鯛の鯛という言葉があります。鯛の中の、確か肩甲骨のあたりだったでしょうか、そこに、それによく似た骨があるので、それを鯛の中の鯛なんて言うようになったという訳です。この鯛の鯛、めでたい魚である鯛の中にまたある鯛として大層な縁起物なのでありますが、実は人間にも同じようなものがあります。
喉仏です。
そもそも喉仏というのは、喉にある骨の形が座禅を組んでいる人間の形に似ているからそう呼ばれているという話です。人間の中に存在する人間と解釈することもできるわけですね。
さて、本題に入りましょうか。
ここはとんでもない山奥なわけですが、ここから少し進むと沼があります。これはあくまで噂なのであまり本気にはとらないでほしいんですけど…
このあたりに住んでいた人は今ではほとんどいませんが、その昔、集落があったころ、この沼は神聖視されていたようです。豊作は沼の神の恵み、飢饉は沼の神の怒り。そのように解釈し、民はこの沼を代々祀っておりました。
祀る、という行為は様々ありますが、代表的なものと言ったら捧げものをすることですよね。昔であれば人身御供もそんなに珍しくはないでしょう。この集落も例外ではなく、何か困ったときに捧げものをしていたようです。主に捧げられるものは
人間の喉仏でした。
人間の代わりではあるが、同等の価値を持つものとして。彼らは喉仏を神に捧げ続けました。基本的には犯罪者など邪魔者の死体、次に同胞の死体から。それでも足りないときはやはり人間を捧げたこともあったようですが。
まあ、そんなわけで。ここらの昔の死体というのはすべて喉仏が無いのです。
そして沼の底には未だに大量の喉仏と、たまに一そろいの人骨と、儀式が形骸化して代わりに沈められるようになった陶器が沈んでいるわけです。今でも人間の魂がうろついているらしいですよ。神に捧げられた人間の魂が。
ああ、そういえば、その魂と言いますか、幽霊は、皆、喉がえぐれているらしいです。もちろん声帯もなくなっているので喋れない。興味半分で沼のあたりを訪れた人はひゅう、ぜひゅうという多少濁った、筒に空気の通る音に近いものを聞くそうです。なので、まあ、くれぐれも気を付けてくださいね。
染井「というわけでいきなりですが肝試しです。件の沼に目印の木片を置いてきたので一人一枚取りにいってください。」
茅菜「ふざけんな!」
という話を書きたかった…