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    ミスオエ ⚠️グロテスクな表現を含みます。

    微熱の説く 最近姿を見せるようになった、白と黒の入り混じった頭髪をした男は、見たことのないものを魔道具として扱っている。
     ミスラの腕より少し短いくらいの長さの、一部が曲がった棒とでも言えばいいのだろうか。まだ接近したことはないが、遠目からでも、その棒に施された装飾は胸が躍るものだった。 彼がそれを敵に向け、先端から小さな球を高速で排出すると、勢いと回転のついた球は相手の身体を突き破る。
     あれがなんなのか知りたいと思っているものの、彼はミスラの前に姿を現さない。生き延びるために賢明な判断だと思うが、ミスラとしては不満だった。
     そんなことを思いつつ、忘れたりしつつを繰り返して日々を過ごすうち、北の国にはまた冬が訪れていた。
     なにか大きな肉にかぶりつきたいと森のなかを歩いていると、彼の魔道具と同じ形をした物を持った人間を見つけた。彼が持っていた物と比べると、随分簡素なデザインだったが。
    「ねえ」
     目先に立つ熊は無視して話しかけると、男は二秒ほどすべての挙動を止めたあと、フードのなかの顔を一層青くした。腰にしがみつく小さな人間を、ミスラから隠すように庇う。ミスラと熊を交互に見ては膝を震わせるので、「俺が話しかけてるんですけど」と一歩歩み寄れば、へたりとその場に座り込んでしまった。
     ため息をついて男を立ち上がらせようと手を伸ばすと、熊が駆け寄ってくる。
    「《アルシム》」
     一旦、熊を丸ごと氷漬けにして、人間に向き直った。
    「あなたが持ってるそれ、なんて言うんですか?」
     男が失禁しているのを見て、「冷えますよ」と腕を掴んで立たせる。こんなことで人間は死んでしまうのだから、面倒だった。
    「それで、それってなんの道具なんですか」
     小さい方の人間が大声で泣き出したので、黙らせようと手を伸ばすと、大きい方の人間は慌ててそいつの口を塞ぎ、縋るように謝罪を述べて慈悲を請うてきた。
     人間曰く、それは銃というらしい。
     ミスラに使い方を教える人間の指は、終始震えていた。薄着のミスラと違い、使い込まれた、だけど暖かそうな毛皮を着込んでいるというのに。人間という生き物の脆弱さにたいする認識を下方修正する。
    「じゃあ、ここをこうして、こうですか? わっ、うるさいな……」
     言われた通りに弾をこめ、引き金を引いてみると、激しい音とともに、男の指の震えが止まった。腹に空いた赤黒い穴からは湯気が立ち昇っている。
     体温が抜け落ちてしまう前に指先を温めるのに使おうかと内臓の隙間に手を差し入れると、隣にいた子供がはち切れたようにわあわあと大層大声で泣き出した。もうこの人間の口を塞いでくれる存在がいないものだから、呪文も唱えず、頭を吹き飛ばした。
     わざわざ銃弾という指定された物を準備して、手順通りにレバーを引いて、構えて、狙って、ようやくたった一撃を放てる。効率の悪さから、ミスラはすべての興味を失って、二人の上に銃を投げ捨てた。
     熊を包んでいた氷を解かすと、燃料用の幹と一緒に縛って、自宅まで連れ帰った。



     やはり、魔法で充分じゃないか。そう思いながら、距離をとりつつ切先を鋭く整えたつららを飛ばす。
     人間はともかくとして、魔法使いなら銃など介さず、こうして直接弾を飛ばせばいい。
    「っ、」
     頬を掠めた攻撃に、舌打ちをする。
     ほんの数百年前まで、十秒も相手にならなかったオーエンと、いつのまにか数分の戦闘が続くようになっていた。
     銃弾を真似した小さな攻撃を繰り返すものの、こんなものではオーエンの体を貫くことは叶わない。
    「《アルシム》」
     結局、胸のあたりから下を大雑把に吹き飛ばした。
     オーエンの上半身の着陸地点あたりに扉を繋ぐ。開けた途端、積もったばかりの雪の上に、胸像のようなそれが突き刺さる。
     どくどくと血が雪の上に広がっていくけれど、触れることはできなかった。透明な被膜のようなものが奪取を阻む。当然だが、事前に魔法をかけているのだろう。ついたばかりのため息は唇のうえに乗ったそばから凍り付いてゆく。今年の冬は、一等寒い。
     目を見開き固まったままの頭に手を掛ける。前髪を掴んで、上を向かせた。中途半端に下りたままのしんと静かな瞼を見つめながら、人差し指を耳に差し入れ、爪先に魔力を集中させていく。
    「アルシム」
     反対側の耳まで、一直線に撃ち抜いた。
     鼓膜と脳を破くだけでなく、ついでに、試しに最近編み出した呪いも注ぎ込んでおく。
     このあいだ、肉の焼ける香ばしい香りに引き寄せられて立ち寄った家で、例の若造がこんな風に魔法使いを殺していた。あの銃とかいう代物を、相手のこめかみに突き立てて。
     もっと遠くにいるうちから、魔法ですべて吹き飛ばしてしまえばいいだけだと思うのだが、なんだか格好良さを感じる姿だったため、真似してみたくなったのだった。
     肉を奪わせないために攻撃したつもりが、加減を忘れて家ごと吹き飛ばしてしまったのだけれど、焼け野原に残った石は大した質のものではなかった。近接したことはないけれど、遠目からでも香る魔力から、あの男の石は混ざっていないはずだ。いまでもどこかで生きているのだろうか。まだミスラの元に名前が伝わってこない程の新顔とはいえ、北の国であれだけの魔力を貯め込める力と気概があれば、そのうちミスラの首を狙ってやってくるだろう。
    「…………」
     手を離せば、落下したオーエンの頭部は、自らが広げた赤い絨毯に受け止められる。胸郭や耳、口から垂れ流される血で雪の上の血は黒々と染まっていく。
     血管を透かす淡い瞼はぴくりとも震えない。まだ下半身が引き寄せられる様子もないことから、蘇生も遠いらしい。
     開いたままの目と口に雪が積もっていくのを見下ろしながら、今回殺し合った理由はなんだったかと記憶を巡らせてみるけれど、思い出せなかった。
     この男がミスラの前に現れてから四百年は経つ。心臓を隠しているため殺しきれないが、まだ容易く葬れる。濡れた紙を裂くようだった感触がだんだん血と肉を帯びてきたけれど、それでもまだミスラの敵と呼ぶには遠い。
     潜在的な魔力も強く、この国で五百年余りを生き延びていることから、きっとこれから先、もっと強くなっていくのだろう。そうすれば、ミスラにとっていい暇つぶしになる。早く、そんな都合のいい存在になってほしいものだった。
     そんなことを考えていると、低く伸びやかな叫びが耳に届く。
     遠吠えのようなそれに顔を上げると、海が鳴いていた。
     北の国のなかでも最北端にあるこの海は、冬の間、流氷に覆われる。
     普通の海であれば、寒気により冷やされた海面近くの水は、密度が重くなるため、深い位置へと沈んでゆく。反対に、まだ冷やされていない水が上昇する。そんな風にして、海の中で水がぐるぐると循環する。対流と呼ばれる現象によって水が巡るため、一部ですら海が凍ることはない。
     だけどここは、山間部から大量の川の水が流れ込む。海水と比べて塩分濃度が低く、その差によってもともとの海の水と川から流れ込んだ水は二層にわかれる。塩分の少ない川の水は海面に、海水はそれよりも深い位置に留まる。
     海面近くの水、すなわち川から流れてきた水が冷やされても、その下にある塩分の濃い海水の方が密度が高いため、水が循環することはなく、海の表面が凍ってしまう。そしてそれが流氷になり、慟哭のような音を出すのだという。
     チレッタに連れられて西の国へ行ったとき、尊大な態度の科学者とやらが語りかけてきた内容だった。始めは心地いい子守唄だったものの、意識が薄氷のように眠りによってかたまりはじめてからは、それを叩き壊してくる雑音にしか思えなかった。彼の周囲に火をつけてやっても、愉快そうに笑い声を上げるだけだった。相手にならない虚しさに、自分が放った火より先に、怒りの炎のほうが萎んでしまった。飲みかけだった酒もそのままに、西の国を後にした。
     それももう何百年前のことだったかと、あぐらをかいて座り込んだ。
     同い年だと言っていたけれど、本当だろうか。何百年も生きて、ミスラの前であんな立ち振る舞いをするなんて、きっと賢くないのだろう。いまでも生きているのだろうか。
    「…………」
     今年は一段と低い声が、幾重にも響いている。この世界で、自分より強い魔力を有する唯一の男——オズの感情に、世界の気象が引きずられているせいだ。今年はここ数百年の中でも一番冷え込んでいる。
     オズが北の城から出て、世界中の土地を焼き払い始めたらしい。噂に疎いミスラにも、その話だけはすぐに舞い込んできた。正確にいえば、暇を嘆いたチレッタが酒とともに運び込んできた。
     自分のねぐらと食料が脅かされなければどうでもいいことだったが、いまさらそんなことを始めた理由には少しだけ興味があった。城に籠り漫然と椅子に座っているだけで、ミスラの石以外、世界中のなんでも手に入れられる力を持っているくせに。あらゆる欲が希薄なつまらない男に見えていたが、なにか欲するものでもできたのだろうか。
     チレッタは呂律の回らなくなった舌で、欲が出てきたなら付き合ってくれればいいのにだとか、満足させられる自信があるから一晩相手をさせろだとか、そんな代わり映えのしないことを垂れ流していた。
     チレッタは、少なくともミスラと出会ってからずっと、恋を求め、結婚という約束にあたるものを望み、子を成すことにも憧れているような発言を繰り返している。
     以前、知人の魔女が子を産んだと言って、顔を見に行くのに連行されたことがあるが、けたたましい泣き声に先に根を上げたのはチレッタの方だった。帰り道では母になるにはまだ早いとぼやいていたが、数日後にはまたオズに会いに行っていた。
     なぜそんなものを望むのか分からないけれど、容姿や性格ではなく、魔力の強さで相手を選ぶ心情だけは理解できた。いずれオズを殺したら、チレッタのアプローチはミスラに向くのだろうか。世界で一番の座は欲しいけれど、唯一億劫に思うことだった。
    「…………」
     海は叫び続けている。赤子の鳴き声よりは耳に障らないが、沈黙よりは遥かに騒々しい。
     チレッタがこの雄叫びを楽しむか疎ましく悪態をつくかは、年によって変わる。今年は聞いていられないと西にバカンスに出かけてしまった。侵攻中のオズと、バカンス中のチレッタが本気でぶつかり合ったら、どんな戦いになるのかは、見てみたいと思う。
     あくびついでに、肩を伸ばす。
     自分の他に生き物の気配はない。北の国の冬は、人間は家に、動物は土のなかにこもるため、それは静かなものだった。
     北の国では自分の住処でさえ安心して暮らすことはできないけれど、ここまで追ってくる輩はいないだろう。久しぶりの休息に細く息を吐き出した。
     上体を逸らすようにして後ろに両手をつくと、呻き声とともになまあたたかいものが左手にかかった。視線をゆるく後ろに向けると、手をついた拍子にオーエンの喉を押し潰してしまっていた。ついさっき殺していたことすら忘れていた。
     消し飛ばしたはずの下半身が戻っているところを見る限り、生き返っている途中だったのかもしれない。
     まあいいかと無視して、目を閉じて、海の慟哭を聴く。
     一年を通して雪の降るこの国で、冬を感じられる、貴重なひとときだった。
     オーエンは再び蘇生すると、煙のように消えてしまった。ミスラは引き留めることもせず、陽が赤みを帯びるまで目を閉じていた。



     冬眠した動物の気配を探しながら、深い雪の上を歩く。脂を貯め込んだ肉の味を思い浮かべ、舌の上に染み出した唾液を飲み込んだ。
     熊に鹿、小さいけれど幾羽もの兎の気配がある。
     今日はどの肉にしようかと考えていると、黒々と伸びる幹から雪がすべり落ちてきた。頭につく直前に魔法で溶かせばいい、呪文を唱えるまでもない、そう思ってよけずにいると、ただの雪の塊は急に蝋のようにどろりと形態を変えた。
    「…………」
     いつのまにか真っ黒になっていたそれは、ミスラの身体を覆った。もがけばもがくほど、全身にまとわりついてくる。口腔や鼻腔、毛穴ひとつひとつからもミスラの体内に入り込んで来んできた。
     うっすらと香る、あまったるいなかに苦みの潜んだ魔力のにおいに、攻撃を仕掛けてきた相手を悟る。
    粘度の高いそれを噛みちぎるように呪文の形に唇を動かすと、身体を縛っていた魔法はさらさらと乾いて砂に変わり、足元に落ちた。
    「なんの用ですか」
     上を向き、遥か頭上で箒に腰掛ける主犯——オーエンに尋ねた。
     ほとんど影しか見えないが、オーエンは顔の横で指を振っていた。仕草の意味がわからず首を傾げれば、今度は大量の氷柱がミスラめがけて降りかかってくる。刃のように鋭く整えられた氷柱が螺旋状に連なって、ミスラひとりに向かってくる様は思わずそれが自身に向けられた攻撃であることを忘れて、美しいと見惚れそうになる程だった。
     片手を高く上げ、呪文を口にするのと同時に指を鳴らす。螺旋状に炎の柱を上げて、見事な氷柱の列を包み込んでいく。幹もいくつか燃やしてしまった。あっさりと溶けてしまったオーエンの氷柱はすぐに蒸発してしまい、消火に寄与することはなく、止まない吹雪すらミスラの炎に勝つことはない。枝や幹を伝って炎が広がってゆく。一帯が焼け野原になるのを防ぐ理由もないので、そっと森から抜け出すことにした。
     森のはずれに扉を繋いで抜けると、箒に乗ったままのオーエンがすっと隣に滑り込んできた。一段と不機嫌そうな顔でミスラを睨み、さっきと同じように顔の横を指でとんとんと叩いている。
    「なんですか?」
     あくび混じりに問いかけると、オーエンは心底不快そうに唇を歪めて、舌打ちをした。顔の前に手をかざしたかと思うと、降りしきる雪を集めて空中に文字を描く。
    「耳が、聞こえ、ない……?」
     ミスラが足をとめると、オーエンも箒の上に胡坐をかいて座り込んだ。
    「それがどうかしたんですか?」
    「…………」
     今度は舌打ちの後に、雪の形を変形させる。
    「おまえ、が、なにか、した、せいだろ……。はあ?」
     身に覚えのない言いがかりに腹が立って、オーエンの顔を片手でガッと掴んだ。魔法を使うまでもない。このまま頭蓋骨を砕いてしまおうと指に力をこめたとき、オーエンの耳元からうっすらと自分の魔力の気配を感じた。そこでようやく、このあいだ殺し合った時に、オーエンの鼓膜に呪いを流し込んだことを思い出す。
    「あぁ、そういえば……。何をしたんですっけ」
     自分がかけた魔法を確認するために覗きこもうと顔を引き寄せれば、思いの外力が入ってしまい、頭蓋骨が割れてしまった。当然死んでしまったオーエンは放っておいて、耳元に顔を寄せると、確かに耳が聞こえなくなる呪いがかけられていた。自分のしたことながらご丁寧に、死後も振り払えないよう呪詛が重ねられている。
     弱いくせに何度もちょっかいをかけてくるオーエンが鬱陶しく、蘇生後も残る呪術を編み出したいと考えていたけれど、実践して、その結果を確認するのを忘れていた。
     この様子だと、成功しているのだろう。
    「っ、と……」
     ふらりと倒れ込んできた身体を、胸と腕で抱きとめる。頭蓋骨を破壊した拍子に飛び出してしまった目玉を無理矢理眼窩に押し込めて、目元を手で覆う。
     しばらくミスラの姿を見えなくなる魔法をかけてしまおう。何百年か経って、もうすこしオーエンが強くなったら呪いを解いて、ちょうどいい暇つぶしの相手になってもらおう。
    「は、⁉ っ……‼」
     呪文を唱えようとしたそのときだった。
     伸びてきた指が、ミスラの首に突き刺さる。穴を開けられた首はもちろん、口からもだらだらと血が流れてゆく。
     はっとして腕の中のオーエンを見下ろすと、均整の取れた唇が、ひどく愉快そうに弧を描いていた。
     ゆっくりと目元に被せていた手を外すと、正しい位置に戻った眼球がミスラをまっすぐに見上げてきた。頬に散らばったミスラの血よりも妖しい赤みをもった二色の目。そこに宿る、煮えたぎるような獰猛な光に、全身がカッと熱くなった。体液がすべて沸騰したかのように。
     ミスラに挑んでくる者は後を絶たないけれど、大抵の者は即座に石になってしまう。かろうじて生き残った者も、逃げ延びた先で他の魔法使いに殺されてしまう。近年、二度同じ顔を見ることはなくなっていた。
     だからオーエンは、稀有な存在だった。通常、ミスラに殺されるのは一回だというのに、すでに数えきれないほど何度も殺されていることも含めて。
     そして、何度殺されても、殺意が緩むことはない。殺されるたびに、研ぎ澄まされてゆく。久しぶりに北の国らしい魔法使いが現れたと、歓喜に身が震える。
     喉に刺さった指を弾き、傷を塞ぐ。砲撃魔法を唱えようとする口を、自らの唇で塞いで、吃驚で浮いた舌を捉えて噛みちぎった。舌はそのままオーエンの口の中に吐き捨てて、窒息していく身体を抱えたまま、扉を繋げた。

     死の湖の真ん中にある島。そこにあるものはふたつ。
     ミスラが運んだ死体の骨の山と、ミスラの家。
     ベッドの上で扉を開く。ふたりの身体はシーツに受け止められた。大きく沈んだマットからは、ほこりが溢れ出す。
     生き返ったらしいオーエンが長い指先を振るうと埃がひとところに集まり、『なにこの小屋?』と文字を作る。
    「俺の家です」
    「…………」
     集める手間の省けた埃を窓の外に追い出した。
    「っ、!」
    「暴れないでください。ああもう、《アルシム》」
     耳元を覗き込みやすいように顔を掴めば、オーエンはじたばたと暴れ出した。手足を縛り、全身に筋弛緩と魔力抑制の魔法をかけてやる。ようやくしおらしくなった身体にゆっくりと息を吐き出し、かさばる外套とジャケットを脱がせた。
     片手で顎を掴み、垂れ下がる横髪を掬った。掬った途端に、指先から逃げ出してゆく。皮膚の上を嘲笑うようにすり抜けてゆく感触に小さく息をのんでいた。しっかりとつかんで耳の裏に滑らせても、またさらりと零れ落ちてきてしまう。
    「…………」
     魔法使いであれば、人間と好んで接触などしないし、魔法使い同士なら取られまいと警戒し合うため他者の髪に触れる機会はほとんどない。だけどミスラは違っていた。人間の死体に何度も触れてきた。触りたいという意志をもったことはないし、変な気を起こしたこともないが、それでも運ぶ以上、多少の接触は避けられない。
     快も不快も覚えない。ただ仕事に必要な作業としてこなしていたが、感触はそれなりに覚えている。
     人間が食糧難に喘ぐ土地の為、どの死体もあまり健康状態は良くなかった。髪も肌も、乾燥してひどく荒れていた。村がそれなりに安泰の時分は、生きている者よりも手間暇かけて外見を整えられた死体が差し出されるが、急ごしらえの装いには限界がある。少し離れて眺めるだけなら麗しくとも、触れてみれば表面にしか施されていない美であることがよく分かる。
     だけどいま、ミスラの胸に身体を預ける他ないこの男——死体のように青ざめた皮膚をして、死体のように身体に力が入っていないオーエンの髪と肌は、雪解け水のようにさらりとした感触で、ミスラの指先を嘲笑う。
     これまで運んで来た死体はどれも横並びで優劣など考えたこともなかったが、オーエンの死体を運ぶときは少し気分がいいような気がした。とはいえ、魔法使いであるがゆえ、この柔らかな感触を保ったまま死体になることはないのだが。
     オーエンは怪訝そうに、動きを止めたミスラを見上げた。どれだけ力を奪って身体を拘束しようとも、瞳の光は諦念に曇ることなくミスラへの反旗に燃えている。無意識に舌なめずりをして、頬に触れた。
    「!」
     遠目に見えた時点で殺してしまうせいで、こうして顔をまじまじと見たり、触れたりしたことはなかった。
    拘束した手首の先で、爪がぴくりぴくりと震えている。
     前髪も半分ほど巻き込みながら、根元から髪を掻き上げて、耳の後ろに撫でつける。指を離す前にふうっと息を吹きかけて、微細な霜で髪を固めた。
    「んっ……」
     今日はじめて、オーエンの声を聞いた。寒そうに身体が震えている。筋肉に力が入らないよう魔法をかけているから、僅かなものだったが。
     もう一度、今度はなんの魔法もなしに息を吹きかける。またオーエンは肩を震わせた。
     好奇心からそろりと舌を伸ばして、耳介に触れる。窪みを舌先でたどって、穴に差し込む。
     オーエンは小さな声を息とともに飲み込んでいるようだった。我慢しようとするのであれば、崩したくなってしまう。反対の耳を手のひらでぴったりと塞いで、舌の表面を内壁に擦りつける。空いた手で顎や首元をくすぐると、そのたびにオーエンは反応を見せた。
     耳たぶに歯を立てて、薄く目を開けたとき、ようやく当初の目的を思い出して唇を離した。最後にもう一度、ゆっくりと息を吹きかけてから耳元を覗き込む。
    「《アルシム》」
     蘇生後も効く呪術をかけたことを忘れていたし、本末転倒ながらその方法も忘れていた。解く方法については考えてもいなかった。
     魔法の中身や、かけた手順を辿っていく。強力で、それでいて解除されにくいよう複雑に複数の呪詛を絡めている。自分で考えて編み出したものながら、あるいは自分自身で編み出したものだからこそ、ほれぼれするほどの出来映えだった。それゆえに、解く方法は容易には思い至らなかった。
     以前オズにかけられた呪いで三日三晩苦しんだことがあるけれど、次にまたあれをかけられても、この方法を使えばすぐに解けるかもしれない。
    「あぁ、なるほど……、じゃあこっちは、…ふうん、さすが俺ですね」
     かけた呪いも、解く方法も大体分かってきた。分かったところで、オーエンにかけた魔法を解いてやるつもりはない。ミスラがそれなりに考えて編み出した呪いとはいえ、これを自力で解けないくらいなら、まだミスラの相手には程遠い。相手の都合でミスラの視界のなかに訪問されるのもうんざりしていたところだから、これを解くまで近づけないよう呪いを重ねようかと考える。
    「っ、ん……」
     指の関節に生温かいものを感じて視線を落とすと、顎を撫でていた指にオーエンの歯が立てられていた。一瞬の歯型も残らないほど緩やかな力で、ほとんど戯れに舐められたようなものだった。
    「…………」
     そのまま口をこじ開けるように、舌の上に中指と人差し指を乗せる。
    「ふ、っぐ、……あっ……」
     味蕾を爪先でひとつひとつ弾くようにじっくりと撫でると、舌の裏からじゅわりと唾液が溢れ出した。唇の端から垂れるのもそのままに、二本の指で挟んでさすったり、親指の腹で円を描いたりと弄ぶ。
     噴き出したばかりの血のように真っ赤な舌。それが、ミスラが触れるたびにぐにぐにと形を変えていく。
     ミスラ以上に手足が冷たいことに驚いていたけれど、口の中はちゃんと体温を有しているらしい。といっても、自分の口の中もこれほど熱いものなのか、もっと冷ややかなのかは知らない。
     あぁこうすればいいのか、と二本の指で舌を引き出したまま、オーエンの口の中に自身の舌を入れて粘膜を掻き回してみる。体温を比べたかったのだけれど、どちらの口内も、同様に熱い気がした。
     舌を離すと、オーエンの頬が濡れていた。なぜ涙を流すのか分からなかったが、目頭と目尻に唇を落として吸い取ってやる。体液なのだから集めておけばまた新しい呪術を試すのに使えるはずなのに、頭が重く痺れていて、理性的な行動を阻んでいる。力を以ってして苦しめているのはミスラの方のはずなのに、どうして自分の身体までこんなに気怠いのだろうか。かぶりを振って、オーエンの口の中から指を引き抜いた。触れ続けていれば爛れてしまいそうなこの男の体温がすべての元凶のような気がしてくる。
    「あ」
     単なる思い付きで、暖炉に残る煤をひとさじ指先に集めた。おぼろげな記憶で紋章を描いてゆく。自分の身体にあるものを見ながら描いたほうが細部まで忠実に再現できるけれど、ほんの思いつきに、そこまでする気力はなかった。
    「ははっ!」
     赤い舌の上に、歪な黒い百合の花が咲く。
     この男もあの煩わしい厄災から逃れられない定めを押しつけられればいいのに。そんな日を想像して、思わず笑ってしまった。
     なにものにもとらわれないこの男が、年に一度は皆の前に姿を見せなければならなくなったら、それは不機嫌に顔を歪めるのだろう。
     オーエンのように人の不快がる姿に愉悦を覚えたりはしないけれど、ミスラばかりが望まないものを身体に刻まれ、手ごたえのない月のために召集される役を担わされているのは不満だった。
     チレッタやミア、フィガロやオズが選ばれてもいいはずなのに、どうして自分なのだろう。
     考えれば考えるほど腹が立ってきて、オーエンの舌に噛みついた。自分で描いた百合の紋章を、自分の舌先でめちゃくちゃに荒らす。
    「んっ、ふ、ぁ……」
     舌から伝わるオーエンの舌の味も、鼓膜を揺らす彼が漏らす上擦った声も、どちらもいやに甘い。
     さっき体液を採取できなかったこともそうだけれど、この男に長く触れているのはミスラにとって良くないことに思えた。オーエンがなにか魔法を使っている気配はないし、強力な呪具を持っている気配もない。原因が分からないからこそ、早くこの身体を湖の底にでも投げ捨ててしまうべきだと思う。それなのに、また肩を抱いて耳元に唇を寄せてしまう。
    「弱いんですか? ここ」
     さっきの感覚を思い出したのか、オーエンは、息も触れない距離のうちから身をこわばらせた。だけどその手はきゅっとシーツの上に滑らされるだけで、力が入らないとはいえミスラの身体を押し返そうとしない。もし抵抗されたとしても、押し切るだけだけれど。
     ふう、と耳元に息を吹きかけると、跳ね返ってきた吐息の熱さに驚いた。他人の身体を弄ぶなんていう行為で、体温が上がるのは初めてだった。
     チレッタから、相手した男女についてどんな反応が良かったなど一方的に聞かされることがたびたびあったが、ミスラにはよくわからなかった。性欲や精液が溜まったときは発散するけれど、出すだけならば相手の反応なんて関係ない。それだけの行為に、楽しむ、なんて概念の挟まる余地がどこにあるのか分からなかった。
     舌を伸ばして耳のふちをたどると、強情に震える睫毛の下で、殺意しか宿していなかった瞳の光が蕩けていく。少し首筋を撫でるだけで、鼻にかかったような声が漏れ出す。前戯なんてしたことはなかったけれど、これなら他の魔法使いや人間たちが、この行為を楽しむわけだと合点がいく。
     ときどき舌を止めて目を合わせてみるけれど、そこに浮かんでいるのは困惑だった。
    「殺す気はありません。少なくとも、いまは」
     ミスラの唇の動きに、オーエンは首を傾げた。自分でかけた魔法ながら、面倒くさくなってきた。灯していた蠟燭を一本消すと、その煙を目の前まで連れてきて、文字を作った。いまミスラが言った言葉の通りに。
     今度はオーエンが煙を変形させて、返事を書く。
    『これはなに』
    『いいから、そのままでいてください』
     これ以上言葉を紡げないように煙を空気中に還してしまおうと思ったが、一言だけ付け足す。
    『嫌なわけじゃないでしょう?』
     オーエンは首を縦にも横にも動かさなかった。
     今度こそ煙を吹いて霧散させてしまうと、再び顎を掬う。オーエンは小さく息をのんだけれど、一度目を閉じると、細く息を吐き出すとともに、肩から僅かに力を抜いた。
    わざと音を立てながら軟骨に唇を押し当てた。耳介を口に含んで柔く噛みながら舌で舐ると、オーエンの呼吸は、乱れて暴れ出す。
     顎や唇を撫でていると、オーエンの小さな声や、押し殺そうとするばかりに余計に熱のこもった呼気が、指にぶつかってくる。
     舌先を捻じ込むと、オーエンはさっきよりも素直に声を上げた。ミスラの服と擦れて、あるいは擦り合わされた膝から滲むような衣擦れの音がする。その音に浮かされるようにしてむらむらと気が立つけれど、殺意とはどこか違っていて、だけどそれを言い表せないことに苛立った。
    「ねえ、心臓ってどこに隠しているんですか」
     当然、オーエンに聞こえるわけはなく、返事もない。
     言葉を紡ぐだけのことが、声がないだけでひどく億劫になる。紙とペンはどこにやっただろうか。ひとりで生きていれば使うこともほとんどないものだから、忘れてしまった。
     文字を見せたところで、ひとつひとつの言葉が伝わるのが遅い。声に乗らないだけで、すべての会話が一拍ずつ遅れてゆく。
     ぺち、と間抜けな音に意識が引き戻された。
     オーエンの手が、頬に触れていた。
     ほとんど力の入っていない手はすぐに滑り落ちてゆく。指を絡めて受け止め、呪文を唱えて筋力をすこし戻してやる。
     オーエンは感覚を確かめるようにゆっくりと手を握り込んだ。指を一本ずつ開いていくと、指の腹だけをミスラの頬にくっつける。まだ固まりきっていない砂糖菓子に触れるような手つきだった。
     脇腹に手を差し入れてオーエンを膝の上に乗せる。
     オーエンはミスラを見つめてきた。なにか言葉を待っている目に、欲するものは与えずただただ見つめ返す。
     やがてオーエンは、ひどくたどたどしい手つきで、ミスラの輪郭と感触を確かめ始めた。
     チレッタも双子も、ミスラに遠慮なしに触れてくるが、その感覚は異なる。手のひらの柔らかさから、手つきの乱雑さまで。三人と比べると、オーエンの触れ方はぎこちなかった。まるで初めて他人の身体に触れたように。触れるか触れないか、そんな距離を保っている。
     くすぐったさに腹が立って、オーエンの手の上から、自分の手を重ねた。てのひらのなかで、骨ばった手がこわばる。
     またなんの意味もなく、見つめ合う。
     部屋に差し込む橙の光が、赤みを深くする。まるで身体から最後の一滴の血を搾り出すように。
     オーエンが顔を寄せてきたかと思うと、重ねられたミスラの手の甲に唇をくっつけた。口付けにも満たない、表皮が掠っただけの代物だったけれど。
     重ねていた手を少しずつ解くと、オーエンの指は離れることなく、ゆっくりと溶けていくようにミスラの頬に絡められた。
     ゆるやかに首筋を辿って、はだけたシャツの隙間に差し入れられる。やわらかい手のひらが胸をさすった。
     ミスラの身体に黒々と残る縫合痕を辿っているのかと思ったが、ときどき手のひらをぴたりと押し当てて動かなくなる。顎を掴んで、無理矢理目を合わる。オーエンはしばらくミスラの目を見つめ返したあと、胸の上で指先をさまよわせた。
     やがて、とんとんと一定のリズムでミスラの胸を叩きはじめる。
     見上げてきた目が「どこ」と尋ねているのが、声がなくても分かった。
    「真ん中じゃなくて左右どちらかに少し偏っているんですよね。どっちだったか忘れましたけど」
     聞こえているはずはないけれど、オーエンはじっとミスラを見ていた。唇の動きではなく、眉や頬の微細な挙動さえ見逃さないとでもいうように。
     オーエンの手を取り、てのひらに指先を滑らせた。
    「あなたが確かめて教えてくださいよ。俺の心臓の位置」
     一文字ずつ伝える。ミスラは真面目に、一秒も残らない文字を書いているのに、オーエンはくすぐったそうに笑うばかりで、ちゃんと伝わっているのかあやしい。
     最後の一文字まで書ききると、オーエンはほとんどわからないくらい小さく、だけどたしかに頷いた。ミスラの胸に耳を押し当てる。
     オレンジの断末魔をあげながら燃えていた太陽が、ついに息を引き取った。
     カーテンの隙間から、ささやかな月光と星の瞬きが部屋に忍び込んでくる。だけどそれ以外に、灯りはない。
     やまない雪が音を吸い上げるせいで、衣擦れと吐息の音はより克明に響く。視界が不明瞭になると、その音は部屋の中で存在を大きくした。
     オーエンは少しずつ頭の位置を変えて、ミスラの心臓の位置を探っている。見つけたところであげるつもりはないし、特段知りたいわけでもない。痛みを消して身体を開ければ自分の目で正確な場所が確認できる。
     じゃあどうして。疑念が自分から生まれて、自分を刺すけれど、そんなことを考えている余裕はなかった。
     風に容易く煽られる蝋燭の火のような小さな呼吸と、いつのまにか無遠慮に擦れ合うようになった皮膚から伝わるかすかな体温。
     言葉がなく、視界も翳った今、そんな心許ないものがなによりも雄弁だった。どんなに僅かなものでも、逃せばもう二度と得られない。オーエンが伝えようとすることも、勝手に伝えられるものも。
     互いに僅かな熱を明け渡し、また受け取って。そんな応酬を重ねるごとに、どちらの体温もゆるやかに上がってゆく。
     他者から熱をこんな風に押しつけられたことはなかったから、戸惑っていた。冷えていた肌が温められると、むず痒くて、くすぐったい。その感覚が、肌の上だけでなく、触れ合っていない爪先や、腹の奥からもじわじわと湧いてくる。骨の髄まで搔きむしって一刻も早くこの感覚を発散してしまいたい衝動と、じわじわと身が焦がし尽くされるまで味わっていたい動揺で軽く眩暈すら覚えた。
     動かなくなったオーエンの頭に指を滑らせる。髪を梳きながら顔を埋めると、細い髪の奥から、石鹸のにおいと肌のにおいが届く。
     オーエンは扉をノックするように、指の背でミスラの胸を軽く叩いた。
     ここ、と
     カーテンの隙間から差し込む一筋の月光で一瞬だけ見えた顔には、秘密を共有するときの甘美な薄闇をまとった笑みが浮かんでいた。
     胸を叩いた指を、自身の指と絡める。堆積した雪が春の陽光にあまく溶かされてゆくように、ミスラの熱がオーエンに伝わってゆく。他者の身体に自分の体温が灯ってゆくのは心地いいものなのだと、初めて知る。
     オーエンの身体が傾いた。胸で受け止めて、そのままミスラも一緒にシーツの上に倒れ込む。薄い唇から吐き出されたため息が肩にあたる。さっきのように艶めいた吐息ではなく、どこか乾いているような気がした。
    「もしかして、疲れたんですか? こんなことで?」
     すぐそばにある唇を撫でながら問いかける。
     オーエンはまたミスラの指に噛みついた。歯のくぼみに合わせて皮膚が押し込まれるけれど、まだ痛みを伴うところまでは沈まない。ほとんど舐められただけのさっきと比べれば力が入っているけれど。
    「……あ」
     呪文を唱えて、筋力を奪っていた魔法を完全に解いてやる。筋力を抑制されたまま、(ほとんどミスラにもたれていたとはいえ)座った姿勢を保ったり、触れるために腕をあげるのは相当困難だっただろう。疲れるのも納得だった。
     そんなことを思いながら、だけど特に労うこともなく、少し迷ったけれど、魔力を吸収する魔法も解いてやった。
     オーエンの呼気が首筋に触れる。ミスラも、オーエンの方を向いた。
     魔力が戻れば肉体の疲労なんてどうとでもできるだろうに、オーエンは距離をとったり、去ることもなく、ミスラの隣でじっとしている。不思議に思うけれど、それはミスラがオーエンを殺して外に投げ出さず、隣に横たえたままにしていることも同様だった。
     互いの吐息を混ぜ合いながら、いま感じているものに対するふさわしい言葉が見つかるまで、目を見つめ、手に触れ、体温を感じ合っていた。



     薄い布とはいえ、ミスラが幾重にも遮蔽の魔法をかけたカーテンが遮る陽光は、北の深い闇を明かしきることはない。
     指先をひとつ振って、カーテンを開ける。光を迎え入れると、残った薄墨さえ隠れることを許されず、すべて溶かし尽くされてゆく。部屋の中を自由に舞う塵すらきらめくほどの朝だった。
     ベッドから起き上がり、腕をあげて、身体を伸ばした。
     まだ目を閉じたままのオーエンを見下ろす。
     北の国では、昼夜問わず命が脅かされる。誰がいつ襲ってくるか分かったものではない。
     それなのに、何度も自分の命を狙ってくる北の魔法使いと、なんの拘束もなしに眠りこけるなんて、正気の沙汰ではない。それはオーエンにとっても同じだろう。
    「《アルシム》」
     弾かれたように、オーエンの瞼が振り上げられる。数日ぶりに戻った聴覚に、目を見開いていた。
    「おはようございます」
     ミスラの言葉に、オーエンは驚きでさらに目を見開き、おはよう、と掠れた声で紡いだ。
    「疲れたなんて言っていたくせに、俺が眠ったあとも俺のことを見てたでしょう」
     魔法で服と髪を清め、水を飲む。オーエンは、上半身を起こして頬杖をつくと、ミスラに向かって鼻を鳴らした。
    「お前がすぐそばにいるのに、眠れるわけないだろ」
    「そうですね」
     異論はなかった。オーエンの方が弱いのだから、警戒するのは当然のことだった。
    「っ、…!」
     一瞬。瞬きをした隙に、オーエンは視界を埋め尽くすほどすぐ目の前にまで来ていた。手の上に魔道具の骨を顕現させるけれど、オーエンの目は朝日を反射して鮮やかな色を見せるだけで、殺意の鋭さや悪意の濁りは見当たらない。きゅっと目が細められ、鼻先が擦れ合う。
    「好きなんだ、お前の顔」
     呑んだ息を吐き出せば、震えた軌道でオーエンの唇に降りかかった。
    「っ、かっこいいですからね」
    「顔については否定しないよ」
     顔を傾けてほんの少し顎を上げようとすれば、まるで枯葉を掴もうとしたときのように、オーエンの身体はするりと一歩引いて、ミスラの唇を躱してしまう。
    「それに僕は、疲れたなんて言ってない」
    「言ったでしょう」
    「言ってないよ。昨日……ついさっきまで、誰かさんのせいで喋れなかったんだから」
    「はぁ、大変でしたね」
     オーエンに呪いをかけたことなど忘れて、本心からそう言っていた。オーエンは面白くなさそうに眉を顰めたものの、すぐにゆるりと表情を緩めた。
    「音がしなくても、すごくうるさかった」
    「は?」
    「お前のからだ」
     オーエンは呪文ひとつで衣類と髪の乱れを整えると、箒を手に取った。
    「どこに行くんですか」
    「帽子。お前が持ってきてくれなかったから、取りに行く」
    「俺も行きます」
    「来なくていい。来るな」
     翻った外套を掴んで引き止める。
    「あぁそうだ、扉を出してよ」
    「少し遠いですけど、箒に乗って行きましょう」
    「僕の話聞けよ」
    「……こうやって話すのは初めてな気がします」
    「お前が遠くにいるうちから殺してくるからね」
    「あなたが弱いのが悪いんでしょう」
    「…………」

     それから。
     オーエンが生き返るのを待って。
     運んでほしいと囁かれ、耳のふちを湿らせるその甘く掠れた声に応えてやることにした。
     並んでミスラの箒に座り、北の空を悠々と渡ってゆく。言葉はない。唯一触れ合っている小指を、ふたりともそれ以上動かすことも退くこともしなかった。
     雪はやんでいて、珍しく雲も薄く、雪の反射によって陽光、空にも大地にも、隅々まで光が行き渡っている。
     目が焼けそうなほど白くてたまらない景色の中で、海だけが、世界中の青が眠りについたような深い色を湛えている。
    「《クアーレ・モリト》」
     一晩のうちに降り積もった雪の上澄みが、ぶわりと浮き上がる。そして見つけた帽子を手元までふわりと引き寄せた。オーエンは手で雪を払ってから魔法で乾かすと、鍔をしっかりと掴んで小さな頭に帽子を被りこんだ。
    「あ」
     淡い風にすら揺れる細い銀糸の先を眺めていると、足元に草が生えているのを見つけた。
     オーエンが退かした雪に埋もれていたらしい。ようやく空を見ることができた小さな緑は、昇ったばかりの朝日に一目惚れされたようにその光を一身に受けて纏った露を煌めかせている。膨らんだ蕾から、皮膚の裂け目のように赤い花弁が覗いている。
    「北の国でも、花って咲くんですね。見たことありませんでした」
    「僕より長く生きてるのに? お前って本当に神経が鈍いよね」
    「視界に入っていなかったんですよね」
    「鈍いなあ」
    「まあでも、今日気付けたので」
     めいっぱい、朝の空気を吸い込んだ。
     比喩ではなく、文字通り肺が凍り付く。魔法使いでなければ死んでいるところだった。だからこそ、これは北の魔法使いにしか味わえない、北の国の冬の香りだった。
     オーエンが息を吸う音が聞こえた。ミスラの隣に立ち、同じように胸を膨らませて、目を閉じている。
     凝固した雪のような頬と、そこに落ちる睫毛の影を密やかに見つめた。
     指先で触れると、身体を跳ねさせることなく、オーエンはこちらを向いた。そのまま意味もなく撫でてみるけれど、振り払われることはない。ミスラに触れられることに、一晩ですっかり慣れたようだった。
     銃のことを思い出す。あの装飾のかっこよさは捨て難いけれど、やはり必要ない。放ったものを直接受け止めさせるのが性に合っている。攻撃魔法も、言葉や体温も。
    「っ、!」
     また、海が鳴く。
     植物が生え始めているということは、来月には聞こえなくなるのだろう。
     そして、家に閉じこもっていた人間や、土の中で存分に惰眠を貪っていた動物たちが陽のもとに姿を晒し始める季節が来る。
    「もうすぐ、春が来るね」
    「……」
     思わず、目を見開いた。少しだけ下にある顔を見ると、オーエンは一瞬きょとんとした顔を見せたあと、僅かに眉を下げて笑った。透明な氷の表面が一瞬だけほどけて一滴の水を滴らせたような、冬が綻んだような顔だった。
    「なあに、その顔」
     オーエンは昨日よりもさらに慣れた手つきで、ミスラの頬に触れる。
    「おなじことを考えていたので、驚いただけです」
    「……ふうん?」
    「ねえあなた、このあとはどこに行くんですか」
    「西でケーキを食べようかな」
    「分かりました」
    「は?」
     呪文を唱えて、首都近くに扉を開いた。
     雪とは無縁の、朝だというのにすでに賑やか空気がなだれこんでくる。
    「…………」
    「ほら、行きましょう」
    「……お前の奢りなら」
    「奢り? それってなんですか」
    「お前が対価を支払うってこと」
    「はあ。俺が食べてやるんだから、それが一番の褒美でしょう」
     オーエンは呆れた顔をしつつも、先に扉をくぐってゆく。
    「それより、なんでケーキなんですか」
    「すきだから」
    「そうなんですか」
     最初に覚えたのは、ミスラよりも弱いこと。
     次に覚えたのは、白く翻る外套と、雪とみまごう銀の髪と、そして心臓から直接採取した血のような赤い目。
     そして、名前がオーエンであること。
     誰に対しても、ミスラが覚えるのはここまでだ。
     だけど昨日、その先を知った。体温と感触。そしてついさっき、ケーキが好きだと知った。奢る、という行為をすればいいということも。
     この男とはこの先、ともにする時間が増えるのだろうか。そしてもっと多くのことを知ることになるのだろうか。
     他者のことを知りたいと思っている自分を知って、驚く。
     自分より弱い者との交流に、なんの意味があるのだろうか。
     声は出るし、文字も紡げるのに、そんな自問に返す言葉が見つからない。
     これから、この男から静かに、時に激しく発される言葉や熱を、拾い集めていれば分かるのだろうか。
    「…………」
     むず痒くなった首の後ろを掻く。自然と唇が笑みを象っていた。
     千年近く生きてきて初めて、知らぬ間に踏みつけてきた足元の花に初めて気付けたから、きっとできるだろう。
    「待ってくださいよ」
     扉を越えて先を歩くオーエンの背に手を伸ばした。
     カフェに入ったら、オーエンの鼓膜が摩耗するまでミスラの話を聞かせてやろうと思う。それが終わったら、ケーキと紅茶のおかわりを頼んでからこう言うつもりだ。
     あなたの話をきかせて、と。
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