護国の鳥 まだ鶏も鳴かぬ夜半に、広げた翼の一丈にも届かんばかりの鳥が庭に降り立った。
月の欠けた夜である。足元は闇に溶けて、夜露が蹴られて音を立てて散った。音を立てたから初めて夜露と知れるほど暗い中に、しかしもう舞い降りた鳥はいなかった。ぼんやりと白く霞むような狩衣の男が項垂れたまま、草を分ける音だけを立てて屋敷へと向かっている。紙燭も持たずに濃い夜の中をまっすぐに歩く男は、菅笠を被った上に俯いているから前の見えるはずもない。それどころか笠のうちには雑面が垂れていた。
男は庭から直接濡れ縁に上がったが、白い足袋は濡れても汚れてもいなかった。相変わらず項垂れて、滑るように縁側を進んでいく。やがて障子から灯火の明かりが透けて見える部屋の前に至ると、待ち構えたようにすうと障子が開いた。見れば赤子ほどの背丈の細面の男が二人、それぞれ左右の障子の縁を掴んでいた。雑面の男が中に入ると、小さな男達は外から障子を閉めて消えた。
「何故起きていらっしゃるのです」
雑面の男は低くくっきりと輪郭を持った声で言った。
灯火の傍らで、寝間着姿の男が脇息にもたれていた。敷かれた布団は半ばまでめくれていて、どうやら男が一度は床についたらしいことが窺えた。
「お前が帰ってきたからだろう」
答えた男は若かった。灯火の灯が映らんばかりの滑らかな肌は色が濃く、南の郷の匂いがした。
「まだ明け六つまでいくらもございますのに」
そう言いながら、雑面の男は静かに畳の上に膝をついて、手甲を着けた手を揃えて頭を下げた。
「只今戻りました」
うむ、と若い男は満足げな声で応えた。己が主であるとその声音は言っていた。
主に比べてしもべの男は小さく、それでいて巌のような身体をしていた。雑面の端から覗く肌は乾いて、手甲から伸びた指は太く短かった。
「こちらに来い。月島」
主が呼ばうと、男は素直に灯火のそばまで進み出た。主の手が伸びて雑面の頬を指先で撫でる。唐紅の文様が緩やかに細くなった。
「鶴見中尉殿を慕って帰ってこんのではないかと思ったぞ」
「御冗談を」
「大陸はどうだった」
月島はわずかに顔を背けた。雑面のおもての唐紅が黒ずんだのは、灯火の影のせいばかりではなかった。
「……伴天連の軍艦が来ております」
「蒸気船か」
はい、と月島は頷いた。
「帆を張らぬ鉄の船が幾隻も」
「大層なことだ」
主は笑って、脇息に腕を置き直した。
「鯉登少尉殿」
月島の声には咎める色があった。みなまで言うなとばかりに、鯉登は手を振る。
「大陸の流れはもう止まらん。連中は火薬樽を積み上げても満足せん。石炭も燃せば阿片も燃す。奈翁を恐れれば自国も焼く。我々が手を出しても文字通り焼け石に水だ」
「しかし鶴見中尉殿は」
「中尉殿は大局を見ておいでだ。大陸をどうこうなさりたいわけではなかろう」
鯉登はじっと月島の雑面を見る。唐紅から薄墨が滲むようだった。
「私にも大陸に行ってほしいか?」
問いかけられて、月島はぎょっとしたようだった。小さく揺れた雑面の、唐紅が四方に細い細い川を作って流れた。
「まさか。私は──ただ」
鯉登は苦笑し、畳の上の月島の手甲を撫ぜた。
「わかっている。意地悪を言った」
「……」
「私はこの国を守るものだ。鶴見中尉殿もそれをご存知だから、お前を私に預けてくれた」
「それは……」
「おっしゃっていたぞ。月島に大陸の水は合わんだろうとな」
月島はいたたまれないようだった。唐紅が揺らいで、明滅した。
「お前も守るものだ。そういう式神だ」
そう言いながら、鯉登は脇息を離れ、月島の膝の上に頭を乗せた。月島は始めおずおずと、やがて穏やかな手つきで鯉登の艶のある髪を撫でた。
「……私はお仕えするだけの者です。守るなど大それた……」
「守りたいと思うものは畢竟守るものだ」
鯉登は言い切って、月島の雑面の裾を指先で揺らした。月島は短い沈黙を挟んで、おもむろに己の雑面を手ですくい上げた。
現れたのは無骨な、凹凸に乏しい男の顔である。
鯉登はその頬に直接手のひらを当てて、呟いた。
「いつ見ても美しい目だ。浮世のものなら宜陽殿に仕舞われていたやもしれん」
月島は眉を寄せた。不機嫌にも見えたが、雑面の裏からうっすらと広がった紅色が見えて、そうではないことが窺えた。
「あなたはいちいち大袈裟なのです」
「思ったことを言ったまでだ。この目が人と同じものを映していると思うと不思議だな」
「……」
「お前が識神だった頃の瞳も見てみたかった。遅く生まれたことが口惜しい」
「……期待なさるようなものではありません。凡庸な男の目です」
月島は鯉登から視線を外して言った。翠の瞳に灯りが射し入って、いっそう深く美しく見えた。
「識神が人の身で生きるのはつらかったろう」
「…………鶴見中尉殿に封じていただかなければ、あなたに退治されていたかもしれませんね」
「お前はすぐにそういうことを言う。成らなかったことなど、いくら考えても遊びのようなものだろう」
「あなたのは遊びですか」
「そうだ。想像するのは楽しい。識神のお前の目に私はどのように映っただろう」
月島は唇を結んだ。鯉登は膝の上で目を閉じて、笑ったかたちの口だけを動かして言った。
「人心の善し悪しが色で見えたと言ったな。悪しきものは海より昏く青かったと。善行を積んだものは血のように赤かったと」
「……はい」
「私は善行など積んだ覚えはないから赤くは見えまい。かといって悪に成り下がった覚えもない。だいたい、そんな二極に偏った心で大陸の理不尽な火が払えようか」
「……そうかもしれません」
淡々と応える月島に、鯉登はぱちりと目を開けて言った。
「中庸のものがいい。月島、お前、紫は見えなかったのか?」
「は?」
「赤と青の間の色だ。透明はつまらん。識神のお前の目に、私が紫色に映っていたら、さぞ誇らしかろうなぁ」
あたかも今そうして称賛されたかのように笑んで、鯉登は月島の目許を撫でた。
月島は翠の、人と同じものしか映さぬ目で鯉登の顔を眺め、そして何か言いさしたが、結局何も言わずに身を屈めて、鯉登の額に唇を当てた。