過去と今と未来へと『プロローグ』 雛菊
中央の国にも冬将軍が訪れ、色付いた木々たちもすっかり葉を落としてしまった。
きっと北の国はすっかり白銀に塗り潰されている頃だろう。ネロは久しく見ていない景色へ思いを馳せをながら、オヤツ用にスコーンを焼いていた。
鼻歌交じりに生クリームをホイップしていると、背後に気配を感じて徐に振り返る。
香りに釣られたお子ちゃまたちか、それとも、小腹を空かせたシノかオーエンか。
立てた予想は見事に外れ、そこには困り果てた様子の晶が立っていた。
「賢者さん? そんな顔して、何かあったのか?」
「ネロ…あの、実は…」
北の国にある時の洞窟に程近い村から、"北の国の魔法使いに是非解決して欲しい"と大量に依頼書が届いた。その内容は魔物討伐から怪異解決までどれも深刻に綴られているが、中にはよくよく読むと大袈裟に感じる物も混ざっている。しかし、実際に軽度の依頼なのかは行ってみないと分からない。
スノウとホワイトは庇護する街の祭事があるため、二人は任務に行けない。かといって、残りの三人だけで向かわすのは不安が大き過ぎる。スノウとホワイトには「軽度の物は恩赦扱いにするから、ブラッドリーを単体で」と提案されたが、量が量なのでブラッドリー一人に抱えさせるのは申し訳ない。
はああと深い溜め息と共に吐き出された賢者の苦悩は、なるほど、依頼のタイミングが悪かったための儘ならないものらしい。
「なるほどね。…なあ、賢者さん。俺があいつに付いて行こうか?」
「えっ、でも…いいんですか?」
「ああ。そろそろ、星屑糖も仕入れたかったところだからさ」
ついでだよ、と笑いかけると、晶はありがとうございます助かりますと腰を直角に曲げるから驚いた。どうやら、晶の世界ではこの角度で頭を下げるのが頼み事をする時の習わしらしい。
ブラッドリーと表立って関わるつもりはないが、イェストゥルムのせいで晶には過去の繋がりを知られてしまっている。北の出身である事も。
だからこそ、困っているなら自分が出ないわけにもいかない。
依頼が大量とはいえ軽度の物が多いはずだから、きっと二、三日でこなせるだろう。
かくして、ネロとブラッドリーは二人で北の国へ任務に赴く事となった。
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『旅立ちの表情』 ぽの
「ったく、双子のじじいども、俺様の扱いにも程があるだろ……まあいいけどよ」
悪態を吐きながら出発の準備をするブラッドリー。その隣には彼の一番の相棒であるネロが呪文を唱え箒を出現させている現状があるのだから、悪い気分ではないのもまた事実だ。
「ほら、口動かすヒマがあんなら手ぇ動かせ。さっさと出発すんぞ」
箒に跨ると、アドノディス……と再び呪文を唱え、ふわふわと宙に浮き出す。ブラッドリーもそれと揃いの文字並びで始まる呪文を唱えネロに続いた。
日が昇るかどうか。まだそれくらいの時間の中庭は少し冷えていて薄暗く、いつもとちがう表情をみせた。
ただでさえ天気が荒れている北の国は夜になると天候が悪化しやすいため、早めに魔法舎を出て夜には依頼の地に着くか、はたまたその付近のどこか羽を休めることができる場所まで飛んでおきたい、というのはブラッドリーの意見だ。無茶をして敵陣に突っ込んでいくような性格のブラッドリーだったが、こういうところは策士、さすがは頭のキレる賢い頭領といったところか。
相方の横顔をみつめ、そんなふうに少しばかりかっこいい、と憧れと感心、そして少しの畏怖の気持ちを抱いてしまうのもまたきっと早朝の中庭のせいだとネロは思った。
「二人とも、すみません……よろしくお願いします」
「おうよ、俺様に任せとけ!」
「賢者さん、見送りありがとな。寒いから風邪ひかないように」
朝早いにも関わらず律儀に見送りに来てくれた賢者にそれぞれ一言ずつ告げると一気に空高くまで飛び上がった。
役割を分担することに慣れているブラッドリーとネロは何も言わずともまずは今の天候を確認しようとそれぞれ別の方角に目を向けた。
ネロは東、ブラッドリーは西。
東の方角をみるとうっすらと空が赤くなり、朝日が昇り始めているのが見える。もうじき朝がやってくる。
一方で西の方角はまだ青く、暗い夜があった。ところどころに星が瞬いている。
特に天候に左右されることは無さそうだと判断し、二人は箒を並べて北へと向かった。
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『ひだまり』 涼雲
箒で滑空し始めて、太陽が正面に見えるぐらいには昇った頃。出発時から変わらず、髪が張り付くような鬱陶しさもないからっとした陽気だ。だからこそ、先程から鈍痛を訴える頭に首をかしげたくもなる。吹き抜けていく風は眠気を飛ばすように心地よい筈なのに、頭の中にはどんよりとした靄がかかっているみたいだ。大気の状態が安定していたのには救われた。これで強風だの、大雨だのが襲ってきたら、自分自身と箒のコントロールのために更に魔力を使うことになる。ブラッドリーの力で底上げして貰わなければ、元来の自分に魔力は大したこともない、平々凡々だ。北の国では、とっくに石にされているぐらいには。コンディションが悪い時になれば猶更だ。そうなれば、余裕綽綽、悠々緩々と言わんばかりの隣の男にも当然迷惑をかけることになる。着いていくと言った身分でお邪魔虫は流石にいたたまれない。こいつのがっかりした顔は、見たくない。
こういった時に、余計なことは考えないのが得策だ。ただ箒を目的地に向かわせることだけに集中すれば良い。きっと幾分か、マシに動ける筈だ。
またこれだ。隣に並ぶことを考える前に、障害にならないように、ブラッドリーの進む道を妨げてしまわないように。そんな思いばっかりが支配する煩わしい思考に嘆息を漏らす。誰にも聞こえないように吐き出した小さいそれを、こいつはしっかり拾い上げてしまったらしい。ゆるりとこちらに視線をやったブラッドリーは、顔を見るなり眉を顰めた。「おい」と呼びかける声に少しばかり呆れたような何かが滲んでいて、ぴくん、と肩が揺れる。
「しんどいなら、何でそん時すぐに言わねえんだよ」
「……別に、天気も荒れてねえし」
自分から着いて行きたいと言い出した身だし、と滑らせそうになった口は辛うじて塞いだ。ブラッドリーは「そんなに俺様は頼りねえか」とぶすくれた子どもみたいな顔をして箒をそばに寄せてくる。腰から抱きかかえられると「細せえ腰」なんて言いながらブラッドリーの後ろに乗せられた。自分の箒は魔法で消されてしまったから、自動的にこいつに身を預ける形になってしまうわけで。大の男に細いは無いだろ。そう思うけれど、掴まったこいつの体は自分より逞しくて、温かくてとくん、と胸が跳ねた。進路を変えた箒がどこに向かい始めたのかはすぐに分かった。北の国にある麦畑はごく少数だ。かつて、ブラッドリーとの関係に相棒という名前がついていた頃は、アミュレットにするためにと、よくそこから麦穂を取ってきてもらっていた。
「迷惑かけて、悪い」
弱々しく吐き出されたそれに、何を咎めるでもなく、ブラッドリーは言った。
「昼飯」
まったく関係の無いワードが飛び出したものだから、数秒固まってしまう。気の変わりやすいこいつらしいと言えば、そうなのだけれど。
「は」
「だから昼飯。何だよ?」
「えっと、チキンメインのバゲットのサンドイッチだけど……。一応、おかわり付き」
よっしゃ、と大袈裟にガッツポーズを決めたブラッドリーは、箒のスピードを速める。食感が硬くて、腹に溜まりやすいバゲットがこいつのお気に入りだ。サラダを出した時もそれぐらい喜んでくれよ、とぼんやりと思う。それでも、悪い気はしなかった。
「いつもの麦畑で昼飯な」
「ごめん」と謝罪を口にした俺にブラッドリーは向き直る。にっ、と歯を見せて笑いかけられた。空に浮かんでいる太陽にも負けないような、ひだまりの笑顔は、間近で見ると、そのままルビーのような瞳に吸い込まれそうになってしまう。
「おまえは休みてえ。俺様は腹が減ったからてめえの飯が食いてえ。それでいいじゃねえか」
わしゃわしゃと髪を撫でられる。馬鹿みたいに心臓がうるさくなった。言葉では、どう返して良いかわからないけれど。腰を掴んでいる手に力を籠めると、ふ、とブラッドリーが笑う声が聞こえた気がした。
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『懐古』 雛菊
百年もあれば、人々の手により土地はその様相を変えてしまう。西の国は特にその風潮が顕著だ。
一方で、北の国は他国に比べてそういった変化に乏しい。ミスラやオズが山を消し飛ばしたら話は別だが。
ブラッドリーの背に凭れながら、ぼんやりとネロはそんな事を思った。ネロが暮らした東の国も、西の国には及ばないが移り住んだ頃と比べて随分と様変わりした物だ。
なのに、ここは変わらない。
山も、森も、雪原も、まるでこの百年など無かったかのように、記憶にあるまま佇んでいる。
「なあブラッド、この森、覚えてるか?」
「あ? ああ、誰が一番狩りが上手いか競ったとこだろ。あん時は美味い肉たらふく食ったなあ。その数年後だったか、ここで山賊とやり合った時にゃ、狩りの時に地形把握してたから楽勝だったよな」
懐かしいな、とブラッドリーが笑う。
何処を見ても、この国には思い出が色褪せずに残っている。普段任務で訪れる時はエレベーターを使うし、こんな物思いに耽る心境にもならないのだが、この男と二人きりだとどうにもダメだ。
「お、見えてきたぞ」
その言葉にチラ、と目線を前方に向ける。
森を抜けた先、開けた地平線を馴染み深い黄金色が変わらぬ姿で彩っていた。
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『黄金の海で』 ぽの
……相も変わらず、ここは落ち着く。
無事麦畑に到着したネロはふぅ……と軽く息を吐いた。
その様子を隣でみていたブラッドリーは、ネロのやつ、よほど無理をしていたな、と思いながらも口には出さず、代わりに別の言葉を口にした。
「おい、さっさと座って昼飯食おうぜ。さっきメニュー聞いたときから腹が減ってしょうがねえんだ」
タイミング良く、ぐぅ……と腹の虫が鳴いた。
「ははっ、相変わらずなやつだな。はいよ」
ニカッ、と笑い、少し呆れたような、でもどこか嬉しそうにサンドイッチを取り出し渡す様は、いつものネロのそれだ。体調は順調に回復に向かってるらしい。
ブラッドリーは大きな口を開けてサンドイッチをがぶり、と一口で三分の一ほどを齧った。
市販されているサンドイッチやよくあるサンドイッチだと、大きく齧らないと一口目では具材までたどり着かないことがよくある。端まで具材が入っていることが少ないからだ。だが、ネロのサンドイッチは端までしっかりと具材が入っている。最初から最後まで、ブラッドリーの大好きなチキンを存分に味わうことができるようになっているのだ。しかも、今回はおこちゃま達に合わせた味ではなく、ブラッドリーが好きな味付けになっていた。
「うんめえ……!!」
「そりゃよかったよ」
ガツガツと頬張るブラッドリーとは対照的に、ネロはサンドイッチに合うようにと特別にブレンドした紅茶を一口含み、小さくサンドイッチを齧る。
この紅茶だってチキンのサンドイッチに合うように、あんたの好みに合わせてブレンドしたんだぜ……なんて繊細なネロの心遣いを伝えることは無かったが、ブラッドリーはしっかりとわかった上で紅茶も味わった。
おかわりもしたところで、お腹がいっぱいになった二人は少し休憩してから飛び立とうと決めた。
……これで少しは迷惑料払えたか。
隣で満足そうに寝転ぶブラッドリーを見ながらそんなことを思い、ほっと胸を撫で下ろす。
「……おいネロ、てめえなんかめんどくせえこと考えてやがるな?」
心の中を見透かすように、シトリンの瞳をルビーの瞳が真っ直ぐ射抜く。
「あっ、いや……」
「迷惑だなんて俺がいつ言った?」
「……悪い」
後ろめたさからか、自己嫌悪からか。ネロは視線を逸らすとそのまま地面へと向けてしまった。
違う。そんな顔をさせたい訳ではない。
「なあそんな顔すんなよ。昼飯、美味かったぜ」
ネロは視線を地面から外さないまま、少し微笑んだ。
自分のマナエリアだからリラックスしているのか。ネロの心の内に秘めた感情が、名もない感情が激しく踊り始める。嬉しい、悲しい、怖い、切ない、愛情、憎悪、拒否、拒絶……様々な名前がついた感情を全てまとめたような、言葉にできないもの……忘れようとしていた、忘れてしまった方が楽になれるような、そんな感情ばかりだ。
ネロの表情が浮かないことを心配したブラッドリーは瞬間的にネロにとって最善だと思われる策を練り、伝えるべく口を開いた。
「……少し昼寝でもしていくか?」
ブラッドリーにマナエリアでの滞在延長を提案され、心地が良いネロはもちろん断ることもせず快諾した。
ブラッドリーの隣に横になる。
いつぶりだろうか。周りの目を気にせず、堂々とブラッドリーの隣に居ることができるのは。
目を瞑ると、先程話していた森での話が浮かんでくる。
山賊とやり合った森。楽勝だった。懐かしいな。
ブラッドリーはそう言って笑っていた。その横顔を思い出しながら、ネロはまた違った感想を抱いていた。
……あの時も、俺はブラッドのお荷物になっていた。山賊とやりあった時、ブラッドは相変わらず突っ走って一人で出ていって。いつものことなのに、危険を伴う咄嗟のその行動に、いつの日からか身体も技術も感情もついていかなくなった。
てめえは俺の相棒だ、盗賊団のNo.二だ、だの言われてしっぽ振って喜んで。
でも、俺は実際にお前になんかしてやれたのか? 役に立ったのか? なんで俺みたいなやつがお前の隣に居るんだ? もっとお前の相棒に向いてるやつなんて他にいくらでも……
『お前しかいねえんだよ、ネロ』
矛盾する俺の感情は、ブラッドのそんな言葉をいつまでも期待した。
確認していたのかもしれない。あいつから向けられる俺への……あいつの言う、相棒とやらへの愛情を。何度も、何度も。
言葉なんてその場の感情一つで簡単に変わってしまう脆いものなのに、分かっていてもそれにすがりついた。そして、ブラッドは変わらず俺にその言葉をくれた。数え切れないほどのその感情を言葉に変えて、俺にくれた。
しっかりと届いたその言葉に俺は救われた。
だが、俺の言葉は何ひとつとしてブラッドに届くことはなく、ブラッドを救うことはできなかった。
これまで色々あったが、最終的にはもう二度と会うことはないだろう、という形で決別した。もうそれで全てを終わりにしようと、さよならをした。
はずだった。
お互いが賢者の魔法使いとして召喚され、バッタリと魔法舎で再会した時には、長い魔法使い人生の中でこれ程驚くことは今までにもなかったしこれからも無いのでは、とさえ思えるほどに衝撃を受けた。そして、過去が過去なだけに、「おう、ひさしぶり。元気にしてたか?」
なんて、賢者さんが言ってた同窓会なるものの定型文が応用できるはずもなく、微妙な距離を保つ日々。
そんな状況でも、ふとした時に魅せられるブラッドの仕草の一つ一つに、俺の心臓は凝りもせず、飽きもせずに心を踊らせている。
今だってそうだ。
「ふぁっ…………よく寝たぜ……」
昔と変わらない、盗賊団のボスだとは思えないようなマヌケな欠伸をするこいつをみて、胸を躍らせ、更にどこか安心している自分がいる。
全く、自分でも呆れる。
「あー、そろそろ行くか。あんまり道草くってると双子のじじいに何されるか分かんねえ」
十分に休憩したブラッドリーとネロは片付けを済ませ、後は飛び立つだけの状態となった。
こうして立ち上がってみると、腰より少し上、少ししかないが大きいものだと顔の高さまでの麦もある。寒さが厳しく、天候の変化も激しい北の国にも関わらずよく成長しているなあと関心していると、少し強めの風が吹いた。
数少ない大きく成長した麦の、さらに丁度ブラッドリーの顔の高さ程の麦がふわふわと揺れる。
「……はっ、」
「……?」
ふわり、ふわり、と何度か鼻先をくすぐられては、さすがの泣く子も黙るブラッドリー様も我慢できないアレ。
「……?! おい、ブラッド! まて、まさか……」
「はっ、はっ……ぶぇっくしょん!!」
麦畑に響き渡るくしゃみ。
スパン、と目の前からブラッドの姿が消える。
「まじかよ…………」
何もこんなタイミングで……と呟くネロの声は、麦が織り成す黄金の海に溶けて消えた。
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『そこに残るもの』 涼雲
快活そうな声が消え失せた麦畑は風のそよぐ音が聞こえるばかり。涼しい風が吹き抜けては、麦が波打つように揺れる、黄金色の海。そこに溺れている間は、自分の煩わしい頭の中身を吹き飛ばしてもらえるような気がするのだ。まあ、自分はそんな面倒な思考回路を作り上げた元凶と、まさに先ほどまで一緒にいたわけなのだけれど。
「さて、どうしたもんかね」
一度大きく深呼吸をすると、体内で魔力が充満していくのが分かる。元々、コンディションの悪い状態でここに来たわけで。その分欠けていたものが取り戻されるのを強く感じられるのだろう。夕暮れ時の傾いた日を受けて輝く麦穂たちは、その中に溶け込んでしまいたくなる程美しいのだけれど。残念ながらここで悠長に過ごしている場合ではないらしい。
とはいえ、体をここで休めたのは正解だった。俺の言う通りだったろ、と頭の中であいつが誇らしげに言っている気がする。これで失踪さえしなけりゃ完璧なんだけどなあ、と思わず笑みがこぼれる程度には自分も余裕があるらしい。ブラッドリーがつい先ほどまで立っていた位置にある麦穂を数本拝借して、呪文を唱える。紐でくくられて束になった麦を自分が乗ってきた箒に取り付ける。アミュレットの力と、太陽が雲に隠れてしまう心配もなさそうな見事な晴天。それから万全になった自分の体を引っ提げて飛び立てば目的地には夜までに到着できるだろう。
「くしゃみをするとどこかへ飛んで行ってしまう」と初めてあいつから聞かされた時は、なんだその捻りに捻った冗談は、と思ったけれど。あらためて考えてみればブラッドリーだから何とかなっているだけで随分と厄介なものを寄越してくれたな、というのが本音だ。実際、力の弱い魔法使いが北の豪雪地帯に飛ばされたら? マグマ溜まりに突っ込まれたら? 生理現象かつ体一つで飛んでいくわけなのだから、対策をしようにも、といったところだ。二人で相棒と盗賊団の名を背負って駆けまわっていた時から、有事の際に備えて必ず落ち合う場所は決めている。「少しでもまずいと思ったら魔法舎に引き返せ。例の村は何があるか分からない以上、問題が無くても時の洞窟で待っていろ」がブラッドリーの指示だ。賢者が受け取った依頼書に目を通した時に、自分は内容が妙に大袈裟だとは思ったけれど。あいつはそれ以上のきな臭さを感じ取ったのだろう。ブラッドリーの持つ警戒心や勘の鋭さは北の弱肉強食の世界で培われたものだ。少しも鈍っていない。魔法舎に来てから随分と周りにも気を許しているけれど、決して甘さや穏やかさにのまれて腑抜けるような男ではないことは、自分が一番知っている。その危険に奴は自分から突っ込んでいくタチなのが困りものではあるが。あいつ程ではなくても、長年生きていればそれなりに身に付く力ではある。……ほとんどの者がその力をつけていく前に北ではくたばっていくだけで。
賢者らと時の洞窟を初めて訪れた時は、あの忌まわしいお喋りコウモリのせいで、散々な目に遭ったけれど。ブラッドリーとあの洞窟の天井の隙間から見える星空や、運の良い時に顔を出すオーロラに目を輝かせた思い出はどうにも捨て去れそうにない。箒を勢いよく滑空させ、雪原ばかりが続く単調な風景を上空で眺める中、頭をよぎったのはそんな過去の残骸たちだった。
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『衝撃の幕開け』 雛菊
ネロが時の洞窟へ足を踏み入れると、そこは以前訪れた時と変わらず静謐で、澄んだ気配に満ちていた。
ピチョン、ピチョン、と滲み出た水が鍾乳石を伝い落ちる水音以外何も聞こえない。ネロが歩を進め、窪みの奥にキラリと光る緑色の双眸を認めた刹那、自分しか居ない洞窟は一瞬で懐かしい喧騒に包まれ思わず顔を顰めた。目を閉じると、まるで時が巻き戻ったようにはっきりと情景が脳裏へ浮かぶ。
「おーい、ネロー! こっち料理足んねえぞー!」
「ガハハハハ! おい見ろよ、ゴーマンが踊り出したぞ!」
「ネロさん、俺手伝いますね!」
ああ、確かに俺はここに居た。
東の国で暮らし始めて百年になるが、やはり、故郷は北の国で、盗賊団がホームなのだ。
ゴーマンが懐かれていたイェストゥルムにこんな習性があったと知ったのは最近だ。あの頃は、よくゴーマンへ寄ってくるコウモリを見てはからかっていたっけ。
羽音と共に喧噪が遠ざかっていく。もう会う事はないだろう、仲間たちの面影を連れて。
この辺りに住んでいたのは、ブラッドリーが何度死にかけた頃だったろうか。何度も、何度も、何度も、どんなに怒ろうとブラッドリーは無茶を辞めてはくれなかった。
こいつは変わらない。そう諦め側を離れたのに、再会したブラッドリーは変わらぬままに前へ進んでいた。
自分はどうだろうか。
「おい、ネロ!」
突如名を呼ばれ、自問に耽っていたネロは咄嗟に声の方へ振り向いた。一瞬イェストゥルムではないかと頭へ過ったが、顔を向けた先にブラッドリーの姿を捉えホッと胸を撫で下ろす。
「飛ばされた先が近場で助かったぜ」
「…ほんと、厄介な傷を抱えちまったもんだな」
「双子のじじいどもから逃げるのにゃ便利なんだがな」
そうカラカラ笑える所が、ブラッドリーの強みでもあるなと思う。何でも己の武器へと変えてしまう強かさに、何度憧れを抱いただろう。…昔の事だが。
「んじゃ、そろそろ問題の村へ行くとすっか」
「ああ、すっかり遅くなっちまったしな」
洞窟の入口へ向かい並び歩く二人の背を、緑色の瞳がチカチカ瞬きひっそりと見送った。
***
村へ到着すると、もうとっくに日が沈んでいるにも関わらず、二人は村人から盛大な歓迎を受けた。すぐさま村の集会所で宴が開かれると、そこには村人全員が集まったのではと思うほどの人が押し寄せた。まだ何もしていないのに全て解決したかのように喜ぶ村人たちの様子に、二人はいよいよ警戒を強めた。
他国とは違い、北の国では魔法使いが絶対の権力を持つ。もちろん双子のように庇護下の街や村を大切にする魔法使いも居るが、このような歓待ぶりは異様だ。
「あのう…もしや、貴方様は伝説に聞くブラッドリー様では…?」
長老と名乗った老人が、ブラッドリーへ酌をしつつおずおずと問う。
「おう。俺こそが死の盗賊団の頭領、ブラッドリー様だ」
老人が震える様子に、ブラッドリーは気分良く鼻を鳴らす。老人はその言葉を聞くと、伝説のままのお姿だ、と目じりに涙を滲ませた。
「長旅でお疲れでしょう。寝所を用意致しましたので、今夜はゆるりとお寛ぎください」
宴もお開きになり、そう言って案内されたのは立派な二軒のコテージだった。寝所なんて簡単なものじゃない。
内心訝しがりつつも、意図を探るため素直に指示に従い二人は別々のコテージへ足を踏み入れた。見たところ、魔法の気配は感じられない。
考え過ぎなのだろうか。
ネロはベッドにゴロンと横たわると、ポツリと零すように詠唱し部屋へ結解を貼った。
久しぶりに別々で過ごす夜は、背中がいつもより寒く感じた。
翌朝、まだ朝靄のかかる中、早くに目覚めたネロは辺りを探るためにコテージを後にした。散策を装い、魔法の気配を探りつつ村周辺を見て回るが、特に異変は感じられない。昨晩の村人たちも、何かに怯える様子は見受けられなかった。
となると、やはり依頼書は大袈裟に書かれていたのだろうか。
依頼内容を反復しつつコテージへ戻ると、丁度ブラッドリーのコテージの扉が開いた。珍しく早起きだな、と思ったのも束の間、扉から出てきたのは小柄な長髪の女性だ。
ガツンと頭を殴られたような衝撃が襲う。
そそくさと立ち去る村人らしき女性を、ネロは立ち尽くしたまま呆然と見送った。
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『腹が減ってはなんとやら』 ぽの
息を潜める。そして、目を凝らす。
……どうやら女性はネロに気づいてないらしい。
一方で、唯一の相棒であるブラッドリーの部屋から出てきた女性に、ネロは釘付けだった。まじまじと女性を観察する。
盗賊団にいた頃も情報収集はどちらかといえば得意な方だった。観察眼、洞察力、判断力。ボスであるブラッドリーのために必死だったことから培われた能力だった。さすがだな、ネロ! ……そんなふうに褒められて嬉しい、と思った。幾度となく新しいネロをネロ自身に初めて知らしめたのは、他でもないブラッドリーだ。
自覚はしていないが、ネロはそんなブラッドリーを独占したい、という気持ちが無いわけでもなかった。誰かがブラッドリーと仲良くしているといい気はしない……ような気がする。遂にはこのもやもやとした感情を『恋』だの『愛』だの呼ぶことはできず、一方通行なのだが。
ブラッドリーにそんな感情を抱くネロは今、複雑な感情の中で自分のすべきことを、最善の行動を捻り出し、女性の姿が見えなくなるまで観察する。
手には何も持っていなさそうだ。特に衣服が乱れた痕跡もない。怪我や不審な部分も無さそうだ。
ブラッドを起こしに来ただけか……? でもそんな話は聞いてない。むしろ、長老にはお疲れだろうし好きなだけお休みなさってください、と、気を遣ってもらったくらいだ。
となると、先刻よりドクドクと暴れている心臓とこの不穏な胸騒ぎは気のせいか。
ネロは一瞬で状況を判断し、すこし胸をなでおろした……そのとき、女性の頬にきらり、と、少し顔を出し始めた朝日に照らされた一粒の何かが伝った。
…泣いて……るのか??
「アドノディス……」
呪文を唱えると、ネロの手のひらにはその爪よりもちいさな丸い一つの玉が現れる。
一応、追跡魔法を。
念には念を、というものだ。
それを先程から複雑な感情を抱かせる原因となった女性にロックオンすると、玉は女性を追いかけ、気が付かないような位置にくっつく。
「……よし。あとは、」
ブラッドリーがいると考えられるコテージに足を向ける。
……なんでさっきの女性は泣いていたんだ。
怖い。
中でブラッドリーがどのような状態であるか、何通りか予想はしてみたものの、そんなもの現実を目の当たりにしてしまえば意味が無い。しかし、意味が無くても、意味が無いと分かっていても考えてしまうのがネロという男だ。ぐるぐると考えを巡らせ、最悪の事態をも想定しながら、血が巡らずに少し冷たくなった手をコテージの扉にかけた。
ギィ……と、音を立てて扉がひらく。スローモーションのように流れる、その光景。
「ブラッド……」
「…… おう、ネロ。朝が早いのは料理人の性か?」
いつも通り、の、声。笑顔。顔色。
寝起きであろう、ベッドに上半身を起こすブラッドリーはいつもと変わらず、なんの変化もなさそうだ。
安心が助長されたネロは口を開く。
「さっき、ここの部屋から女性が……」
ネロは気がついた。
ベッドの上に投げ出されたブラッドリーの左手の手のひらが真っ赤に血塗られているのを。
「おまっ……?! それ、どうした?!」
ドタドタと音を立て、慌ててブラッドリーのそばに駆け寄る。
「ん? ……ああ、これか。ちょっとした切り傷だ。大したことはねえ……」
「馬鹿野郎! そういう問題じゃねえ!」
はあっ、はあっ、と息をきらしながら声を荒らげる。
久しぶりに北の地に足を踏み入れ、北の洞窟でイェストゥルムの声を聞き、色々と思い出したのは事実だ。だが、これまでも何度も血に濡れたブラッドリーを見てきた。それこそ、大量に出血し、死にかけている姿も、嫌という程に。今更こんな左手の傷一つで取り乱すようなネロではない。
魔法舎は平和だ。昔も比べると死なんて程遠いと言っても過言ではない。
そんな中で暮らしていくうちに、死と隣り合わせ、という感覚が訛ったのだ。
「あ? なんだよ、でっけえ声出してよ」
「あ……いや、悪ぃ。……大丈夫か? それ」
? がとても似合うような顔に見つめられ、ネロは我に返る。
一通り手当をし、治癒魔法で傷はほとんどわからないまでになった。本当に大したことなくてよかった、とネロは心の底から安心した。
と、同時に浮かび上がる疑問。あの女性はブラッドリーになにをしたのか……。
ブラッドリーが言うにはこうだ。
三〇分ほど前、すやすやと気持ちよく寝ていたら突然コンコン、と扉がノックされた。ブラッドリーはこの村の住人を余程信頼していたのか、鍵をかけず、結界も張らずに寝ていたので、ベッドの上で上半身を起こし、入れよ、と入室を許可した。そもそもブラッドリーの部屋に尋ねてくる者などネロ以外に居ないだろうと考えていたという。
だが、扉が開いてそこにいたのは先程の女性だった。
ブラッドリーは少し驚きながらも女性の用を聞こうとそのまま部屋に招き入れた。そして、女性はブラッドリーに近づき、そのままナイフを取り出し襲おうとした。
「……なんで魔法を使わなかったんだよ」
この部屋にはブラッドリーが魔法を使用した痕跡はない。
「殺意が感じられなかった」
「え?」
無防備な寝起きをナイフで襲おうとしたやつから殺意を感じられなかった……?
だが、幾度となく命を狙われてきたブラッドリーがそういうのだ。殺気を感じ取るのは得意なはず。間違いない。
「そういや俺が見かけたときも涙を流していたような……」
「そいつ、俺にナイフの刃を向けながら『ごめんなさい』だとさ。そんなやつに魔法使うなんざ死の盗賊団頭領の名が廃るってもんだ」
そんなやつ、とはどういう意味で言ったのか、真意は分からない。ただ、そう発言するブラッドリーの瞳からは何か強い意志を感じられる。ブラッドリーなりの考えがあるのだろう。
ネロは何も言わず、話の続きを待った。それで……、と話が続く。
ごめんなさい、と言った女性はブラッドリーに向けて振り下ろし、そしてそのナイフをブラッドリーは左手で掴んだのだという。
その後、女性はそのままなにもせず、コテージから出ていったそうだ。ネロはその場面を目撃したということになる。
「はあ……」
一通り経緯を確認したネロはため息をこぼす。
やはり昨夜異常なほどに歓迎された際に感じた違和感は気のせいではなかったのだ。
この村には、何か、ある。
「……問題発生、か」
「おうよ。……でもまあっ、とりあえず……」
ブラッドリーは先程までの真剣な雰囲気とは打って変わってワクワク、期待している、といったような雰囲気を醸し出しながらベッドから降り、大きくのびをしながら言った。
そして、ネロにその期待のこもった瞳を向ける。
……ああ、くそ、そんな期待のこもった目で見ないでくれ。
内心そんなことを思いつつも期待の眼差しを向けられれば満更でもないネロは、少し呆れたように笑って言う。
「朝飯、な?」
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『朝飯時の一悶着』 涼雲
「毎度ながら客人直々に自炊を申し出るなんざ前代未聞じゃねえか」
ブラッドリーはテーブルにずらりと並べられていた料理の数々に舌鼓を打つ。いつものことながらトーストの横に添えられたベーコンはしっかり平らげるが、レタスとトマトのサラダは皿の隅っこにさりげなくよけられている。こんなことは日常茶飯事なので今更がっくりと項垂れはしないが。
「手ぇざっくりやられた奴が平気な顔してたらふく食ってるのも不思議だけど。あと野菜。食え」
へいへい、と適当な返事を寄越してくれる。
どうせ聞き入れてくれやしないものだが、申し訳程度には文句を垂れておいた。宿題をやってこないからといって宿題無しの甘やかしができないのと同じだ。
「……なんで結界も貼らずに寝てたんだよ」
元々高くない声が、一層低くなってネロの喉から出てくる。怒りを抑え込んだ、だけでは言い切れないような声色。色々と探りにくいネロの人柄をそのまま表したような声だった。おまえらしくない。油断や隙とは無縁な男のはずだ。直情的に見えて、いつだって頭の底は地底湖みたいに冷え切っている。ガワだけ見て安心して腑抜けるほどの目利きじゃないはずだろ。言いたいことは山程ある。
「そんなに気分良くなるほど昨日の夕飯が美味かったのか……?」
呑気に大口を開けてトーストをかっくらっていたブラッドリーが、ぱちぱちと瞬きをする。ごちそうさん、と一言添えるとレタスとトマトだけが残った皿をネロの方へと寄越した。
「犯人のツラを確かめてやらねえといけねえからな。バリア貼って諦めて帰っちまったら手がかりなんぞ掴めねえだろ。ワケのわかんねえ化け物じゃなくてちっちぇえ嬢ちゃんだったのは驚いたけどよ」
そう言ってブラッドリーはからからと笑ってのける。道端でちょっと犬に噛みつかれました、みたいな様子で言うものだから、ネロの調子の方が狂ってしまいそうだ。それでも、何よりも言いたかったのは、
「俺の部屋の方には魔法、重ねがけしてたじゃねえか……」
煮詰めていたものを絞り出したように、ネロが口をつく。眠りにつく前に念の為結界を貼っておけと言ったのはブラッドリーの方だった。臭いものに蓋でもするばかりに、妙に集落とは切り離された位置の自分達の寝床に疑問を持ったのはネロとてそうである。
言われた通りにして、それから起きれば、自分以外の魔力があることに気がついた。就寝中に目が覚めたのは、長年ずっと共ににしてきた男のものだったからだろう。攻撃特化に見えそうなあいつの魔法は、存外守護やサポートといったことに長けている。
「おまえが無事だったからこそ奴に追跡魔法かけられたんだろうが。俺様はああいった細けえ魔法は得意じゃねえ。集中して魔法切らさねえようにしろよ」
頼りにしてるぜ、とブラッドリーは肩を組み、顔をネロの側へと寄せる。嫌いな物を残すときの絆しにかかっている、ような表情ではなく、視界に映るロゼの瞳の光は真っ直ぐなそれだった。
「てめえが怪我することになったのには、納得してねえ」
ネロが皿に残されていたトマトを摘んでブラッドリーの口元へ持っていくと、「そいつは勘弁」とブラッドリーは肩を竦めた。このくらいは許されるだろう。
「腹ぶち抜かれるのに慣れてるんだから、手にどうこうされても大して痛かねえよ。喉だの心臓だの明らかに急所は外してきやがった」
「……わからねえな」
ブラッドリーが命を狙われる理由だけで考えれば、それこそ無限に考えつく。特に、盗賊団時代なら恨みなど山程買ってきた。それはネロにも言えることだが。
しかし、相手にまるで殺意が見えなかったとなると話は変わってくる。
「媒介目当てかもしれねえな。血なんて少量でもありゃ十分過ぎる代物だしよ……ったく、」
盗賊団の首領様が物盗りにあってちゃ形無しだ、とブラッドリーはかっきりとした太い眉を歪める。
「……それなら洒落にならねえし、早く確かめた方が良いだろ」
「おう。よく分かんねえ飯で上手くもてなしたつもりなんだろうぜ。まったく、俺様の舌は肥えに肥えまくってるっつうのによ」
「ちょ…………っ、」
なあ、とブラッドリーはネロの腰を抱き寄せる。朝っぱらに似つかわしなくない、色香を纏った手付き。思わず、ネロの頬がかあ、と染まり上がった。
『そんなに気分良くなるほど昨日の夕飯が美味かったのか……?』
先程のネロの小言に塗れた中の本音を、ブラッドリーは掬い上げていたらしい。
「魔法解けちまうぜ。気ぃ抜くなよ、飯屋さん?」
甘やかされた頭は考えることが下手くそで。顔を赤らめたまま、苦し紛れにネロは小さく「ばか」と返すだけだった。
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『二つの思惑』 雛菊
もう、ここに来てはいけないよ。
頭に直接響く様に告げられた、別れの言葉。
でも、でも、私の心はとっくに決まっているのに。
流れた涙を拭うことも忘れ、乙女は樹氷の森を愛しきものの元へと駆け抜けた。
***
日もすっかり東の空に昇り、村全体が朝の活気に溢れ出す頃。長老を始め、村の重鎮と見られる男衆が揃って渋い顔を並べてブラッドリーの元を訪れた。もちろん側にはネロが付いているので、実質二人の元へ、だが。
「昨夜、私の孫娘が姿を消しました」
長老が重い口を開く。小柄で、長く黒い髪が美しい娘だと容姿を聞いた二人は、目配せで素知らぬふりを決め込んだ。
朝、ここへ訪れた娘で間違いないだろう。
「名を、アンナと申します。討伐依頼を出させて頂いた、ヒッポグリフが拐かしたに違いありません…! アレは、魅入られておりましたので」
苦々しく言い捨てるその肩を、息子であろう面立ちがよく似た男性が宥めるように掴んだ。
「…どうか、娘を見つけ出し、ヒッポグリフを退治してはくれませんか」
「それが依頼だからな。もちろんそのつもりだ」
「おぉ…心強いお言葉をありがとうございます。何卒、よろしくお願い致します」
男性はホッと胸を撫で下ろし、それでは、と皆を引き連れ退室して行く。
全員の気配が離れたのを確認すると、二人は同時に溜め息を吐いた。
「…で、嬢ちゃんは?」
「ちょっと先の、西の森から動いてねえよ」
「面倒くせえが、話でも聞いてやるか」
《アドノポテンスム》
ブラッドリーが呪文を唱えると、紫を帯びる光と共に、みるみる手の傷が癒えていく。この傷跡は『勲章』たりえないため、残す気が無いようだ。
本来、ブラッドリー程の魔法使いならこのくらい造作も無い。その身に数多く刻まれた傷跡たちは一つ一つに物語を持ち、文字通り、ブラッドリーの『勲章』だった。
ネロにとっては悲痛な夜を思い起こす、厄介な『古傷』なのだが。
二人はコテージを出ると、村人へは告げずに西の森へ箒を飛ばした。
キラキラと樹氷が朝日に煌めき、森は静けさに満ちている。雪に閉ざされた時期だ。動物たちは皆冬籠りしているため、生物の気配は無い。
そんな静謐を駆け抜けた先に、目的の森があった。断層の足元に出来た洞窟の中に、ネロの魔法の気配はある。
「ヒッポグリフか…懐かしいな。上半身が鷲で、下半身が馬のやつだろ?」
「ああ、一時期この辺りでよく見かけたよな。誰が乗りこなせるか勝負したけど、結局あんたしか背を許されなかったっけ」
「奴らは誇り高えからな。ま、当然だろ」
ブラッドリーが自慢気に鼻を鳴らすので、思わずネロの頬が緩んだ。やはり、二人だけだと思い出話に花が咲く。
よし行くか、とブラッドリーの掛け声にネロが頷くと、二人はゆっくり足音を抑えて洞窟の中へと入っていった。
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『暗闇の先にあるのは』 ぽの
……暗い。
ぴちょん、ぴちょん、と何処からともなく雫が滴るその音だけが響いた。
洞窟内を歩き始めてどれくらい経ったのかわからない。が、洞窟が随分と奥の方まで続いているのは確かだ。
「……おい、これ、」
ネロがアドノディス・オムニス、と少し焦りが混ざった声で小さく唱え、地面を明かりで照らした。そこには赤い水溜まり……そう、これは、血痕。
「まさか、あの嬢ちゃんのっ……!」
ネロは勢いよく顔を上げると洞窟の奥を、焦り、怒り、悲しみ、不安、何種類もの感情が混ざったような、なんとも言えない表情で睨んだ。
一瞬ではあったが、水溜まりに見える量の、血。嫌な予感がしてたまらなかった。
「……いや、まてよネロ。ここら一帯、人間の血の匂いはしねぇ」
つまり、少女の血ではないということだ。
血なまぐさい盗賊団の中で生きてきたブラッドリーは人間の血の匂いと魔法使いの血の匂い、そして、魔法生物の血の匂いを嗅ぎ分けることができた。
「はっ……そうか…………」
その事を聞いた相棒は、ふと肩の力を抜き、少しばかり安堵したようだ。
「だが、油断ならねぇ。この血は魔法生物のもの……ヒッポグリフのもに違いねえ」
「嬢ちゃんが……アンナがやったのか……?」
ネロはふと、自分がブラッドリーと同じようにあの少女のことを『嬢ちゃん』と呼んでいたことに気が付き、言い直した。良くも悪くも、無意識にブラッドリーに倣う癖がついてしまっているようだ。
「わからねえ。とりあえず、進もうぜ」
二人は再び洞窟の奥へと歩き出した。
洞窟はとても広かった。歩いても歩いても同じような風景で、慣れていない人が入ったら迷ってしまうだろう。そこのとこ、洞窟をアジトにしていた過去がある二人は、まさにこの依頼に最適な者たちであったといえる。
そして、スタスタと足を進めていると、二人の前に一つの影が現れた。
「……こないで」
「お前……アンナだな?」
少女はブラッドリーに名前を呼ばれ、ピクッと反応する。
……今朝、この男を襲った。刺そうとした。
その事が後ろめたさに繋がったいるらしい。
「ええ、そうよ。だったら、なに? ……今朝はごめんなさい。でもこうならないためにあなたを襲うしかなかったの」
アンナらしき少女とブラッドリーが話すその後ろで、ネロはこっそりと追跡魔法を確認した。どうやらこの少女がアンナで間違いないらしい。
ネロはブラッドリーの側まで行くと、コソッと耳打ちする。
「……ブラッド」
「あぁ……」
名前を呼ぶそのトーンだけで伝えたいことが全て伝わる。ネロはその懐かしい感覚に微かな満足感を覚えた。
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『すべての真相は』 涼雲
ブラッドリーが足を一歩、前に踏み出すとざり、と革靴とごつごつとした地面の擦れあう音が響く。ある程度の不便なんぞなんのその、といった盗賊団の野郎共はともかく、こんな洞窟にすき好んで入っていきたいやつなんていないだろう。時の洞窟と比べて味気のない壁ばかりが続いているのだから猶更だ。
「肝の据わった嬢ちゃんだ。それともなんだ、俺様ぐらいおっかねえやつに慣れてんのか」
「…………」
「いんだろ、奥に、」
少女は唇を引き結んだまま。元々静謐な洞窟には鍾乳石から水滴の落ちる音だけが響く。岩肌には長い時をかけて染み出てきた塩の結晶が残されている。地上にあらわれてから相当の時の経過した洞窟なのだろう。そんなことを考える余裕があるほどに長い沈黙。奥に、何が。その先は言わずとも分かることだ。どれだけ苦し紛れだろうと「何のことだ」とはぐらかす様子もない。沈黙は最大の肯定だ。この少女は駆け引き、といった言葉からは遠い所で生きてきたのだろう。といっても、何百年と共に肩を並べてる自分ですら、いつのまにか丸め込まれてばかりなのだが。
「なあ、何があったのか、話してくれねえ? 別に、おまえさんを傷つけたいわけじゃない」
「……私だけ生きてたって、意味ないもの」
あなた達、殺しにきたんでしょ、あの子のこと。ぼそりと恨み言を囁くような、涙が滲んだような声だった。
「おじい様に聞いたもの。ヒッポグリフを村の皆が恐れているから倒すんだって。北の強い魔法使いに頼んだから間違いなく仕留めてくれるって」
「ちなみに奴に会うのは俺は初めてじゃねえんだぜ。あいつは実際村の連中を襲ってんのかよ」
少女はぶんぶんと頭を左右に振った。そして、ぎゅう、と拳を握りしめる。やるせなそうに眉は曲げられて、とてもじゃないが嘘をついているようには見えなかった。仕込まれた演技はではないことは先程のそれで実証済だ。そうして俯いた少女の顔に、艶やかな黒い髪がかかる。
「皆を傷つけなんてしてないわ。怪我をして飛べなくなったあの子に私はこっそりご飯をあげていただけ。おじい様は、私があの子と仲良くするのを気味悪がるの。魔法生物と人間が仲良しなんて理解できない、おまえは魔法で騙されているだけだって。いつか食われるだけだって」
「…………」
頭を過ったのは、見たところこの少女と年齢はそれ程変わらなかった、かつて自分の目の前で散った命。どうしたって思い出してしまうのだ。「あの子が私を襲うはずがない」と、そう言っていた人形の少女シアンは、主の指示とはいえ呆気なくバジリスクに食らわれたことを。それでも、
「皆ヒップグリフに呪われているって、私に言うの。まるで私の本当の意思じゃないみたいに。でも違うの。本当に……本当に、私はあの子が大切で、あの子に生きていてほしいだけ」
おねがい、見逃して。そう言ってアンナはブラッドリーに縋りついた。不興を買ったらその場で腕の一本でも持っていきそうな男に。どれだけ強力な魔法使いなのかは分かっているであろう男に。ブラッドリーの上着を掴むアンナの手は、雪のように白くて、弱々しく震えていた。
点と点が結びついたような心地だった。なるほど賢者の元に「北の魔法使いを寄越せ」という依頼が舞い込んできたのも、最重要項目がヒッポグリフの討伐なら頷ける。洞窟に残された血痕と、アンナの口ぶりを見るに、今は手負いのライオン状態なのだろうが。怪異解決の依頼は長老や村の連中から見たアンナの様子が、悪いものに憑かれでもしたように見えたのだろうか、受け入れがたいものだったに違いない。他に届いたフェイクの依頼は事件が大量に起こっていることを訴えかければ、賢者の魔法使い達が最優先で派遣されるはず、という策略によるものなのなのだろう。
生きていてほしいだけ。アンナの言葉ずっしりと心臓に錘のように沈み込む。何度も何度も、過去の自分が願ったことだ。ちらりと見たブラッドリーの横顔はどこか遠くを見つめているようで。
「……なるほどな」
洞窟の中に、ブラッドリーの低い声が響く。傷口は癒えたものの、コテージで確かにアンナに切りつけられた手の平をロゼの瞳が見つめている。
「おおよそやろうとしたことは分かるぜ、嬢ちゃん。強力な魔力の媒介として俺様を選んだのはセンスが良い。そいつは今手負いで飛べねえんだろ? つまりはこっちがヒッポグリフを倒しに行く前に俺様の血を媒介に魔力を回復させて、逃がそうとしたわけだ」
そうだろ、と問いかけるブラッドリーに、アンナは緩慢に首を縦に振った。ブラッドリーは不敵に口端を吊り上げると長銃を取りだして魔力を籠める。みるみるうちに短い銃に変わったそれに、アンナは顔を青くさせて慄いた。自分には、それが殺戮の道具ではないことは分かっている。
「やめて……お願いだからあの子を殺さないで」
「はっ、俺様は戦う気もねえやつをぶっ殺す趣味はねえな。それによ、魔力での治癒なんてのは高等技術だ。素人のあんたにはできねえよ、お嬢ちゃん。洞窟の血の痕を見りゃ分かる。あのヒッポグリフが飛べもしねえなんて怪我の進行に回復が追い付いてない証拠だ。放っときゃ死ぬぜ」
「…………」
「選べよ。俺様を信じるんなら、足りねえ魔力は俺が強化してやる」
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『あの時のように』 雛菊
ブラッドリーの言葉に、アンナの表情に迷いが生じた。
信じていいのだろうか。この魔法使いを。
震える唇が言葉を紡ぎかけた、刹那。三人の頭へ、直接響くように声が届いた。
『アンナ、この人は大丈夫だよ。下がりなさい』
アンナの背後で、何かが身動ぐ気配がした。
ゆらりと身を起こしたそれは、ほとんど力も残っていないだろうに、尚も気高く二人に向かって頭を下げる。
本来ヒッポグリフは気位が高い生き物で、自ら先んじて首を垂れる事はしない。一度認めたブラッドリーのことを覚えていた故の行動だろう。
ブラッドリーも同じく、まるで貴族のように優雅な所作で礼を尽くした。やや遅れてネロも習う。
「よう、久しぶりじゃねえか」
『ああ。そなたが捕らえられたのは、精霊たちの間でも騒ぎになっていたよ。息災のようで何よりだ』
「…てめえ、精霊になりかけてるのか」
『そのようだ。だがそのお陰で、そなたとこうして言葉を交わせたのだから、僥倖だよ』
ヒッポグリフはそこまで語ると、疲れたように長く息を吐いた。その間も、じわじわと血溜まりは広がり続けている。
『…ブラッドリーよ、そなたの力を借りたい』
「ああ、もちろんさ。足りねえ分、俺様が強化してやるよ」
『いや、そうではないのだ。我が身はコカトリスの毒に侵されている。もう、長くは持たないだろう。アンナの村と、この森を、コカトリスから守ってはくれまいか』
「コカトリス? 南にしか居ねえはずだろ」
『そのはずなのだが…何故か急に現れたのだ。村を襲おうとしてな。応戦して、この様だ』
コカトリスは南の国にしか生息しない魔法生物で、雄鶏の頭にドラゴンの身体を持ち、尾は毒蛇というバジリスクの亜種だ。その毒を身に受けたために、血が止まらずに魔力も体力も回復が追い付かないのだろう。
事の真相を始めて耳にしたのか、アンナの顔が更に蒼白になる。
「そんな…! なのに、村のみんなはあなたの事を…!」
『いいんだよ、アンナ。私はアンナを守りたかっただけなのだから』
ヒッポグリフの優しい声音に、アンナの瞳からは大粒の涙が零れ落ちた。
と、その瞬間、バササッとけたたましい羽音が洞窟の外から聞こえてきた。恐らくコカトリスだろう。
一瞬で厳しい表情へと変わったヒッポグリフに、慌ててアンナが縋りつく。
「やめて! 本当に死んでしまうわ!」
困ったように動きを止めたヒッポグリフの首根を、ブラッドリーがポン、と気安く叩く。
ニッ、と口端を上げ、ネロと目配せると二人に背を向け歩き出した。
「俺たちに任せておけよ。昔のよしみで、ここは引き受けてやる」
と、その前に。ブラッドリーは思い出したように振り返ると、再びヒッポグリフへ短銃を向ける。ギョッとしたアンナとは対照的に、ヒッポグリフは冷静にそれを眺めた。
「受け止めろよ?」
『ああ』
ターン、と軽い銃声が洞窟内を震わせる。銃弾を受けたヒッポグリフの心臓辺りに、深碧の魔法陣が浮かび上がった。
ヒッポグリフの身体はみるみるうちに羽や毛並みに艶やかさが戻り、瞳にも力が宿る。
その姿に、アンナはワッと首元へ顔を埋め、声を上げて泣いた。
「魔力強化したからとはいえ、一時凌ぎのモンだ。体の毒は抜けてねえ。外のヤツを片付けたら、詳しい奴に解毒薬作らせて届けてやるよ」
『…かたじけない』
「ハハッ、貸しにしといてやるよ」
ひらひらと手を振り、洞窟の入口へ向かう。視界が明るさを取り戻す辺りで、コカトリスの雄叫びが耳へ届いた。
仕留め損ねた獲物を探しているのだろう。
ブラッドリーとネロは出口に並び立つと、二人同時に箒を空間より呼び出した。
「行くぜ、相棒。久しぶりの狩りだ」
「もう相棒じゃねえよ」
コカトリスの注意を引くべく、ブラッドリーが空砲を放つ。二人の姿を認め、甲高く一声鳴いたコカトリスがこちらへ向かって突っ込んできた。
箒へ飛び乗った二人は空へと勢いよく駆け上がり、空中戦が始まる。
「≪アドノディス・オムニス≫!」
ネロは無数に増やしたナイフを操り、樹氷の森の上を巧みにコカトリスを追い立てていく。
途中、獲物と思った二人が格上だと気付いたコカトリスは逃げ出そうとするも、銃弾とナイフに逃げ道を塞がれ為す術も無く追われるばかりとなった。
樹氷の森を抜けると、そこはアンナの村があった。
上空から村を見つけたコカトリスは、逃げ込もうと急降下する。コカトリスが二人から意識を離したその隙を、ブラッドリーは見逃さなかった。
「≪アドノポテンスム≫」
ギャアアアアアアアアアアアアアアアアア
コカトリスの断末魔の叫びが村中に響き渡る。
広場の中心へ落下したコカトリスは、数拍後にカシャン、とガラスが砕けるように石へと変わり果てた。
ブラッドリーとネロが広場へ降り立つと、村人たちが何事かと集まってきた。村長と、村長の息子がおずおずと二人へ歩み寄る。
「…討伐が完了したのでしょうか?」
「おうよ。だが、こいつはヒッポグリフじゃなくてコカトリスだ。ヒッポグリフはコイツからこの村を守るために戦って傷ついて、それをあんたんとこの嬢ちゃんが世話してたっつう訳だ。感謝するならヒッポグリフにしな。アイツが居なかったら、俺たちに依頼を飛ばす前に村ごとコイツの腹ン中だったろうよ」
「! な、んと…そうだったのですか…」
散らばるマナ石を見下ろしながら、事の真相を知った村人たちが項垂れる。
視線の先のマナ石を魔法で手中に収めたブラッドリーは、こいつは頂いていくぜ、と一言残し、再びネロと共に空へと舞い上がった。
───────────────
『エピローグ』 雛菊
「…なるほど、そんな真相だったんですね…」
魔法舎に戻った二人を出迎えた晶は、談話室に二人を招くと事と次第の報告を受けた。
「おう。厄災の影響で、本来南の国にでしか生きられないはずのコカトリスが北まで渡っちまったんだろう。フィガロの野郎に解毒薬作らせておいてくれたら魔法で届けるから、頼んだぜ、賢者」
「はい、分かりました! そういえば、ネロ、星屑糖は取れたんですか?」
「あー、すっかり忘れてたな…。まあ、またそのうち取ってくるよ」
「その時はお手伝いさせてくださいね!」
報告がひと段落すると、くあ、と大きく伸びたブラッドリーが、もういいだろと飽きたように席を立つ。ネロも、俺も今日はもう休もうかね、とその後に続いた。
並ぶように談話室を出ていく二人を、おやすみなさい、と見送りながら、晶は二人の間に流れる空気が以前より穏やかになっているのを感じた。
きっと、報告にはなかった所で何かあったんだろう。
そういうことにしておこう。
晶は小さく独り言ちると、報告書をまとめるべく自室へと向かった。