ここは楽園だ。ああそうだとも、認めてやるさ。何者にも害されない、幸せな場所。あの人が望んだ理想郷。それがこの孤児院。それがこの夢の世界。
――だから、ああ、私がやってやる。おまえにできないというのなら、私がやってやる。夢はいずれ終わりが来るものだ。朝焼けと共に失われて然るべきものだ。
だってこれは夢だから。例えどんなに愛おしくて手放しがたい優しい夢でも、これは叶わないんだ、咲くことがないまま潰えてしまった蕾なんだ、おまえだって本当はわかっているはずだ。
青い空の下、白く優しい箱庭と、子供たち。その中央で、子供たちに慈愛を振りまく青年の目前。二つに結った髪を翻し、少女は一歩を踏み出す。
「”プレイアは買い物”、”ドグマは森の中”です。今しかないので話をさせてください」
琥珀色の瞳がじっとオラクルを見つめた。金色の瞳を持った青年は静かに少女を見て困ったように、しかしひどく穏やかに凪いだ顔で微笑んだ。顔のない子供たちがさあと姿を消す。不自然な程辺りが一気に静まり返った。花が、空が、孤児院が、息を呑んで二人のやりとりを見つめている。
「……話とは何かな?チコーニャ」
「帰りましょう」
率直に、まずそう伝えた。オラクルは数度瞬いて、ただ穏やかに微笑むだけだ。チコーニャも同じように笑う。望んだ返答が返ってこないことくらい理解している。
「いつまでもこのままでいられると思っているのですか」
「いられるよ。僕がそう望めば。」
「なるほど、現状を理解するくらいの理性は残っていたらしい。」
じ、とオラクルは黙って彼女を見た。続けるように促されたと捉え、チコーニャは目を眇めて続ける。義兄のように優しく諭し、背中を押してそうっと力添えをしてやるような光を、彼女は持ち合わせていなかった。彼女には厳しく叱咤することしかできない。故に、彼女は毅然とした態度で彼に対峙している。
「逃げ続けるつもりか?」
「……」
「犯した罪の重さがそんなに手に余るのか」
「……そうだと言ったら、きみはこのまま眠らせてくれる?」
オラクルが小さくそう口にした。チコーニャはいっそ悪人に見えるほどの凄惨な笑みを浮かべる。バチ、と何かが弾ける音がした。
「ここがどんなに幸せだろうと、生きて考えて笑ってくれる彼らはもうどこにもいないことくらいわかっているでしょう」
ぴくりと青年は反応を示す。チコーニャは淡々と、しかし感情の昂りを抑えきれないままに声を上げた。
「あなたにとって彼らを殺すという選択をしたあなたの決意はこんな都合のいいまやかしに負けるほど軽いものだったのか?」
もう一歩踏み出す。ごう、と音がして、少女の身体を雷炎の奔流が飲み込んだ。目を焼く光だと、ぼんやりオラクルは思う。それはまるで太陽のようで、間近で見れば目がつぶれてしまうと、オラクルは一度目を逸らした。
「――目を逸らすな!!!」
胸倉を掴まれる。それと同時に雷炎が弾け、鋭い視線が青年を射抜いた。散りゆく炎が美しく成長した彼女の瞳に宿り、まるで朝焼けの空のような色に染め上げる。
「目を逸らしてどうなる?私から、現実から目を逸らすな!一時的な逃避に何の意味がある?逃げ続けた先に何があるというのだ、答えられるものなら答えてみろ!お前が欲しかったのは逃避の先にある虚空か!?」
彼女のよく通る声が響き渡った。オラクルの夢、希望、欲した未来その全てを見つめ、その上で彼女はそれら全てを食らい飲み干そうとしている。
見届けてなるものか、認めてなるものか、許してなるものか、お前がこの世界に留まり続ける結末など。苦しみもがき、全てを変えて手に入れた本物ならば認めよう、讃えよう。お前が勝ち取ったものだと賞賛し、大人しく見守ろう。
だがこれはなんだ?他者から与えられた玩具箱に過ぎないじゃあないか。例えどんなに精巧に作られていようが、ここにいるのは偽物だ。故に彼女は、目の前の恒星に命を吹き込まれた太陽は、決してこれを認めない。
「自分が犯した罪が忘れたいほど罪深いものだと自覚しているのならば!逃げるんじゃない、正面から向き合い続けろ!!――そうしておまえが現実を生き続けた結果救われた者がここにいるんだ!!」
オラクルは呆気に取られたような、何かを不意に突き付けられたというような顔をして、それから表情を歪めた。
全て自分が蒔いた種だと彼女は言う。こうして彼女が迎えに来たのも、外でカノープスが自分の為に戦っているのも、他の誰でもないオラクルが苦しみ抜いてそれでも尚生き続けたから生まれたものだと、彼女はそう言っていた。
「抗え、藻掻け、戦い続けろ。おまえが無理だというのなら、私が引きずってでも連れていく!ここで夢に溺れることなど他の誰が許そうがこの私が赦さない!!」
それは正しく太陽だった。どんなに足掻こうがやがて空を照らし、夜を追いやって朝を連れてくる、太陽だった。いっそ、いっそお前の言うこと全てが自己中心的だ、最低最悪の傲慢女だと罵って追い出してしまえれば、どんなに楽だっただろう。
「……ちょっとばかり、」
黙っていたオラクルが言葉を零した。雰囲気がオラクルからプロキオンのそれへ変わる。
「ちょっとばかり、気持ちよく眠ってただけなんやけどなぁ。」
困ったように、穏やかに。けれど先ほどよりも随分としっかりした表情で、プロキオンはそう言った。
「人の触って欲しくない、柔いとこかき回す厄介な奴さんや」
降参だと言うように、笑う。望まざるとも夜明けがやって来てしまったから、彼にはもう目覚めることしかできないのだ。
子供たちの笑い声が響く。二人は夢が崩れるまでの束の間を、静かに見守っていた。プレイアが楽しそうに笑いながら子供たちと遊んでいる。ドグマが子供たちと一緒に夕食の準備をしているのが窓から見えた。今日の夕飯は何だろう。それを食べることはできないのだが、チコーニャは何となくそう思った。
「僕の本当の望みってこんなちっちゃなものやったんやなぁ」
ぽつりと、オラクルの姿のままプロキオンがそう呟く。胡坐をかいて座っているが、オラクルの姿ではあまりに似合わない。
「カノ君たちが夢使いの星食い倒したら、この夢も終わってしまうんやな」
寂しそうに、懐かしむように、惜しむように。プロキオンは目を細めながら、眩しそうな顔で彼らを見つめた。それが偽物でも、虚像でも、ああ確かに幸せな時間だった。
「……二人を殺したのは紛れもなく僕で、その罪は僕が一生背負っていく。その覚悟も勿論ある。」
隣に立って子供たちを眺めていたチコーニャは、それから静かに目を逸らすとプロキオンを見た。先ほどのチコーニャの言葉に対する回答のつもりだろうか。何を言うでもなく、チコーニャは続きを促すように隣に座った。
「でも……ま、お恥ずかしい限りなんやけど、中々過去からは逃れられへんのやな。……二人を殺さないと脱出できない、とかやなくてよかった……」
力ない声音だ。しかし、チコーニャはそこで彼の顔を覗き込むほど無遠慮な人柄ではなかったので、ただ孤児院の方を見ていた。
「……どんな形であれ、この世界が幸福だったのは私も認めています。優しくて幸せで、けど手に届かなくて。どうしたって手放さないといけない夢が、小さいわけないでしょう。」
静かに、しかし本心からそう思っているのだとわかるくらいの感情を込めた声で、彼女はそう口にする。プロキオンがそれに対してどう思っているのか、推しはかるつもりもなかった彼女はただ反応を待たずに言葉をつづけた。
「色々な気持ちで心が軋んでいるのなら、それを私に分けてください。難しいのなら、少しずつでも。どうせこれから長い付き合いになるのですから。」
風が花びらを乗せて二人の元へやってくる。それが偽物だとわかっていても、あまりに柔らかく優しいので、チコーニャは目を細めた。この世界が悪意で出来ているはずなのにこんなにも優しいのは、きっとこの人の本質がそうだからだろうと彼女は声を出さずに笑う。もしも自分が悪夢を見ていたなら、こんなに優しくはないはずだ。
ぽす、と自分に青年が寄り掛かってくるので、チコーニャは一つ瞬きをして彼を見た。彼の髪が見えるばかりで、表情はやはりわからない。
「…正直応えた。本当に夢幻かってくらいリアルな二人にまた会えて……こうしたかったな、してあげたかったなってことができるなんて……本当に、こんなん情けなくなって……嫌になるわ」
たどたどしく、慣れていないのだとわかるような拙さで、彼はそう言った。言ったきり黙り込んでしまったので、チコーニャはいつものような憎まれ口を叩くこともなく。ただ腕を伸ばして彼を抱きしめ、優しく労わるような手つきで頭を撫でてやる。
膿んだ傷が癒えることも、彼にとっての贖罪が終わることもきっとないだろう。だけど、それでも彼女は彼がここで終わることを望まなかった。その望みに彼が応えたから、彼女はこれからも彼の傍に有り続けるだろう。
――願わくば、自分が彼を救えたらいい。そうでなかったとしても、彼の見い出した唯一の伴星が自分でなかったとしても。彼がいつか、いつの日か救われてくれるのならば、それでいい。
儚い夢が少しずつ崩れていく。幸せな世界が花びらに変わっては溶けて消えていく。子供たちがいなくなったからっぽの世界の中で、ただぽつんと残されたプレイアとドグマがこちらを見た。……寂しそうで、それでいて優しい視線を、これからの幸を祈る視線を。彼らはチコーニャに凭れて眠るかつての兄弟に向けていた。
そんな彼らも、ゆっくりといなくなっていく。それを見送りながら、チコーニャの意識も白い光の中に沈んでいった。
目を覚ます。プロキオンが寝ていたベッドを見て、そこに寝ていた痕跡しか残っていなかったので思わず飛び起きた。
「あ、おはよーさん」
「……驚かせないでもらえます?」
「えっ挨拶しただけやのに……」
窓の外を眺めていたプロキオンに何事もなかったかのように挨拶をされ、チコーニャは深々とため息を吐く。それに戸惑う彼を横目に、彼女はベッドに逆戻りした。
「なんやまた寝るんか?」
「寝ませんよ。ただ疲れただけっす」
天井を見上げる彼女の隣にプロキオンは腰掛ける。その手がさらりと髪を撫でたので、今度はなんだとチコーニャは彼を見上げた。
「……大きなったなぁ、チコちゃん」
「何を今更……。」
「なんやかんやおちびのままな気がしとったわ。」
優しげな視線を向けられて、何とも言えない居心地の悪さを感じた彼女はまた上半身を起こす。
「……何が言いたいんです?」
「嬉しいなあと。子供の成長は早くてかなんなあ。こりゃきっとお嫁に行く日もすぐやねぇ」
「………………」
思わずチコーニャはまじまじとプロキオンを見た。本気で言ってる?と言いたげな視線にあれ?とプロキオンは首を傾げる。
「……」
「え、何?なして僕の手掴んではるの?待って噛もうとしてない?ちょ」
左手をがしりと掴まれて焦るプロキオンの声を聴きながら、チコーニャは「あ」と大きく口を開いた。薬指をがり、と噛まれ、プロキオンが僅かに声を漏らす。じろり、とチコーニャが睨みつけてくるのを見ながら、彼は混乱を隠せないでいた。
「私が誰かの所に嫁に行くのではなく、お前が私のところに嫁に来るんだ。幼体の頃にも言っただろう?」
「え」
でもそれは子供のよくある冗談やろ、と言おうとして、しかしぬるりと傷跡の上を舌が這う感覚に黙り込む。実に愉快そうな、しかし隠し切れない怒りが滲み出ている笑みを浮かべてチコーニャが目を細めた。
彼の唯一が自分でなくてもいい?あーーーやめだやめだ、殊勝で健気な態度など傲慢な自分には似合わない。妹でも娘でもないことを知らしめてやる、そもそもこんな乙女心のわからん男に他の女が付き合えるものか。チコーニャはぐ、と強く彼の手を握った。
「これから精々覚悟しておくといい、唐変木めが」
ドスの利いた声を最後に、手が離される。しかしプロキオンは硬直したまま動かない。チコーニャはふん、と鼻を鳴らしてベッドに寝転ぶ。カノープスたちが部屋に入ってくるまで、プロキオンはそのまま硬直し続けていた。