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    sekihara332

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    sekihara332

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    3/17 春コミで無料配布した準備号の全文です。
    完成版は5/4のスパコミにて頒布予定。

    明治四十四年 夏 (仮タイトル) ※この本は5月に発行予定の本の準備号になります。(タイトルも仮のものになります)話の途中までを載せており、未完の内容です。

     ※この小説には以下の要素、内容が含まれます。
     ・原作最終話以降の年代の話。
     ・原作中で死亡した人物が生き残っている。(生存if創作表現)
     ・身体的障害及びそれを対する時代的な呼称表現。
     全てご了承の上お読み頂きます様お願い致します。

     また、作中の畜産の仕事等についての記述は、できる範囲で歴史等を調べた上で架空の事実として書いています。内容の相違、時代の混同等が有りましたらご容赦ください。
     創作の一部として読んでいただけましたら幸いです。※



     昏闇の中に、独り座って居る。
     刺すような冷気に凍えていた指が伸ばした先で生温かな肉の感触に触れる。その温もりに尾形百之助は嗚呼、と小さく息を漏らした。
     木と稲藁と、脂の匂い。さして広くない畜舎は獣たちの熱れでむっとしている。
     ふつふつと額に噴き出す汗が雫になって滑り落ちてくる感覚に百之助は無意識に片腕をあげ、襷掛けして捲りあがった着物の肘で顔を拭った。ほんの一時だけ額に涼やかさが戻り、百之助はまた腕を下に戻す。指先に獣の温もりを探し、すぐにそれを探り当て、していたことを再開した。
     両の手のひらで獣の張り詰めた乳房を包み、これもまたぴんと張った乳頭に添える指を交互に握り込みながらゆるく下に引くと、ぴゅうぴゅうと軽快な音がする。乳房から搾り出された乳が下に置いた馬尻に落ちて跳ねる音だ。それに呼応するように頭上から、メエェと獣の鳴き声がする。
     老爺の声の様に嗄れて響くそれが百之助の手技への快意なのか抗議なのか、百之助は未だにわからない。わからないので屈んでいた背を少し伸ばして、ちょうど顔の横にある獣の腹を右のこめかみのあたりでとんとんと小突いてごまかした。もわりとした毛の塊と百之助の髪が絡んで、脂の匂いがいっそう濃く漂う。獣はまたメエと鳴いたが暴れたりはしなかった。それで百之助もまた乳を搾る手を動かし始める。動かす度に手の下でぴゅうぴゅうと音がした。
     そうしてしばらくしてからふと、さっき、俺は目を庇ったなと気が付いた。先程拭いた額にはすでにまた汗が噴き出しているが、それと気付いても百之助は今度はそれを拭わなかった。やがて雫となって流れた汗が閉じた瞼の凹凸に引っかかってそこに留まる。水の玉が崩れ、じわと広がる感触。瞼の間からぬるりと眼裏へ染み入った汗の塩気に痛みを感じるはずの眼球は、そこにない。
     メエエ。
     獣がまた鳴いた。その声で物思いに飛びかけた意識が急に戻ってきて、百之助はぶるりと身震いした。忘れて止めていた息を吐き、また手を指を動かす。
     百之助はふっと口角を上げる。獣に怠慢を咎められたようだった。
     両の目を喪ってじきに三年が経つ。目が無いことにはすでに慣れたが、体に染みついた仕草はそう簡単には抜けないようだ。
     この目が見えていた頃、それは百之助にとって最重要の武具の一つであった。そこを真っ先に庇う癖は、もはや本能と同等と言っても過言ではなくなっているのやもしれなかった。
     明日からは額に手ぬぐいを巻いて来よう。そんなことを考えながら獣の乳を搾る。張っていた乳房がすっかり萎んで獣がまたメエエと鳴いた時、左後ろから声をかけられた。
     尾形さん、と呼びかけたのは若い男の声だった。聞き慣れて耳に馴染んだ声の主が、軽やかな足音と共にこちらに近づいて来る。その気配と一緒にぼぉとした光が閉じた瞼の端に揺れる。男が手提げのランプでも持っているのだろう。
     真横まできて俺もやります、もう向こうは終わったからという男を振り仰いで百之助は首を振ってみせた。
     こっちももうこいつと次で終いだと言って、抱え込んでいた獣を肩で横に押しこくる。オイ、オイ、と呼びかければ獣の方も用は済んだとばかりにさっさと離れていって、その空いた場所に別の獣が潜り込んで来て収まった。また手を伸ばし乳房を探り当て、ぴゅうぴゅうと乳を搾り出す。
     隣に人がしゃがみ込む気配がして、男の声ではぁあとため息をつくのが聞こえた。ホント、尾形さんにばっか懐きやがって。こいつら、俺の方が牧場主だってわかってんすかねなどとぼやくのまで聞こえてくる。その情けない声を鼻で笑い、わかってねえんじゃねえか、獣だからなと返せば、先程より大きなため息が聞こえてきたので百之助は余計に可笑しくなって声を立てて笑った。

        ◇
     来た時は真黒だった瞼の内が、畜舎を出る時にはうすらと白んでいるように思えた。汗をかいだ後で冷えきった頬にも仄かに暖かみを感じる。もう陽が昇って辺りを照らしているようだ。
     着込んだ厚い半纏の襟を掻き合わせ、踏み固められた雪道の上を藁沓を履いた足でそろそろと歩く。歩き出すと同時に胸に抱えた大ぶりな丼鉢の中で液体がちゃぷん、と音を立てた。その揺らめきがじんわりとした温もりを伴って器越しに手のひらに伝わる。手の中のそれを少しも溢してしまわぬよう百之助は殊更慎重に歩いた。
     そうして辿り着く先は小さな小屋だ。百之助は器を胸に抱えたままもう片方の手を伸ばした。もう慣れきった距離感は探る必要もなく、一度で引き手に指が触れる。がらがらと音を立てて開いた戸口に百之助はするりと滑り込んだ。
     何を置くことも出来ぬほど狭い空間は風除けのために拵えた小部屋で、更にその向こうの、今は閉じている筈の戸の奥には小ぢんまりとした台所もある。どちらも元は穀物の保管庫だったこの小屋にはなかったものだ。二年と少し前、ちょうど百之助がここ来ると同時に建て増したのだった。
     小部屋の中は外と大して変わらぬほどに寒い。本当だったら藁沓など乱暴に脱ぎ捨てて奥の部屋へ駆け込んでしまいたいのを我慢して、沓脱石を蹴り雪を丁寧に落とす。(藁沓は水に酷く弱いのだ)足を抜いて沓を脱ぎ、石の横に揃えて並べる。框を蹴って上がって、普通の家より少し高くなっている床を踏み締めながら厚く重い杉戸を開け、百之助は耳を澄ませた。
     小屋の中はごく簡素な造りで、土間の小部屋から上がった先に畳敷の部屋が二つ並んでいる。今百之助が開けた方の部屋には真ん中に囲炉裏を設けてあった。朝、百之助が小屋を出る時に一度火を熾していったので部屋の中はほんのりと暖かい。
     そして、囲炉裏の部屋の左隣には襖で仕切られたもう一部屋がある。
     百之助は首を傾げた。寝間にしているそちらの部屋から聞こえるはずの音が聞こえなかったからだ。
    「爺さん。起きてるのか」
     不審に思って掛けた声にも返事は返らない。途端にざぁっと胸騒ぎがして、百之助は弾かれたように部屋に駆け込んだ。
    「爺さん」
     火のない寝間の空気はしんとして冷たかった。
     部屋に入るや百之助は足元にあった何か柔らかい塊に蹴つまずき、勢い余ってそのまま前のめりに倒れ込んだ。とっさに衝撃に備えて受け身を取ったが、体を包んだのは、ぼふん、という柔らかな感触だった。蹴つまずいたのは床に延べてあった布団の縁で、百之助の身体はちょうどその上に倒れたらしい。それに安堵する間もなく、百之助はぐっと手を伸ばして己を受け止めた布団を探った。
     布団のあちこちに伸ばした手のひらには、さらさらとした質のいい綿布の質感とその内にみっちりと詰まった綿の弾力が伝わってくる。しかしその下にあるべき人の体の感触がどこにも無い。いない、と呟いた言葉は声にならなかった。百之助はやや呆然として、布団に這いつくばっていた体をのろのろと起こした。
    「百之助」
     その時、唐突に背後から掛けられた声に百之助はびくりと大きく体を震わせた。反射的に声がした方を振り返ってから、そうしたところで姿が見えるわけじゃないのになと思う。やはり、癖というものはなかなか容易に消えるものではないようだ。
     その百之助の反応に、声の主がくすりと笑った気配がした。百之助は情けない姿を見られた気まずさに居た堪れず、わざと不機嫌な顔をしてむうと唸ってみせる。
    「……なんだよ。脅かすな爺さん」
    「すまん」
     厠に立っていたのだ、行き違いになったなと言う声がすぐ近くに聞こえる。ほんの一歩か二歩畳を踏む気配がした後、とん、と肩に触れたのは声の主の指先だろう。それを合図に百之助は肩に手をやり、声の主の手に触れる。そのままその手に柔い力で引かれて、百之助は布団の上にゆっくりと立ち上がった。
    「どうした、お前らしくもない」
     気配も窺わずに部屋へ飛び込むとはなと寂声が穏やかにいう。尤もな言葉に反論することもできず、さりとて素直に肯定するのも悔しくて、百之助はふんと鼻を鳴らしてそっぽをむいた。百之助の手を取ったままの声の主がまた笑った気配がした。
    「とうとう、私の息が止まったかと思ったか?」
    「……」
     可笑しそうに笑いを含んだ声に百之助は押し黙った。馬鹿を言うなと言ってやりたかったが、できなかった。
     図星を刺されて黙ったと気づかれたくなかったのに、百之助の手を握る深く皺の刻まれたなめし革のような手は小さく震えていて、その主が笑いを堪えているのを伝えて来る。
     目の前の男に全てを見通されていることに激しい羞恥と歯噛みするような悔しさ、そしてひと匙の寂しさに囚われて、百之助は身動きもできずに立ちつくした。
     そうして百之助がいつまでも黙っているので、男は小さく苦笑したようだった。百之助の手の甲をぽんぽんと優しく叩くと、すまんすまんと軽い口調で謝った。
    「なに、お前と同じで私もしぶといのが取り柄だ。もう暫くは大丈夫なようだぞ」
     男がからりと笑う。
    「その証拠にな、起きて早々に腹が減った」
     そう言われて百之助ははっとした。我に返ったような気持ちで伏せていた顔を上げる。そうしたところでやはり見えるはずはないのだけれど、何故だか男が穏やかな笑みで自分を見つめているのがわかった。
    「わかった。待ってろ、すぐに飯を炊くから。そうだ、大家の婆ちゃんたちのとこでまた牛の乳をわけて貰ってきたんだ。火にかけてやるから、それ飲んで待ってたらいい」
    「それはありがたい。どれ、貸してみろ。そのくらいは私もできるだろうよ」
     お前ずいぶん慌てたようだが器までひっくり返していないだろうなと揶揄う声に百之助はいい加減にしろと不機嫌に唸って、握られたままだった手を勢いよく振り解いた。
     しかし戻って戸口に置き去りにされた器に触れてみれば、果たしてべちゃりと濡れている。下の床にも溢れているようで、持ち上げた器から垂れた雫がぴちゃんと音を立てた。
     百之助がもはや何にもいう気になれずはぁあと深くため息をついていると、後ろからまたからからと男が笑う声がした。
    「なぁに、そう沢山は溢れていないぞ。二人で飲む分にも十分だ」
     な、うんと熱くして分けて飲もう。
     そう言った男の声があんまり呑気に聞こえたので百之助も情けない気持ちはどこかに行ってしまって、ああ、そうするかと頷いて、それからふふんと笑った。

        ◇
     尾形が土方と共に暮らすその小さな小屋は札幌の外れの、これもまた小さな牧場の片隅にあった。
     元は明治の初めに入植した夫婦が新政府の勧めに従って牛を育てて乳や肉を卸したり、その傍らで馬の生産などをしていたらしい。日清日露での軍需もあって食うに困らぬ規模にはなったものの、手のかかる家畜の世話は既に老いた夫婦の手には余るようになっていた。夫婦は五年程前に長男たる男子を病気で、更に日露戦争で下の息子までも亡くしていて、跡を継いでくれる者がいなかったのである。
     牛も馬も売ったり譲ったりして少しずつ数を減らしていったが、どうにも綺麗に始末がつかない。さてはてどうしたものかと悩んでいたところに尋ねてきた青年が在った。
     なんでも、行く末羊の牧場をやりたいが、全く無知である上になんの伝手もない、この牧場は畳むおつもりと聞いているがその前にどうか仕事を学ばせてもらえないだろうかと青年は言う。
     願ってもない申し出に夫婦は喜んだ。若くて見目も良いその青年は、すこぶる健やかな様子で行儀も良かったし、その上小樽の辺りで名の知られた剣術の先生が後見で身元がしっかりしていた。額に大きな傷があるのだけは少し気になったが、他ならぬその有名な剣術家の先生が小樽からわざわざやってきて、コレの傷は私を手伝ってできたものだからどうか怖がらないでやってください、気のいい若者なのですと丁寧に頭を下げて挨拶をしてくれたものだから、老夫婦はすっかり安心しきって青年を迎え入れたのだった。
     その青年こそ、奥山夏太郎であった。
     夏太郎は朝を夕を問わずよく働いたし、持ち前の愛嬌と要領の良さを遺憾無く発揮して何かと老夫婦を気遣ったり、可笑しなことをやったり言ったりしては和ませたので、すぐに馴染んでかわいがられるようになった。老夫婦もこれならいっそこの青年に牧場ごと譲ってもよいとまで思い極めていたようだ。
     ところが、いよいよ住み込みで働くことが決まった時、夏太郎は後見であるところの永倉と一緒になって老夫婦にある事を頼み込んできた。
     大変世話になった恩人が怪我をした上、事情があって在所までなくしてしまったのでその身を引き受けたい、ついてはここに一緒に住まわせてはくれまいか。
     夏太郎が己の売り込みより余程必死になって頼んだのは“恩人”こと土方と、それから百之助。二人の処遇、そのことであった。

        ◇
     二年と幾月か前、百之助がある日ふと目覚めた時。呪われた金塊をめぐる戦いの全ては終わっていて、百之助の目は光を喪っていた。呆然として横たわる百之助にその顛末を教えてくれたのは、戦いを生きながらえた永倉であった。
     永倉はあの日、自ら土方の遺骸を背負い、夏太郎を連れてあの死の列車から逃れた。泥と血、硝煙の匂いに満ち混乱を極める沿線を二人は兵士たちやわらわらと集まりくる群衆の目を掻い潜り、走りに走った。
     永倉の頭には、土方の遺骸を渡してなるものか、なんとしても隠し通さなければという一点のみが在ったに違いない。
     ところが逃げるその道の上に思いがけぬものが落ちていた。百之助の身体である。
     血と泥塗れで食い荒らされた獣の死体のようだったそれはしかし、まだ息をしていた。
     戦いの最中身勝手に姿を消した用心棒が虫の息で転がっているのを見て、永倉たちが何と思ったのか百之助にはわからない。しかし百之助にとっては幸運なことに(そしてそれ以上に不可思議なことに)永倉は百之助の身体を夏太郎に背負わせて、あの戦場から逃げおおせたのであった。
     目を開いても明けぬ昏闇の中でそれを聞かされた時、百之助はが思ったのはただ、ふうん、俺はまだ生きているのかと、それだけだった。
     己の体に触れれば確かに生きているらしく、息を吸って吐き、胸からは鼓動も聞こえてくるが、どうにも現実味がなかった。
     あまりにいっぺんに全てが消えてなくなったので、呆然としていたのかもしれない。両目が見えなくなったこともそれにいっそう拍車をかけていた。
     己が目を撃ち抜いた瞬間のことを、百之助はよく覚えていない。
     撃ち抜いたと思うのも頭を貫通する傷が明らかに銃創であったことと、傷口のあたりの皮膚に火傷を負っていたという話を聞いて恐らくそうだろうと判断しただけである。
     毒矢を射込まれた事は覚えている。それを取り除こうと腹を割いたことも。だがその先がひどく曖昧だった。ただ何か、“そうしなければ”と強く思い念じた感覚だけは今もぼんやりと残っている。
     百之助が自分で自分を撃った弾丸は、どこをどうしたものかうまく脳を避けて後ろへ抜けたらしい。それで百之助は生きていた。
     そして死して遺骸となったはずだった土方もまた、生きていた。百之助と共に運び込まれたあばら屋で不意に息を吹き返したのだと言う。
     あれこそまさに奇跡であった、と永倉は言う。
     百之助が目覚めたのは霜月の頃で、あの戦いからは半年以上が経っていた。
     よくそんなにも長い間隠し通せたものだと百之助が言った時、永倉はこの地にはこの人を慕う者が未だ居る、その中に我々の戦いに協力した有力者が幾人か居るのだと答えた。その協力者のおかげで瀕死だった百之助は、そして土方は生き延びたのであった。
     目が見えぬので最初は気が付かなかったが、百之助が目覚めた部屋に、土方も並んで寝かされていた。そしてその時もなお、昏々と眠り続けていた。
     永倉が去った後。闇の中を半信半疑で手探れば、すぐに隣の布団に指が触れた。なおも手を動かすと人が寝かされてできる膨らみがあって、その一番高いところに手を置くと微かに手が上下した。耳を澄ますと自分のものともう一つ、細く深く息を吐く音が聞こえてくる。それに誘われるように百之助は手を動かした。
     上下する胸の膨らみ、突き出た鎖骨、喉元に弛んだ皮膚。豊かだった顎髭は切り揃えられて少し短くなっていた。そのうち乾いてひび割れた唇に辿り着き、指先にか細い息がかかる。
     ああ、確かに生きている。
     吐息に湿っていく指先の熱を感じながら、百之助ぼんやりとそう思った。
     
     土方が再びその瞼を開いたのは、それから四日後のことだった。
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