ナポリの六度は繰り返す(スケルツォ第二番) 胸ぐらが掴まれる。否、掴み返される。隈だらけの目が迫ってくる。突然の反撃に流々は何もできなかった。ごん、と音が頭蓋骨を通して響く。肌と肌が触れ合ったのだ。ということに気づき、怖気が走る。そのせいで、振り払うこともできない。
「そうじゃねーよ!」
直接脳に叩きつけてくる声。だが、この時ばかりはうるささよりも勝つものがあった。違和感。彼のこの声は。この音程は。
「歌っとらんわけやない、きうはもう歌えねーの。解ったら去れやこの能無し」
違う。これはきうではない。違わない。これは間違いなくきうだ。二律背反の考えが頭を支配する。久しぶりに怒り以外のものが湧き出ている。呆然。
息をつく音。その次に、思い切り突き放された。なんとかたたらを踏んで、尻餅をつくことだけは避ける。否、そんなことはどうでもよい。目を見開く。
口を開く。先ほど感じた違和感を認めるのは、絶対に避けたかった。複数の足音とともに警備員だかスタッフだか、人間が流々たちを取り囲む。そんなこともどうでもよい。再び興奮が湧き上がる。
「おい、まだ話は終わってない。お前はせっかく完璧に美しい声を持っていたのに、どうしてそれを捨てた? 許されると思っているのか 答えろ、今すぐにだ。なぜこんなところでゴミに等しい作品しか作れない学生どもとつるんでいる」
「これ以上貴様に話す義理はねぇよ」
腕が寄ってきた人間に掴まれる。先ほどの肌の接触で思い出した嫌悪感が蘇る。鳥肌が立つ。触れられるのはとんでもなく苦手だ。肌があっという間に痺れてしまう。目の前の砥ベ口、否、きうも同様で、迷惑そうに抵抗しかけて、しかし暴れるようなことはしない。
「離せだからもう用はないっつってんだろーが、なんでおれまで、ちょぉ話聞けや」
囁くような叫び。違和感が、また働きはじめる。きうはもう歌えねーの。頭の中で反響する。彼の声音の波は確かに一致しているのに、そのウィスパーボイスは彼のものではない。
認める必要がある。
他の方の迷惑になりますので。戯言とともに、ほとんど強制的に外に連れ出される。きうも一緒だ。もちろん殴られるようなことはなかったが、腕を引っ張られ、押し出され、そうして会場の外に出た。二月なかばのまだひんやりとした空気。息を吸うと、喉が刺されるような感覚がある。
流々は奥歯を噛み締めた。きうはもう歌えねーの。反芻する。
「……四一八」
「あ?」
眉根を強くひそめているきうを睨みつけ、絞り出すように声を出す。こんな風になるのは珍しかった。いつもは激情のままに怒鳴り散らすから。だが、今はそうではなかった。その理由は解らない。
「二二八、一六七。気持ち悪い」
「何の話や」
「周波数だ。お前の喋り方。歌うようになっていたくせ、微分音が出力されていた。お前は正しい数字を出せる。くだらん歌手どもと違って、常にアタックから音が一貫していた。それが」
「だから!」
大声で遮られる。流々は口を閉ざした。
本当に歌うように話すのであれば、最初の音の周波数は四一五.三〇五が正解だ。後の音も同様に、正しい数字が存在する。きうの喋りを聞いたことはなかったが、少なくともあんな風にはならないに決まっている。
一方、きうは顔を歪ませた状態で、しかし続きを話すことはなかった。
感情がフラットになっているのを自覚する。鎮火というのがふさわしかった。急激に消化器の中身をぶちまけられたように。
「……歌えない?」
ひどく淡々とした声で尋ねると、きうは舌打ちをした。
「そう言ってる。能無しが、せめて黙ってろ。もう終わりだ」
「能無しと言うのをやめろ。不愉快だ」
また沸々と憤怒が湧き上がってきた。なんだ? こいつは歌えなくなっただと? そんな馬鹿げたことになったのはなぜだ? 怒鳴るほどではまだない。
だが、『きうは歌えない』。その事実はこれまでの四、五年よりよほど流々の心臓に刺さった。
周囲に適応できたことなどなかった。
十歳の時に母親から引き剥がされた。施設で養育されるようになってから、流々には常に怒りがつきまとうようになった。調子はずれな歌を聞いては怒鳴り、なんの法則性も見られない絵を見ては怒鳴り、バランスを欠いた粘土の造形を見ては怒鳴った。創作物に対する怒りだけではない。誰一人として、流々の話すことを理解しなかった。スタッフの大人たちも含めて。それ自体は母親のもとにいた時と変わらなかったが、話が通じないたび、流々は怒った。考えていることを投げても、どこからも返ってこない。昔は何も感じなかったのに、感情で分厚くコーティングされるようになってしまった理由は解らない。
ただ、誰も得をしなかったのは確かだ。周囲は恐怖し、スタッフは困り果て、流々自身はもともとない体力をひどく消耗させられた。カウンセリング。投薬。何かと『病名』がついたらしいが、興味がないので覚えていない。少なくとも、薬を飲むのは気分が悪くなるので勝手にやめた。スタッフに注意されようと、薬によって自分の中が壊されてしまうような感覚に陥るのは嫌だった。カウンセリングもくだらなかった。何しろ、その相手ですら話が通じない。無意味。
その状況を唯一好転させたのが、『築詩きう』だった。施設の共有スペースで流された彼の歌声。ちょうど、ある子どもに怒鳴りつけているところだった。だが、その音を聞くと、感情の暴走が引いていくのを感じた。とうとう流々が黙ったとき、目の前の子どもが目を丸くして驚いていたのが見えた。
それからも、きうの歌の効果は絶大だった。興奮がフラットへと移行する。薬のように強制的に押さえつけられるのではなく、自然と。流々はきうの歌の詞の全てをそらで覚えた。だが、詩よりも彼の声音、音程、歌い方、その全ての方が重要だった。美しかった。虚数の入り混じる完璧なグラフ。
それから、落ち着かなければいけないと判断できたときは、ずっと彼の歌を聞いている。
「歌え」
流々は静かに言った。本当に珍しいことだった。
「人の話聞いてたか」
「歌え」
三歩ほどの距離。一歩詰める。きうは怯んだ様子はなかった。後ずさらなかったし、表情を変えなかったからそうなのだろう。ただ、しかめている。
「歌えないのかは僕が判断する。歌え」
「貴様に判断される筋合いはねぇ」
否。きうの様子は変わっていた。と思う。顔が青ざめている。体調を崩したときの反応だ。
だが、流々にとってはそれは無視するべきものだった。そもそも他人の状態に興味がないし、今は流々が切実な思いを抱えていた。
彼が『きう』なのか『砥ベ口』なのか、判断をつける必要がある。それは、もしかしたら流々の精神の生死にすら関わるような、そんな気がして。
突如として、感情の糸がちぎれそうなくらいに張った。声も張る。
「歌え! 築詩きう!」