ぴくりと指がはねる。
廃工場の片隅で座り込んだまま動けなかった。あたりには殴打痕が色濃く残る人間が何人も倒れている。さきほどまでの狂乱ぶりなど影も形もなく、今は妙に静謐な雰囲気が漂っていた。
ひとつ溜息をついて、上着のポケットからスマホを取り出す。匿名での通報をして、よいしょと立ち上がった。体のあちこちが痛みを訴えている。早く家に帰って風呂に入りたい。
若干足を引きずりながら歩きだしたところで、廃工場の出入口の傍に男が一人立っているのに気が付いた。長い黒髪を黄色いリボンでまとめた、15、6歳ほどの男だ。扉が蹴倒されたままのそこから差し込んだ月光で、男が立っている場所はより一層深い闇のように見えた。
「……助かった」
一瞬のためらいの後に礼を言う。いささか胡散臭いのは間違いないのだが、毎度正しい情報を与えられているのは確かであるし、その情報をもとに今日まで変なことに巻き込まれた友人を助けられているのは事実だ。ちょっと怪しいからって礼を言わないのも良くないだろう。それに彼の目的は知っている。
「大したことではない。私に礼を言う暇があるなら、もっと踊れ」
すごく嫌そうに言われて、肩をすくめる。
この男は人を探しているのだという。どこを探してもいない。気配は感じるが、追いかけてものらりくらりと逃げられる。探し人を捕まえる方法はただひとつ。興味がある事柄でおびき寄せるしかない。らしい。
自分が目をつけられたのが、トラブルを引き寄せやすいからだというのは説明された。探し人の眼鏡にかなうように、道化になれというのだ。
まあ、正直なところ、心当たりはある。そっと目を伏せる。ああ、今も。視線を感じる。気まぐれに興味を抱いてこちらをはるか上空からのぞき込んでいるような。
ただ今日はいつもの騒動を楽しむような感じではなかった。事が終わったというのに、なにを話しているのか、興味深げに感じているように思う。
「見ているのか……今、おまえを」
ぎりぎりと歯ぎしりが聞こえてきそうな声音に、おもわず身震いする。
この視線の主を探しているのだ、この男は。
同じ場に揃って、自分ばかりが注目されていることに今にも縊り殺されかねない殺意を感じる。しかし殺されない確信はあったので、必死にばくばくと走る心臓をなだめた。
「そんなところに……」
普段通りに喋ったつもりだったが、妙にかすれた声になった。
男が怪訝そうに見てくる。
「舞台袖に居たら、そりゃあ観客の視界に映らないだろう」
男は虚をつかれたように目を見開いた。と思う。
男が立っている場所はあまりに暗すぎて良く見えない。
黙り込んだ男をおいて歩き出す。疲れている。早く帰って眠りたかった。
「ただいま」
「おかえり。遅かったな」
リビングルームに入ると、ソファに腰かけてテレビを眺めている男が出迎えてくれた。
金色の長い髪はひとつにまとめられて、肩から前に流されている。
風呂に入ったあとなのだろう。
「そろそろ会ってあげなよ」
「私もかなり振り回されたんだから、少しくらいからかってもいいだろう?」
単刀直入に言ったら、そう返ってきた。説明がなくとも話を理解しているとは、つまりそういうことだ。
いたずらっぽく笑う男の仕草は妙に稚い。そうやって笑われると、養父の質の悪い悪戯を問い詰める気が失せてしまう。
「俺が殺される前には会ってあげてよ」
「まあ、そのうちな」