Toxic ----------暖かい光が差し込む病室。
鉛筆が紙の上を走る音。
黒鉛が時に軽く、時に重く、紙の上で足音を鳴らす。
コンコンと軽く扉が叩かれる。
その瞬間、僕はこの世界の住人になる。
開かれた扉の先には、心の底から愛する家族の姿があった。
「おにいちゃん!おみまいにきたよ!」
幼い少女が笑みをこぼす。
「こら、病院ではしずかにって約束したでしょ?」
「まぁまぁ、この子も大好きなお兄ちゃんに会えて嬉しいんだよ」
優しく諫める母さんの声にそう答える父さんの声。
「父さん、母さん、それにえりな。お見舞いありがとうね」
そう彼は言うと、駆け寄ってきた妹の頭を撫でる。
「えへへ~おにいちゃん、なにおえかきしてたの?」
「今日はこれ」
そう言って先ほどまで描いていたものを見せた。
「すごい!じょうず!」
「あはは、そんなことないよ」
「将来は画家さんかしら?」
「いや、優緋は頭が良いから学者さんかもしれないよ?」
「それは言い過ぎだよ、父さん」
そんな、何の変哲も無いやりとり。
僕は、満足していた。
たとえ、健康な子供の日常が無くとも、こうやって家族が見舞いに来てくれる。
たまに友人も来てくれて、その事に確かな幸せを感じていた。
これが僕の幸せだ。
大好きな家族。
いつまでも一緒に過ごせる。
時には妹と一緒に絵を描いて。
元気なときは病院の外の桜を見たりして。
本当にそれだけで良かったんだ。
でも、それは壊れてしまった。両親が離婚した。
それは、僕が大好きな家族が離れ離れになることを意味していた。
僕は父さんと一緒に暮らすことになった。
父さんは離婚に少なからずショックを受けていた。その姿を見るのが苦しくて。
「大丈夫だよ、父さん。母さんや妹がいなくても、僕は父さんと一緒で幸せだから。」
そう、自分に嘘をつく。悲しいけど、苦しいけど、父さんが悲しむのはもっと嫌だから。
「ありがとう、優緋。父さんにはお前しかいないよ。」
そう言って僕を抱きしめる父さんからは、今までしなかった煙の香りがした。
それから僕はあの幸せな記憶に縋るように絵を描き続けた。
絵を描けば、何か変わるかもしれないと思っていた。
少しでもあの時の幸せを感じていたかった。
それでも、描き終えて襲うのは、逃れようのない現実でしかない。
確かに、父さんに見せれば、あの頃のように褒めてくれた。
「優緋はやっぱり絵がうまいな。流石、父さんの子だ。」
そう、誇らしいとでも言うかのように。
でも、足りない。
母さんがいない。
妹がいない。
家族4人揃って初めて成立する幸せなのだと、自覚することしかできなかった。
父さんはたばこをよく吸うようになった。
僕はそれが悲しかった。
家族4人で過ごしていたなら、感じることのなかった香り。
あの頃はもっとあたたかで柔らかい、幸せの香りに包まれていた。
そう思うと今の自分が酷く惨めに思えた。
「はぁ、あんな女、別れて正解だったんだ。俺が頑張って稼いでるのに感謝も無しにグチグチグチグチ小言ばっかり言ってくる。」
父さんは離婚の悲しみが過ぎ去ると、今の自分を肯定するように母さんのことを悪く言った。息苦しい。どうして愛していた人をそんなにけなせるのだろうか。
「優緋は父さんの味方だよな?」
そう聞いてくる声に、どう答えれば良いのだろうか。
僕は、父さんも母さんも、妹も大好きなんだ!
でも、それを言葉にしたら。
言葉にしてしまったら、父さんがひとりぼっちになってしまうような気がした。
だから、僕は……
「大丈夫だよ、父さん」
と言うことしかできなかった。
そんな毎日を過ごしていたからだろうか。
黒くドロドロとしたものが自分の中に渦巻くのを感じた。
どれだけ息を吸っても酸素が足りない様な気がする。
苦しくて苦しくて、僕はその暗い気持ちを絵にして吐き出していた。
吐き出しては絵を捨て、また吐き出して。
こんな暗い絵は、父さんにも見せられない。
誰にも見せてはいけない絵なんだ。
それに、描いても問題の解決にはならない。
僕の生活には母さんも妹もいないし、父さんの愚痴が聞こえるのが日常だ。
吐き出しても吐き出しても、また直ぐに戻ってしまう。
それが嫌で、今度は努めて綺麗な絵を描こうとした。
「そういえば、優緋は進路どうしたいんだ?やっぱり美大か?」
「うん、そうしようかなって思ってる。本当は俺から話して、ちゃんとお願いするべきなのに、ごめんなさい。」
「なに、謝らなくても良いんだ。それに父さんは優緋の描く絵が大好きだからな。」
そう笑顔で父さんは言う。
確かに、僕は絵を描くこと自体は好きだけど、少しだけ息苦しさを感じてもいた。
美術部に入って、技術はどれだけ上がっても、何かが足りなかった。
そんな僕でも何とか入学はできたのだけれども。
入学を機に、僕は一人暮らしをすることを決めた。
父さんを一人にするのは少し気にかかったが、あの空間から逃げ出したかった。
一人暮らしをしたいと告げると、父さんは
「寂しくなるな」
と言って、優しく抱きしめてくれた。
「頑張るんだぞ」
その父さんの言葉に僕も寂しさを覚えた。
大学でも相変わらず、自分の暗い部分は一切表に出すことなく、綺麗に生きていた。
しかし、課題で描いた作品はどれも評価はいまいちであった。
「うーん……技術は確かにあるんですけどねぇ。これが朴元さんなんですか?」
決まってその評価になる。僕は僕が表に出している自分のように、色使いが綺麗な作品を描いていた。あるとき、魔が差してあの、黒くてドロドロとしたものを先生に提出したことがあった。すると先生は
「なるほど……これが朴元さんなんですね。貴方という人の思いが見える絵です。」
と意外にも今までもらえなかった評価がもらえた。
もしかしたらこんなに暗くて、汚い自分を見せても良いのかもしれない。
そう思うようになっていった僕は、少しずつ、暗い自分を表現した絵を出していった。
あるとき、廊下を歩いていると友達の話し声が聞こえた。
「なにあれ?精神病んでんの?」
「いつも明るいのに意外」
「まぁ見て気持ちの良いものではないよねぇ」
それを聞いて、僕はやっぱり見せちゃいけないんだと思った。
友達の言葉から、まるで機械がするように、暗い自分を表に出すのは行けないことだと学習していく。それじゃあ、僕って何なんだろう。
そうして、見かけだけの絵を描き続け、僕は絵を評価されることが嫌になっていった。
もう、自分の絵を見せるという行為そのものが、僕にとっては苦痛でしかなかった。
おかしいな。僕は僕の絵を見てもらうのが好きだったはずなのに。
もう、疲れた。本当の自分を見せても見せなくても、いい顔をされない。
そう思ったときに、なんとなくとっていた教員免許を思い出した。
学校の先生なら、生徒に自分の絵を見せる機会も少ない。
公務員であるから、安定して収入も入る。
これほど良い職業はないだろう。
そんな邪な理由で僕は美術教員になった。
教員になって、僕は楽しく過ごしていた。
元気で明るくて、でも不安定な彼らには、無限の可能性がある。
彼らの個性を殺さず、如何に伸ばしていくか。
彼らと接すると僕にも新たな学びがあった。
そんな、教員としての日常を過ごしているとき、僕は再会した。
僕の幸せな記憶から成長した姿ではあったが、確かに妹だ。
僕は嬉しかった。
またあの頃みたいに、仲の良い兄妹になれると思っていた。
冷静に考えたらそうならないことぐらい分かったはずなのに。
僕と彼女が接する機会があるとすれば、この「中学校」という職場しかない。
それ以外があってはならない。
教員が一生徒に特別に入れ込むのは間違っている。
僕自身の為にも、そして妹を守るためにも、僕は僕の感情を優先してはいけない。
だから、必然的に、僕と彼女が実の兄妹であることは二人だけの秘密になった。
そうあるべきではあるとは頭では理解できていても、実際に他人のように接されるのは辛かった。
仕方ないんだ。これが彼女のためなんだ。
他人を装って学校生活を送っていくうちに、少し分かったことがあった。
妹は土師先生が担任のクラスでも、旭日先生が顧問の部活でも、心地悪そうにしていたこと。
そして、遮先生のいる保健室へと足繁く通っていたこと。
これらのことから、僕は、妹が何かしらの嫌がらせ、もしくはいじめに相当するようなことを受けているのではないかと考えた。
でも、妹は、僕には何も言ってくれなかった。
学校側も、それを問題としているようには見えない。
土師先生は、旭日先生は気づいているのだろうか。
本当は僕も妹の問題をどうにか解決したい。
でも、ただの「他人でしかない」僕は、情報共有無しに動くのは危ないのではないのだろうか。
僕のその判断が、彼女の立場を危ういものにしないのだろうか。
そう考えてしまうと、学校全体として対応するという方針ができるまで待った方が良いと考えた。
そう、考えてしまったんだ。
結局、僕の妹は死んでしまった。
どうして彼女が死ななきゃいけなかったの?
どうして彼女が死ぬ前に手を打てなかったの?
土師先生も、他の先生に相談して対応しようと思わなかったの?
旭日先生も、生徒と仲良くあろうとして、彼女が心地悪そうにしていたのに気づかなかったの?
遮先生だって、二人に情報を提供できていたの?
いや、でも……
この学校の中で一番ふがいないのは僕なんだ。
妹は、血の繋がった兄妹であるにも関わらず、僕には一切相談してくれなかった。
僕は、実の妹にすら「信頼」してもらえなかったんだ……
そりゃそうだ。
僕は、苦しんでいると分かっているのにも関わらずに、大切な妹を助けなかった。
助けようと動けたはずなんだ。
自分から土師先生や旭日先生に働きかけて、
「美影さん、苦しそうだけど大丈夫ですか?」
そう言うだけでも未来は変わっていたかもしれない。
ああ苦しい。
でも、僕如きが苦しいなんて言うのもおこがましい。
彼女を苦しめた、彼女を殺した全てが憎い。
それ以上に、自分のふがいなさに腹が立つ。
あの幸せな時間は帰ってこない。
家族4人で幸せに過ごすはずだった時間もとうの昔に絶たれている。
せめて、前みたいな仲の良い兄妹になりたかったというわずかな希望もない。
彼女がこれから歩むはずであった明るい未来は永遠に絶たれてしまった。
憎い。悲しい。苦しい。
ああ、こんなにも僕は醜くて。
こんなにも僕は汚くて。
猛毒のような激情を抱え込んでいるのに。
綺麗な自分を演じるしかできなくて。
僕はそれを表現できない。
表現して、否定されるのが怖いんだ。
散々、「皆が嫌な思いをするから」とかなんとかいっておいて。
その実、ただ「自分が傷つきたくない」だけなんだ!
はは……
もう、涙の流し方も忘れてしまった。
だから僕は。
彼女が生きていたときの秘密を今日も守って。
僕ではない「何か」を今日も演じる。
そう生きてきたから。
その生き方しか知らないから。
今日も「罪」を背負って生きていく。