ひゅるり、ひゅるり。風の音がする。カノープスたちはニブルヘル内のとあるビルの屋上にいた。一刻ほど前、人質に取られていた一般市民の代わりに人質になったリリーが表情の読み取れない目でこちらを見ている。立てこもり犯は彼女の腕を後ろで捻りながらゆっくりと後退した。その犯人の背中に翼が生えていることをリリーは知っている。
「いいか、それ以上こっちに来るなよ」
犯人はビルの屋上すれすれ、あと数歩下がれば落下するだろう場所まで移動する。足先の下で車が通っているのを眺めながら、恐らく自分を突き落とした後飛んで逃げるんだろうな、とリリーは考えた。カノープスたちがいかに身体能力が高いとはいえ、飛行能力を持っているチコーニャがこの場にまだ到着していない故に、自分の救出を優先すればそのまま逃走されてしまうだろう。
リリーはぐるりと目を回した。それからにぃ、と笑う。
「カノープス」
犯人は突然喋り出したリリーに驚き、カノープスは白百合に目を向けた。リリーはにこにこといつもの薄笑いで口を開く。
「私は平気だから、こいつよろしくね。」
そう言うと、リリーは後ろ手に握られた手を振りほどいた。不安定な姿勢でそんなことをすれば、当然彼女は真っ逆さまに落ちていく。
「んなっ!?」
飛ぶ準備も人を殺す覚悟もしきれていなかった犯人は動揺し、思わずビルの下を覗いた。それを見逃しはせず、無事に取り押さえられたがしかしリリーは落下中である。今から走って間に合うか、と思考の片隅でそれが絶望的なのを理解しつつカノープスは屋上の縁へ足をかけた。ぐっと壁を駆け降りようと踏み込み姿勢を傾ける。
そんな彼の耳に――どぽん、とこの場でするにはおかしい音が聞こえてきた。
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リリーは身体が落ちていくのを感じながら、小さく小さく呟く。
「着地任せたわよ、ドグマ。枷も外してあげる。一時的にね。」
ぐるり。どこからともなく現れた水流が円を描くように現れ、リリーの真下に球体を生成する。リリーはその中に飛び込んだような形で受け止められ、ゆっくりと下ろされた。リリーの足先が地面に着くなりぱしゃりとそれが弾け、何事もなかったかのように乾いて消える。
「人使いが荒いよなあ、ねーさんは」
「弟がいる姉はそういうものよ」
近づいてきたドグマにそう言いながら、リリーはびしゃびしゃになってしまった髪を掻き上げた。ビルの上からこちらを見ているらしいカノープスに軽く手を振って、かなり離れているのにも関わらず感じる怒気に肩を竦めてドグマを見る。
「怒らせちゃったみたい」
同じように肩を竦めるドグマを横目に、全身濡れ鼠のリリーは小さくくしゃみをするのだった。