曇天、霹靂。嵐と晴間 いつだって、死んでこいと言われ続けていた。
湿る夏の、帳も降り切って星も霞んで見える深い夜。数人分の足音が慌ただしく路地裏を打ち鳴らす。時折肉を打つ音、引き金を引いた後の音、肉を裂く音が混ざり合って嫌な余韻を残す。この町でその手の稼業の者達が起こす静かな抗争。表通りから一本奥、そこで繰り広げられる血で血を洗う争いに気付く者は多くない。
政もそんな路地裏で鎬を削る内の一人だ。先陣切って敵対する群れの中に突っ込んでいく、所謂鉄砲玉と言う名前の付いた捨て駒。居ても居なくても構わないそんな存在。けれど、それに抗うかのように毎度生きて帰ってくるものだから、最初は素直に死んでおけと恫喝していた組の人間も次第に気味悪がって血塗れ、傷だらけで戻ってくる政に声をかける者はいなくなった。
政にはこの組での記憶しかない。深い火傷を負った状態で倒れているのを拾われ、飼われていた。意識が戻った時には自分の名前も出生も分からず混乱していたような。それを名前と年だけ、自分を拾った人間に与えられてそこからはひたすら殺す事だけ叩き込まれた。最初に人を殺したのはいつだったか覚えていない。最初に死んで来いと言われたのも、覚えていない。最後に泣いたのは、逃げ出したいと思ったのはいつだったか。それすらも覚えて居られない程政はこの生き方に馴染んでいた。
今日は左脚を撃ち抜かれた。
今日は右腕を切られた。
今日は肋を三本を折られ、左耳を削ぎ落とされた。
今日は手の甲を貫かれた。その上から煙草を押し付けられた。
今日は。
今日は。
今日は。
抗争だけでなく、暴力の吐口にもされていた。自分で手当をし、浅い睡眠をとっている最中髪を掴まれ引きずり出されて殴られる。傷を抉るために爪を立てられる。呻くその声に嗤う。その組で政は年少で、底辺で、それでいてこの場に誰よりも馴染んでいた。政にとってこれが普通で、ここから出て行けば直ぐに死ぬのも理解していて、それでも漠然と死にたくなくて。けれども、いずれここの誰より早く死ぬ事を理解していた。身体の痛みはある。けれども遠くに感じるから平気だった。
彼が笑うのは、捨て駒として敵陣へと放り込まれた時だけだった。一人斬り捨て、二人撃ち殺し、三人目からは取っ組み合って斬り裂いて貫いて、ただ殺す。殺される状況で殺す。死ぬ為に来て、笑いながら生きて帰る。
楽しかった。生きている実感があった。このまま死んでしまっても良いと幼心に思っていた。同世代の子供の心理としては狂っているのだろう。けれども政は何処迄も正常だった。捨て身の抗争を遊びだと思う位には。
ある日、無造作に死に掛けた。前日の抗争から連続での遊びは、成長し切っていない政の命を寸分違わず削っていた。血を垂れ流したまま、笑いながら自分よりも大人である相手を殺す。殺し尽くしてから、ふらりと倒れた。
自分が積み上げた死体の一番上。一番新しい死体になりそうになった。視界が白む。息が浅くなる。苦しくはない。ただ、眠い。
そう言えば昨日全然寝てないなぁ、と思いながら目を閉じる。殴られたら起きればいいか。そんなことを考えていると体がふわりと浮いた気がした。
は、と目が覚める。見知らぬ天井に飛び起きると体に激痛が走った。一瞬身を固めるが慣れた痛みだと宥めすかして周りを見る。
「おう、起きたか坊主」
はて、ぼうずとは。声がした方を見ると初老の男が錆だらけのパイプ椅子に腰掛け煙草を蒸していた。そのままぼんやり見ているとお前だよお前、と政を指さす。
「ひでえ有様だったな。よく暴れたもんだ」
「……おまえじゃないし、ぼうずじゃない」
「あん? だったらなんだってんだ坊主」
「しどうまさし。えっと、じゅうさんさい」
「……ほんとかぁ? お前みたいにおぼこい十三の餓鬼なんぞ見たことねえ」
「うそじゃない。たぶん」
「多分てぇのは何だ」
「かぞえるの、にがて」
無表情にそう言った政をふむ、と無精髭を撫で付けながら値踏みするように見る。少ししてからまあ治るまで寝とけと布団に押し込めらた。
男との交流はそこから始まった。抗争に出て血だらけの政を拾っては手当をし、携帯食を食わせて話をする。政は聞かれるがままに答えた。それが一通り終わると寝ている間に路地裏に置いて置かれているのだ。時折、女を知っておけと女達と触れ合わされる。戦う事ほど興奮はしないが、終わると落ち着くので言われるがまま女を抱く。戻ると暴力と罵倒、そして抗争。政の日常に一つだけの変化。しかしそれ以上は変わらない。男はただ、死にかける政を拾いはしても掬い上げようとはしなかった。政自身もそれを望まなかったし(選択肢に出なかっただけではあるが)その逢瀬に対して特に思い入れもなかったのだ。手当されてある程度動けるようになってから放られる。そうして思うのはまだ遊べるという無邪気な感想だけだった。
男との交流は政が数えて十九の時まで続いた。
その日は組の様子が異様だった。内部の情勢が他の組織に筒抜けだ、裏切り者がいると皆一様に殺気立っていた。政だけがその重要性を理解して居なかった。
「おい、お前ここ最近鉄砲玉して帰ってくる時手当されて戻ってきてるな。誰にされてる?」
ふと、一人の構成員が政に向かってそう言った。この頃になると捨て駒の政が生きて帰ってくるのは当たり前で、けれども死んでも問題ないと言う共通認識が出来上がっていた。しかし、当初政自身がしていた粗悪な手当ではなく、彼自身が手に入れようもない新品の包帯を使われ、一人では手をつけようもない背中の部分まで手当されていることに気が付いたのだ。ああ、と政は事も何気にこう言った。
「誰かは知らんが、治してもらってる。その時色々話してるな」
お前じゃねえか! と叫んだのは誰だったか。組長コイツの処分を、と進言したのは誰だったか。しかし彼らの親玉は少し考え込んで冷たい目で政を見た。
「お前、その男ちゅうんをここへ連れてこい」
「?」
「連れてきたら後はこっちでやる。お前の最後の仕事や」
「連れてきたら殺すのか?」
「そいつの態度次第やな」
その言葉に政は少し考え込む。何を考えてるんだ、だのやっぱりこいつ裏切ってやがりますよ、だのと野次が飛ぶ。しかし政はお構いなしだった。考えて考えて、周りの熱量が爆発する寸前に、最後の一刺しを己の口で実行した。
「それは困るな。世話になったし」
その言葉と同時に組長の恫喝が飛び、周りの構成員が政へと雪崩こむ。しかし、政を拾ってきたただ一人は思わず足を止めた。
政の顔に焦りはなかった。瞳孔が開き、口が吊り上がっている。薄い、かさついた唇が何事かを形作る。
そ う か あ そ ん で く れ る の か
政の口は間違いなくそう動いた。その瞬間、なんの躊躇いもなく抜刀する。鮮血が舞い、一瞬後には悲鳴が轟いた。彼らは完全に失念して居たのだ、捨て駒なのに何度も生きて帰ってきていた政の実績を。一人を敵の群れへ放り込んでいるにも関わらず、生還してくると言う事の意味を。政が抗争を遊びだと思っている事を。
その結果が組の半壊だった。誰が思うだろうか、今迄殴り蹴り、詰り良い様に扱っても従順に従ってきた子供が自分達に刃を向けるだ等と。一般的に見ればそれは一種の逆襲劇にも取れるだろう。しかし本人にそのつもりが全くないのだ。
「お前! い、今まで面倒見てやったろ!?」
政に対して罵声を飛ばしていた構成員が唾を飛ばしながら、腱を斬られ動かなくなった足を庇うように抱え込んで叫ぶ。
「ああ。感謝している」
そう言いながら彼の首を刎ね飛ばす。
「ゆ、許してくれ! 命令、そう命令だ! お前のことはどう扱ってもいいって、叔父貴が!」
「俺のせいにすんのかテメェ!」
政を蹴り飛ばし煙草をつけた二人がお互い反対側の目と耳を失いながら罵り合う。
「許すも何も、俺は怒ってないぞ」
そう言いながら一人の喉を貫きもう一人の腹を掻っ捌く。
「やめてくれ、助けてくれ!」
政が死に掛けているのを見てなんだまだ生きて居たのかとにやにや笑いながら言い放っていた男が肩から下、腕のなくなったそこを泣き叫びながら振り回した。
「そんな状態で助からないだろ。殺してやるから安心しろ」
そう言って眉間を一突きし黙らせる。
恨んでいるのか、妬んでいるのか。捨て駒にされたのが気に食わなかったのか。でもお前は生きて居たから良いじゃないか。
怒号と断末魔の合間に響く声に政は首を傾げながら、笑いながら無邪気に問う。
「一体なんの話だ?」
そもそも考え方が違ったのだ。彼らからすれば裏切り者の排除だったが、政はただ遊んでいるだけだった。普段命令するだけの相手が揃って自分と遊んでくれている。本当にそれだけで、滅多にあることじゃないから楽しくて仕方なかっただけなのだ。だから、生き残った構成員たちが命乞いが無駄だと気付いたのは、組織の半分以上の人間が死に絶えた後だった。
政はふと、気が変わった。そうだ、あの男に会いに行こう。いつも助けられているのだからあんたが危ないと伝えなくては。
座り込み腰を抜かしている組長に「すまん、ここを抜ける。今まで世話になった」と軽く良い、死体を踏みつけ軽やかに事務所から飛び出していく。一瞬落ちた沈黙を、政を拾った幹部が破る。
「馬鹿野郎何惚けてんだ! 追え、殺せ!」
その声に我に返った構成員たちが足をもつれさせながら各々得物を手に政の後を追った。落とし前をつけさせろ、そんな今更な虚勢を張りながら。
ひょこ、と政はいつも彼が捨て置かれる路地裏にきていた。いるとは思っていない、だが彼との接点はここくらいなもので、居ないのなら人にでも聞こうと思っていた。だが、閑散とし普段人っ子一人居ない事のが多い路地裏には見覚えのない人間が大勢屯していた。手にはバッドや脇差など、どう見ても一般市民が手にしていないような物が握られている。なんだお前は、と恫喝しようとした一人を制して一人前に出た。政を拾い話をして、終われば捨てていた男だ。
「なんだお前、今日は倒れてないじゃないか」
「あんたか。話したいことが」
そこまで言い掛けた時だった。怒号を飛ばしながら政を追っていた構成員が姿を現した。男は瞠目し、やがて殺意を込めて政に視線を投げかける。
「手前ェ、ハメやがったな」
「? なんのことだ」
「惚けんじゃねえぞ若造が。お前らやれ! 計画変更だ!」
その声とともに男の背後で控えていた大勢が動いた。政に得物を向ける。その様子に政は。
「なんだ、あんたも遊んでくれるのか」
恍惚と笑みを浮かべて抜刀する。前方も背後も、右も左も遊び相手。これで喜ばない子供は居ない。
そこからは地獄絵図だった。
二つの組織が真正面からぶつかり合う。そして、その二つの組織から一斉に狙われる。無傷等では到底ない。数で圧倒されているのだから当たり前だ。政自体も斬られ撃たれ殴られ締められる。そのたびに刀を振るい、その刃が脂で切れなくなったら投げ捨て殺した相手から奪う。銃が転がっていれば闇雲に引き金を引く。周りには人間だらけだ、適当に撃っても誰かには当たる。自分の体から、相手の体から骨の折れる感触がする。それすらも愉しい。
嗚呼、愉しい。
毎日が逃亡と抗争の繰り返しだった。
「あいつだ! 獅童だ! あいつを殺せ! 生かしておくな!」
誰が叫んだか、政の名前は自分で意図しないままに広まった。表でも見つかれば追い回される。裏路地で息を顰めていても炙り出される。その度に斬り結び、撃ち貫いて傷だらけになる。
当然、一年近くそのような生活を続けているのだから数で圧倒的に不利な政はジリ貧だった。それすら楽しくて、自分が追い詰められている自覚などない。
殺す度に貰っていた財布から金がなくなる。そもそも今買い物など呑気にできる状況では無かった。
ヘマをした。ただそれだけだった。挟み撃ちにあってやり合ってる隙間から腹を撃たれ、怯んだその瞬間頭をコンクリートへ打ち付けられた。目の前が点滅するが、見えないまま刃こぼれしている刀を振り回し、叩き斬る。
やがて誰も動かなくなった場所からふらふらと歩いて歩いて、図書館の裏手で倒れた。
寒い。が、熱いよりはマシだ。
血の気が失せ、呼吸が浅くなり、心臓の動きが弱くなる。ここで死ぬんだなと理解と納得をする。
目の前が暗くなり、音が消えるその瞬間。誰かの声が聞こえた。
は、と目を覚ます。見覚えのない天井だった。嗅ぎ慣れない紙の匂いが鼻をつく。上体を起こそうとしたら隣から焦った声が響いてきた。
「あっ、ちょっと動かないでくださいよ」
声の方を見ると、目つきの悪い男が政を見下ろしていた。少し狼狽えているようにも見える。首からぶら下げられている名札に目が行った。
「……ひがし、えいじ?」
「え? ああ、あずま、です。まあ俺の名前はどうでもいいじゃないですか。気分はどうです? 欲しい物は?」
「……水」
それだけ言うとあずま、と名乗った男ははいと短く返しグラスに水を入れて手渡した。無理矢理体を起こし、一口飲み込んだ。自分でも気付かなかったが、余程喉が渇いていたらしい。一気に全てを飲み干した。そして寝かされていたソファから起きあがろうとすると慌てて止められる。
「ちょ、っと! まだ動かない方がいいですって! 死んでてもおかしく無かった怪我なんですよ!?」
「ああ、いつもの事だ。これくらいなら死なない」
「……あー、もしかしてその道の人です?」
「? その道、とは?」
「ええと、ヤクザ屋さんですか、って事なんですけど」
東は気まず気に目を泳がせていた。確かにそんな連中と暮らしてはいた。だが、自分は組長に抜けると言った。その後何故追いかけられているのかは分からないが。
だから、こう言った。
「元ヤクザで、今はホームレスだ」
「はぁ……」
中々厄介なものを拾ったぞ、と東は内心頭を抱える。そんな彼を他所に獅童は立ち上がって彼の肩を叩いた。
「手当てありがとう、えいじさん」
「は? 名前勝手に……いやそうじゃなくて! だから今動いたら死ぬって言ってるでしょうが!」
「助けてくれた相手を巻き込んでいいとは思わないから、このまま、ええと、おいとま? する」
尚言い募ろうとした彼に後日礼に来ると行って獅童は図書館を後にした。そう言えば、死ねと言われたことは多々あるが死ぬぞ、と言葉を投げかけられたのは初めてだなと獅童は思った。同時に、あの人はいい人だなあと呑気に考え、本当に近いうちに礼か手助けが出来ればなと思った。
「しまった、えいじさんが嫌いな人間を聞いておくべきだった」
そんな物騒なことを呟きながら。
だが、それより早く二人は再会することになるとは、この時どちらも思わなかったのだ。