記憶喪失ものの五七 夏の終わり。
浴衣姿の人だかりを抜ける。
川縁のぬるい風が湿った首筋を撫でた。心臓に届く花火の音が次第に大きくなっていく。素直な津美紀は破裂音が響く度に地面を踏み鳴らして飛び跳ね、夜空一面に青や赤の火の玉が飛び散る度に弟の腕を引いている。あれだけ帰りたそうにしていた恵の表情に年相応の高揚感が見えてきた。見晴らしの良い河原は人も多い。空がゆっくりと静けさを取り戻すタイミングで、姉弟が人に流されないようにと伸ばした手を、誰かに掴まれた。
最初こそ手首を。
急所を抑えるような確実さで動脈を固定されたあと、ゆっくりと五本の指が七海の掌に到達する。力任せな握り方ではない。だけども、圧倒的な揺るぎなさで、七海の手は包み込まれてしまった。顔を上げると同時に、打ち上がった花火が、再び夏の夜空を鮮やかに染める。
「五条さん」
名前を呼んだ程度では表情ひとつ変わらないので、七海はまばたきもせずに視線を縫い付けることにした。
幕間、光の残滓が空に溶けると、暗い海の底のような静けさが空が広がる。さながら、深海の石くれのような群衆の中で、ただひとつ、幻想的な光を放つ青い宝石。観念したように、くしゃりと綻ぶ。
「見過ぎじゃない?」
手を、離してもらえますか。
いつもなら間髪入れずに挟めるはずの一言が、喉奥に引っかかって出てこない。抗議のつもりで視線を送っていた筈なのに。サングラスでは覆い隠せない煌めきが、夏の夜に散る大輪よりも美しく、目が離せない。
「オマエさ、僕のこと好きだよね」
「ハァ」
サングラスを外されると、もう、頭上に炸裂する轟音さえも、BGMに成り下がる。
五条の声だけが、明晰に入ってきた。
「僕の顔? 目かな。昔から好きだよね。僕を見るとお前の呪力って少し揺れる」
「勝手に六眼使わないでください」
「見えちゃうんだもん」
「見なければいいだけでしょう」
「そうはいかないでしょ」
爆音が響き渡るたび、心臓が脈打つ。どれほど鮮やかな光が空から降ってきても、六眼の美しさには勝らない。七海はこの光景から一生逃げられないだろうと確信していた。
浮かれた人々の熱気と、残暑の蒸し暑さ。
ささやかなわがままが叶えられて、はしゃぐ小さな姉弟。
右手から伝わる乾いたぬくもり。
きっと忘れない。
「僕相手にごまかしは効かないよ七海」
咄嗟に言葉が出なくなった。
わざわざ声色を変えてまで、念を押す意地の悪さ。隠し持っていたジョーカーを卓の上に出した瞬間の顔に近い。訳のわからない不愉快さが胸の奥に湧いた。自信がみなぎるこの整った顔を少しでも歪ませたい。そう思い立った途端に、一瞬の沈黙さえ負けた気分になり、慌てて言葉を紡いだ。
「ーーそうですよ」
「お」
「あなたが好きです」
「そう来るかぁ」
「好きですけど何か」
「え、じゃあ僕と付き合お」
「絶対嫌です」
「おい! なんでだよ」
怒声の後に破顔する五条の頭上から、また夏が降ってきた。
一
目を覚ました七海の眼前にあったのは、困り果てた後輩の顔だった。
「すみません、お呼び立てしておきながらお待たせしたみたいで…」
ゆっくりとその言葉の意味を知り、弛緩しきった体で飛び起きた。ソファに座る七海の前で、膝を折る伊地知。アンティークのロウテーブルと一人がけソファが並んでいる。傷んだ建物と一流のインテリアが噛み合っていない洋間。高専の休憩室だ。
「伊地知君」
「お疲れの所申し訳ないです」
「いえ、私こそ、すみません。少しウトウトしていました」
伊地知の眉は露骨にホッとしてまた一段下がった。一体いつから七海を起こすことが出来ずに右往左往していたのだろう。時計の針は十三時に届こうかとしている。
七海が伊地知に呼ばれて高専に訪れたのは、早めの昼食を取った後だった。約束の十二時よりも少し早く事務室に顔を出すと、書類の山の向こうから伊地知の謝罪が聞こえてきた。早い来訪を詫びて、呪術師専用の休憩室に移動する。呪術師はしばしばチームで動くが、協調性のある人間はほぼいない。高専で鉢合わせる時は情報共有の貴重な機会だったが、そこはガランとしていた。丁度、今朝読み逃した新聞をカバンに入れてきていた七海にとっては好都合だ。そしてソファに深く身を沈め、新聞を広げたところで、七海の記憶は途切れていた。
「忙しいようなら私の方は別日にして貰っても構いませんが大丈夫ですか」
「大丈夫です! お忙しい七海さんを何度も呼び出す訳にはいきません」
「君の方がずっと忙しいでしょうに」
「いえ、なかなか片付かないってだけですよ」
書類をテーブルに並べながら、伊地知は居た堪れなさそうに身を縮める。一級術師のサインを入れるだけの書類が山ほどあるものだ。時代錯誤の呪術高専において、ペーパーレスなど、遠い先のことだった。七海は、手に馴染んだ万年筆のキャップを外した。
伊地知の有能さは広く知られている。
万年人手不足である呪術師は確かに、西へ東へ、三百六十五日、仕事を詰められ、体力呪力を摩耗する日々を送る。だが所詮、一芸に長けた人間の集まりだ。非術師や関係機関との調整、任務を筒がなく遂行する細やかな調査や連絡手段の確立。果ては、高専の設備維持や出入り業者との交渉に至るまで。おおよそ、社会常識に欠ける集団には扱えるものではない。それらを請け負う、多くの人間の中で、伊地知は最も優秀と言って良い。
だが、補助監督を小間使いのように扱い、雑用を押し付ける呪術師が多い事は間違いない。
「君はもう少し仕事を断っても良いくらいです」
「はは……確かに振られる仕事は多いですね」
「ただでさえ、人を顎で使って気分を晴らす、クソみたいな人間が多いのが呪術界です。君は仕事も早いし、有能な分、割を食いやすい」
「いやいや……」
書類に目を通しながらペンを走らせる七海を、伊地知はじっと見ていた。コトン、万年筆を置くと同時に、思い詰めた表情で口を開いた。
「な、七海さん」
「えぇ。なんでしょう」
「その、えっとですね」
言い淀む様を見つめ返す。その眼差しを受け、伊地知は小刻みに震えていた。獰猛な牙を向けられているのでもあるまいに、よほど切り出しにくい話でもあるのか。ため息も付かずに待ってみると、思い切ったように口火を切る。
「いっ、家入さんのところに行きましょう!」
「はい?」
思いがけない言葉に、七海の眉間に深い皺が刻まれる。
「じ、実はですね、先ほど僭越ながら何度もお声がけしたんです。お休みの所申し訳ないと思ったんですが、どれだけお名前を呼んでも、ピクリともされなくて。これは、ふ、普段の七海さんなら起こり得ない事かと」
「なるほど。それは確かにおかしいですね」
「そっ、そうなんです、だから私焦ってしまって、肩を叩いたり、揺すったり……す、すみません」
「君が謝ることは一つもないでしょう。随分とお手数をおかけしました」
七海が頭を下げると、伊地知は一層重い十字架を背負ってしまった顔でブンブンと首を振る。
「い、いえ、そんな…! よっぽどお疲れなのかも知れませんし、呪いの影響なら大変です。午後からの任務は調整するので、一度家入さんに診て貰いましょう!」
徐々に強気になったらしい伊地知は、語気を強めて訴えかける。
ふむ、と七海は口元に手を当て、伊地知の提案を受けることにした。肩を叩かれても起きなかった、とは俄かに信じがたい。人中でうたた寝をする事も滅多にない上に、いくら高専内といえ、それほど気が緩んでやっていける仕事ではない。感じ取れる範囲で、呪力の残穢や、体の不調はどこにもないというのに。
だが、医務室のドアを開けるなり、待ち構えていた硝子の表情を見て、謀りを悟った。
「来たな、七海」
この笑顔を知っている。
厄介ごとに巻き込まれそうな時のセンサーは人一倍敏感な七海である。行儀の悪い先輩方に囲まれて育ったためだろう。思わずゆっくりと振り返ると、涙目の伊地知がチワワのように震えている。主犯が誰なのかは明白だった。
「なんですか。嫌な予感しかしません」
「座れ。まずは問診だ」
表情の乏しい硝子が珍しく生き生きしているのが分かった。贔屓にしてる小料理屋で大将が硝子の飲みたがっていた地酒をカウンターから取り出した時にも見た顔だ。
促されて丸椅子に座った七海は簡単な診察を受ける。硝子に診せたい、というのは本当だったようで、時折、伊地知と硝子が目を合わせている。七海が伊地知を一瞥すると、途端に伏し目がちになり、居た堪れなそうな顔をするくせに。
「みたところ、目立った外傷はないし、内臓も異常はない。残穢も見当たらないな」
「家入さん……」
「分かってるよ伊地知。七海、いくつか質問に答えてもらうぞ」
一体自分に何が起きていると言うのか。説明を与えられないまま、硝子は七海に質問を重ねた。簡単な計算、記憶力を問う問題。年齢、出身、職歴といった自分についての基本的なこと。昨日食べたもの、任務の詳細。
昨日の任務は、雑木林の中を通る川沿いに無造作に置かれた一級呪具の回収だった。山の畔までは車で近付けたが、ある地点から道は無くなり、獣道に入る羽目になった。藪蚊に襲われる多いおおよそ道と言えない道。腰まである雑草をナマクラでぶった斬りながら進むよりなかった。前日降った雨の影響でぬかるんだ地面に足を取られたのは、後ろを歩いていた補助監督だ。咄嗟に庇って踏み込んだ足が崖に引っ張られたのは確かだし、ビルの三階程度の高さはある崖だった。ほぼ無傷で済んだのは日頃のトレーニングの成果か。補助監督に恐れをなした目を向けられたのは納得しかねる。
「その時、頭は打ったか」
「多少」
「正確に」
「着地の際に庇い損ねました。ただ枝と枯れ葉が敷き詰められた地面だったので、意識の消失も切り傷もありません」
「なるほどね。……七海は高専の時も同じようなことしたからな」
「一年の時の高所訓練のことですか?」
「そう。灰原が落ちたやつ。あの時も一緒になって君落ちたじゃないか」
これだから古い知り合いはいやなものだ。七海さえ、うっすらとしか覚えていない記憶を掘り返してくる。
「よく覚えてますね」
「入学間もない、いたいけな後輩たちが手を取り合って落ちてく場面は、なかなか強烈だろ。あの時も頭打ったんだっけ」
七海はつい舌打ちをするが、このくらいのガラの悪さを物ともしない先輩である。
「いえ、夏油さんが咄嗟に呪霊を飛ばしてくれました」
「そうだったそうだった。所で、灰原は何で落ちたんだ?」
「なんでって……」
他愛のない雑談に、突如としてざらつきが走る。
七海は記憶力が良い方だ。十年以上前の話だが、しっかりと覚えている。灰原はあの時、訓練用に設置されたアスレチックフィールドから、足を踏み外したのだ。
なんで。訓練だからと油断する人間じゃない。まだあの時、入学して日が浅い二人は、日々の授業に気負いがあった。冬にもなると、先輩の酒盛りに巻き込まれた翌日、ひどい頭痛で頭を抱えながら授業に出て、担任から説教されたこともある。だが、訓練フィールドの周りにはまだ散ったばかりの桜の花びらが敷き詰められていた。灰原は随分と緊張してあそこに立っていたのだ。
「……覚えていません」
「そうか。灰原を後ろから膝カックンした奴がいるんだよ。覚えてないか? 君は怒り狂ってた」
「いえ。全く記憶にありませんね」
奇妙な違和感が走る。映写機のフィルムから、一場面が切り取られたように、七海にその記憶はなかった。
硝子の言葉を手がかりに、ぼんやりと霧がかった記憶が再構成されることもない。その前後には何もなかった。
七海の動揺は一切表情に表れていなかったが、目の前にいる人の悪い先輩は含み笑いをして、知ってるぞと伝えてくる。
気味が悪い異物感が内側にあった。
「伊地知、君からも何か聞いてみろ」
「え! わ、私ですか!」
「最初に七海がおかしいって駆け込んできたのは君だろう」
伊地知は、困惑しながら目をキョロキョロと泳がせている。七海もこの形にならない違和感が気になって仕方がない。促すように伊地知に向かって頷いてみせた。
「な、七海さん」
「はい伊地知くん。どうぞ」
「確かに、先程七海さんが仰ってたように、補助監督に無用な仕事を押し付けたがる呪術師の方はいらっしゃいました。世話係のようにされてしまって、通常業務もこなさないといけないので大変なことになったんです」
そうだ。その事を覚えていた。
七海が復職してすぐの時期だ。伊地知の優秀さに目をつけた術師がいた。その術師は、伊地知を秘書のように扱い、術師としての任務調整だけでなく、個人的な用事に伊地知を使った。愛人と会うためのホテルの手配までさせようとしてたくらいだ。根本には呪術師ではない人間への軽視があった。特にかつて呪術師を目指していた伊地知を落伍者のように思っていたようだ。時代錯誤の選民主義。勘違いも甚だしい。その事への嫌悪感を、七海はしっかりと覚えている。
「その時、自分の力を軽く見積もるのは愚かな事だと、ある人から注意されました。今はもう私用を押し付けられません。というか、その隙間なく、その方が大量の仕事を入れて来るからなんですけど。どなたの事か、七海さんは見当がつきませんか」
伊地知の苦笑いからは、その人物に手を焼かされているのが見てとれた。反面、感謝もしているのだろう。どことなく親しみが込められている。この顔はよく見る気がする。だが、その人物については皆目見当が付かずに七海は首を振った。
思わず閉口した伊地知の肩をポンと叩いたのは硝子だ。青ざめ出した伊地知と違って、硝子は楽しんでいる様子さえあるのが不思議だった。
「よし七海、五条悟について知ってることを言え」
「ハァ」
質問が変わった。いい加減七海とて頭が痛くなってくる。
記憶の欠損を疑われているのは間違いない。全容を理解せぬまま、試されるのは面白くないが医師の問いかけには答えた方が良い。
「四人いる特級呪術師の内の一人です。五条家当主。六眼と無下限術式の使い手。人類最強と言っても良いでしょうね」
「年齢は。出身校。なんでもいいよ」
「年齢は二十代……ですか。正確なところは知りません。お会いしたことがないので。出身校もわかりません。東京校ではないってことは京都ですか」
「もういいぞ。分かった分かった」
硝子が勢いよく椅子にもたれかかり、軋んだ音と共にぐるり回転した。
「七海は五条に関する記憶を無くしてる。それも、自分に関わる部分だけな」