海と出会った日「父さんと母さんがいなくなった」と、村じゅうが大騒ぎになったことを覚えている。とても小さな頃だったから、そんなにはっきりした記憶ではないけれど。
大人たちはみんなざわざわしていて、カニクやほかの犬たちも不安そうに鼻をひくひくさせていて、「今日は俺たちのところで寝ような」とおれの頭を撫でてくれたアキアックの手もなんだかきごちなくて。たぶん極夜の頃だったんだろう、空は一面真っ黒で、風は吼えるような音を立てて地面の雪を吹き上げていた。
おれはといえば、いつも夜にはおやすみを言って別れなきゃならないアキアックと一緒にいられるのが嬉しくて、ひとりだけ浮かれていた気がする。みんなの様子も空の様子もいつもとあんまり違うから、お祭りでも始まるのかと思ったのかもしれない。
大人たちが犬を連れて村を出るのを見送って、おれはアキアックと、まだ赤ん坊だったコラソンと三人でイグルーの中に戻った。
みんな何かさがしに行ったの、と聞いたら、アキアックはそうだと答えた。そうして、おなかが空いたのかもう眠たいのか、大きな声で泣きだしたコラソンを抱いてあやしながら、「朝になればきっとみんな帰ってくる」と言った。そうなることを祈るみたいな声だった。
目が覚めると、アキアックの言ったとおり、大人たちは帰ってきていた。母さんもいたけれど、とても疲れた顔をしていて、出迎えたおれを一度だけぎゅうと抱きしめるとイグルーの中へ引っ込んでしまった。
父さんはどこにも見当たらなかった。アキアックが気の毒そうにおれを見て、今日も一緒に寝ようと言った。
風は止んでいたけれど、空はずっと黒いままで、大人たちも犬たちもみんなどんよりしていた。おれの顔を見るなり泣きだす人もいた。父さんのことも母さんのことも、今は聞いてはいけない気がした。
それからしばらく、おれはアキアックのイグルーで過ごした。
大人たちが代わる代わるおれを訪ねてきて、強くなれとか母さんを支えてやるんだよとか、そんなふうなことを言い残していった。
おれはうんとか分かったとか、よく分からないのに返事をしながら、父さんがもう二度と帰ってこないことをうっすらと悟った。「行ってくる」とおれの髪をくしゃっとかき混ぜて、それっきり──表情も声もぼやけていて、今ではほとんど思い出せない。「いた」ということまで、ときどき忘れてしまうくらい。
大人たちがいなくなると、体の中が急に空っぽになるような感覚がして少し怖かった。コラソンの泣いたり笑ったりする声だけがいつも通りで、聞こえてくるたびにほっとした。
そうして何日か経った頃、母さんがおれを迎えにきてくれた。
父さんのことはもう知っているかと聞かれて頷くと、母さんはおれを片腕で抱き寄せて、ゆっくり額を合わせてくれた。
その仕草で気がついた。母さんは、もう片方の腕に何かを抱いていた。
「あのね」母さんが静かな声で言う。「あなたに、妹ができたの」
おれは母さんから少しだけ体を離して、その腕の中を覗き込む。
そこには、コラソンよりももっと小さな赤ん坊がいた。
「名前はミアリというのよ」
「ミアリ?」
「そう、『海』という意味……この子は、海から生まれてきたの」
ミアリ。おれの妹。
母さんに抱かれてすやすや寝息を立てているその子は、晴れた日の海と同じ髪の色をしていた。
真っ黒な極夜の空の下では決して見えない、眩しいくらい鮮やかな色。
「ミアリ」
名前を呼ぶと、その子は応えるように目を開いた。
まだ眠たそうに揺らいでいた瞳がおれを映して、ぱっと輝く──ああ、なんてきれいな光!
きっと父さんは、この光を守ろうとしたのだろう。
おれにだって分かった。これは、命に代えても守るべきものだ。
(それから数年もしないうちに、この子はすっかり大きくなって、おれは守るどころか守られるばかりになってしまうのだけど)
「おれの名前は、キラック。おまえの兄さんだよ」
これからよろしくね。
おれはミアリの小さな小さな額に額を合わせて、目を閉じた。
これは、おれたちが出会うまでの話。誰も知らない、おれだけの記憶。