他人は勝手にくたばってろアイゼングラートは、寒い。
視界も怪しい豪雪の中、生まれたてのガキすら知っているような常識をあたしは恨んだ。
「だー!やってらんないわよクソボケ!こんなクソ寒いところに高貴なあたしたちを二人だけで派遣するだなんで、脳にウジでも湧いてんじゃないの!?」
「そうだね。隣で余の鼓膜に仇なすウジ虫から順に始末していかなくてはね」
「やぁんお姉さま、言ってくれれば黙るのにぃ」
この豪雪よりも冷たい声が、あたしに突き刺さる。くるりとその方向へ顔を向けて、笑顔。けれどつれないその人は、あたしを見向きもしなかった。
極寒の中での任務。しかも派遣先の事情により少人数派遣。更には車掌もいないという劣悪な労働環境。そんな中、お姉さまの不機嫌さはあたしの苛立ちを上回っていたらしい。
蝶よ花よと愛でられた貴族とはいえ、あたしたちは仮にもアイゼングラートの出身。だから当然アイゼングラートの極寒には慣れているけど、それでも寒いもんは寒い。あたしたちはお部屋でぬくぬくしていてしかるべき人間なのよ。我らのために働け俗物ども。
「確かに、三人だけで行う任務でないことは確かなのだよ。貴様また何かやらかしたのではないだろうね……」
「それ、お姉さまだけには言われたく……げふんげふん、あたしがしたことでお姉さままで巻き込まれることはないと思うわ」
厳しいんだかお優しいんだかバカなんだかよく分からないあの車掌は、そういった理不尽な連帯責任は取らせない。要はクソ真面目なのよね。
そんな車掌だから、任務を言い渡しに来たとき少し申し訳無さそうにしていた。まあね、こんな劣悪な環境に、吹けば飛ぶようなか弱い乙女二人だけを送り込んだんだからーー三人?
「……え?三人?あたしとお姉さまだけじゃなくて?」
お姉さまご機嫌取りでうっかり聞きそびれるところだったけど、三人?
今回は派遣先がお偉いさまの領地だかなんだかで、そういう連中に顔が利くお姉さまが指名されたと聞いていた。そこで護衛には、同じくアイゼングラートが誇る旧き偉大なる血を継ぐあたしが選ばれたってわけよ。
「粗忽も大概にしたまえよ、虫。車掌から説明があっただろうが」
「なかったわよ。ってか、無理だったんじゃない?あたし昨日まであのクソ監獄に入ってたもの」
「ああ、貴様が根城にしているあの」
「してないわよ!?」
失礼しちゃうわ、そこまで入ってないわよ。月一ぐらいしか。
お姉さまはあたしが投獄されていた理由については聞かなかった。聞かれたところで大したことじゃないから説明もしにくいけど。いつも通り、ちょっと恐喝……ではなく、ちょっと対価をいただいていただけよ。
あたしの投獄に慣れているのか、気にしていられないほど不機嫌なのか。はたまた、興味がないのか。
怒られないのは嬉しいけど、興味を持たれないことは寂しい。だからあたしは、不機嫌全開のお姉さまにめげずに喋りかける。
「じゃあこの辺にガキんちょでもいるわけ?」
人指し指を立て、その辺りを適当に指していく。ガキんちょーームルマンスクは、オーロラ病とかいう奇病を抱えていて、しょっちゅう身体が透ける難儀な体質をしている。
だから、当たりをつけても無駄だ。その辺指してればいつかは当たるでしょ。下手な鉄砲数打ちゃ当たる。
ムルマンスクの名前を挙げたのは、前にも一度あのガキんちょと特鉄隊が誇る高貴なあたしたちの二人で任務に当たったことがあるからだった。
そこに深い理由があったわけではない。けれどあたしの言葉に、お姉さまの眉間には皺が刻まれる。切れ長の目がきつく細められて、剣の切っ先のような眼光があたしを貫く。
「ふざけるな貴様!」
何が?
「ムルマンスクたんが一緒ならばどれだけ良かったか!余の双眸に映すに値する愛らしくも麗しい隊員を派遣せよと車掌に直談判してやろうかと思ったものだが、我が儘を通しても赦されるのは幼い子どもの特権なのだよ。余がそのような我が儘を通して貴族の品格を下げるわけにもいかぬ!」
八つ当たりに足を持ち上げ、ヒールのある靴底を数回雪へ叩きつけるお姉さま。常に新しく降り積もり続ける雪は、お姉さまの八つ当たりも優しく受け止めた。
ムルマンスクじゃないなら、もう一人はサポート担当なのかしら。豪雪の中で視界は悪いけど、他に誰かいる様子はない。
と、思い、あたしは顔を上げた。そのときだった。
豪雪の中に、人型の小さな影が見えた。
「……?」
目を細めて、一歩近付く。視力は生まれてこの方不自由したことがない。けれど豪雪であることを考えても、その影は妙に不安定に揺れていた。
するとその影は、ぐにっと絵の具を筆で混ぜたように大きく揺らいだように見えた。寒さで目がおかしくなったんだろうか。だとしたら、車掌にたんまり慰謝料を請求してやる。そう心に誓いながら、あたしは乱暴に目を腕で擦った。
そうしてから開いた視界の先には、深い群青色がぽつんと佇んでいた。
「やっぱりガキんちょじゃない」
相変わらず雪で視界が悪いけど、徐々にその姿がはっきりと見えてきた。
そこにいたのは、見慣れた小さなクソガキだった。
「は?いや、もう一人は成金の……」
お姉さまが何か呟いたような気がしたけど、雪を踊らせる強い風にかき消された。それでも普段だったら聞き返したと思う。躾けられた犬のようにお姉さまの前に膝を落とし、お姉さまさまからのお言葉を待った。
けれど、今はそれどころじゃなかった。ムルマンスクが抱える難病である、オーロラ病。あの病状が出てしまえば、あたしはもうこいつを見つけられなくなる。その間に遭難でもされたらたまったもんじゃない。
ガキの一人や二人どうなったって構わないけど、知ってるガキにこんな側で遭難されたら寝覚め悪いわよ。それに、お姉さまに殺される。
だからあたしは、そのガキに手を伸ばした。けれどムルマンスクはその場から動こうとしない。怪我でもしたんじゃないでしょうね。
そう思ってあたしは、ムルマンスクに近づいた。その時。
「フェルクリンゲン、それは違う!」
お姉さまが声を荒げるのとほぼ同時に、目の前の少女は小さなその口を開いた。
『アな、た、わ。たベテ、モ、いイ、オニ、く?』
それは、人間が発する音とはかけ離れていた。
金属を金属で引っ掻くような、耳障りな音が鳴る。魔物だ。そう確信するには十分すぎるほどの違和感。それなのにあたしの耳は、その音をムルマンスクの声と捉えていた。
聴覚と認識が噛み合っていない。フレイマリンに雪が降るような違和感に、あたしは歯を食いしばった。
「殺せ!」
凛としたお姉さまの声。お姉さまがムルマンスクを殺せと命令するなんて、フレイマリンの海が雪で埋もれるよりも奇妙な話だ。けれど、お姉さまに命じられるよりも早くあたしは鈎爪をつけた腕を振り上げていた。
「この、死ね!」
これはムルマンスクではない。そんなことはお姉さまに言われるまでもなく理解できた。
理解できた、はずなのに。
「……っ」
あたしの全身が、この化け物に対して拳を振り下ろすことを拒絶した。あたしの筋肉が、骨が、血が。その全てが、あたしの理性に逆らった。
動け、これはガキんちょじゃない。
敵がガキに化けてたところで、なんだというのか。あたしなら平気で殺せる。あたしはあたしの幸福のために、ガキの姿をした魔物だろうが彷徨う生だろうが、平気で引き裂ける。
それなのにーーああ、もう、死ね!
それは、ほんの一瞬の躊躇だったと思う。その一瞬の内に消え失せてしまった勢いを取り戻すように、あたしは腰を大きく捻り更に腕を振り上げる。
そうしている間にムルマンスクに化けた何かは、その薄い唇の端を機械的に引き上げた。それが笑顔に見えたのはほんの一瞬のこと。口角は頬を切り裂くようにどんどん頭へ登って行く。
化け物が口を開く。ムルマンスクの顔をしていたそれは、唇に押しつぶされていく。そこに残ったのは、ぽっかり大きく開いた穴。獲物を飲み込む、大きな口。
あたしの拳が、その中へ飲み込まれる。化け物の口は留まることなくどんどん広がっていく。それは、あたしを飲み込むのには十分なほどに。
「この害虫があ!蠢くな!」
そう叫んだのは、あたしではなかった。背後から聞こえる怒声と共に、頬に何かが掠める。空気を切り裂くように化け物へ向かうそれは、お姉さまの鞭だ。
お姉さまの鞭は、あたしという獲物しか見ていなかった化け物を容易く捕らえた。
『ギ、ィ』
耳障りな金属音で鳴き、化け物は不自然に動きを止めた。口を開いたままの間抜けな姿で、まるでお預けを食らった犬のようだ。
その間にあたしは化け物から離れーーなんてことはしなかった。
ぽっかり空いた、大きなお口。その奥には、のどちんこ――なんて言ったら下品だってお姉さまに怒られるわね。なんだっけ、こうがいすい?とにかく、金玉の片割れみたいなのがぶら下がっていた。
人間に擬態しているからか、その形状は人間のそれとほとんど同じだった。あたしは、自ら化け物の口の中へ飛び込んだ。
目標は、当然あののどちんこ。それに向かって化け物の舌を蹴り、そして、そのままの勢いで人間の胴体ほどあるそののどちんこを、縦に切り裂いてやった。
『ギィイイイィィイイィィ』
でかい皿をでかいフォークで思いっきり引っ掻くような甲高い音があたしの鼓膜を貫く。
うっさいわね!無惨に引き裂かれたのどちんこを苦情代わりに蹴りつけ、あたしは悲鳴を上げる化け物の口から易易と脱出した。
そこで漸く化け物の全貌を見たあたしは、目を丸くした。ムルマンスクの面影もなくなったその化け物は、おおよそ5メートルはあろうかというほどまで膨れ上がり、球体となっていた。その半分以上はこのあたしを飲み込もうとした口で構成されており、上の方には目がついているのが見える。その球体からは太い紐のようなものが二本伸びていて、多分これ、腕よね。
気色わるぅ!こんな奴とっとと殺してしまうのが吉よ。そうは思いはしても、痛みに喘ぐ化け物はめちゃくちゃに腕を振り回し始めた。威力は高が知れているけど、リーチが長く素早い。先に腕を切ってしまおうとするとするりと抜けられ、本体を始末しようにも腕が邪魔をしてくる。
こうなれば、深手覚悟で特攻して始末してしまおうかしら。あたしならば、死にはしない。ただ少しばかり、痛いけど。
無秩序に暴れ回る腕をしっかり見据え、腰を落とす。息を吸って、吐く。そして強く、雪を蹴る。そしてまっすぐ、本体目掛けて走り出す。
腕を避けるのは、無理。化け物に攻撃されても、腕と頭にさえ残っていればどうにかなる。
突風があたしの肌を殴る。化け物の腕が空気を裂く音が聞こえる。肋骨ぐらいくれてやるわ。そしてあたしは化け物の本体をへ拳を振り下ろし、迫りくる痛みに耐えーーううん、痛みは、来なかった。
「こちらを狙え!」
背後から聞こえる、凛とした声。あたしを狙っていたその腕はまるで導かれるように進行を変え、そちらへ腕を伸ばした。
化け物が標的を変更してくれたおかげであたしを阻むものはいなくなり、鉤爪が化け物の肉を潰し、えぐった。ぐしゃあ!と、化け物からゴミが詰め込まれた袋を踏み潰したときのような音が響く。
それと同時に、遠くからそれよりも大きな音が鳴った。どぉん!
「っ、クソが!」
化け物が死んだかどうかの確認もせず、あたしは背後をを振り返った。
今の音がしたのは、お姉さまの声がした方向だ。豪雪が邪魔をして、状況が分からない。
一度化け物へ視線をやって、確認。潰れたトマトのようになって動かない化け物を、念の為もう一度潰しておく。実は生きてました、なんて洒落にならない。幸い化け物はピクリとも動かずあたしの腕を飲み込んだ。
視界不良の中、あたしが進む方向ははっきりしていた。雪原の中で横たわる化け物の腕を辿っていけばいいだけだもの。その試みは間違っていなかったようで、然程の苦もなくあたしは目的の人物へ辿り着いた。
そして、全身の血が一気に引くのを感じた。
「お、ねえ、さま」
声が上手く出てこない。
あたしが敬愛するフュッセンお姉さま。彼女は仰向きに倒れたまま、ピクリとも身動きをしていなかった。
「お姉さま!」
お寝坊な母を起こそうとする子どものように、あたしはお姉さまに縋り付いた。雪の中で横たわるお姉さまは冷え切っていて、あたしは氷のようなその手を握る。喉の奥がきゅっと狭まり、息が浅くなる。
殺せばいいだけならば話は早いのに。助けるとは、どうすればいいんだろう。
あたしは自分が取るべき行動を決めかねて、それでもアイゼングラートで育った本能は暖が必要であることを訴えかけてきて。考えるより早く、あたしはお姉さまを抱き起こそうとして。
そしてーーお姉さまは、カッと目を見開いた。
「魔物はどうした!!?」
油断していたところにお姉さまの怒声が鼓膜を貫く。今の今まで意識を失っていたとは思えないその勢いに、思わず怯む。
えっ、大丈夫なの?
「こ、殺したわ」
「ああああああああああ!あの醜いウジ虫め!あのような醜悪な生物が花も羨む可憐な芸術品であるムルマンスクたんに化けるなど、冒涜にすぎる!このような状況でなければ嬲り殺してくれたものを!」
あ、良かった。元気そうね。
アイゼングラートの豪雪すら怯むような雄叫びを上げたお姉さまが、雪の中から自力で上半身を起こす。今の威勢とは裏腹に、お姉さまの顔色は悪い。頭痛もするのか、雪に溶けそうなほど白い指を額に押し付けている。
あたしにできることと言えば、冷えたお姉さまの肌を擦ることぐらい。けど、あたしの手も冷え切ってしまっているからあまり効果は期待できない。
黙っているのも気まずいので、本当はあまり興味がないあの化け物の話題を振る。
「あの化け物、結局ミストモンスターだったのかしら。幻霧が出ていたようには見えなかったけど」
「いや、幻霧に汚染されてしまっていたが、あれは元々この地に古くから根付く魔物なのだよ」
あたしの疑問に、お姉さまは確信を持った迷いない口調で断言する。
「獲物の記憶を読み取り、擬態する。幻霧に汚染されていなくても厄介な生き物だね」
「よく分かったわね」
「ああ、最初に鞭を当てたときに余の声に反応して動きを止めただろう。あれである程度推測できたのだよ。とはいえ、ほとんど余の声が届かぬ程度には汚染されていたからね。動きを止めるより攻撃対象を変えさせた方が早かった」
ああ、あれは鞭に怯んだわけではなかったんだ。時折化け物が見せた不自然な挙動に納得する。
けど、あたしが聞きたかったのはそこじゃない。
「よくあのムルマンスクが偽物だと気づいたわね」
視界不良とはいえ、ううん、視界不良だからこそ、あの擬態はムルマンスク本人とほとんど差異がないように見えた。実際擬態だと分かった今でも、本物との外見の違いを挙げろと言われると言葉に詰まる。こちらの記憶から形成された擬態なら、似ているのも当然だと思う。
でもお姉様は、あのとき一目でムルマンスクが偽物であると判別していた。芸術愛好家のお姉さまは審美眼に長けてはいるけど、こういうところでも発揮されるものなのかしら?
けど、あたしの疑問はお姉さまからしてみれば、人にとって酸素は必要か否かというレベルの質問だったみたい。切れ長の目が丸く開かれる。
「貴様の目は節穴かね。ムルマンスクたんより鼻がやや低かっただろう?眼窩も彼女より小さかったのだろうね、眼球は良く似せていた分眼球がやや突出していたよ。髪の艶も違っていた。睫毛の長さも違っていた。どうやって間違うと言うのだね」
「どうやって見分けろと!?」
そういうことを言うからムルマンスクたちに避けられるのよ、という言葉は飲み込んだ。
要はお姉さまの審美眼が長けているということで間違ってはいなかったんだろう。それが何故こうもキモ、いえ、不健全に聞こえるのかしら。
無駄話に近い情報共有をしている内に、お姉さまは失神から回復してきたらしい。あたしを押しのけるようにして立ち上がり、身体中にふんわり乗る雪を払い落とした。
あたしも慌てて立ち上がってお姉さまの身体を確認するけど、目立った外傷は見られなかった。多分、雪がクッション代わりになってくれたんだろう。
それでも、一歩間違えば大怪我をしていたことは間違いない。更に、あたしにはその事態を防げたはずだったのよ。
あたしがあのとき躊躇わなければ、お姉さまが怪我をすることはなかったのに。見知ったガキの姿をしているからって攻撃を躊躇するなんて、恥もいいところよ。
「ごめんなさい、お姉さま」
「……?何に対する謝罪なのかね」
きょとんと目を丸くするお姉さまに、あたしはもう一度ごめんなさい、と伝える。
らしくもない。いつも自信満々で、下々を見下して高笑いするのがあたしなのに。胸のところが重く感じる。どうやら、落ち込んでいるみたい。
お姉さまに向けて、手を伸ばす。その白い首筋に、そっと指先を乗せた。お姉さまは少し視線を泳がせるけど、振り払おうとはしなかった。
指先から、お姉さまの拍動を感じる。とくん、とくん。確かに感じるそれに、あたしはほっと息を吐く。
「あたしが躊躇ったせいで、お姉さまに痛い想いをさせてしまったわ」
他人なんてどうでもいい。あたしは、あたしが幸福であるならそれでいい。それがあたしの信条だ。
けれどあたしは、貴族だから。お姉さまを大切に想うことは、自分だけが幸せになればいいという信条から外れるものではない。
目の前で誰かが傷ついて落ち込むだなんて、あたしらしくもない。この感情は、相手がお姉さまだからよ。他人が傷つくことなんてどうでもいいのがあたしなんだから。
「んん……?」
俯いたあたしに、お姉さまが戸惑いの声を漏らす。視界の端で、お姉さまの手は居場所を決めかねているように落ち着きなく揺れる。
いつも傲慢磊落としてるお姉さまがあたしのことで動揺してるのは、楽しい。ちょっとだけ芽生えたそんな感情を飲み込んだあたしの頭に、お姉さまの手が乗る。
わぁい、お姉さまが頭を撫でてくれた!さっきまでの落ち込みは吹っ飛んでそのまま顔を上げると、神妙な顔をしたお姉さまと目が合う。こんな状態でニヤけてしまったら殺される。
あたしは口をきゅっと結んで頑張って眉毛をへの字に固定した。女優も顔負けの演技力を見せつけてやる。
「殊勝なことは褒めてやらなくもないが、余も貴様ならば即仕留めるだろうと思ってしまったからね。己を無価値な虫ケラのように恥じることはないよ。一寸の虫にも五分の魂という言葉もある」
もしかして慰めてくれているんだろうか。そこまで言ってないし思ってもない暴言を吐かれた気がする。
お姉さまに頭を撫でてもらったことで上がったテンションが少し落ちるのを感じつつ、それでもお姉さまが慰めの言葉を有り難く拝聴する。あたしに優しいお姉さまなんて隕石より珍しいわよ。ライプツィヒからカメラを奪っておけば良かった。
「あの手の魔物が存在すると知った以上、貴様はもう躊躇わないだろう?知識は最大の武器なのだよ」
その言葉が、あたしの中にすっと染み込む。そうよ、次はもう迷わない。ムルマンスクの姿をしていようが、お姉さまの姿をしていようが、車掌の姿をしていようが、ぶっ殺してやる。
お姉さまの知的好奇心はあまり理解できないけれど、初めてその意義に共感ができたかもしれない。
あたしの顔を暫く見つめたお姉さまが、あたしの頭に乗せていた手を降ろす。滅多にないご褒美が終わってしまって名残惜しくはあったけど、気分が戻ったことを悟られてしまったみたい。残念。
でも、お姉さまはあたしから目を離さなかった。銃弾みたいな視線が真っ直ぐあたしの瞳を貫き、そして愉悦を含んだ微笑を目尻の襞にたたんだ。眉尻が下がり困っているようにも見える眉が、その微笑にからかいの色を滲ませていた。
「ふふ、しかし、貴様も擬態であることは悟ったから殴りかかったのだろうに。殺すことを躊躇ったのだね」
喉の奥で笑うお姉さまが何を言いたいのか、分からなかった。ただ、嫌な予感がする。お姉さまとの付き合いが長い分、本能で身構える。
「そ、……りゃ、そうよ。ガキの姿をしたものを殺したりしたら寝覚め悪いでしょ」
「以前の貴様ならば即始末していただろうに?」
「お姉さまが大切にしてるガキんちょをお姉さまの前で殴るのも気分良くないわよ」
「それだけかね?」
お姉さまが猫でもあやすように、あたしの顎の下を撫でる。
こんなの、尋問の手法じゃないのよ。相手にヒントだけ与えて自白を待つ。おしおき監獄で何度やられたか分からない手法だ。
けれどお姉さまは自白を求めていたわけではなかったらしい。多分ただあたしの反応を楽しむためだけに遠回りな言い回しをし、少しずつ核心に近づけていく。
「知識人である余が教えてあげよう。あの魔物は、こちらの記憶を読み取る」
「それで化けるんでしょ。さっきのちゃんと聞いてたわよ。お姉さまから直々の説明だもの」
「その通り。獲物……この場合は貴様だね。狙いを定めた相手の記憶を読み取って擬態するのだよ」
あ、あ、あ。お姉さまの言いたいことが分からないけど、分かった。これ以上聞きたくない。この先に用意されている言葉が、あたしにとって好都合なものであるはずがない。
そのときのお姉さまの表情と言ったら、無邪気さがふわりと舞う、幼く可憐な笑顔。淡い朱色で彩られた唇が、意地悪そうに弧を描いたまま言葉を紡いだ。
「その記憶の持ち主が、大切に想っている相手にね」
ほら、やっぱり聞きたくなかった!
ガキんちょのことなんてどうでもいいわ、なんて、いくらでも反論できるはずだった。それなのに、お姉さまの笑顔にはからかいだけではなく、確かな喜色が混ざっていた。
「大切に想える相手ができて良かったね。フェルクリンゲン」
この人は、本当に狡い。普段はムルマンスクと話しているだけで睨んでくるくせに。
お姉さまが悪いんだ、なんて誰に伝えるでもなく言い訳を考えて、あたしは熱くなった顔を腕で隠した。