流星群 ふうと吹いた風を大きく含んで広がる、黄ばんだレースのカーテン。丸くなったかと思えば端から潰れて薄汚れた網戸へ張り付く。端から端まで嗅いだところでい草の匂いなど残っていなそうな、茶色く変色した畳につけた左頬はもう跡が残っているだろう。薄らと埃の積もった部屋の端っこ。じんわりと熱を持つ傷、口の中は鉄の味がした。
レースのカーテンが揺れると朝露に濡れた草の青臭さとどこか清涼な湿った匂いと白い光が入り、風の吹く度柔らかく一部を照らす。室内に舞う埃が反射し星のようでどこか美しく感じた。外のどこか遠くで人の声が音として聞こえてくる。レースの網目が光を零して淡く光った。
窓から見える庭は狭く、砂利とその隙間から生えた雑草が背を伸ばしている。小ぶりな石と砂を踏む音がして、しかし身体を起こそうにも思ったように動かず視線だけを外へと向ける。レースのカーテンが揺れてその隙間から誰かの足だけが見える。じゃり、じゃり、と音を立てたのを最後に、薄汚れた白に臙脂色がぼんやりと浮かんでいる。膝であろう皺や、革靴の先がこちらを向いており、重い腕を上げる。ちょうどよく膨らんだレースを掴んで、怠惰にも横に引いたと思った。掴んでいたはずのカーテンはなくなって、薄くしか空いていなかった窓は全開になっている。어、と思わず出かけた声は何故か音にならず、喉が少しだけ震えて終わった。
薄いレースを掴んでいた手は変わりに男に握られている。
中に着た白いシャツが臙脂の袖から覗いている。程良く日に焼けた、大人の男の手。自分に被害を加える性別の手で小さな自分にとってはほぼ同じに見えるのに不思議と恐怖感はなく、じんわりと熱が移って、知らぬ間に朝の冷えた空気をまとった風に冷やされた身体が温まる。言葉に出来ない感情が腹の底から湧き出て、子供の小さな体には収まりきらなかった分が目から一粒落ちていった。
「遊びに行こうぜ、ハン・ジュンギ」
逆光で黒く影の落ちた顔の表情は分からないが、口元だけが豪快な笑みを浮かべている。動く度に揺れる広がった髪の先が陽の光に溶けていた。
夢と現実の境目で、男や部屋の様子が遠くなって薄ぼらけていく。遠くで聞こえていた父親のいびきが混ざり、聞き覚えのある足立のものへと変わっていく。まだ寝ていたいような、起きていたいようなまどろみの中。畳につけていた頬の鈍い痛みだけが夢と同じで、そして手の暖かさも現実のものであるとようやく気付いた。未練がましく瞑っていた目を薄く開けば、段々と思い出す。もう自分は大人なこと、ハン・ジュンギになったこと、昨晩はサバイバーで皆と飲んだこと、そして自分は座って眠ったはずだったこと。
視界は横になっていて、随分と深く眠ってしまっていたことが分かる。滲む視界が臙脂色の、正座の体勢であろう足元を捉えた。繋がれていた手は包み込まれて膝の上に乗せられており、その先を見ようとまだ鈍い頭を上へと動かしていく。
「まだ寝てていいぞ」
いつもの快活で大きな声は鳴りを潜め、静かで朝の静寂に溶けてしまいそうな声色だった。硬い指先が瞼の下を優しくなぞり、涙を拭う。
「お前がよ」
両手で片手を包んで囁く。
「手伸ばしてたから、なァんでか握ってやりたくなったんだよなぁ」
深い紺が滲んで青くなり、それでもまだ朝の白さは少し遠い。
昼は人のひしめくビーチにはまだ静かに波の音と、高い位置で触れ合う葉の音だけがした。潮と、どこからかフルーツの熟れた甘い異国の香り。
まだ少し冷たい風が肌を撫ぜる。セットもしてない前髪の隙間を抜けて後ろへと流れて落ちていく。腕が寒く感じて摩れば素肌に触れ、あぁそういえば、と袖が無いことを思い出した。
遠くの空にはまだ少しだけ、砂浜と同じくらいの細かく宝石のような星が煌めいている。夜と朝のあわい。もう程なくして街灯の明かりは周りと色を揃えて消えるだろう。
また風が抜ける。
飛び出すように来た知らない土地で、しかしなぜか郷愁に駆られる。
細く長い記憶の糸を引き出すように、もう空と色を別ち始めた地平線へ視線を投げた。
繋がりそうだった記憶の先を掴む前、不意にカラコロと氷がガラスに当たる涼やかな音がした。
おっと、と言いながら鮮やかなピッチャーを左手に、グラスを右手に二つ持った春日がこちらへやってきた。
ビーチに置かれている、日に焼けて淡く茶色に変色した机に置いて椅子を引く。気を遣って歩いてきたのか、ふうー、と安堵の息を吐いて顔を上げ、最初からこちらに気がついていたようで笑って手招いた。
細かく小さな砂は少しの抵抗をし、そして風に煽られ黒いブーツに薄く汚れを残して去っていく。
「早いですね」
「このくらいの時間じゃないと人、多いだろ? せっかくだから堪能したくてよ」
丁寧なのか雑なのか、ケツのポケットからコルクでできたコースターを取り出してグラスの下へ敷いた。リボルバーで出されるものとはまた違い、聞き覚えのない店の名前が入ったそれは、どうせ自分が来る前に仲良くなった誰かの店なのだろう。空のグラスに深い蘇芳色が注がれる。フルーツの香りにどこか花のような爽やかな甘い匂い。ようやく真ん中に置かれたピッチャーを見れば、マンゴーにパパイヤ、底にベリーが沈んで小さい白い花が氷と共に浮かんでいる。外気温に晒されて結露した水滴が筋を残して落ちていく。ポツポツとかいた汗は、春日の持った手の跡を消すようにまた湧き出てきた。
「フルーツティーですか」
「おう。ハワイっぽいだろ! トロピカルっつー感じか!?」
聞けば昨晩、ケイに教わり仕込んでいたらしい。イメージにない洒脱な飲みものはそういうことかと一人納得した。
ひとくち飲んでみると果実の甘さが茶葉の苦味を消し、爽やかな香りとともに喉のへと流れていく。鼻に抜ける小花の香りも嫌味っぽくない。おお、と思わず声を上げれば嬉しそうにグラスをもう半分開けた春日が、ふふんと鼻を鳴らす。
「初めてにしては上手くできたんじゃねぇか?」
「ええ。紅茶の濃さも丁度いい。ケイさんの教えが上手かったんでしょうか」
「一言多いやつだぜ……」
減った分を注ぎ入れられ、中身が減っていく。残さなくてもいいのだろうかと眉を上げれば「これはお前と俺の分だから」と、心を読み取ったかのように返事があった。
喉がある程度潤ったのか、深く椅子に腰かけまたふうー、と息を吐いた。時々溶けた氷が揺れる音と低い波が砂を叩く音。先程までまだ瞬いていた星が薄くなって、朝を告げる光が線のように細く辺りに差し始める。眩しそうに目を細めた春日の視線が海へと投げられ、水分のある瞳の淵が淡いグレーに彩られている。波が光ると春日の目にも反射して、眩しいほどにぴかぴか光っていた。
「焼け、ましたね。少し。日焼け止め、きちんと塗っていますか」
ぱち、ぱち、と二度ほどまばたきをしたあとに、視線をこちらへと戻す。腕を伸ばして見、顎に手を当て首を小さく傾けた。思案するように斜め上を見た。
「塗ってるはずだけどな。ハワイの紫外線ナメるなって、トミーに言われてよ。そういやお前はあんまり焼けてねェな」
ああでも、と付け加えて手が伸ばされる。落ちた前髪を横に流され、ほんの指先だけが額を滑っていく。
「少しだけ赤くなってるな」
手持ち無沙汰に掴んだグラスで手が濡れる。自分から思わず振った話題に「そうですか?」とつまらない返事だけをして、ぐいと飲み干した。
普段賑やかな皆と居ると忘れがちなのだが、案外無駄なお喋りは少ない春日がからりと笑い、そしてまた言葉を止め慈しむように笑みを浮かべた。ぽつりぽつりと日の出を見に来たのであろう人がビーチで地平線を見つめている。その人たちをゆっくりと、知り合いを探すかのように確認したあと自身も海を見つめた。視線を動かさずグラスを傾け、膝の上に軽く乗せるかのように置く。ジーンズの、太ももの部分に水滴が吸われて色が変わっていた。
あまり眠れていなかった。
時差ボケも多少あったが、それは皆と共に過ごして馴らせられた。
めったにないことだが、時々、ほんの時々「自分はこうして過ごしていていいのだろうか」と考え込んでしまうときがあった。
ソンヒの指示なく飛び出したのは自分で、それは勿論意向返しのような、ちょっとした反抗心もあり、仲間である春日の役に立つためという言い訳がましいがしかし内心の大半を占める感情で飛び出してきたのだが。
あのとき、自分が死ぬべきだったという後悔が常に体に纏わり付いている。血とともに思いは巡り、それでも心臓を動かし、今の主のためにと動いている。薄情だと感じた。あの狭く汚い部屋から、ハン・ジュンギは自分と同じ顔を変えた自分を救い上げてくれた。
生かされてしまった。
ならばと元ジングォン派の生きる場所を整え導き、正しくあろうとする。
それはハン・ジュンギの高潔さとは違う。そうあるべきだと教え込まれた思考がそうするだけだ。
春日の視線や動きは、時々それを強く刺激した。
夜が明ける。
金糸が真っ直ぐ伸びるように細い光が空へ散る。濃紺が奥へと追いやられ、淡い水色が範囲を広げた。海のさざなみと散らばる人の小さな歓声。共に喜ぶかのように氷がからりと音を立て溶けた。
「寝てるやつら、もったいねぇな」
悪戯に笑った春日は眩しそうに目を細め、な、と同意を求めるように視線をこちらへ向けた。
でもなァ、と誰に聞かせるわけでもなさそうな、独り言のような返事を求めない言葉を零す。
「お前には見せたかったんだよ。やっぱ似合うぜ。朝日も、昼の太陽も」
生きていれば全ては過去となる。
この身を生かす後悔も、ハン・ジュンギから貰った全ても、ソンヒに拾われ与えられた命も、そして春日からもたらされる言葉も循環する。なにもかもが自分を生かすために。
ああ、私は。
俺は。
この人のためにも死ねるのだと、うつくしく眩しい自分には似合わないと思っていた太陽を見ながら思った。