・ 世界随一と言っても過言ではないだろう、叡智の結集した大型研究施設の、核たる研究所である石神ラボは、意外にも小ぢんまりしている。
「千空ーっ!ゼノ居るーっ?」
夏真っ盛り。蝉の鳴き声が雨のように降ってくる木立を抜けて、スタンリーは親友の勤めるこの研究所の扉を力強く開け放った。受け付けには誰も座っていない。セキュリティの甘さに苛立ちつつ、もう一度大声で中に呼びかけると、ドーナツを片手に見知った顔がのんびりとやって来た。
「おっ、スタンリーじゃねえか」
「あー……クロム。ここの守衛は?受付は?」
「昼時だから、飯行ってんだろ」
「バカ?なんで守衛と受付がランチの為に席を空けてるわけ」
「腹が減るからだろ……」
「もういい。千空、居る?」
「居るぜ。あっちで弁当食ってる」
クロムがドーナツをスタンリーに差し出す。コーティングされた砂糖で表面がツヤツヤしているドーナツを、スタンリーは少し迷ってから「どーも」と受け取った。
「ルリがドーナツ揚げるのにハマってんだ」
「これ奥さんの手作り?いいわけ?別の男に食わせて」
「別の男も何も、先週から研究所への差し入れはずっとこれだぜ。おかげで昼時はみんなランチしに外に出るようになっちまったけどな」
「ん、うま。今度お礼にデートしようぜって伝えといてよ」
「させねえよ!?」
噛み付くとじんわり砂糖と油が染み出てきた。久しぶりに糖分に頭がクラクラする。何せ、ここ数週間、スタンリーは日本から南米へ、南米から北欧へと移動のしっ放し。ニコチンの摂取量は増えたが、ハンバーガーもピザも、チョコバーもドーナツもご無沙汰だったのだ。
「千空ゥ!頼まれてたクソみてぇなおつかい、終わったぜ」
バン。クロムに連れられるまま辿り着いた休憩所のドアを足で開け、半分になったドーナツごと持ってきた封筒を差し出した。千空は休憩所の椅子に背中を丸めて座って、カップラーメンを食べていた。
「おー、お疲れ……いや、そっちはいらねえ。もう一生分ドーナツは食った」
「ドーナツは俺のだよ。クロムに貰った折角の糖分、やんねえかんね」
「そうかよ……」
砂糖と油が端っこを汚した封筒を、千空が摘むようにして受け取る。箸を置いてさっそく封筒を開け出す千空を前に、スタンリーは適当な椅子に足を組んで座る。クロムはいつの間にか居なくなっていた。千空が言うには今日は家でルリと昼食を食べる日らしい。結婚して2年経つが、仲の良さが変わらないようで何より。
「ラーメン伸びるぜ。先に食べたらいいじゃん?一時間も二時間もかかるわけじゃないだろ」
「いいんだよ。コレ読むのだってそう時間かかりゃしねーわ……おっ!結局許可取れてんじゃねえか、龍水サマサマだわ!おありがてえこった」
「あー龍水の奴が珍しく頭抱えてたよ、千空が無茶振りするって酒飲んで愚痴ってきて……千空、宇宙望遠鏡作んの?」
「ああ、ジェームス・ウェッブ宇宙望遠鏡とまではいかなくても、な。やっぱり欲しいよなって」
「誰が?あんたが?それともゼノが?っつーか、そうだ、ゼノ居んの?ゼノが俺の部屋に勝手に住んでたらしくてさ、もうすげえの。ベッドの上が本棚みたいになってるし、キッチンなんかコーヒーが残ってないマグカップが群れで占拠してんだ」
「ふーん。お、パビリオンのレポートも入ってる」
「聞いてる、千空?」
「ゼノ先生なら居るけど、超絶ご機嫌斜めだぜ。御自慢の爪を引っ張りだして、自分の研究室に籠りっぱなし」
「はぁ?まだ取ってあったの、あのシザーハンズ」
「名作だったよなー……」
ラーメンもスタンリーも蚊帳の外で、千空は封筒の中身に夢中だ。声を掛ければ返事があるが、これはほとんど条件反射のようなもので、大して意識も向いていないだろう。幼い頃のゼノとよく似てる、とスタンリーはため息をつき、ゼノの研究室に向かう。
「ゼノー?生きてるー?」
ドアを開けながら、軽くノック。スタンリーの麗しの幼馴染はばさばさの髪をそのままに、お手製の爪の先で、何やら仰々しい風体の機械のボタンを弄り回していた。
「……スタンリー」
「ん。何?髪のセットも出来ねえくらい忙しいわけ?うーわ、無精髭。あんた、熱でもあんの?こんなに不細工なゼノ・ヒューストン・ウィングフィールド、写真撮って記録したほうがいいぐらい、レアだぜ」
「熱はない。ただちょっと夢見が悪くて……そうだ、クロムの奥方が作ったドーナツが休憩室に」
「もう食った。いいね、グレイズドドーナツ。俺はあの位シンプルなのが好みだね」
「是非とも箱ごと持って帰りなよ。先週からここの皆は一日3つは摂取してて、そろそろ砂糖を見るだけで頭痛がしそうなんだ」
ゼノが片眉を潜めて笑ってみせる。そんなに辛いなら断れば、と言いかけて、スタンリーはゼノは存外、群れの和を乱せない性質だったのだと思い直す。この幼馴染はいつだって、はっきりした意見を持ち、それを相手に伝える印象があるが、身内以外には三割も伝えられない。そのせいで旧世界ではすっかり捻くれて、ひしゃげて、落ち込んでいた。3700年の沈黙から解放された後はその反動なのか、ずいぶんとはしゃぎ回っていたが、社会のしがらみを再び身にまとい、大人をやり直し始めたと見える。
「君が考えることが手に取るように分かるよ。別に言えないわけじゃない。単に美味しいドーナツが食べたいだなんて軽口を叩いた僕のためにとルリは作り始めたんだから、責任を取ってるだけだよ」
「じゃ、俺の考えが当たりだね。あんたって本当に人付き合いが下手っていうか、上手すぎて一周まわって下手っていうか」
拗ねて頬を膨らますゼノの首根っこを掴む。一日3つも糖分と油の塊を食べている割りに、半年前に会った時より少し痩せている。
「美味いドーナツを食わそうとしてんじゃなくて、ガリガリの子犬に餌やってる感覚かもな」
「何の話?」
「ゼノが聞くと怒る話」
「ふーん?」
逃げないように後ろから抱え、足でゼノの胴体を抑える。あごで頭を押さえつけたら、ようやく腕を引き寄せて、爪を外させる。スタンリーは動物を飼ったことがないが、疲れたゼノを相手にするたび、猫なら飼えるかもしれないと毎回思う。……閑話休題。
「さ、帰るぜ、ゼノ」
「どっちに?」
「とりあえず、勝手にあんたが別荘にしてる俺の部屋に」
爪は研究室の机に置いておく。スタンリーの部屋にこれ以上、ゼノの私物を置かれてはたまったものではない。