロッサに搭乗して今日中にオーディンを発つ身だ。むしろこんな所で何をしているのか。これは現実か?
扉が閉まるのを見届けて、キルヒアイスが振り返った。
「覚えていて下さいましたね。」
私の事を、と。ほっとした様子で微笑む。
「それは…もちろんです。あの…」
忘れられる筈が無い。だがそれよりも。ミュラーは戸惑い、正面に立つ赤い髪の青年を見た。
「軍務省内で我々に協力するよう説得に当たってくれたと聞いています。お陰で被害はほとんどありませんでした。ローエングラム侯に代わりお礼申し上げます。」
礼を言うキルヒアイスにミュラーは恐縮して首を振る。事実、説得と言うよりは、説明をするだけでほとんどの者が納得または諦めた様子だったのだ。
「いえ、説得という程では…。」
「昨夜から大変でしたでしょう。もう少し早く来たかったのですが、ギリギリになってしまいました。どうぞ、座って話しましょう。」
ミュラーを労る態度でキルヒアイスが執務室内のソファを指したので、ミュラーはまた慌ててソファへ移動した。2人、テーブルを挟んで向かい合って座る。上級大将の軍服に身を包む青年はミュラーよりさらに若いが、高級将官の装飾に負ける事もなく、自然な貫禄を備えていた。4年前の記憶は当時のミューゼル大佐の輝きが強く、彼の事を副官としか認識していなかったが、こうして相対するとキルヒアイス提督も非凡な存在だとわかる。
「こちらを。」
携えていた黒と銀のファイルケースから取り出してキルヒアイスが差し出した紙は、公文書に使われる厚みのある独特の色と手触りの物だ。辞令にも使われる。まさか。砂色の目が瞬き、ミュラーは無意識に呼吸を整えた。
「…拝見します。」
受け取った文書は、たしかに辞令であった。
『ナイトハルト・ミュラー中将を新設の一個艦隊の司令官に任ずる。艦隊の名をミュラー艦隊と公称する。』
心拍が跳ね上がって、辞令を持つ手が震えた。『拝命します』と言わなければ。ただ、唐突すぎて。これまで打診も内示も無く、何故今なのか、何故、今更なのか…。なんの前触れもなく突然人生の岐路に立つ。4年前と同じように。
「軍務省での後方勤務継続をご希望でしたら申し訳ないのですが…」
「いいえ!拝命します!…は、拝命、致します…!」
辞令を手に取ったまま沈黙してしまったミュラーに、キルヒアイスは4年前と同じように少しだけ気の毒そうな眼差しを向ける。そして拝命の返答ににこりと微笑んだ。
「ミュラー提督は昨年も、宇宙艦隊への転属希望を下さいましたね。それで打診も無くこんな形になりました。」
ーーローエングラム元帥に、届いて、いたのか。
ではなおさら、何故今になってなのだろう。この大きな戦いが終われば、帝国は新皇帝を擁するローエングラム侯とリヒテンラーデ公のものになる。叛徒との戦いも、イゼルローン要塞を奪われているものの、むこうには再侵攻する程の兵力は残っていない。帝国国内は新体制構築の真っ只中…捕虜交換も行われ、どちらも積極的に戦いを挑む理由に欠ける。このうえ宇宙艦隊を増強して、果たして出番はあるのだろうか?
半ば呆然として今度こそ黙り込んでしまったミュラーを、キルヒアイスは微笑んだまま静かに観察する。
ミュラー中将は昨夜クーデターに近い粛清に巻き込まれたばかりのこの状況で、首謀者の1人であるラインハルトからの辞令をはっきりと受諾した。しかし手放しで喜べず複雑な表情で手の中の辞令を見つめる。その姿に好意的な印象と同情を抱く。自分と同じ、平民にしては稀有な昇進ペースの割に、思慮深く慎重だ。いきなりラインハルトのペースに巻き込まれれば戸惑いもするだろう。だが時間が無い。辞令を受け取ったこの時点から、きっちりラインハルトについてきてもらわねば。
「続いて内辞があります。この内戦終結後、ナイトハルト・ミュラー中将は大将へ昇進となります。軍服のオーダーを済ませてください。侯がオーディンにお戻りになれば正式に辞令が下ります。侯に新たな階級の身なりでまみえる事になりますので、間に合わせて下さい。」
ーーいよいよ意味がわからない。
弾かれたように顔を上げたミュラーは、だが言葉を発しない。無理もないが、時間も無いのだ。キルヒアイスは渾身の笑顔を向けた。
「どうぞ、気になる事がありましたら仰ってください。今の内です。」
まだ少年ぽさの残る光が零れるような笑顔に、何故か有無を言わせない圧を感じてミュラーは観念して口を開く。
「……恐れながら申し上げます。過分なお話で…正直戸惑っております。艦隊司令へのお話はともかく、昇進の内辞まで…。小官は…これまでローエングラム侯の下で働いた事はございませんし、この内戦でも武勲をもってお役に立つ事ができません。何をもって侯はそのように小官を取り立てて下さるのでしょうか。」
武勲も無しに『今度昇進だから軍服注文しておけ』とは、まるで以前から麾下に居て何らかの成果をもたらしている者の扱いだ。流石に口には出来ないが、『なぜ今さら』という思いが拭えずにいや増すばかり。
言葉の通りに戸惑う砂色の目に、キルヒアイスは指で自分の顎に触れ少し思案する素振りを見せてから答えた。
「そうですね……いっそ今から宇宙港へ同行頂いて、一緒に出征しませんか?」
「は…?」
真顔で示された提案は大将の内辞も吹っ飛ぶものだった。
「提督の艦隊や座乗艦の準備は間に合いませんが、通常の大型戦艦で別動隊を率いて頂くことは可能でしょう。武勲があれば何の問題もありません。」
「あの、閣下、」
「とりあえず本隊のいずれかの艦に乗って頂ければ移動中に侯が調整するでしょう。あ、今から搭乗に間に合う本隊の艦はブリュンヒルトだけですね。」
「すみません、お待ちいただけますか閣下。」
明らかに狼狽えるミュラーに、キルヒアイスは今一度表情を崩した。
「…できることならそうしたい。と言う話ですよ。」
ふふっ、と愛想良く笑うキルヒアイスを前に、ミュラーは言葉を失って、次に顔から火が出るかと思うほど赤面した。よく考えなくても、冗談だ。
「侯はずっとミュラー提督を麾下に招きたくて、今回の軍務省占拠でやっと提督を手に入れられるとお喜びでした。本当はこの出征に連れて行きたい…お1人なんです。」
その言葉にミュラーが赤いままの顔を上げた。思いもよらない言葉だった。
元帥府開設の際、ローエングラム侯がかねてから麾下にと決めていた人材を集めようとしたが、上官が手放さなかったり遂行中の任務の都合や本人の意向ですぐには異動が叶わなかった将官が他にも複数居ることが説明された。
ミュラーについてはエーレンベルク軍務尚書が頑として異動を許さなかったのだ。平民や下級貴族の将官は軽んじられていて、身分の高い貴族たちはいくら仕事ができても平民を重用するのは体面が悪いと考えている。事実、双璧をはじめ多くの有能な提督たちがすんなり配属された。
「貴族ではないミュラー提督をエーレンベルク元帥が出し渋るのは明らかに自分への嫌がらせだと、侯はかなり悔しがっておいでした。」
同時に、他の元帥に目をつけられるような速さでーーラインハルトの想定を超えたペースでーー中将にまで昇進していたミュラーに対してもラインハルトは不満タラタラだったが、それは黙っておこう、とキルヒアイスは思うのだ。
「侯はこの内戦後、ミュラー提督を今麾下にいる他の提督方と同列の実戦部隊司令官として使いたいのです。なので大将の内辞(これ)は、侯のわがままなのですよ。」
ラインハルトとしては使いたい者を使いやすいポジションに置きたいだけで、実際にキルヒアイスやオーベルシュタイン参謀長も一度の昇進で2階級上がったりもしている。が、現在中将で並んでいる実戦部隊の提督たちより先に軍務省の内勤だった新参者に昇進を約束するなどオーベルシュタイン参謀長が反対するだろうし、他の実績ある提督たちにも良くないとキルヒアイス自身も思う。何しろ最古参最年少のミッターマイヤー提督より若いのだ。そんな事情もありキルヒアイスが幕僚の他の誰にも知られないよう内辞を運ぶ事になったのだが、面倒事を引き受けたと言うよりはラインハルトのわがままを叶えるささやかな幸福に、本人としてはすこぶる機嫌が良い。
「それで、ミュラー提督にはこれから内戦が終わるまでの間に、勝ち戦の武勲に匹敵するだけ働いて頂きます。よろしいですか?提督の昇進が他の提督たちから見て『侯のわがまま』になるか、『正当な評価』となるかは貴方の働き次第なのです。」
『貴方の働き次第』と言いつつ、キルヒアイスには『ラインハルトのわがまま』と他人に映るような働き方を許すつもりは毛ほども無いのだ。
状況を把握するためにフリーズしかかっているミュラーの前に、キルヒアイスは命令書を差し出して次々と『宿題』を積み上げはじめた。
一つ、ミュラー自身が率いる事になる艦隊の構築、編成と演習
一つ、賊軍討伐のため軍務省を留守にするローエングラム軍務尚書に代わり、軍務省内部を掌握、管理。
一つ、軍務尚書の計画に従い、省内の業務整理、改善。
一つ、前線の軍務尚書と首都の軍務省庁舎の連絡、調整。
「オーディンに残った貴族関係のことはマリーンドルフ伯爵家が侯をサポートして下さいます。首都防衛はモルト中将の部隊が担って下さいます。軍務に関しては基本的に侯ご自身が前線から指示しますが、どうしてもこちらでのまとめ役は必要です。お願いしますね。」
「…すみません、お待ちいただけますか閣下。」
「省内にお詳しいミュラー提督が居て下さって良かったです。」
にっこりと人当たりの良い笑顔、丁寧で柔らかな物腰。でも実はまったくこちらの話を聞いていないな?
制止の言葉をスルーされてミュラーはひとつ小さく咳払いをして、ソファの上で姿勢を正した。さっきの『今から出征』の冗談より無茶苦茶な気がする。けれどローエングラム侯のサインが入った命令書がある。冗談では無さそうだ。
ミューゼル大佐だったローエングラム侯は自分の事を忘れずにいてくれて、麾下に招いてくれるようだ。喜ぶべき事だろうに、急展開過ぎて理解が追いつかない。積み上がる任務は先刻の艦隊司令の辞令とかけ離れるばかりか、今までの高等参事官の職権をもとうに超えている。とミュラーが眉を僅かに寄せるとそれを読んだように赤毛の上級大将はさらなる辞令の紙を命令書の上にかざした。
「これらの任務を遂行して頂くため、侯がオーディンにお戻りになるまでの臨時の辞令がこちらになります。司令官職と一時兼任して頂きます。」
「ーーお待ちください!」
今度こそミュラーは立ち上がって制止の声を上げた。差し出された辞令とキルヒアイスの顔を交互に見る。
辞令には、『代理』の文字こそ入ってはいるが…。
唐突にとんでもない辞令と命令を運んできたローエングラム侯の副官は、『急いでいる』と言っていたが、今は目下の将官の無礼に些かも気分を害した様子は無く穏やかに微笑んで見上げてくる。先刻見せた圧のある笑顔では無い。ミュラーは、自らの意志で口を開かなければならない。
立ったままのミュラーが口を開きかけ、また閉じる。飲んだ息を一つ吐いてからソファに座り直すのをキルヒアイスは静かに見守った。一度伏せられて、再度上げられた砂色の目が今度はまっすぐに青い目を見つめる。
「侯のご厚意と望外の厚遇に感謝の言葉もありません。しかしこのような大任、小官がエーレンベルク元帥の子飼いで、意趣返しにローエングラム元帥に仇なそうとする可能性を考慮しないのですか?」
昨夜武装兵を率いていたローエングラム麾下の司令官ははっきりミュラーをエーレンベルクの一派とみなしていた。
真摯で深刻な問いに、だがキルヒアイスは面白いものを見るように表情を綻ばせる。
「そうなのですか?」
「違いますが、それを証明する術を持ちません。2年近くエーレンベルク元帥の下で働いていたのは事実です。」
「なるほど。けれど真実ミュラー提督がエーレンベルク元帥や軍務省内の他の貴族を利するつもりであれば、これ幸いと黙ってこの辞令を受け取るのではありませんか?」
少し可笑しそうに言われて、ミュラーは返答に詰まった。
「ミュラー提督が既に他の貴族の派閥に取り込まれているのではないか、と言うのは実はそれほど心配していませんでした。もしどこか特定の派閥に寄っていれば、軍務省内では他の派閥に排除されたでしょう。提督が軍務省内で恙無く高等参事官の役職を維持している事が、どこの派閥にも属していない証だったのです。よく、無事でいて下さいました。」
その目の優しさに、ミュラーはいたたまれず思わず意地になって抗弁した。
「いえ、判りません。元帥の庇護で役職を維持していたのかもしれませんよ。」
言ってからそんな事は有り得ないのだ、と目を彷徨わせる。エーレンベルクほど高位の貴族になれば、仕える者もまた貴族なのだ。平民が1人どこへ行こうとまったく知った事では無い筈なのに、何度前線への転属を申請しても許可されない事を不思議に思ってはいたが、ローエングラム侯への嫌がらせだったと説明されれば納得しかない。
ころころと表情豊かな若い中将を前に、この調子でよく無事だったとキルヒアイスは内心息を吐く。歳は5歳以上ミュラーの方が上であるのに、驚いたり戸惑う表情は自分たちと同年代のようにも見える。
安全な後方勤務である軍務省には、若者から高齢の者まで多くの貴族将官たちが腰を下ろしている。命の危険があるため基本的には軍規が尊重される前線と違い、省内の人間関係は宮廷の社交に似ていて、平民のミュラーはいつでも貴族に排除されたり取り込まれて捨て駒にされる危険があったのだ。実際この2年近くはエーレンベルクに押さえられて飼い殺しに近い扱いだった。それでもここまで無事でいられたのは、平民であるミュラーに『所有者』となる貴族がおらず、故に貴族同士の派閥争いにも無縁で居たからだろう。
最初にミュラーの配属が却下になったあと、ラインハルトがミュラーを 呼び出して『本人の意向』を確かめようとしたのをオーベルシュタインとロイエンタールの2人が即座に止めた。ラインハルトやその麾下の者が接触したと知れればミュラーがローエングラムのものだと認識され、ラインハルトへの悪感情がミュラーに向かう。省内での立場が著しく悪くなり下手をすれば消される可能性さえある。平民の命はそれほど軽い。決して未だ見ぬ僚友の身を案じた訳ではなく、欲しい手駒を確実に手に入れたいなら機が来るまでこちらから一切コンタクトを取ってはならない、と2人が別々にラインハルトを諭していた。はじめ門閥貴族の常識など知った事かと言う態度だったラインハルトも、ロイエンタールがミュラーの立場をミッターマイヤーやキルヒアイスに置き換えて説明すると頷く他無かった。最終的に『軍務省内の最新事情に詳しい者も必要だしミュラーは情報の扱いが上手い。そのまま軍務省で働かせて軍務省を押さえたあとで色々聞かせてもらう』と渋々自分を納得させていた。
その後ミュラー本人から転属希望が提出されていた事で本人の意向は明らかになったし、それをラインハルトが拾い上げないことで、当時ありがちだった『ローエングラムに憧れる平民の1人』であってローエングラムの手の者ではないという体裁を保った。
平民がただの平民で居る分には身分の高い貴族達にとっては路肩の石のようなもので自分が歩くのに邪魔でなければ意識することも無い。が、もちろん邪魔だと感じれば片付けてしまう事に躊躇は無い。というのはロイエンタールの言い様だ。中将にまでなってしまっていると『小石』とは言い難いのでそろそろ貴族たちの視界に入ってしまうだろう、と彼は冷静にミュラー提督の獲得は困難と判断していた。平民のミッターマイヤーと共にあり昇進の度に他の貴族から彼を護りながらラインハルトの麾下へ駆け込んだロイエンタールの言葉には説得力があった。
そのあたりの経緯をキルヒアイスはかいつまんでミュラーに説明した。
「ただエーレンベルク元帥はローエングラム侯がミュラー提督を元帥府に招こうとした事を知る立場です。それ以降も、他の貴族たちにその情報を広めたり、提督を閑職に回して重要な会議から遠ざけたりした様子はありませんでしたね。」
それを防ぐ術はローエングラム側には無かった。ミュラーの身も危険だったと思うし、ミュラーから得られる情報も限られてしまう所だった。キルヒアイスが首を傾けて見せると、ミュラーも『言われてみれば』と少し考えてから答えを出した。
「…エーレンベルク元帥は公人として公正で自身の評価や品位を損なう事を嫌います。あくまで自身は『品行方正』に映るよう立ち回る人なので、噂をばら撒くタイプでは無いですね。自分だけが知り得る情報は手札として隠す方です。仕事で失点さえ出さなければ特に何も…。配属後に小官がローエングラム侯に直接まみえていたら話は違ったでしょう。むしろ監視のため目の届く位置に置かれていたのかもしれません。」
キルヒアイスは納得して頷いた。ラインハルトとともに軍務省に居たのは短い期間だったが、その時に得たエーレンベルクの印象と一致する。口実になる失点をエーレンベルクに見せず、今日まで高等参事官のポストを維持していた事をラインハルトは高く評価し、楽しそうに『宿題』の命令書を書いていた。
「あと省内の大御所によく遣いを頼まれました。本来の職務ではありませんが、尚書から声をかけやすく省内を自由に動ける位置で、便利に使われていた気はします…。」
そう言ってミュラーは3人ほど省内の貴族将官の名前を挙げた。
「…遣い、とは」
青い目が二度瞬きをする。いずれもエーレンベルク派と不仲の省内の面倒くさい高齢の将官だ。その3人もブラウンシュヴァイクやリッテンハイムの系譜に別れて互いに不仲だったはず。頑強な派閥志向でラインハルトが高等参事官でいた時は手駒を使ってくだらない嫌がらせを仕掛けて来たし、ラインハルトと同じ空気を吸うのも嫌だと重要な会議をサボタージュしたりしていた。
「言葉通りの『おつかい』です。先方がエーレンベルク元帥の電話連絡を受付けないので文書でお届けするのですが、先方の機嫌が悪いと元帥の副官や秘書官も門前払いされるんです。彼らも元帥の派閥なので。先方の派閥や他派閥の人間を巻き込むとまた別の面倒事の種になりかねなくて…ただの事務連絡なのに。」
目下のものが自室で在室のままTV通信を送る、という習俗は帝国貴族には無い。失礼にあたるため目下の者は高位の者へ用がある時は足を運ぶのが常識だ。軍務省という軍組織内ではエーレンベルク元帥が最高位なのだが、貴族社会的にはブラウンシュヴァイク家やリッテンハイム家、宰相リヒテンラーデに近く連なる者の方が目上なのだ。階級が大将や中将であっても。このねじれのために省内の連絡がしばしば難渋する事があった。
「……それで、提督なら受け取ってもらえたのですか?」
「はい。」
何でもない風に首肯するミュラーにキルヒアイスが驚く番だった。身分のねじれの事にはピンと来たが、高位の貴族への使者として平民を使えばそれこそ無礼だと怒りを買うのではなかろうか。その事を尋ねるとミュラーはまた少し考えるように首を傾げてから視線を戻して答える。
「ええと…大事な書類を鳩に括って送って寄越したからと言って、鳩に向かって怒る人は居ないでしょう?」
「……鳩……そうですね。」
キルヒアイスの肩が落ちる。ミュラー本人に害が無かったのなら何よりだ。高位の貴族がとことん平民を人間だと認識しないのが逆に幸いしたのか。キルヒアイスが軍務省に居た時は彼らから嫌がらせを通り越して命を狙われる事もあったし、反対に自分に仕えないかと勧誘を受けたりもしたが、それは金髪の孺子から『所有物』を取り上げようとする、あくまでも”フォン・ミューゼル”への嫌がらせだったのだ。
「小官が遣いで行くと、先方が怒ってその場でエーレンベルク元帥にTV電話をかけるんです。『平民を寄越すとは何事だ』と。元帥は自分の副官たちが出払っていて申し訳ないと不手際を丁寧に謝罪してさらに『態々御声を賜りまして』と丁寧に御礼を言ってから、元々の用件に入るんです。」
身分の高い者からTV電話を掛けることには問題が無い。用件は先方にも必要な連絡だ。高齢の将官は『お叱りの言葉』をつらつら並べながら尚書の用件に応えて不機嫌そうに通信を切る。
「可笑しいですよね。それで貴族は満足なんです。」
本人は思い出し笑いで困ったように眉を下げているが、ちょっと想像していたのと違う危ない橋を渡っていたようでキルヒアイスは軽い目眩がした。貴族に目をつけられないよう慎重に過ごすどころか、よりにもよって派閥違いの大御所の目の前を往来していたとは大胆な。一度でも誰かの機嫌を損ねればどうなることか。
「…それは…省内でエーレンベルク派とみなされる危険は無かったのですか?」
「大丈夫です、小官を便利に使っていたのはエーレンベルク元帥だけではありませんから。」
「…どういうことですか?」
今ちょっと看過できない事を聞いた。
真剣な表情で身を乗り出したキルヒアイスに気圧されてミュラーは背筋を伸ばしたが、別に非難されるような事はしていないので口を開く。語られた内容にキルヒアイスは今度こそ目を丸くした。
ラインハルトが高等参事官を務めたときは当たり前に貴族の将官たちから総スカンを食らい、嫌がらせ以外では誰も近寄って来なかった。その分、自由に仕事を探したり作ったりして、定められた会議以外は煙たがられながら好き勝手に参事官していた。実務にあたっている下級貴族や平民には感謝されたが、彼らは身分の高い貴族たちを憚って表立ってラインハルトを支持することは避けていた。ラインハルトもキルヒアイスもその時の軍務省での仕事は次の出征が決まるまでの暇つぶしに過ぎなかったので特に問題は無かったが。
ミュラーは省内の上級貴族――とくに古参組に仕事を振られていた。にわかには信じがたいがほぼすべての派閥とコンタクトがある。鳩替わりのお遣いから本来の高等参事官の範囲の仕事も与えられている。複数の派閥違いの大御所からある程度目をかけられて居たようだが、結局どこの派閥にも属して居ない。下級貴族から平民の層とも繋がりがあり、彼らが難儀しがちな身分の高い貴族への連絡を助けていた。一体どういうバランス感覚なのか。
「貴族の前では『私は所詮平民ですので』という態度を崩さなければ何ということはありません…」
本人はややはにかんで謙遜した。しでかしている自覚がない。
「どの家も平民を拾って養う気は無いので、首輪の無い野良犬に気まぐれに餌をやってる感覚なんですよ。よそで餌をもらったと野良犬に怒ったり、餌をやっているよその家に怒る人は居ないでしょう?」
鳩でも犬でもいつ捕まって飼うことにされたり処分されてもおかしくないのだが。それにしても言葉の中身に反して卑屈さや皮肉っぽさをまったく感じさせない。対面で話していると素直に『謙虚』と思える。柔らかな色合いの砂色の目をキルヒアイスは真剣な眼差しでじっと見据えた。目と同じ色の睫毛が一度上下する。
「…何か?」
尋ねる声は平静で、表情はきょとんとして見える。キルヒアイスはいま自分の表情が真剣というよりやや厳しい事を自覚しているが、それに対し怯んだ様子は無い。先刻までのミュラーの言動を思えば、『しまった』と思ったなら顔に出ただろう。目上の人間に対して機嫌を損ねたかと怖れはしないのだ。
「…1つ、確認させてください。ミュラー提督は省内で派閥に関係無く幅広い人脈をお持ちと分かりました。これからローエングラム侯の改革では提督と面識のある貴族も多く財産や命を失うと思います。上級貴族の中に、提督から助命や処分の軽減を願いたい人は居ませんか?」
ミュラーの誠実で情に篤い人柄は宇宙艦隊所属の将校らの間でも定評があった。軍人として高い能力を有しながら、身分や階級を超えて良好と言える関係を結べる能力を持ち合わせる人材は極めて貴重だ。キルヒアイス自身も無益な流血を望まないし、平和的に共存できる相手であれば門地や財産はともかく助命はされて良いと思う。だがラインハルトの目指す新しい世界のためには、安易に情けをかけて後の禍根とする訳にはいかない。見定めなければならない。
その問いを受けたミュラーも表情を改めた。ただ恩情を施そうと言う問ではない事は明らかだ。テーブルの上に視線を落として省内の顔ぶれに思いを巡らせる表情は、だがキルヒアイスから見てとても静かなものだった。そして再び顔を上げるまでの時間も短いものだった。
「軍務省内には居ません。」
静かに言い切るミュラーの砂色の目はやはり静かで透き通っている。
「別の場所には居るという事ですか?」
重ねて問うとその目が正直に揺れるのが見えた。
「はい。ですが聡明で理を知る方です。小官などが嘆願するに及ばず、賢明な判断をなさっていると信じます。」
門閥貴族たちの集まりに名を連ねてはいない筈。故に名を挙げる事はしない。と決意の篭った声が答えを切って判定を待った。
やはり、上級貴族の中にも気にかかる者は居るのだろう。それでも名を挙げないのは、この帝国においてラインハルトが成そうとしている事をミュラーが理解しているという事で、その貴族がラインハルトが軍人として気にかけている者の中に入っていると良いなとキルヒアイスは思った。それから一つ前の問で見せた透明な瞳の意味することを理解する。
軍務省内には、ミュラーが助けたいと思う上級貴族は真実1人も居ないのだ。目をかけられ仕事と評価をもらい、身分差を考えれば決して悪くは無い関係であっても。先刻から自分の事を鳩や犬に例えて話していたが、そこに卑屈さや嫌味を感じさせないのは、自分の事を鳩や犬だと認識している貴族たちをこそ人間ではない『そのような見識しか持たない残念な生き物』と見なしていて、そんな生き物に鳩だ犬だと思われても何の感慨も生じないからではないだろうか。だとしたら、貴族に伝書鳩代わりに使われたと腹を立て、溜め込んだ恨み言をぶちまけるより、ずっとずっと辛辣だ。キルヒアイスは唇の端が自然に上がるのを感じて片手で口元を隠す。
そこまで見離した相手とも円滑と言える仕事ができていたのだ。
文句無しの逸材だ。彼は、必ずラインハルトの役に立つ。
彼の人事をエーレンベルクに握られラインハルトの麾下に招けずにいた事が今更ながら惜しい。ラインハルトがミュラーに用意した『宿題』にも不安は無くなった。
口元を片手で隠して沈黙する上級大将を前にミュラーはまた「何か?」と問いたいのを控えて待った。しかし顔に正直に「何か?」と書いてある。キルヒアイスは目元も綻ばせて口を隠していた手を下ろし、深く長く安堵の息をはいた。
そして改めて2枚目の辞令を改めて差し出す。
「受けてください、ミュラー中将。貴方なら大丈夫です。侯には貴方が必要です。」
優しく青い瞳は有無を言わせない。けれど命令と言うには親しげで、紙の辞令の前に強ばったミュラーの指に、ほのあたたかく血が通う感覚がした。
この年齢で中将となると部下も自分より年上の者が多く、士官学校で付き合いのあった同期たちと対等の身分で話す機会も無い。もし、『同じ年頃の同僚』が居たなら、戸惑う自分の手を引いてくれたなら…こんな感じなのかもしれない。
「謹んで承ります。」
辞令を受け取らせるとキルヒアイスはすぐ『宿題』 の説明に入った。
通常の業務に関しては基本的にラインハルトからの指示に沿って省内をまとめてもらえれば良いが、ミュラーが主体となって成し遂げてもらわなければならない仕事がある。新たな艦隊の構築。人事部や造兵廠と協力して艦隊を1から組み上げる。そして運用試験と演習。 内乱が終わるまでに使い物になる艦隊を増設してもらうのだ。
「捕虜交換で帰還したおよそ200万人の将兵には基本的に3ヶ月の休暇を与えてあります。6月中旬に休暇が明け、すべての帰還兵がそのまま退役するか復帰するかを選択できますが、イゼルローンからの帰りの船内で行ったアンケートでは3ヶ月を待たずに復帰を希望する者が多いようです。新設の艦隊は、その復帰する将兵を中心に構成していただきます。こちらを。」
そうしてキルヒアイスは自分の携帯端末をテーブルに置き、ミュラーに映像を見せた。
ローエングラム侯のビデオメッセージだった。語られる内容から、捕虜交換式で帰国した元捕虜たちへの言葉であることはすぐにわかった。
ーー勇戦むなしく敵中に捕らわれた忠実な兵士たちに、帝国軍は名誉にかけてつぎの事を約束する。ーー
黒と銀の厳かな装いに身を包む若き元帥が真摯な眼差しで画面の中からこちらを見ている。軍の広報やニュース映像でその姿を見かける事はよくあったが、こうして真正面の映像を見るのは久しぶりだ。怜悧でありながら炎を宿す、蒼氷色の双眸が、画面越し、録画映像にも関わらず、こちらの視線を捕らえて離さない。
ーーひとつ、卿ら全員を、名誉ある賓客として迎える。捕虜となった罪を責めるがごとき残虐かつ愚劣な慣行は、これを全面的に排するものである。…ーー
その言葉はこれまでの軍の常識を覆すものでありながら、『これが誇り高き銀河帝国正規軍の本来あるべき姿だ』と力強く指し示す。
ーーわが兵士、英雄諸君。恥じるべき何物も卿らには無い。胸をはって帰国せよ。ーー
自分に向けられたメッセージではないのに、ミュラーは胸が震えた。このメッセージを受け取った将兵たちが復帰するのだ。
再生を終えたキルヒアイスが携帯端末を閉じる。
「侯のご意向を把握して頂くのにちょうど良いと思いました。」
理解はできる。ミュラーは躊躇わず頷いた。帝国を2分する内乱、何ヶ月…いや年内に決着しない可能性もある。その最中に自らの意思で復帰する200万近い将兵。多くは銀河帝国ではなくローエングラム元帥に忠誠を捧げんとするだろう。その主が不在で居場所も仕事も与えられないとなると、折角の忠誠も士気もみすみす鈍らせてしまうことになる。ローエングラムの名の下で仕事を与えなければならない。内戦が長引くなら選抜隊を組んで戦力補充にあててもいい位だ。200万人中50万人位は昨年イゼルローンで捕虜になったばかりでブランクも短い筈。
「平民や下級貴族は侯の大切な支持基盤です。将兵を扱うに際しては侯が常に彼らの味方であることをしっかり伝えて下さい。帰還兵の中にはずっと前に捕虜になり現在の帝国の情勢に疎い者も多いので、ローエングラム侯をただの新しい有力な貴族と思い、阿ったり侯の威光を振りかざして他者を虐げたり自分より立場の弱い者を従わせようとする貴族出身者も居る筈です。そのような、侯と軍の品位を損なうような真似は許されません。下の兵士たちよりも士官、士官より将官をしっかり選任、教育する必要が有ります。そのために、司令官となるミュラー提督に編成の段階から関わって頂きます。」
現在、帝国内政としてはラインハルトがリヒター、ブラッケ両氏に命じて財政健全化計画を進めているのだ。今のさばっている大貴族達は排除するが、帰還する捕虜の中にも元貴族は居て、平民たちに直接接する者たちの意識が変わらなければ『ローエングラム侯も所詮貴族』という批判の原因になりかねない。
「提督と同じように、これから侯が登用なさる実戦指揮官も居ます。そちらについては後日侯から指示があると思いますので、着任が叶いましたら協力して演習等の運用をお願いしますね。」
つまりは、ミュラー自身が率いる艦隊のみならずこれからローエングラム麾下に入る予定の司令官の艦隊も編成せよとの事だ。確かに200万人の大部分が復帰するとなれば二個艦隊近い人数になってしまう。
「門閥貴族たちとの戦いが終われば全艦隊の再編も行う予定ではありますが、他の艦隊からの補充が無くともすぐ戦えるよう整えて頂きたいのです。」
ここでまた疑問を感じてミュラーは注意深くキルヒアイスの説明を聞く。
軍に志願して来る民に関しても速やかに選抜を行い適格者はどんどん採用して教育と訓練を与えるよう注文があった。
しかし内乱への増援は予定しないと言う。
やはりだ、とミュラーは口元を引き締める。キルヒアイスはその表情の変化に気づいたが構わずに最後まで話し続け、一通り説明を終えてから質問を許した。
聞かれたミュラーの表情はやや堅く、目の前のテーブルの上を見つめて、どう問うべきかを思案する。目の前の上級大将には時間が無いのだ。躊躇う時間は無い。
「率直にお尋ねします。ローエングラム侯は門閥貴族を排除し、帝国の全権を握って尚、更なる軍拡をお望みなのでしょうか。」
1通目の、艦隊司令の辞令を受け取った時の疑問に立ち戻る。
帰還兵たちに仕事を与えるのは良い。士気高く働いてもらえるならそれに越したことはない。だがこの内戦に使う予定が無い艦隊の仕上げを、ここまで急ぐ理由も目的も判らない。内戦が終われば貴族たちが連れて行ってしまった正規軍の一部もローエングラム侯の指揮下に戻る。貴族の私有軍は一度解体された後に正規軍に吸収、各地へ『民衆を守るための軍』として再配置…と言ったところだろう。内乱で消耗はあっても、ローエングラム侯の改革と効率化により人的資源に不足は無い筈。新参の司令官とブランクのある将兵にどれほどの必要性があるのか。
ーーまるで、内戦終結後に大規模な軍事作戦でも予定されているかのような…?
緊張した声音で尋ねられて、キルヒアイスは意識して表情を消した。ラインハルトと自分の目指すものーーその核心を着く問いだ。恐縮した態度とは裏腹に無遠慮なまでに踏み込んできた。真摯なその目を、注意深く見守りながら静かに問い返す。
「…少々…意外です。ミュラー中将は控え目な方と聞いていましたが、ローエングラム侯の命に不服がおありか。」
その反問に顔色を変えたミュラーは、だが、相手の不興を買った焦りではなく、必死に訴える表情を見せた。
「身に余るお引き立てを頂きながら、非礼を申し上げる事は幾重にもお詫び致します。しかしお答え下さい。凡庸の身には、ローエングラム侯の深慮を推し量る術がございません。一時の事とはいえ、大役を仰せつかった以上、お留守の間に侯の意に沿わない選択をする訳には参りません。」
『懸命』と言うに相応しい態度で中将はなおも言い募る。キルヒアイスがあえて選んだ『黙って命に従えないのか』と言う問い対して。
今、彼とラインハルトを繋ぐのは、遣いで来た自分と命令書と言う紙切れだけに等しい。キルヒアイスは興味深く、だが表情には出さずつぶさに目の前のナイトハルト・ミュラーと言う人物を見つめた。
彼は今、ラインハルトの方針に異を唱えている訳では無い。自分の仕事がラインハルトの意に沿わない結果になる事を恐れているのだ。確かに階級にそぐわず物腰は柔らかで言葉選びも控え目だ。が、明確に譲れない線を持ち、必要とあれば疑義を申し立てる事を厭わない。現在ラインハルトの麾下にある諸将の中でもごく限られた者だけが知る、ゴールデンバウム王朝を討ち倒したその先のラインハルトの征く道に、気づきかけている。
4年前に1度だけ会ったあの日、まだ大佐だったラインハルトが、まだ中尉でしかなかったミュラー本人を前に『元帥府に招きたい』と言い出したときは驚いたが、あのとき親友の蒼氷色の瞳に今の彼の姿が映っていたのだろうか。長い付き合いだと思うのに、彼の人を見る目には今さら驚かされる。今日、ラインハルトの代理として自分がここへ来て、よかった。
背筋を伸ばし、真摯な眼差しで答えを待つミュラーは、一度堅く表情を隠した青い瞳が、静かに細められるのを見た。
そしてその低く落ち着いた声で語られる帝国の…ーー否、宇宙の未来に言葉を失う。
なんと言う事だ、とミュラーは目をみはる。500年続いたゴールデンバウム王朝が終わろうとしていることは実感できているのに、150年続く戦争の終わる日が来る事は、想像の外だった。今の王家が滅ぼうと自由惑星同盟という国と軍が変わるわけではない。良政により停戦協定が結ばれる事があったとしても、二国間対立の構図そのものは変わらない。戦いがあれば帝国軍は戦う。そう思い込んでいた事に気づかされた。
――終わる…?本当に?
これまでも前線の将兵は引き分けたり負けたくてその結果になった訳ではない。それで150年決着がついていないのだ。が、面倒な貴族の横槍が無くなれば?嫌々戦地に駆り出される平民兵が前を向けば?
ローエングラム侯はすでに王朝交代という大事を成しつつある。が、さらに先があるのか。
急に勢いを増した流れに足元を掬われそうな感覚を覚えてミュラーはひとつ瞬き、息を飲もうとしてその瞬間、昨夜見たオレンジの髪の中将を思い出した。不遜なまでの誇らしい笑顔、そして直後に閉ざされた扉。悔しかった。自分もあの扉の向こうへ行くために、今は一瞬たりとも戸惑ういとまなど無いのだ。
ローエングラム侯は叛乱軍を打ち倒し宇宙を統一する。門閥貴族を排除しゴールデンバウム王朝を滅ぼす事は通過点に過ぎず、この内戦の間も侯の巨大な構想のための準備を止めてはならないのだ。まるで、霧が晴れて行くような気持ちだ。
正直な砂色の瞳が揺れたのはほんのわずかな時間で、すぐに戦場に立つ者の目になった。キルヒアイスはそれを認めて小さく頷く。
「このことはまだ、幕僚の中でも限られた者しか理解していません。諸将には、今は眼前の貴族たちとの戦いに専念して頂かなければならないからです。叛乱軍には侯がその力をお認めになる智将が存在していて、此度よりさらに厳しい戦いになるでしょう。それでもご自身の手で宇宙を統一する事が、侯の目指す所です。」
キルヒアイスの紡いだ『智将』と言う言葉が、ミュラーの記憶に触れる。
「…ヤン・ウェンリー大将…」
「その名を、ご存知なのですね。」
「戦闘の記録は目を通しています。」
ミュラーは短く答えたが、アスターテ会戦も、叛乱軍の侵攻も、『帝国軍の大勝利』と報じられていて、事実ラインハルトが率いる軍の圧勝なのだ。イゼルローン要塞を無血で陥落させた叛乱軍の司令官は、ラインハルトの幕僚の中でこそ名が知れて強い警戒の対象となっているが、凡百な貴族将校たちの間では『ペテン師』『卑怯者』と卑下の対象となっていて、すこし階級が下がればラインハルトの軍の中でさえも彼とラインハルトとの直接の因縁を知るものはぐんと減る。それでもミュラーは、ラインハルトの指揮の外に居ながら『ヤン・ウェンリー』の名を知り、正しく評価できていた。
ではこの提督には、話しておいた方がよいだろう。キルヒアイスは心の中でもう一度頷く。
「…わたしは、先の捕虜交換式でイゼルローン要塞へ赴き彼に会いました。ヤン・ウェンリーと言う人物を初めて見ましたが、勇猛な軍人のようには少しも見えませんでした。そこにこそ彼の恐ろしさがあるのでしょう。どうか、侯に力をお貸下さい。」
静かに正面へ傾けられる頭、その目の前に、砂色の髪が深く頭を下げた。
「確かに承りました。かならずや、ローエングラム侯のご期待に応えましょう。」
型通りの拝命の返答、彼の抱いた疑義が解かれたのだとキルヒアイスは理解して、相好を崩し再度長く息を吐く。
「ミュラー提督と…もっとお話がしたいと思いました。軍務省にいらした間のお話も、たくさんお聴きしたいです。」
そう言って微笑みキルヒアイスが立ち上がったのでミュラーは素早く立って敬礼する。
「光栄です。ご帰還をお待ちしております。ご武運を。」
ミュラーの言葉は先程までと打って変わって簡潔だ。普段の彼の話し方はこうなのだろう。控え目で謙虚な為人は宇宙艦隊所属の将兵の中でも伝え聞いた。この面会の仔細を早くラインハルトに伝えたい。きっと喜ぶだろう。手に入れるまで長く待った分、この人事は実り多いものになる。答礼を返したキルヒアイスの右手が下ろされる途中で差し出されて、ミュラーも表情を綻ばせてその手を取った。
2人が揃って執務室を出るとドレウェンツが待機していて、既にキルヒアイス上級大将の副官が迎えに到着している事が告げられた。来た時は地上車だったが、迎えはヘリポートに来ていて、キルヒアイスはここから宙港へ直行する。ミュラーは見送りのためつき従って、廊下を急ぐ。
「今日は慌ただしくてすみません。」
「いえ、お時間を頂いてしまい、こちらこそ。」
「戻りましたら、改めて食事でも。」
「ありがとうございます、是非。」
おおよそ出陣直前の司令官との会話らしくない柔らかな言葉を交わしながら、長身の2人が(決して走ってはいないのだが)急ぎ足で進む姿は広い廊下に風が吹き抜けるようで、居合わせた武官たちは慌てて敬礼するもほぼ間に合わず 呆気に取られて見送ることになった。
「ミュラー提督!」
迎えの連絡艇に乗り込む直前、今一度キルヒアイスがミュラーを振り返る。唸りを上げる連絡艇のエンジン音の中で声を張る。
「提督の指揮下に入るのは敵に囚われ捕虜としての日々を耐え、それでも戦場へ戻ろうと決意した人たちです。忍耐を知る、良い艦隊になる事でしょう。よろしくお願いします。」
ミュラーはその言葉に、軍服を纏わないジークフリード・キルヒアイスという青年の為人を感じた。ミュラーも声を張って応える。
「はい!ローエングラム侯と閣下より確かにお預かりします。軍務省も、軍へ復帰する民も!」
ルビーのような赤い髪と青い瞳の青年が笑顔で頷いた。
連絡艇が飛び立ち、砂色の髪がその風に巻かれて乱れる。グレーの影が晴れた空に吸い込まれるのを、ナイトハルト・ミュラーはその空と同じ晴れ渡る色の心地で見つめていた。
ー了ー