びしょぬれ呪術師でなくなって、いいこともわるいこともそれなりにあったけれど、毎週土日プラス祝日の休みが約束されているのはいいことには違いない。とはいえ、昼前までベッドでごろごろは、いくらなんでも寝坊が過ぎる。
僕は腕枕の中で寝息を立てる棘くんに目をやった。穏やかな寝顔はあどけなくて、学生のころと変わらないように見える。あの頃は想いが呪いに転じることを恐れて恋をすることに怯えていたけれど、泊まりがけの任務のとき、ひそかに覗き見た棘くんの寝顔に生を感じて、ほっとしていた。
今は、恋心どころか、大切な恋人だ。さて、愛おしい人をどうやって起こそうか。悩むまでもなくキス一択で、僕は棘くんの唇にそっと唇を重ねた。
「ん」
短い返事に気を良くして、ちゅ、ちゅ、とキスを重ねる。
「ふふっ」
くすぐったそうに笑う声、ちゅっとキスが返ってきた。
「おはよう、棘くん」
「おはよう、ゆうた」
カーテン越しの日差しが、ちょっと照れくさそうな棘くんの笑顔を照らす。
「起きちゃおうか」
僕はふたりで被っていたタオルケットを跳ね除けて、カーテンを開けた。ぎらりと灼けた白銀の太陽が青空に浮かんでいる。
「まぶしい!」
棘くんはふざけてタオルケットに潜り込んだから、僕はタオルケットごと抱き上げた。
「起きるったら起きるよ」
棘くんはタオルケットの中の顔を、いやいやと横に振る。
「だーめ」
タオルケット越しに棘くんのおでこにキスをすると、棘くんは我慢できないみたいでくすくす笑った。
「棘くん」
呼ぶと、タオルケットを顎まで下げて、薄く目を閉じる。少し開いたやわらかな唇に、あらためておはようのキスをした。棘くんの右腕が肩に回って、僕も強く抱き締めて、さっきまでよりは熱烈に、昨夜よりはライトに、唇のやわらかさを堪能し、舌の甘さを味わった。
「おはようするよ!」
「しゃけ!」
「サンドイッチ、作ろうか。朝昼兼用でいいよね?」
「しゃけしゃけ」
今朝の返事はしゃけばかり、棘くんはごきげんだ。
今日もカンカン照りの真夏日、天気予報なんて見るまでもない。
キッチンまで棘くんを運んで、抱っこの棘くんが床に足をつけるのを待った。ふわりとタオルケットを取ったら、僕も棘くんもはだかんぼのままだ。ふたりともキスマークだらけで、照れ笑いする。
「お料理するからね!」
ほうっておくとはだかんぼのままでいそうな棘くんに、テーブルに脱ぎ捨てていた僕のパジャマの上を着せる。僕は下だけ履いた。僕のパジャマをだぼだぼ着ている生脚の棘くんはすこぶるかわいい。
「憂太、これ、好きだね」
「かわいいもん」
「憂太だけだよ」
「だったら、悪い虫がつかなくてちょうどいいじゃん」
「おかか」
棘くんはそんな訳あるかって笑うけれど、棘くんを好きになるやつなんて、男にも女にもいるに決まってる。全人類ライバルじゃん。
「棘は憂太しか好きじゃないよ」
しょんぼりした僕の肩に右手をかけて、棘くんは背伸びでかわいいキスをくれる。僕の胸がきゅんと鳴った。
「ご飯。作るよ」
「うん!」
僕はすっかりごきげんで、棘くんとキッチンに立った。パンに、スライスしたハムとチーズを挟んだだけの簡単サンドイッチと、買っておいたトマトの冷たいスープ。それから、昨日の晩ごはんの残りのグリーンサラダ。カフェオレとコーヒー。盛り付けてテーブルに並べたら、なんだかすてきなブランチだ。デザートには、すこし前に真希さんが送ってくれた京都の琥珀糖を付けちゃおう。真希さんは男ふたり暮しでさぞかしむさ苦しいと思っているみたいだけど、そんなことないんだよ。
僕たちはテーブルに座って、棘くんはカフェオレ、僕はコーヒーのグラスを持った。
「いただきます」
乾杯みたいにグラスを軽く合わせて、ブランチに手をつけた。
「棘くんは今日は何か予定あるの?」
「ないよ。憂太は?」
「大きな買い置きも先週したもんね。出かけちゃおうか」
棘くんはスープを飲みながら、うんうん頷く。
「どこがいい?」
「海!」
即答だった。
「海、すぐそこじゃん。大して遠出でもないよ?」
「憂太と行くからいいんだよ」
そんなことを言われて、有頂天にならない僕じゃない。
「泳いじゃう?」
「しゃけ!」
食器洗いは食洗機におまかせで、琥珀糖をぽりぽり食べながら、海水浴の準備をはじめた。
ふたり分サイズのクーラーボックスにジュースのペットボトルと保冷剤の氷、お菓子をすこし詰める。それから、レジャーシートとパラソルはひとまとめに。いつか海で遊ぼうと店頭に出始めてすぐに買っておいたけれど、ついに出番がやってきた。
ちゃんとお手洗いと洗顔もしてから、パジャマを水着に着替えて、キスマークはラッシュガードとパーカーで隠した。首にタオルと、麦わら帽子も忘れずに。ビーチサンダルのタグも切らないと。
さて、準備万端整いました。
僕はクーラーボックスを肩にかけて、右手で残りの荷物を持った。
「棘も持つよ」
棘くんはクーラーボックスのベルトを引く。何も持たなくても、いてくれるだけでいいのに。でも、どんなに棘くんを頼りにしているか、態度で示すために、僕はクーラーボックスを棘くんに預けた。
「ありがとう、よろしくね」
「しゃけ!」
棘くんがごきげんで、僕はしあわせだ。
僕たちのマンションから海までは歩いて十五分。ビーチサンダルを突っかけて、ぺたぺた歩く。スマホもカメラも持たないで、泳ぐ気満々だ。
でも、僕たちは真夏の休日の海を舐めていた。
海岸が近づくに連れて、小さな海辺の街なのに日頃見ないくらいの人出で、海水浴場への最後の交差点は、水着姿の老若男女でいっぱいだった。砂浜にはたくさんのパラソルが並んで、波打ち際はごった返している。
「すごい人だねぇ」
僕は呆気に取られて言うと、棘くんも面食らったみたいでうなずく。もっと早く出てきたらよかった。
「どこか、あいてるところ探そうよ」
僕が棘くんの右手を握ると、棘くんは麦わら帽子の陰で笑顔を見せてくれた。
コンクリートの階段から砂浜に降りて、焼けた砂にビーチサンダルを踏み入れた。人混みではぐれないように手を繋いだまま、パラソルの隙間を探して歩く。行儀のいい人も、良くない人もいて、僕は棘くんを守りたかった。
だけど。
「ママー、あのひと、ひだりのおてて、どうしたのかなぁ?」
小さな子供の、無邪気な声が、背後から僕の耳を突き刺した。
僕は棘くんの右手をぎゅっと握り締めた。
十年前の渋谷で、棘くんがどんな思いで戦ったのか、知らないくせに。
棘くんやみんなががんばったから、今の平和があるのに。
僕があの時あの場にいたら、絶対に守ったのに。
僕が、棘くんを守れなかった。
「憂太」
僕は棘くんに振り向いた。棘くんは、ふざけて僕に体当たりをした。
「やっぱり映画見に行こう」
「ごめん」
僕は棘くんの顔を見れなかった。棘くんからクーラーボックスを取り上げて、階段までは戻らずに、胸の高さのコンクリートに手をかけよじ登った。棘くんの右手を引いて、抱き上げる。
僕は、ほんとうに弱い。勝手に傷ついて、勝手に悩んで、棘くんのやさしさに甘えて、棘くんの強さに縋って、棘くんを独り占めしている。
棘くんは、僕といてしあわせなんだろうか?
僕たちはマンションに戻って着替えて、おさいふだけ持って出発した。
電車に揺られること三十分、いちばん近いシネコンに到着した。
見たい映画なんて何も決めていなかったから、すぐに見られる映画にする。バカバカしいコメディを見て、二時間半後にはつまらないB級ホラーを見た。映画館には大勢の親子連れがいたけれど、彼らは人気アニメの映画に夢中で、僕たちに目を留める人はいなかった。
西日のまぶしいフードコートで早めの夕食を食べながら感想戦の真似事をして、それからもう一本、社会派サスペンスを見る。
開始三十分で眠気に襲われて、終わる頃には、すっかり夜になっていた。
「ごめん、全然覚えてないや」
「棘も」
「きっとつまらなかったんだよ」
観客も全然入ってなかったし。でも僕は棘くんとずっと手を繋いでいたからそれだけで満足だった。
ちょうどきた電車に乗って、三十分、僕たちの街に帰ってきた。他に乗降客がいなかった駅から出ると、海の方角に満月が見えた。
「憂太」
棘くんは右手で僕の左手を引いて、からっぽの左の袖で月を指さした。
「まんまるだね。ねぇ、海、行こうか?」
「しゃけ!」
僕たちはスニーカーと街歩きの服のまま、海に向かう。
今日見た映画は一本目がいちばんおもしろかったね。晩ごはんの小龍包はなかなかおいしかった。夜は涼しくて気持ちいいね。蝉は夜は寝るのかな。かえるがいるよ。今度、中華街に行こうよ。真希から暑中見舞いが来た。返事書いた? まだ。一緒に書く? もちろん!
海は、昼間がうそみたいに、誰もいなくて、波の音だけが聞こえていた。水平線から昇った金色の大きな満月が、穏やかな水面に帯のように映っている。
棘くんは僕の手を離して階段を駆け下りると、スニーカーを脱ぎ捨て、波打ち際に走ってゆく。
「待ってよ、棘くん!」
僕も大急ぎでスニーカーを脱いで、棘くんを追いかけた。相変わらず、棘くんは足が速い。負けてられなくて、懸命に走るのに、砂に足をとられる。
「ゆうた!」
棘くんは僕に向かって手を振って、ばしゃばしゃ波間に入ってゆく。
「棘くん!」
僕は、棘くんを失ってしまうような気がして、必死に走る。
濡れた砂がまとわりつく。波が足に絡みつく。漆黒の夜の海が重い。
もう呪力なんか使えないのに、全身を呪力強化して、波をかき分けた。
どうか、棘くんは僕を置いていかないで。
「棘くん!」
波に映った月陰の中で、やっと棘くんを捕まえた。
僕は胸まで、棘くんは肩まで海に浸かっていた。海水でびしょ濡れの棘くんの身体を抱き上げた。
「憂太」
眩しい月が逆光になって、棘くんの表情は見えない。僕の頬に、雫が落ちた。しょっぱくて、海水だということにした。
「キスして、棘くん。えっちなやつ」
息切れしながら僕が怒って言うと、棘くんは「ふはっ」と噴き出した。
海の味の唇を重ねて、棘くんの舌が入ってくる。僕の舌をぬるぬるとくすぐる。甘い。かわいい。大好き。僕も、棘くんの舌に愛撫を返す。
棘くんにたくさんキスしてもらいながら、棘くんを砂浜まで抱っこで運んだ。
また不安に駆られても、大丈夫だよ。そのほうが、何度でも、僕は棘くんに伝えられるから。
「大好きだよ、棘くん。僕は、僕がしあわせだから棘くんといるんだ」
「大好き、憂太」
ぎゅっと抱き締めあった。すると、服に染み込んでいた海水が絞れて、身体を伝って砂地に落ちる。
「わぁ」
初体験の感触に悲鳴をあげると、棘くんはおかしそうに笑った。
「洗濯大変だよ、棘くん。砂まみれだし、明日はお洗濯デーだ」
「なんとかなるよ」
棘くんが笑うから、僕も笑った。だって、そうでしょ。僕たちはいつでもどんなことでも、ふたりでなんとかしてきた。いいことも悪いことも、この先何があっても、僕と棘くんふたりなら平気だよ。
唯一無事だったスニーカーも、濡れた足を突っ込まれて海水まみれの砂まみれになってしまった。歩くたびに、ざりざりと砂が鳴る。頭からつま先までびしょ濡れの服は重いし、海水がべたべたする。
だけど、やっぱり僕はしあわせだし、棘くんはしあわせそうに笑っている。
僕たちはびしょ濡れのまま手を繋いで、僕たちの巣に帰った。