灼熱のリンデン 次の日レイモンドはいつもの時間に起きてこなかった。また蹴飛ばして起こしてやろうかと思ったのだが、シルキィに止められる。
「レイちゃん具合悪いみたい。またエルフ風邪かも」
「今年もかよ、そういえば昨日ちょっと寒かったな」
「裸で宿題手伝わせたの良くなかったなあ……なんか淫魔だけで人間界に暮らしてると感覚おかしくなっちゃうって感じする」
こう言うのが苦手でサキュバス界から出たはずなのにね、とシルキィがしょんぼりする。
シルキィは元々淫魔の性に奔放なところが得意でなかったサキュバスで、人間界で過ごすうちにレイモンドと恋仲になっていた。そしてそれをアルベリオが催眠で歪めて奪った。アルベリオに価値観を寄せているので、シルキィは前よりずっとサキュバスらしくなった。
娘は人間の友達と遊びに行っている。馬鹿丸出しで射精の許可を強請るみっともないエルフの声が聞こえないのは静かで気持ち悪かった。
わたし看病してくるね、とシルキィが席を立ち、アルベリオはぽつんと取り残された。朝食を食べ終わった後、しばらくぼんやりしていたが、やがておもむろに立ち上がり、自室に戻ろうとする。
レイモンドにあてがっている下男用の部屋からシルキィの声が聞こえてくる。くるしい? ご飯食べられる?
(あー、クソ)
今日は気持ちが……優しくしてください。昨日そんなことを言っていたのに完全スルーしてまたいじめ過ぎてしまった。口ごたえが嫌いなアルベリオにそんなことを言うこと自体珍しかったのに。扉を開けると案の定ベッドの上でぐったりしているレイモンドがいた。熱っぽい顔をこちらに向けている。
「ああ、旦那様……」
弱々しく呟く声を無視して額に手を当てる。熱い。かなり高そうだ。
「おい、大丈夫なのか?」
「はい……。ただの風邪です。寝ていれば治ります」
「……」
レイモンドは時々正気なんじゃないかと思える時がある。頭の中で歪めた認識が居場所を取り合っているのかも知れない。初めはさっさと殺そうと思っていたから後のことを考えずいろんな催眠を重ねがけしてしまったから負担が大きいのだろうか。
「あの……お嬢様にうつすといけないので部屋に入らないように伝えていただけませんか?」
「……分かった」
そう言って踵を返すとレイモンドが呼び止めた。振り返ると少し困ったような顔で微笑んでいた。
「ありがとうございます、旦那様」
「……別にお前のためじゃないぞ」
「それでも嬉しいのです。私はもう死んでもいいくらい幸せですよ」
そう言うとすぐに咳き込み始める。
「寒い? 毛布一枚足そうか……」
シルキィが気遣わしげに聞いているのを尻目に部屋から出た。
エルフのレイモンド。憎い恋敵。馬鹿な奴隷。可哀想な奴。そのどれもが今の自分の彼への気持ちには当てはまらなくてなんだか気味が悪い。あいつのせいで俺の人生めちゃくちゃだ。
気づくとアルベリオはレイモンドのことばかり考えていた。それを意識して自覚するのは初めてだった。
「じゃあ、行って来るね!」
娘は今日も元気よく出かけていく。今日は近所の子たちと遊んで来るらしい。最近はよく人と遊ぶようになっていた。人間社会に慣れて来たのか、それとも人間という存在に興味が出てきたのか。まあいいことだ。娘にも友達が必要だ。男なんて連れてきた日にはどうしようかと思ったが、今のところ問題はないようだ。いや、家に特大のがいるからそれどころじゃないのだが。
「俺なんか人間ぽくなってきたかも」
「わたしもそうだったよ。きっと環境だよ」
シルキィは嬉しそうな表情で言った。
「でもわたしアルベリオと暮らすようになってからだんだんサキュバスっぽくなって来てる気がする。アルベリオやレイちゃんとどんなえっちなことして遊ぼうかなっていつも考えちゃう」
そう言いながら指先で胸の谷間につうっと線を引く。アルベリオはその仕草を見て思わず唾を飲み込んだ。こいつは本当に油断ならない女だと思う。
「わたしもそろそろ行かなきゃ! レイちゃんのお見舞いしてあげてね!」
シルキィはレイモンドに飲ませる薬を買いに行くようだ。
「ああ、分かってる。気をつけて行けよ」
「うん、ありがと」
シルキィを見送るとアルベリオはレイモンドの部屋に向かった。
扉を開けると相変わらずレイモンドはぐったりとしていた。
「旦那様、すみません。ご迷惑をおかけします」
「いいんだよ。気にするな」
アルベリオはベッドに腰掛け、額に手を当てた。やっぱり熱い。
「なあ……お前、具合悪かったならもっとはっきり言えよ。昨日はまあ? ちょっとは悪かったって思ってるんだから」
「いえ、あれは私が悪かったんです。旦那様がしてくださることに期待してしまったから」
レイモンドは熱に浮かされた様子でふわっと笑った。
「マゾ豚が」
「はい、私はドMの変態です。どうか罵ってください」
「うぜぇ」
「ありがとうございます」
「気持ち悪い」
「ありがとうございます」
「死ね」
「ありがとうございます」
「ああああああ、もう、うざい」
「ありがとうございます」
「うざすぎる……」
「ありがとうございます」
「……あー、もう」
レイモンドはにこにことしている。気持ちの悪い笑顔だ。こんな奴に自分はずっと振り回されてきたのだ。
「お前、なんでそんなにうれしそうなんだよ」
「だって、旦那様に構っていただけることが嬉しいのです。お優しい旦那様、レイのために時間を割いていただき、感謝いたします」
「別にお前のためじゃないけど」
「はい、承知しております。レイのためではないことは百も承知です。それでもレイにとってはそれがすべてなんですよ。この気持ちは永遠に変わらないと思います。旦那様には分かりませんよね。あなたにとってはすべて自分の快楽のための行為なのに、それを自分に向けられたことがどれほど嬉しくて幸せなのかなんて」
ああ。俺はなんて催眠がうまいんだろう……。アルベリオは命を投げ出しかねないレイモンドの隷属の態度を苦々しく眺めた。
「旦那様、私、今日は気分がいいのです。お願いを聞いてくれませんか?」
「……なんだ? 言ってみろよ」
「頭を撫でていただけないでしょうか。昨日から旦那様にあまり触っていただいていないので寂しかったんです」
この触るというのはほぼ殴るや犯すと同義だ。レイモンドは殴られたり蹴られたりすることを喜ぶ性質だが、それだけでは飽き足らずこうして甘えたがることがある。もちろん無視はできない。
「……仕方ねぇなぁ」
アルベリオはおずおずと手を伸ばし、優しくレイモンドの髪を撫で始めた。
「ありがとうございます、旦那様……」
レイモンドは目を閉じ、気持ちよさそうにしている。
「旦那様、キスをしていただいてもよろしいですか。唇にしていただけると最高なのですが、それは旦那様のお好みではありませんよね」
「急に調子に乗って来たな……俺はお前にキスして得することなんもねえんだぞ。図々しい奴隷だな」
「はい、私は旦那様の所有物です。なんでもします。好きにしてくださって結構ですよ」
「じゃあ、今すぐ死ねよ」
「旦那様がそう仰るなら喜んで」
レイモンドは心底幸せそうに微笑んだ。その顔はあまりにも美しく、シルキィの心を射止めたのはこの顔か、とアルベリオは思った。
「……ばかやろう」
アルベリオは少し悔しくなり、思わず悪態をつく。
「はい、レイは愚か者です」
「そうやっていつもいつも馬鹿みたいに笑ってればいいんだよ」
「はい、レイはいつも笑いたいときに笑うようにしています」
「そうか。俺も好きなようにすることにするよ。なんだ? キスか? くだらねえこと言いやがって」
アルベリオはレイモンドに顔を近づける。レイモンドは目を閉じた。アルベリオは舌打ちをする。本当にこいつはどうしようもないクソエルフだ。
「あの、口にはしてくれないのでしょうか」
「お前がして欲しいところはそこなのか」
「少しふざけ過ぎました。風邪をうつしたくないので私の願望としては、ここなんですけれど」
レイモンドは自分の頬を指差した。アルベリオは再び舌打ちをして、レイモンドの顔に手を伸ばす。
「おい、動くなよ」
そしてそっと触れるだけのキスをした。ほんの数秒の出来事だった。しかしレイモンドにとっては長い時間のように感じられた。
「これでいいだろう? 満足か?」
「はい、ありがとうございました。とても満たされた気持ちになります」
「……そうかよっ」
アルベリオは照れ隠しに乱暴な口調で言った。
「じゃあ、俺はもう行くから、大人しく寝てろよ」
「はい、ありがとうございます。おやすみなさいませ」
アルベリオは部屋を出て扉を閉めた。そして大きく息を吐き、壁に寄りかかった。
「ああ……うぜぇ」
レイモンドに対して苛立ちを感じているはずなのに、なぜか胸がざわつくような気持ちになった。なぜだ。どうして自分はこんなにも落ち着かない気持ちになっているのだ。この感情は一体何なのだ。
アルベリオはその答えを見つけられずにいた。たまらなくなって、扉の向こうに叫ぶ。
「オイ! 治ったら血の小便止まらなくなるくらいいじめてやるからな!!」
「はい、お待ちしております」
相変わらずの返事を聞いて、アルベリオは足早にその場を去った。
「ああ……旦那様……」
一人残されたレイモンドは幸福感に包まれていた。