蒸し暑い夏の夕暮れのことだった。歯の定期検診の帰り道、べたべたした空気が肌にまとわりつくのを煩わしく感じながら横断歩道を渡ろうとした時、前方から歩いてくる人の波のなかによく知る顔を見つけた。
「藤井?」
思わず名前を口にしたものの、すぐに後悔した。同じバンドでギターを担当する同級生とは、気軽に話せるほど打ち解けた間柄ではない。部活では見る機会のない私服姿も、気後れする心に拍車をかけた。
この人通り、ましてや歩行者用の誘導音が鳴っている状況なら、呟き程度の声など聞こえなかったかもしれない。そんな淡い期待が頭のすみを掠めたが、揃った前髪の下から覗く瞳はすぐにこちらを捉えて、俯き加減のまま歩み寄ってきた。
「……元」
姉と藤井以外使わない呼称は、日頃よりこわばって響いた。
近い距離で見下ろして、初めて藤井の目が赤く潤んでいることに気付いた。滲んで流れた化粧が、肉の薄い頬の上で細い帯のようにきらきらと光を放っている。
明らかに良くないタイミングで声をかけた気まずさと曖昧な罪悪感に、喉奥から苦いものがこみ上げる。土足で踏み込むわけにもいかず、なにか当たりさわりのない話題を探す内にふと頭上の鳥の鳴き声に似た音が止まり、それが合図だったように藤井が口を開いた。
「あたし、バンドやめるから」
もう決まったことやし、練習も行かん。
相手に伝えるというより、自分自身に言い聞かせるような声音だった。やけに白い指が、鞄の肩紐をきつく握りしめる。
いつも値踏みするものを探しているようだったかたくなな眼差しが沈む夕日の下で静かにひび割れて、開く傷口を目の当たりにする痛みが胸の底をちりちりと焦がした。
思い出す。藤井の周囲に挑むような強気な瞳と、練習に打ち込む姿を。慣れない呼び方を不承不承受け入れた時の、勝ち誇ったような表情を。部活終わりに垣間見た、頬を染めた満ち足りた横顔を。
いくつかの推測と、かけるべき言葉が頭のなかを浮き沈みしたが、知った風な口を利いたところで上滑りしそうで、結局は「そうか」と頷くことしかできなかった。
「……残念やと思ってる。藤井とバンドやれんくなるの」
「キショいこと言うなや、あたしが誘われた時めっちゃ嫌そうな顔しとったくせに」
苛立たしげに吐き捨てて、藤井が目を伏せる。傷んで割れた石畳に、俯いた長い影が伸びている。これ以上の会話を望まれていないのは明らかだったが、普段より低い位置に見える旋毛を前にすると、口に出さずにはいられなかった。
「いや、まあ……正直言うと最初は絶対性格合わんやろと思うとった、けど」
初めて顔を合わせたとき、異性と組むことへの抵抗感がなかったと言えば嘘になる。事務的な伝言を鷹見や田口に託して呆れられたのも一度や二度ではない。それでも頻繁に顔を合わせれば多少の軽口も交わせるようになったし、藤井の気だるげな振る舞いとは裏腹の、地道な練習に裏打ちされた演奏を前にすると胸の空く思いだった。
「俺は、藤井のギター好きやったから」
まるで気の利かない言葉に、藤井が顔を上げる。幾分赤みの引いた両目が無防備に見開かれて、引きつったまま結ばれた唇が微かな震えを帯びた。
「…………」
何かを言いかけて、止める。堪えるように息を吸い、吐く。やがて小さく首を横に振ると、瞼を伏せて街灯の点り始めた通りを振り返った。
「……もう行くわ」
その絞り出すような響きに言葉を重ねる前に、明るい色の毛先が翻った。再び信号が変わり、行き交う人のなかに藤井の小さな後ろ姿が紛れていく。もう呼び止めることはできない。額に浮いた汗がこめかみを伝うのを感じながら、二度と振り返らない背中を、見えなくなるまで目で追った。