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    zasshu220

    @zasshu220

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    zasshu220

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    フィガ晶♂です。とある賢者の書によって2人が色々と考えるだけの話です。

     「好きだよ」と言われて、先生に呼ばれた生徒のように元気よく、大きな声で「はい!」と応えたのは少し前の話。いやいや点呼じゃないんだから……と、思い出すたびに晶は自室だろうが廊下だろうが頬を火照らせて呻き声を上げていた。
     あれはフィガロの箒に乗って中央の国の市場に向かっていたときの出来事だった。空を飛ぶことにも慣れてきた晶が、川の中を覗き込むような調子で眼下の町並みを眺めていたときに、まるで「いい天気だね」と語りかけるかのようにさらりとフィガロが告げたのだ。
    「君が好きだよ」
     あまりに前触れもなく、それまでの会話の脈絡を無視した普段通りの口調に、晶は「はい」と返した。ほとんど反射的に応えていて、何も考えていなかった。「え?」は遅れてやってきた。
     驚いてフィガロの背中をまじまじと見たときには手遅れだった。
    「あれ?あそこのお店、なんだか賑わっているね。降りてみようか」
     誤魔化している様子もなく、フィガロはのんびりとそう言って、箒はゆっくりと高度を下げていった。それから先は何もなかった。先ほどの台詞の方が、朝食のお皿に靴が乗って出てきたかのような、日常に間違ってちらりと登場した違和感の塊でしかなかった。けれどそのことを不思議に思っているのは晶だけだと言われているような居心地の悪さがあった。
     聞き間違いだったのかもしれない、が一番に思い浮かんだ。そして二番目に、聞き間違いじゃなければいいな、と思った。
     ――俺もです。
     言いそびれた言葉が、今も晶の胸の内に大切に仕舞われている。



    「南の国で用事ができたから、出かけてくるよ。少し時間がかかりそうなんだ。今夜は向こうで一泊してくるよ」
    「わかりました。気をつけて」
     太陽が空の真上で輝く頃、各国の魔法使いたちの訓練を見学して魔法舎に戻ってきた晶に、入れ違いに玄関を出て行くフィガロが声をかけた。互いにゆったりとした足取りを止めることなく、簡単に解けてしまえるほど緩く視線を絡ませる。
    「俺がいないことを寂しく思ってね」
    「あはは。任せてください」
     そう返すと、すれ違いざまの瞬きが微笑みを落としていった。
    エレベーターのある塔に向かって歩いていく背中を見送って、晶はゆっくりと扉を閉める。頭の中のメモに、今夜はフィガロは不在と書き加え、ネロに晩ご飯を一人分減らしてもらうように言っておこうと、新たな予定を追加した。そうして賢者らしくスケジュール管理をし終わってから、真木晶として深く息を吐いた。
     何だったんだ、今のは。
     二人はたまに前髪をくすぐるようなこそばゆいやり取りを交わしていた。いつもフィガロの方から仕掛けてきて、以前から冗談の多かった彼に慣れてきた晶は、ポカンとすることなく対応できるようにはなっている。けれど、心の内には淀んだ思いがあるため少々厄介だった。
     あの聞き間違いかもしれない告白から何も進展がない以上、どんなに恋人ごっこのようなことを繰り返していても、ごっこ遊びでしかない。紅茶の中に砂糖を入れるように、一瞬で消えてしまうものだ。しかし、入れ続ければ、紅茶はどんどん甘くなっていく。
    「……寂しいですよ」
     広間に響く自身の足音に紛れさせ、晶は小さく呟いてみた。言ったそばから歩調が乱れる。丸いステンドグラスから降り注ぐ陽光がスポットライトのように彼を照らして、その中で晶は立ち止まり、周囲を見回した。がらんとした空間には誰の姿もなく、漏らした本音は誰にも受け取られなかったのに、晶は言い訳をするみたいにへらりと口元で笑った。
     こういうときに決まって思い出されるのが、あの告白に対する自分の反応だ。何度思い出しても恥ずかしい。フィガロとの外出に気分が高揚していたことと、吹き付ける風の音に負けないようにしたこととが最悪のタイミングで重なって、とても良いお返事になってしまった。あのときにもっとちゃんと話せていたら、今日の状況は変わっていたかもしれないと思うのは、少し都合が良すぎるだろうか。
     けれど、結果的にあの出来事が晶の気持ちに変化を与えてしまったのは確かだった。フィガロのことを特別に思う気持ちは元々晶の中にひっそりと存在していたが、風船に空気を入れることで膨らむように、あの一言が思いを大きくさせるきっかけにはなった。フィガロの姿が視界に入るたびに以前より期待して、交わした会話を眠る前に反芻する。一日の限られた時の中で、自らの気持ちに耳を傾ける時間がその割合を増していく。
     ダメだな、と晶は思った。この世界に招かれた理由は、きっとフィガロに恋をするためではないだろうに。
     晶は深く息を吸ってため息にならないように慎重に吐き出した。止めていた歩みを再び進め、振り切るように広間を後にする。向かうのは図書室。今日は賢者の書を読むのだと、昨日から決めていたことを遂行するのみだ。
     魔法舎の中はどこもよく晴れた昼間の明るさが入り込んでいるために灯りいらずだったけれど、高い書棚の並んだ図書室はランプがついていて、奥の方はいつもほんのりと薄暗い。その中でも立ち寄る人が少なく、埃っぽい一角に賢者の書は保管されている。その場所に向かう晶の靴音が響いても、図書室はしんとしたまま、他に誰もいないことを無言で示した。賢者の書が上から下まできっちりと収められた棚を前に、晶は足を止める。今日はこの棚を終わらせよう。
     過去の賢者たちが記した書を、今の賢者である晶が手に取ることは珍しいことではなく、元の世界に戻る方法や行き来する方法が書かれていないかと、たびたび図書室を訪れていた。如何せん数が多いために、予め範囲を決めて少しずつ物色するしかない。とは言え日本語で書かれているものはほとんどなく、見たことはあるけれど読めない言語で書かれたものばかり。これといった収穫はなく、外国語についてもっと勉強しておくのだったと後悔するだけで終わる日は多い。
     今日は図書室の奥から二番目の棚の、上から三段目の列。そこに並んだ書を、右から左に一冊ずつ棚から引き抜いていく。順に内容を確認して、読めるものがないか、気になるところがないかを丁寧に見ていく作業は、単純なようで案外時間と体力を消耗する。そのうえ成果が乏しいために次第に気が滅入っていくのだが、この日は違った。開いては閉じ、開いては閉じを繰り返していた手を、とある一冊で止めた。
     ページを開けるために触れた瞬間から、他のものとは異なっていると感じた。指に伝わる紙の感触が、えらく柔らかい。ページによってはなだらかに波打っているところもある。紙は枯草色に変色しており、ぱらぱらとページをめくると古い書物の匂いが鼻をついた。一度閉じて小口を見ると、他の賢者の書に比べて汚れている。
     一つ前に開いた賢者の書は、書き手が筆不精な人だったのか、この世界にいた期間が短かったのか、どちらなのかはわからないが、数ページ書かれただけで終わっていた。その分、紙はパリッと姿勢良く、古くはなっているけれど状態はとても良い。対して、今手に持っている賢者の書はくたびれていて、概ね古いものから順番に並んでいるはずなのに、前後の流れを無視して妙に年を取っているように感じられた。
     何度も読まれたようだと晶は思った。元の世界で好んで繰り返し読んだ小説が、このような状態になっていたことを思い出す。いや、この賢者の書の方がもっとひどい。
     持ち主が頻繁に開いていたのだろうかと想像しながら、ページをめくっていく。英語のように見えるけれど、やはり読めない。筆記体で書きつづられた文字はしなやかな線を描き、庭を美しく彩るつるバラを想起させた。目で追っていくうちに、書の半分ほどで記録は終わった。一つ前の賢者ほどではないが、こちらの賢者もさほどまめな人ではなかったようだ。
     試しに次の賢者の書も手に取ってみる。中国人だったのか、漢字が几帳面に並んでおり、書の終わり数ページまで続いていた。書き記された量は多いのだが、やはり先ほどの一冊に比べて読まれた形跡はなく、持ち主が閉じてからは一度も開かれていないような状態で残っていた。
     この違いは何なのだろう。晶は次の賢者の書に手を伸ばすことをやめ、一際傷んだそれにじっくりと触れ直した。角が丸くなった表紙や、紙が折れて直された跡に指を這わせ、読めない一冊を時間をかけて観察する。しばらくそうして考えて、晶は一つの仮説にたどり着いた。
     ――この一冊に、何か重大な事実が書かれているのではないだろうか。
     何か賢者自身に関わること、もしくはこの世界に関わる大切なことが書かれている特別な賢者の書ではないだろうか。そのため、歴代の賢者たちが代わる代わる手に取り、読んできた。だからこれほどくたびれているのではないだろうか。
     晶は頭を抱えた。それならば、読めない自分はなんと損をしていることか。今までの賢者たちにとっては教科書のようなこの一冊を、勉強不足で読むことができないとは。英語教師の宇宙語のような話を、もっとちゃんと聞いていれば!
     晶はがっくりと肩を落とした。もしこの一冊に世界を行き来する方法が書かれていたら……と思うと、惜しくて棚に戻すことも躊躇われた。よくよく文章を読み返してみると、同じような単語が繰り返し記されているように見える。この言葉がもし、とても大切なことを指しているのだとしたら。
     どうにかして読めないものだろうか。けれどここには英和辞典なんて存在しない。この世界に来たときに背負っていたリュックに、猫缶と一緒に辞書を入れておけば!と後悔が増えたところで、図書室の入り口からパタパタと足音がした。足音は図書室を通り過ぎて遠ざかっていったけれど、つられて顔を上げた晶はふと思い至った。
     長く賢者の魔法使いをしている北の魔法使いたちなら、何か知っているかもしれない。
    「知らないよそんなこと」
    「俺は牢獄に居たんだぜ?知るかよ」
    「知りませんね。丁度いい、手を借りてもいいですか?」
    「知らんのう」
    「すまんのう」
     散々な結果にしゅんと項垂れる晶の頭を、双子が慰めるように撫でた。歴代の賢者たちが例の賢者の書について何か言っていなかったか、書いた本人が何か言い残していなかったか。手がかり欲しさに、北の魔法使いを探し回って、結局成果は何一つ得られなかった。
    「我らは多くの賢者と時間をともにしたが」
    「そなたの前の賢者のことでさえ、記憶が曖昧なのじゃ」
    「……そうですよね。すみません、無理を言ってしまって」
    「謝る必要はない」
     スノウが空気をかき混ぜるように指を振ると、薄暗くなっていた談話室に光が灯った。魔法舎を走り回っているうちに日が暮れていたようだ。ポツポツと一つずつ丁寧に、ろうそくに火が点る光景を眺めていると、ほんの少し心が軽くなった。
    「魔法で読める字に変えることができたらいいのじゃが……」
    「ここに書かれておる文字すら何なのか我らにはわからぬゆえ、不可能なのじゃ」
    「それは俺も同じですね」
     文字だと認識できても、辞書がなければ読めない。わかるのは、この書き手が確かにこの世界に存在したという事実だけ。
     晶は賢者の書の表紙を撫でながら、二人に微笑みかけた。
    「もともと読めないものだったので、諦めます。スノウ、ホワイト、ありがとうございました」
    「よいよい。今回は力になれんかったが、困ったことがあれば我らを頼るがよい」
    「はい」
     落ち込む手を両手で包んでくれる二人を頼もしく思いながら、晶は強く頷いた。



     とは言え、だ。一度抱いた希望を手放すのは、それなりに寂しさが伴う。なかなか眠る気になれず、晶は夜中に部屋を抜け出した。なんとなく最後に読んでおきたくて、あの賢者の書を小脇に抱えて。
     向かったのはシャイロックのバー。今夜は一人で過ごすよりも、誰かの発する声でも音でも聞いていたい気分だ。そう思って訪れたのだが、バーにはシャイロックの姿しかなく、いつもより静かな空間が広がっていた。
    「おや、賢者様。珍しいですね。お一人ですか?」
    「はい。あの、ここに居てもいいですか?」
    「もちろんです。どうぞ、ごゆるりと」
     誰かがいた気配よりも、シャイロックのパイプの残り香の方が感じられる。カウンターに近づくと、揺れるろうそくの光に木の表面がツヤツヤと輝きを強くし、晶を手招いた。
    「……それでは、賢者様と二人の夜にぴったりな飲み物をご用意いたしますね」
     椅子に腰を下ろす際に、無意識に晶の口からこぼれていたため息を、シャイロックは柔らかな眼差しで受け止めた。後ろの棚からいくつかの瓶を取り出すと、喉の渇きを誘う涼しげな音を響かせながらグラスに氷を入れて、全てをカウンターの上に並べる。ただそれだけなのに、ぼんやりと眺めていた晶の胸に、映画館の座席で上映を待つときのような明るい気持ちが芽生えた。行儀よく並んだ瓶たちはまるで役者のようで、こちらに上品なお辞儀をしているみたいに見えた。
     始めに深い青色の液体が注がれて、次に透明なものが重ねられ、数回マドラーで混ぜられる。色の境界はじわりと溶け合い、澄んだ空の色を浮かび上がらせた。ゆったりとしたシャイロックの手つきは、気ままに素敵なことを思いついて試しているような自由さがあるのに、やはりシナリオに基づいて演じられていて、様々な変化を見せるグラスは一つの作品が生まれる瞬間を目の当たりにしているのだと実感させた。
    「……きれいです」
    「ふふ、お口にも合うと良いのですが」
     すっと差し出されたグラスは底の方に深い青が漂い、口縁に近づくにつれて淡青に澄んで最後はレモン色に染まっている。それは夜更けから日の出に至る空の軌跡を思わせ、底から昇る炭酸の細かな泡がトワイライトの空に落ちていく流れ星のように見えた。きらきらと光の尾を引く泡たちをじっと眺め、手元に切り取られた夜空の美しさに晶は声を震わせた。
    「きれいすぎて、飲むのがもったいないです」
    「まぁ」
     シャイロックのこまやかな微笑みがバーの雰囲気にぴったりで、あるものがあるべき場所にちゃんとあるような心地良さが、晶の胸をホッとさせる。夜がやっと訪れたような気がした。
     目の前にある夜空をずっと眺めていたい気持ちと同じくらい触れてみたくもなり、グラスに口づける。始めにグレープフルーツに似た爽やかな苦味が口に広がって、追ってシロップの甘さがほんのりと舌を包んだ。優しく甘やかしてくれるような味で、一口で晶は気に入った。
    「美味しいです。ありがとうございます、シャイロック」
    「お気に召したようで何よりです」
     一人きりの自室よりも賑やかな場所を求めてバーにやって来たけれど、シャイロックと二人で過ごす静かな夜も、贅沢な感じがしてとても良い。交わす会話の内容は晶の世界の話や、ベネットの酒場での出来事など、普段とあまり変わりはないけれど、折り紙を交互に折っていくように、丁寧に気持ちと記憶を重ねていく。グラスの中身が減るにつれて、晶は抱いていた寂しさを少しずつ手放すことができた。
    「……ここに来て良かったです。シャイロックと話していると、元気が出てきました」
    「賢者様にそう言っていただけるのは光栄ですが、何か落ち込むようなことでもあったのですか?」
    「はい。昼間にちょっと」
     手元に置いていた賢者の書に、晶の視線が自然と落とされ、それに気づいたシャイロックも古びた表紙を瞳でそっと撫でる。
    「……そちらは、賢者様のものではありませんね」
    「そうなんです。何年前なのかはわかりませんが、以前賢者だった方のものです。今日はこのことで色々とあって」
    「賢者様が中庭を走り回っていらっしゃったのは、そのためですか」
    「見られていましたか……」
     シャイロックは興味深げに目尻を下げた。
    「良ければ詳しくお聞かせいただけますか?」
     今夜の最後の話題にと、晶は今日の出来事をシャイロックに語った。図書室で変わった賢者の書を見つけたこと。歴代の賢者に読まれていたのではないかと考えたこと。この書に関する情報が欲しくて北の魔法使いたちを頼ったけれど、誰も知らなかったこと。
     シャイロックは言葉の余韻まで楽しむように、晶の話にゆったりと耳を傾けてから、おもむろに口を開いた。
    「そちらの賢者の書を、お借りしてもよろしいですか?」
    「あ、はい。どうぞ」
     晶から賢者の書を受け取り、シャイロックはパラパラとページをめくった。たまに手を止めてじっくりと眺めて、再び先へ進む。触れる指先は優しくて、時折緩やかな線を描く口元は、まるで素敵な文章を見つけて微笑んでいるかのように見えた。そんな彼を見つめる晶の胸には、期待が淡く生まれていく。
     時計の秒針が二周したくらいだろうか。彼はぱたりと本を閉じて、表紙にそっと手を添えた。
    「……何かわかりましたか?」
     どきどきと強く打つ心臓の鼓動を感じながら、晶は尋ねた。けれどもシャイロックは、申し訳なさそうに目を伏せた。
    「賢者様が期待されているようなことについては、何も」
    「そう、ですか……」
     思わずため息が漏れそうになり、慌てて口をつぐんだ。魔法使いは賢者の記憶を失う。それは揺るぎないこの世界の理のようなものであり、シャイロックに責任があるわけではない。
     やはり、諦めるしかないのだろう。そう気持ちを切り替えようとしたとき、シャイロックが賢者の書を差し出しながら言った。
    「ただ一つ、気になったことがあります」
    「……え?」
    「こちらの賢者の書には、魔法使いの気配がとても濃く残っている、ということです」
     気配?と晶が聞き返すと、シャイロックはおっとりと頷き返した。
    「どなたの気配なのかまではわかりませんが、少なくとも、今の賢者の魔法使いの中にはいない方のようです。以前、この魔法舎に居た魔法使いでしょうか。つけたばかりの香水のように、この書からその方の気配が漂ってくるのです」
     賢者の書を受け取った晶もページを開いてみるけれど、何も感じられない。首を傾げる晶に、シャイロックは微笑みかけた。
    「賢者様、これは私の推測ですが、そちらの賢者の書を読んでいたのは賢者ではなく、魔法使いだったのではないでしょうか」
    「魔法使いが、ですか?」
     思いもよらない発想に、晶は問い返していた。言われて初めて、その可能性を見過ごしていたことに気が付いた。この世界に存在しない文字で書かれた本を、魔法使いが手に取ることなどないと、自然と切り捨てていた可能性だった。
     そうです、と、シャイロックは続けた。
    「気配が残ってしまうほど何度もその書を開いた魔法使いは、どのような思いでその書に触れていたのでしょう。懐かしい思い出に浸りたかったのか……それとも失った面影を求めて縋っていたのか……」
     夜の静けさに囁きかけるように、シャイロックはそう言った。しんみりと響くその声は、晶の胸のうちにゆっくりと染み込んでいく。指に触れている柔らかな紙が、色褪せた表紙が、その姿が意味するものを晶に問い直していた。
    「少し、ロマンチックに考えすぎているかもしれませんね」
     ふふ、とシャイロックが小さくこぼす笑みに、いえ……と、晶は掠れた声で返すのが精一杯だった。思い出されるのは、この賢者の書に何度も同じ言葉が書かれていたこと。読めないけれど、とても美しい形で書かれていた言葉。
     あれがもし、誰かの名前だったとしたら――
     グラスの側面を、冷たい雫が滑り落ちる。中身はもうすっかり飲み終わっていたのに、口の中にグレープフルーツに似たあのほろ苦さがよみがえった。甘さは戻らないまま、その味を深めていく。
     晶は賢者の書を隠すように胸に抱いた。どんな気持ちで再びそれに目を向けたらいいのか、わからなかった。だから、自分の素直な感情ごと隠した。
    「……もし本当にそうなら、俺が読むのに躍起になる必要はありませんね。落ち込む必要もなかった。そのことがわかって良かったです。ありがとうございます、シャイロック」
     晶は微笑んで席を立つ。ご馳走様でしたと、きれいなお辞儀をしてから、もう一度笑ってみせた。
    「おやすみなさい。シャイロック」
    「またいらしてくださいね。おやすみなさい、賢者様」
     扉に向かう晶の足音が一つ鳴るごとに、バーの灯りが一つずつ消えていった。晶はほんのりとまだ明るさの残るカウンターを振り返ろうかと迷ったけれど、寄り添うような暗闇にそのまま甘えることにした。
     扉が控えめな音を立てて閉まるまで見守って、シャイロックは目を細める。
    「……その優しさが報われてほしいと、願ってしまいますね」
     そう呟いてパイプを口にし、きらきらと光を帯びる煙をここに居ない誰かに届かせるように細く吐き出した。



     ふと気づいたときには自室にいた。晶は見慣れた部屋の入り口に立って、手だけはしっかりと扉を閉める役割を果たしているところだった。シャイロックのバーからここに至るまでの道のりをよく思い出せないのは、魔法で移動したからでもなんでもなく、単純に考え事をしていたからだった。
     つけたままにしていたテーブルの明かりを頼りに歩みを進め、ベッドにたどり着くと力なく横になる。しばらくぼんやりと宙を眺めた後、胸に抱いたままだった賢者の書を枕元に置いた。
    「……悪いことをしたな」
     賢者の書を見つめ、ぽつりと呟く。
    「俺が勝手に勘違いして、騒ぎ立てちゃった。ごめんね」
     誰かにとっては、とても大切な一冊だっただろうに。
     丸くなった表紙の角に親指を這わせて、書いた誰かと、読んだ誰かに思いを馳せながら、細かな傷を一つ一つ瞳で拾う。過ぎた時間も、終わってしまった時間も感じられる。唯一残された賢者の書に、晶は無駄だとわかっていても問いかけずにはいられなくなった。
     書き手はどんな賢者でしたか?
     読んでいた魔法使いはどんな方でしたか?
     ――二人は恋人でしたか?
     賢者の書は秘密を守るように黙ったまま、ただひたすらにその身を晶の前に横たえるばかり。ムルに頼めば物の記憶を辿って真相を確かめることができるかもしれないけれど、そこまでせずとも想像することは容易だった。今まで実感としてつかめていなかっただけで。
     晶の前にこの世界にいた賢者。同じ日本人だった彼と親交のあったアーサーが、彼との思い出を語るときに忘却に言葉を詰まらせ、薄い唇を緩く結ぶ姿を何度か目にしてきた。賢者が変わると、それ以前の賢者に関する記憶は曖昧になり、顔も名前も忘れてしまう。幼い頃の出来事を楽しさの余韻だけを思い出して、ともにいた誰かのことは思い出せないように。その寂しさは晶自身も想像に難くなく、教えてもらった言葉の中で思い出せないものがあることに気づいて弱く微笑むアーサーの気持ちに、寄り添うことはできた。
     ただ、賢者の記憶を失うことは長い歴史の中で何度も繰り返されてきたことで、この世界の仕組みの一つだった。重力のように、当たり前に存在するものの一つ。だからこそ、失われた記憶を思って浮かぶ哀愁は、一時のものであって何らおかしくなかった。落ちたグラスが割れたとして残念に思うことはあっても、悲嘆に暮れるほどのことではない。替わりとなるものはいくらでもあるのだ。
     だから、突然名前も顔も思い出せなくなるという突拍子もない現象でも、悲しさよりももっと穏やかな気持ちで受け入れられる。泣き顔よりも笑顔で思い出を語ることができる。抗えず、けれど誰のせいでもないその現象は、理不尽な優しさでこの世界の人々を守っていた。
     そう思っていたのに、目の前にあるこの一冊は、残された者の感情そのものではないか。特別な縁を結べば、それだけ悲しみも深くなる。もし落として割れたグラスが思い出のあるものならば、それは世界に一つしかない、替えが利かないものなのだから。
     賢者の書に触れる晶の指から力が失われて、表紙を開こうとしたまま動きを止める。この書を何度も開いた魔法使いのことを思うと、晶は賢者の書から目を背けたくなった。薄れていく記憶の中で思いだけ残されて、読めない文字を何度も目で追って。夢の中で見た、顔も名前もわからない人に恋をしたように、掴めない幻を追いかけて。
     夢から覚めただけならそれでおしまいだけれど、質が悪いのが、賢者の書が残るところだ。思い出せないのに、この世界に存在したという証は突きつけられてしまう。それがどれほどつらいことなのか、このくたびれた賢者の書を見れば一目で思い知らされる。
     形として残された悲しみに触れて、晶はようやく気づいた。この世界を去るということが、別れだけではなく、置き去りにしてしまうことだということに。
    「……本当は……」
     言いかけて、喉の奥が苦しくなってやめた。続けてため息が漏れそうになったため、枕に顔を押しつけて防ぐ。ため息の音には胸に浮かんだ思いが遠慮なく滲んでいそうで、聞きたくなかった。頭に浮かんではいけない人の顔も思い出されるから、もう眠ってしまおうと固く目を閉じる。寝てしまえば、きっとこの切なさも和らぐはずだ。
     この世界の夜は晶のいた世界よりも深々と更けていく。スマートフォンもなければ道を走る車の音もなくて、葉擦れの音やシーツの感触、水気を含んだ空気の匂い、そういった周りにあるものに、元の世界にいた頃は蔑ろにしていたものによく気づかせてくれる。それなのに、今夜は何も感じられなかった。無音で無感覚で、瞼の裏の暗闇さえ晶を責めているようで怖かった。胸の辺りが重く、寝返りも打てそうにないくらい体がぐったりとしている。無限に広がっていくような夜の時間の中で、眠りへと続く細い糸のような道しるべを探して彷徨っていた。
     どのくらいの間、目を閉じていただろうか。晶はふと瞼を開いた。朝の気配はまだ感じられず、賢者の書に触れたままの手のひらが目に留まる。変わらない風景がそこにあるように見えたけれど、僅かに生じていた違いが、それとは気づいていないまでも晶の瞼を再び閉ざさせることを妨げた。
     灯したままだったテーブルの明かりが消えている。それなのに部屋の中が明るくなっているのは、窓から月の光が降り注いでいるからだ。閉じていたはずの窓もカーテンも開いており、さわさわと木々が室内に囁きかけている。少しずつ感覚が呼び起こされて、空気を圧迫するような、自分以外の人の気配があることに晶は気がついた。
     そちらを見るために顔を上げようとして、体がやけに重くて首を傾げるほどにしかならなかったけれど、向けた視線がその正体をとらえた。次の瞬間、反射的にふっと心が軽やかに舞った。
    「フィガロ……」
     寝転んでいる晶の腰の辺りに、フィガロが座っていた。組んだ足の上で頬杖をついて、月の光を受けた長いまつ毛が影を落とす瞳で晶を眺めている。目が合うとフィガロの口角がふわりと上がった。
     食事のときでも任務帰りでも、どんなときでもその姿を目にすると、ささやかなご褒美をもらったように晶は嬉しくなる。それは例外なく今もそうだったけれど、すぐに思い直した。
     フィガロがここに居るはずがない。
     今夜は南の国に泊まるから魔法舎にはいないのだ。昼にそう告げられたときから、フィガロの不在は傘を忘れた雨の日のように晶を何度も心細くさせていた。だからこそ、間違えようも忘れようもない事実だった。
     それなのに、まるで始めからそこにいたかのようにフィガロは落ち着いた様子でベッドに腰掛けている。誰かが部屋に入ってくるような音はせず、ベッドが揺れた覚えもない。気づいたらそこにいたとしか言えなかった。
     夢かもしれないと思った。そう思った途端に、どうやらそうらしいと納得した。体が重く感じられるのもそのせいだろう。明晰夢というものは初めて経験するけれど、こんな感じなのか。
    「君に会いたくなって帰ってきたんだ」
    「うわぁ……」
    「え、何その反応」
    「いえ……夢の中だとさすがに俺の思い通りになるなと思って」
     すごいなぁと独りごちて、晶はフィガロをじっと見つめた。眠る前に彼の顔が頭に浮かんでいたから、夢にも影響してしまったのだろう。晶の部屋にフィガロがいるうえに、こんなに近くで微笑んでいる。不思議に思いつつも嬉しさもあり、同じくらい罪悪感もある。内に秘めていた欲望を、仰せのままにと差し出されているようなきまりの悪さだ。
    「すみません」
    「なんで謝ってるの」
     免罪符のように謝罪をするとフィガロは笑って応えてくれて、晶はつられてはにかむ口元を止めることができなかった。
    「俺がフィガロのことを好きだから、こんなことになっているんですよ」
    「……そうなの?」
    「はい。他人の夢の中で好き勝手されるなんて、本人は嫌でしょうけど……」
     そう言いつつも触れたくなって、シーツの上に垂れている白衣の袖を晶は控えめに指で摘んで、撫でたり引っ張ったりしてもてあそんだ。どきどきと勢いを増していく鼓動が指先まで揺らしているように見えて、恥ずかしさから袖口を強く握り直す。ああ、どうしよう。何でもできるって、むしろ不自由だ。
     普段、眠る前に一日のことを思い出すとき、あの会話でもう少し甘えたことを言っていたらとか、自分から“仕事“に誘えていたらとか、そんなことを考えて一人で悶々としていた。それなのに、いざとなったら何をどうしたいのかわからなくなる。
     迷い、立ち止まったままになっている晶の手に、フィガロの手が重ねられた。晶の緩く握られた拳はフィガロの大きな手のひらにすっぽりと包まれて、指と指の隙間を撫でられると柔らかな皮膚が感触をまざまざと伝えてしまい、胸が震えた。晶は触れ合う手のひらを、眼差しで味わうように見つめる。フィガロの手に触れるとき、決まって思い出すのは初めて手を差し出されたときのことだ。
     君を籠絡したいなんてことをさらりと言いながら、声音は甘く優しく丁寧に晶を誘っていて、変な人だと思った。そんなちぐはぐさはその後も感じることがあり、長く生きているのにそれを隠して、強いのに弱いふりをして、南の魔法使いたちと家族のように関わりながら、一人ですっと離れてしまうこともある。不器用というわけではないなと晶は思った。むしろ器用すぎて、先が見えてしまって、下手に生きることが難しいみたいだった。
     魔法舎でともに過ごすうちに、晶はフィガロのことを少しずつ知っていった。理解したとまではとても言えず、大海のほんの一部、浜辺に寄せる波の先に手を浸しているような僅かなものだったけれど、好きになるには十分だった。相変わらず変な人でよくわからないところが多いけれど、根底には確かに優しさがあって、晶を思ってかけてくれるあたたかな言葉はいくつもあった。そのどれもが晶を支える魔法になった。
     触れてくれる手を怖いものだとはもう思わない。握っていた手を開いて、フィガロの手のひらを受け止める。つるつるとした爪の表面を撫でると、フィガロの指は突くようにして晶の指を押し返し、指先から付け根にかけてゆっくりと滑らせた。軽口を交わすようにじゃれ合って、握るだけだった今までの触れ合いよりも深く、相手の存在を確かめていく。
    「……俺、こんなことがしたかったんだな」
     手のひらを眺めながら晶はぽつりと呟いた。
    「違うな。たぶん、もっと……手だけじゃなくて、もっと近くで……」
     ――フィガロの孤独に触れたかった。
    「……ふ、あはは」
     続きを口にしようとして、けれどあまりに大それたことだったために、晶はほとんどため息になりかけた乾いた笑いをこぼした。笑った拍子に枕元に置いていた賢者の書に前髪が触れる。うん、わかっているよと、晶は胸の内で応えた。顔を上げるとフィガロが不思議そうに目を丸くしていて、急に幼くなるそんな表情に、晶は愛しさを滲ませるように目を細めた。
    「俺、あなたの寂しそうな顔をもっと見たかったんです」
    「それはなんともマニアックな趣味だなぁ」
    「あはは、そうですね。でもフィガロはなかなか見せてくれなくて」
     長く生きる魔法使いたちはそれぞれに孤独を抱えていて、過ぎた月日の分、複雑な色に染まっている。それはシャイロックが作ってくれたカクテルのように、色でイメージする味とは違っているときもあって、知れば知るほどわからなくなることも多い。フィガロは特に、笑顔のベールで白に見せることができてしまう。時折ちらりと見えることがあっても、それだけだ。
    「……フィガロのことをもっと知りたかった。何を大切にしたいのかとか、本当は捨てたくなかったものとか、今までのことも、これからのことも、教えてもらえること、全部……でも、俺じゃダメだった」
     木の葉の散る乾いた音がして、床に落ちる月の光に葉の影がちらちらと舞った。カーテンが波のように大きく揺れる間に、フィガロの口元が晶の呟きを聞いて緩やかな弧をきれいに描いた。
    「俺じゃフィガロを悲しませるだけだ……俺の前では弱い部分を見せてもらえるようになりたかったけど、俺のせいで寂しい顔をしてほしかったわけじゃない。俺がこの世界を去った後にフィガロが苦しむことがあるのなら、これ以上近づくべきじゃない……ですね」
     フィガロには、この賢者の書を何度も開いた魔法使いのようになってほしくない。できることなら真木晶に関する記憶は全部、忘れてほしい。いや、できるのか。この世界には魔法があるから。
     そう思うと瞼が熱をもった。呆れる。言っていることと思っていることが滅茶苦茶だ。
    「こんなだから怒られたんだなぁ」
    「こんなって?」
    「……舞い上がっていたんです。この世界の人たちと仲良くなればなるほど、別れが悲しくなるってわかっていたのに」
     晶は一番大切なものを手放すかのように、ぽつりと呟いた。
    「あなたの告白が、嬉しくて」
     舞い上がっていた。まるで普通の恋をしたかのように。出会いから何から、普通のそれとは違っていたというのに、両思いかもしれないとか、恋人になれるかもしれないとか、浮かれていたから、そんな甘いものじゃないぞってあの賢者の書の持ち主に怒られたんだ。
    「フィガロもそれをわかっていたから、あれ以上何も言わなかったんですね」
     静かな微笑みが夢に沈んでいく。
    「だったらあれは、やっぱり俺の聞き間違いだ。うん。そうだ。うん」
     言葉の意味でも教え込むように呟いて、晶は残像を消すために目を閉じた。箒の上でまじまじと見つめたフィガロの背中を、同時に抱いたぞわりと心臓を撫でるような新鮮なときめきとともに、真っ暗な瞼の裏に溶かす。晶が去った後の世界で、晶の残した賢者の書に触れる彼の姿も掻き消しながら。
     このまま夢も終わればいいと晶は思った。目を閉じたまま、夢のない深い眠りに誘われたい。そうして深い呼吸を繰り返して自ら夢を終わらせようとしたけれど、実際には再び瞼を開くこととなった。
     不意に手のひらを強い力で握られたのだ。暗闇の中で唐突に加えられた力に驚いて、晶は無意識のうちに目を開き、力の対象を瞳でとらえる。見据えた先、フィガロの手が晶の手のひらから離れたかと思うと、今度は手首を掴まれるところだった。ぎゅっと先ほどと同じ強さで握られて、晶が不思議に思う隙も与えないままに腕は持ち上げられ、横向きになっていた晶の体は腕を引かれるままに仰向けに倒された。
     それは強引と言っていいほど一方的な力で、瞬きも忘れるくらい一瞬の出来事だった。晶の心が状況に追いつく頃には、フィガロが無感情に晶を見下ろしていた。掴まれていた手首から手が離され、もう一度手のひらを合わされたけれど、今度は指と指を絡めて深く握られる。シーツに押しつけられたそれは、ちょっとやそっとでは動かすことも振り解くこともできそうにない。
    「……フィガロ?」
     晶は呆気に取られていた。ゆったりと流れていた時間が急速に押し縮められたようだった。あまりにも濃く夜の気配が迫って来て、名前を呼ぶ声が震えてうわずった。
     フィガロは何も応えなかった。表情の読めない視線をすとんと晶の瞳に落として、口元だけが微笑みを形作ったかと思うと、そのまま晶の唇に重ねられた。
    「っ……」
     予想外のことに晶は頭をぐっと後ろにそらしたけれど、逃げ場はなかった。浅く触れてきた唇は晶を追って強く押し当てられ、大きな手が顔を背けられることさえ拒むように頬を包んだ。唇に感じる少し冷えた柔らかな感触は今まで味わったことのないもので、驚きが先行している今、この行為の名前もまだわからないまま晶は受け入れることしかできなかった。
     ほんの僅か、吐息の触れる距離で唇を離されたけれど、晶が抵抗できないのを認めて再び重ねられた。息をのむ晶に口づけであることをわからせるように、フィガロは晶の唇を舌でそっとなぞった後に何度も繰り返し触れた。角度を変えて、ぴったりと隙間なく押しつけたかと思えば、気まぐれにわざと音を立てていたずらのような軽いキスをする。次第に晶は呼吸さえも上手くできないほど余裕がなくなっていくのに対して、フィガロの手は余裕たっぷりに晶の耳介を指先でもてあそんだ。ぞくりと背を伝う快感に心臓が切ない悲鳴をあげる。
     晶の心よりも体の方が理解が早かった。最初の口づけで肩を上げて緊張に固くなっていた体は、ゆっくりと注がれる熱によって力を抜かれた。緩やかに膝を立てていた足は、逃げ場を求めるようにじわりと伸びていく。指先は冷えているのに、鼓動が激しくなるにつれて頬から首筋にかけて火照り始め、口の中が唾液でじっとりと濡れる。
     フィガロの体を離そうと握られていない方の手で彼の肩口を掴むと、晶のものとは違うその厚さが生々しく感じられて、今までよりももっと明確にフィガロの存在を認識することとなった。いつもは細身に見えるけれど、フィガロは晶よりも大きな体をもっていて、強い力で自分を求めているのだと気づくと、必死に状況について行こうとしていた意識が力なく押し流された。
     名前を呼びたかったのか「待って」と言いたかったのか、もはやわからないけれど、何かを言おうとして薄く開いた晶の口の中へフィガロの舌が割って入った。無防備だった晶の舌をフィガロの舌が絡め取ると、吐息が艶めいた色を帯びて晶の唇から漏れた。自身でも聞いたことのない声に口を塞ぎたくなったけれど、できるはずもないまま、晶の声に煽られるように絡み合う深い口づけは激しさを増していく。
     与えられる感覚に翻弄されるばかりで、熱っぽく乱れていく頭で今まで何を見ていたのかはっきりとは思い出せない。目を閉じていたのかもしれないし、ただぼんやりと焦点の合わない視線を漂わせていただけかもしれない。ようやくはっきりと像を結べたのは、フィガロを押し返そうとしていた手が引き寄せるように彼のシャツを弱く握り、口元からこぼれ落ちる吐息に躊躇いの気持ちが薄れた頃だった。
     長く重ねられていた唇が離され、濡れた晶の口元をフィガロの指が優しく撫でた。まだ熱の抜けきれない呼吸を荒く繰り返しながら、晶はゆるゆると瞳を持ち上げる。そして愕然とした。
     鼻先が触れそうな距離で、フィガロの長いまつ毛が見えた。彼は目を伏せていたけれど、晶の視線に気づいたのかおもむろに顔を上げた。瞬間、情に濡れた瞳が晶を射すくめた。
     それは、晶が見たことのない表情だった。冗談を交わすときに見せる親しげな微笑みとも、暴れる魔法生物を前にしても落ち着き払った頼もしい眼差しとも違う。月明かりだけのこの部屋でフィガロの瞳の色は昼間よりも暗く冷えているけれど、氷の中に火が灯されたように、内側から理性を溶かしていく熱が見て取れた。溶け切ってしまった後は自分でもわからないというような危うさに瞳を震わせて、フィガロは晶を見下ろしていた。
     フィガロの表情に晶の体は素直な反応を示した。心臓は高鳴り、体温は上昇する。けれど頭だけは、水を浴びせられたように急激に冷えていった。
     ――俺は何をしているんだ。
     さっと血の気が引いていく。慌ててフィガロに触れていた片手を離して顔を覆い隠し、固く目を閉じた。
    「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
     背を丸めて顔を逸らし、何度もそう繰り返す。罪悪感に苛まれて、胸をナイフで裂かれるような痛みを覚えた。
    「ごめんなさい。あなたのことを諦めるって決めたばかりなのに、俺、こんなことをさせて」
     キスを気持ちが良いと感じたことも、もっとしてほしいと思ったことも、罪悪感という鋭い牙になって晶を傷つける。フィガロの見たことのない表情を見て、今の口づけは全て自分が望んだことなのだと思い知らされた。フィガロはこんな顔なんてしないのに。夢であるのを良いことに思い通りに動かして。たった今、彼のために気持ちを封じようと決めたのに。
    「俺、全然あなたのことを諦められてない。ダメなのに、わかっているのに、こんな、こんなに、まだ好きで……」
     ごめんなさいと、掠れた声で繰り返す。もうそれ以上何も言えなかった。顔を隠す手のひらに頬に残る熱が伝わって、恥ずかしさと情けなさで涙が込み上げる。何の涙だ。泣く資格なんてないのに。
    「……賢者様」
     啜り泣く晶の耳にフィガロの声が静かに触れた。降り始めた雨が窓を打つように、少しずつ穏やかな声音で語りかける。
    「君は本当に優しいね」
     そんなことない。そう否定したかったけれど、晶には応える力すら湧いてこなかった。それでもフィガロは返答がわかっているかのように続けた。
    「君は優しいよ。だから謝る必要なんてない。むしろ謝るのは俺の方だ。ごめんよ」
     フィガロの指が晶の髪に触れ、さらりと指先で丁寧に撫でた。また俺はフィガロに……と罪の意識を深める晶に対して、彼はふっと微笑みを浮かべ、呪文を唱えた。
     直後、目眩が晶を襲った。ぐっと頭を引き寄せられるような強い目眩が一度。続けて柔らかなものに受け止められるような感覚が全身を包み、意識がぼんやりと霧散し始めた。瞼がその重みを増して、開いていることが難しくなる。魔法だと認識する暇さえなく、晶はあっという間に眠りの入り口に足を踏み入れた。
     薄れていく意識の中で、晶は最後に寂しそうな囁きを耳にした。
    「おやすみ、賢者様」



     やってしまった……。
     晶が眠りに落ちたことを確かめてから、フィガロは大きくため息を吐いて頭を抱えた。
    「……泣かせるつもりはなかったんだけど」
     ベッドの上で晶はすやすやと健やかな寝息を立てているが、まつ毛には微かに涙の粒が残っている。口づけの名残を感じさせる火照った耳から赤みが引くまで、フィガロはじっと彼を見つめた。
     晶に会いたくなって帰ってきた。それは本当のことだった。嘘は言っていない。晶に会いたくなって帰ってきて、部屋に明かりが灯っていることに気づいて窓から部屋に入った。晶がまだ起きているのだろうと予想しての行動だったが、部屋に降り立ったときにはすでに彼はベッドに横になって眠っていた。それならばしばらく寝顔を眺めてから南の国に戻ろうと、机の上のランプを消してベッドに腰を下ろしたところで晶が目を覚ました。
     すぐに夢ではないことを教えてもよかったのだが、素直に気持ちを吐露する晶の姿は珍しく、伝える機会を逃した。この世界で生きるために本音を後回して、誰に対しても努めて誠実であろうとする心は美しかったが、時に人を不安にさせる。いつかその心が崩れてしまうときがくるのではないかと。だから晶がふとしたときに見せる年相応の反応は喜ばしいことだった。
     というのは嘘ではないが、今回に限っては建て前だ。ただ単純に、フィガロのことで思い悩む晶が可愛くて止める気にならなかっただけだった。晶の方から触れてきて、ぽつりぽつりと思いを口にしていく彼が可愛くて、いじらしくて。眺めているだけで楽しかったのに口づけまでしてしまったのは、以前の告白を聞き間違いだと結論づけられたことに少々ムッとしたからだ。
     反省している。晶の真面目さを失念していた。思いやりが深い彼に、夢だと誤解させたままにしておくのは酷なことだった。
    「ごめんよ」
     もう一度謝って、フィガロはベッドから立ち上がった。唇に残るあたたかな感触がなおも胸の内の燻る熱を刺激するけれど、もう晶に触れるべきではない。壁際に寄せられていた布団を手に取り、晶の上にそっと被せた。
     それにしても今夜の晶はやけに思い詰めているようだった。昼に会ったときには顔色も良く、いつもと変わらない様子だったのにと、フィガロは微かに感じていた違和感に医者らしく向き合おうとした。けれど答えはすぐにわかった。布団を引いたときに枕元に置かれた賢者の書に気づき、持ち上げた瞬間に理解した。
    「……ああ、彼女か」
     賢者の書に触れた途端、まるで水の中に飛び込んだかのように強い気配に包まれた。その気配があまりにも濃かったため、フィガロの脳裏には自然と一人の魔女が思い出された。昔、魔法舎で話したことがある若い魔女だった。
     あれはスノウとホワイトに頼まれていた荷物を魔法舎に届けたときのことだ。談話室で双子と話をしていると、その魔女が紅茶を入れてくれた。スカイブルーの幼さの残る瞳に、ミルクティー色のふわりと広がる長い髪の大人しそうな子だった。声をかけると、すかさずスノウとホワイトがフィガロを制した。
    「これこれフィガロや、口説こうとしても無駄じゃぞ」
    「その子は賢者の恋人じゃからな」
     へぇとフィガロが応えるのと、彼女の頬がパッと赤く染まるのは同時だった。どうやら双子の冗談ではないらしい。
    「賢者のね……」
     異世界からやって来るという賢者の存在は、賢者の魔法使いでなくとも長く続く歴史の一部として知っていた。だからこそ、二言目には率直な疑問を口にしていた。「不毛じゃない?」と。
    「賢者って突然変わるんだよね?しかも記憶も残らないのなら、どうしてそんな人間とわざわざ恋人になったんだい?」
    「もー、フィガロちゃんってば情緒に欠けてるんだから」
    「若い子らの恋に水を差すでない」
    「そういうわけでは……お二人は不思議じゃないんですか?添い遂げることもできなければ、覚えておくこともできない。必ず別れが来るのに、恋仲になる必要がありますかね……」
     もちろん普通の恋人にも夫婦にも別れはある。いつか恋人が他の人を好きになるかもしれない、死に別れるかもしれないと思いながらともにいるのは、それだけでも苦痛だろう。しかし相手が賢者では、別れはもっと短期間に、そして確定的にやってくる。「かもしれない」ではなく、「近いうちに必ず」なのだ。そんな恐れに耐えながら過ごしても、相手の顔さえ忘れてしまう。
     失うとわかっていて、どうして愛せるのだろう。
    「泣かせてしまっても我らは知らぬぞ」
    「ちゃんと自分で何とかするのじゃぞ」
     スノウとホワイトが呆れて他人のふりをし始めた。そんなに傷付けるようなことを言っただろうかとフィガロは思いつつ、彼女が北の魔法使いであったならばもう少し言葉を選んでいたかもしれないとも思う。彼女の澄んだ青い瞳から雨粒のように涙が落ちるのは、確かに少し面倒だと考え直し、軽く咳払いをして魔女に向き直った。
     しかし彼女は泣いていなかった。怒りもしていなかった。むしろ先ほどよりも緊張の解けた様子でフィガロを真っ直ぐに見つめ、柔らかな笑みを返した。
    「仕方ないです」
     その声音にも強がりや暗い響きはなく、どこか微笑みを音にしたような明るさがあった。彼女はフィガロよりも何百年も年若いのに、その瞬間だけうんと年上に見えた。
    「……仕方ない?」
     彼女の言葉を繰り返しただけだったのに、なぜか全く違う音を発したような妙な違和感を覚えた。違和感の正体を探ろうと魔女を見るけれど、彼女は幼子でも見守るかのようにただ静かに微笑んで、それ以上は何も言わなかった。談話室に差し込む穏やかな陽射しの中、窓の向こう側で鳥が羽ばたき、その影がすっと彼女を撫でていった。
     彼女と話したのは、その一度きり。それからしばらくして再び魔法舎を訪れる機会があったけれど、すでに魔女の姿はなかった。あの会話から数年後のことだったのか、もっとずっと時間が経ってからのことだったのか、今はもう思い出せない。
    「こんなところでまた会うとはね」
     賢者の書のページに手のひらを這わせると、彼女の気配がより強く感じられた。何度も魔法をかけた形跡もうかがえる。染みついた感情が、手のひらを通して伝わってくる。まるで触れる手を握り返してくるかのように。
    「なるほどね」
     決して明るいものだけではないそれらの感情は、晶が悩んでいた理由に思い至らせる。どこかでこの賢者の書について知ったのだろう。悲恋とも呼べる二人の境遇に自らを重ねて見たとしてもおかしな話ではない。元来優しい性格の彼ならば、当たり前のようにそうするのだろう。そしてこの二人のようにはならないと決めたのだ。
     「仕方ないです」と言った魔女の微笑みを、つい先ほどまですっかり忘れていたその答えを思い出す。当時のフィガロは彼女の言葉を「記憶を失ってしまうのは仕方がない」という諦めの意味で受け取った。結末が決まっているのはどうしようもないけれど、その分今を楽しんでいるのだと彼女は言いたかったのだろうと、そんなところだろうと思い、忘れた。ありきたりな理想は理解できるけれど心に留めておくほどのことではなかった。
     けれど今なら、彼女の微笑みに込められた気持ちを見落としていたことがわかる。決して暗いものではなかったそれは、諦めでも、今がよければそれでいいという楽観でもなかったのだ。
     賢者の書に残された彼女の気配には、あの頃の面影は薄い。この書に触れただけの魔法使いならば、フィガロが抱いた大人しそうな印象とは異なった人物像を作り上げるかもしれない。何重にも施された魔法を憐れに思うか、執着だと嫌悪するかはそれぞれだろう。
     フィガロは賢者の書を元の場所に戻して、窓の方に進みかけていた足先を晶の眠るベッドへと向け直した。無防備に眠る横顔に自然と笑みを浮かべ、起こさないように小さく語りかける。
    「君に会いたくなって帰ってきたって言ったけど、正確には、君に訊きたいことがあったから帰ってきたんだ」
     そう言って、フィガロは今日の出来事を思い返した。中庭から窓を越えて微かに漂ってくる植物の香りが、夕日に照らされて匂い立つ南の国の緑を連想させる。今日訪れた家にもきれいに整えられた庭があり、室内には大小様々な花が飾られていた。
     その家には高齢の夫婦が住んでおり、二人の息子も結婚して近所で暮らしている。高齢なこともあり、フィガロは往診のために何度も訪れていて、親しくしている家庭でもあった。数年前から妻は体を悪くして寝たきりとなり、そのうち夫は物忘れが増えて、家族の記憶があやふやになってしまった。ともにいる女性は妻ではなく友人だと思っており、息子のことも気にかけてくれる親切なご近所さんだと認識している。妻も息子も夫に合わせて演じるようになったために、寂しさはあれど穏やかな日々を送っていた。
     そんな妻から、会いたいので来てもらえないだろうかという手紙が魔法舎に届いた。南の国に向かったフィガロを、彼女は以前よりもやつれた頬で微笑んで迎えた。顔を合わせた瞬間に死期が迫っていることはフィガロにも感じられたが、彼女自身もわかっているようだった。
    「やぁ。手紙をありがとう。久しく会えなくて悪かったね」
    「いいえ。不思議と体調は悪くはないのよ。もう足掻くのをやめたのかもしれないわね」
     彼女の言う通り、持病よりも老衰によるもののようだ。死への道のりを苦しむことなく歩めるのなら、それは悪いことではないように思えた。それは彼女も同じ気持ちであり、治療を望んでフィガロを呼び出したのではなかった。ただ一つ、彼女はフィガロに願いを伝えたかったのだ。
    「死ぬことはあまり怖くないわ。ただ私は、あの人が私のことを忘れたままなのが、とても寂しいの」
     すっと視線を上げた先、花瓶に花を生けていた夫がこちらに気づいて手を挙げた。親しい者に見せるあたたかな笑みは、それでも架空の友人に与えられたものだ。つい手に取った花を贈りたくなってしまうような、妻へ込められる愛情の息吹は感じられない。
    「……私はあの人の妻として死にたいわ。最期の言葉は夫婦としてのものであってほしいの。だから先生、あの人の記憶を戻してもらえないかしら。家族のことだけでもいいの。魔法使いなら、そんな夢みたいなことも可能なのでしょう」
     それが彼女の願いだった。病気が見つかったときも、苦い薬をいくつも飲まなければならなくなったときも、嫌な顔をせずに受け入れてきた彼女が唯一フィガロに言ったわがままだった。どれだけ悩み、重い決意を持って文をしたためたのか容易に想像できた。
    「でも俺は彼女に言ったんだ」
     眠る晶を見つめながら、フィガロは彼女に伝えた台詞をそのまま繰り返した。
    「記憶を戻すことはできる。けれど、君のことを思い出した彼は、一人の友人ではなく、とても愛した相手を失うことになる。君が亡き後、彼にとってどちらの方が悲しみが深いのかな。記憶を戻さないことも、愛することの一つだと俺は思うよ」
     そう言って、一晩考えてみてほしいと彼女には時間を与え、家を後にした。それからついでに他の患者の家を訪ねて、変わりがないかを確認し、診療所へと向かった。
     診療所で一泊し、翌日に彼女の答え次第で仕事をしてから魔法舎に戻ろうと考えていた。けれど中央の国よりも星のよく見える夜空を眺めているうちに、晶ならどうするのだろうという疑問が頭をよぎった。一度思いつくとその答えを彼の声で聞きたくなって、日付が変わる頃に中央の国へと発った。
    「……結局君に問いかけることはできなかったけれど、答えを知ることはできたな。君は、忘れたままであってほしいと願うんだね」
     今さら晶を傷つけるような質問をしようとしていたのだと気づいた。晶は彼女と同じ立場だ。この世界の人々を残して、去ってしまう側の人間なのだ。そして自分は夫と同じで、置き去りにされてしまう。
    「俺は君が選んだものと同じことを、彼女に言ったはずなのにね……」
     忘れたままの方が悲しまないと言ったはずなのに。晶が同じ選択をしたことを、無責任にも、寂しく思っている。
     手のひらに薄く残る、賢者の書に染み付いた魔女の気配。幸せを願った跡、記憶を取り戻そうとした跡、会いたいと涙した跡が、無数に重なった星が輝く夜空のように、切実に刻み込まれていた。
     晶はフィガロにこの魔女のようになってほしくないと願ったのだろうけれど、フィガロ自身は”悪くないな”と思った。この魔女のような有様になってしまうことを、賢者の書に縋る未来を。
     そして自分が何を恐れ、あの日の告白をそれ以上発展させなかったのか、その理由を確かな形で知った。
    「……俺は君を愛した気持ちまでも失ってしまうことが怖かったんだ」
     賢者の顔も名前も忘れたならば、何に恋をしていたのかもわからなくなるだろう。魅力を感じなくなるなんてものじゃない。降り積もった雪の下に何があったのかわからなくなってしまうように、心の中から失われていく。死別よりも奪われるものはきっと多い。
     そんな風に晶を愛した日々も時間も、費やした気持ちまでもどうでもよいものになってしまうことが怖かった。だから見て見ぬふりをして過ごしていた。晶の思いに薄々感づいていながらも、自ら渡すことも受け取ることも避けていた。
     でももし、あの魔女のようになれるのならば。顔も名前も忘れてしまっても、愛する気持ちを失わないのであれば。
    「――忘れて気楽に過ごすよりも、悲嘆に暮れる方がずっといい」
     自分の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。発した言葉は空気に溶けて、形に残らなかった思いを目で追うようにフィガロは茫然と宙を見つめる。こんなに長く生きてきたのに、まだ変われることがあるのかと感動すら覚えた。賢者との恋を不毛だと評した当時の自分とは、晶と出会ったときから決定的に違うのだ。あの頃の自分ならば、告白を聞き間違いだと断じられたことにムッとして口づけなんてしない。もう答えなんて、とっくにはっきりしていたのだ。
     フィガロは空中に手を伸ばして呪文を唱えた。
    「行ってくるよ、賢者様……待っててね」
     自然の柔らかさとは違う人工的な風を頬に受け、風とともに出現した箒を手に取ると、一歩踏み出した。窓辺から外にするりと身軽に飛び降りて箒の枝に降り立ち、肩越しに振り返り、もう一度呪文を唱えた。晶の部屋のカーテンと窓が手を振るように閉じていくのを確かめて、明るい予感を抱きながら、夜明けへと進む空気を胸一杯に吸い込んだ。



    「おかえりなさいませ、フィガロ様」
     真上を指していた時計の針が少し傾き始めた頃。南の国から戻ってきたフィガロが魔法舎の広間に入ってきたところで、シャイロックが声をかけた。
    「ただいま、シャイロック。君は今起きたところ?おはよう」
    「正解です。昨夜は可愛いお客様がいらっしゃいましたので、つい夜更かしをしてしまいました」
    「俺もだよ」
    「まぁ、そうですか」
     くすりと鼻歌でも歌うように微笑むシャイロックに、フィガロも他意なく笑みで返す。シャイロックはゆったりと腕を上げて、パイプの先で廊下を指し示した。
    「先ほど図書室に賢者様の姿がありました。ご帰館を報告されては?」
    「ありがとう。そうするよ」
     踏み出す足とともにそう返して、フィガロは図書室へと歩みを進めた。晶がどんな顔をして迎えてくれるのか、あえて想像しないように努めながら。たぶん、どんな想像も本物には負けてしまうのだから。
     図書室にたどり着くと、いくつも立ち並ぶ書棚の中でも迷わずに賢者の書が保管されている一角へと向かった。予想通り晶はそこにいて、細い肩を丸めて背中を小さくしていた。普段は見かけないほどあからさまに落ち込んでいる背中は珍しかったけれど、フィガロの足音に気づいたのかすぐにしゃんと伸びた。
    「フィガロ……!」
     振り返り、フィガロの姿を映した瞳はパッと明るい笑みを咲かせた。しかしそんな自らを咎めるように、大切そうに持っていた賢者の書を胸に押し当て強く抱き直し、表情を硬くする。
    「お、おかえりなさい」
    「ただいま」
     フィガロの目を避けるようにうつむく晶は、そんな態度を誤魔化そうと本棚に目を走らせる。いかにも仕事をしていますといった様子で忙しなく書棚の空いたスペースを見つけると、手に持っていた賢者の書を滑り込ませた。その書から手を離す刹那、指先が寂しさを滲ませて背表紙をすっと撫でていった。
    「ねぇ賢者様」
    「は、はい」
    「この二日間、俺は医者の方の仕事をしてきたんだ」
    「そうなんですね。お疲れ様でした」
     後ろめたさから声は僅かに沈んでいるけれど律儀に返事をする晶に、フィガロは一歩距離を詰める。すると晶の両手がぎゅっと握られた。構わず、フィガロは続ける。
    「治療の一環で忘れた記憶を思い出させる魔法を使ったんだけど、かけた相手はすごく喜んだんだ。忘れたままでいなくて良かったって、俺に感謝してた」
    「……そう、ですか」
     晶の声が一段と小さくなっていく。まるでいじめているみたいだとフィガロは思いながら、あながち間違いではないなと晶に隠れて口元だけで微笑んだ。なぜなら今から、晶の優しさに背くのだから。
    「それで、俺にもなかったことにしたくない思い出があるなって思ったんだ。賢者様、わかる?」
    「え?えっと」
     顔を近づけて耳のそばで囁けば、音に誘われるようにして晶が顔を上げた。その隙に指で彼の顎を押し上げ、何かを言おうとした口を唇で塞いだ。驚きに大きくなる晶の瞳を間近に見つめ、逃げられる前に腰を抱いて引き寄せる。昨夜のものよりはずっと軽い口づけをして、フィガロは唇を離すと晶に問いかけた。
    「これ、覚えてる?」
     答えはすぐには返ってこなかった。晶が面白いくらいに狼狽えていたからだ。見開いた瞳で瞬きを何度も繰り返して、言葉にならないまま口元をもにょもにょと動かしている。
    「忘れちゃった?もっと激しくしたら思い出すかな」
    「えっ、や、でも」
     あれは夢で、と、怖気付いて音にはならなかったけれど、フィガロは唇の動きで晶の言いたいことを読み取ることができた。晶自身も押し付けられた口づけの感触に思い当たるところは確かにあるようで、困惑に揺れる瞳はそのままだけれど、唇は艶やかな色を帯びてそっと閉じられた。
     触れることを迷い、一人で固く握ろうとする指先を引き寄せて手を取るような心地で、フィガロは言い聞かせる。
    「君に会いたくなって帰ってきたって言ったでしょ」
    「……い、言って、ました」
    「騙すようなことをしてごめんね」
    「じゃあ、あれは……」
     晶の体からへたりと力が抜けていく。探し物が見つかったばかりのような、安堵の中に不安の名残があるような、なんとも言えない表情から真剣に悩んでくれていたことが伝わってきて、そんな顔を向けられているフィガロは思わず微笑んでしまった。
     見つめる晶の瞳には海の底から昇ってきた泡のように、色んな思考が浮かんでは消えていく。仄暗い気持ちの底から、昨夜の決意が光に染まる海面を見上げている。不安も後悔も罪悪感も、晶をなおも責め続けているけれど、瞳に浮かぶ感情に喜びが確かに存在することをフィガロは見つけられた。
     その小さな輝きを抱きしめるように晶の体を引き寄せて、フィガロは明るい微笑みを唇にのせたまま囁きかけた。
    「あのね、賢者様。俺も、もうなかったことになんてしないよ。だからそれでいいんだよ」
     ――これから先に、どれ程の悲しみが待っていようとも。
     「仕方ないです」と、そう言った魔女の微笑みと、今の自分は同じ顔で笑っているのだろうなと思った。本当に仕方がないねと、心の中で彼女に返す。オズでも敵わない大きな力に記憶を奪われてしまうというのに、無様に恋なんてしてさ。呆れて笑ってしまうよ。
     でも、わかっていても惹かれてしまう。異世界からやって来てくれた彼らのことを、世界を動かす力にも負けないくらい大きな衝動に駆られて、どうしようもなく、愛してしまうのだろうね。
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