I don't need anything but you 依頼が無事に終わり、依頼人を自宅に送り届けて自宅に戻ると、リビングと、客間の壁に、風穴が開いていた。
香と車の中からアパートを見上げ、ふたりでぽかんと口を開けた。
「なに、これ」
「なん……だろうなぁ……」
翔子くんがセスナを突っ込ませた時によく似ているが、違うと言えば、何も刺さっていないことだ。ただ、くり抜かれたような風穴が開いていて、トリックアートなら良かったのにな、と香に言ったら、バカ言ってんじゃないと怒られた。
香が、枕を抱えて隣に座っている。深夜0時、風呂上がりの生乾きの髪をタオルで拭きながら、今夜のことを考える。かれこれもう五分くらいこうして黙って座っているが、寝る場所がここしかないのは明白だ。
枕をもってこいと言ったのも自分だし、ここで寝ればいいと言ったのも自分だが、実際、こうして2人きりになると、途端に何を話していいのか、わからなくなってしまった。
いつも2人で暮らしているというのに。香と2人で生きる毎日は当たり前すぎて、香といると、気を張ることも、何か話さなければ、と思うこともない。沈黙すら心地いいほどに、いつもそばにいるというのに、こんな時に限って、思考は余計な堂々巡りを始める。
普通でいい。そう思うえば思うほど、拳ひとつ分開いた隙間の距離を感じるのだ。
「あ、あの、さ、獠」
永遠のような沈黙を、先に破ったのは香だった。
「うん?」
上擦った声が出てしまい、咳払いをして誤魔化そうとしたが後の祭りだ。隣の香を盗み見れば、枕を抱えた香が、じっとこちらを見上げてきていた。
「そろそろ、寝ない? 考えても仕方ないし、明日冴子さんに相談したらいいわよ。修理も業者に頼んでおくから」
香には、おれが今回の風穴について考えてこんでいるように見えたのか。風穴が開いたことも、誰がどんな目的でやったのかも、そんなこと、一ミリとて考えていなかった。
「そう、だな。じゃ、おまえ、奥な」
ドアの方に自分の枕を引っ張ると、香はその隣に自分の枕を置いた。そしてベッドに上がり、ベッドに膝をついてブラインドを下ろし、ヘッドボードのルームライトを灯した。
そして、香がベッドに入ったところで、電気のスイッチに手をかける。
「電気、消すぞ」
一度立ち上がり、部屋の電気を落として振り返ると、ルームライトのぼんやりとした灯りのなかで、香がこちらを見ていた。首の下まで掛け布団ですっぽりと隠し、身体ごと横を向いて、じっと見つめてくる香の、夜の微睡みに溶けるような眼差しに、甘く射抜かれていく。
その瞳に、吸い寄せられるようにベッドに戻り、隣に潜り込んだ。
自分の腕を枕にし、向かい合うように香の方を向くと、あまりの顔の近さに息を呑んだ。
しかしいつも、こんな距離で話をしている。今更緊張などしないはずなのに、思えばこんなふうに見つめ合うことは、あまりなかったかもしれない。
「狭くない?」
問われて、思わず笑った。
「いや。まぁ、いつもよりは狭いがな」
「もっと、こっち来ていいのに。あたし、もう少しずれようか。後ろ余裕あるし」
そう言って、香が離れようとした時、咄嗟に腕を伸ばして、かけた布団の上から背中を抱いて、無理やり引き寄せた。気を抜いていたのか、香の身体は、あっという間に胸に抱く形になってしまい、驚いたのはこちらも同じだった。
「あっ、いや、まぁ、ほら落ちると大変だし」
「おち……落ちないわよ! あたし、寝相はいい方なんだから」
見上げてくる瞳と目があって、五秒ほど見つめ合ったあと、またお互いに、視線を逸らした。
「そ、っか。そうか。うん、そうだな」
「そうよ」
しかし、これ以上身動きが取れず、香も離れる様子がない。逃げられるかと思ったが、香は心地よい場所でも探す猫ような仕草で、もぞもぞと少し動いたあと、しっくりくる場所を見つけたのか、不意に動きを止め、胸に顔を埋めるように押し付けてきた。
「もう眠い。明日考えるわ」
香はそう言うと、ゆっくりと息を吐いた。香の体から力が抜けていくのがわかり、ただ触れてた香の体温が、胸を温める。
何を考えるのか。風穴のことか、それとも修理のことか。どちらでもないのなら、おそらく、自分と同じだろう。
「そう、だな。それがいい」
布団の上から香の背中を抱いたが、どうにも布団が邪魔だ。しょうがないから布団の中に手を入れて、背中を抱くと、手のひらに香の熱い体温を感じる。
「おやすみ」
囁く頃にはもう、香は寝息を立て始めていた。よほど疲れていたんだろう。依頼も長引き、家に帰ってきてみれば、リビングも客間もぐちゃぐちゃになっていたのだ。今日みたいな日は寝てしまうのが一番だ。
眠ってしまった香を抱き寄せて、体温を抱き、寝息を聞きながら目を閉じると、途端に睡魔が襲ってくる。こんな状況になり、眠れぬ夜を過ごす覚悟でいたが、香を胸に抱いていると、抱きしめられているような気持ちにすらなってくる。
この先のことは、明日考えればいい。キスがしたいだとか、その先に進みたいだとか、おまえを独り占めしたいだとか、そんなことは、明日ゆっくり考えるから。
今夜はただ、こうして寄り添い眠るだけで、ただそれだけで、何もいらない。