どこからか猫の鳴く声が聞こえて、緩やかに訪れていた眠気から意識が引き戻される。
時計の針が示すのは、まだ日付が変わって間もない時刻だ。夕飯後、自室で編曲作業中にいつの間にか椅子の背にもたれて微睡んでいたらしい。
身体を前に起こすと、妙に頭がスッキリしていると感じる。ずっと行き詰まってた曲作りが納得のいく形でひと段落して、昨晩は久々にマシな睡眠が取れたからかもしれない。だから別にどうということはなく、ただ悪くはない気分だとそれだけの話だ。
扉の外から聞こえてくる猫の鳴き声に催促され、黙って椅子から立ち上がった。中断した作業は特に急ぎってわけじゃないが、きっとまたすぐ次のライブに向けての準備が始まる。呑気に寝こけていられるのも、本当に今のうちだろう。
……部屋に入れてやって、さっさと寝るか。
ぼんやりとそう考えていて、外に猫以外の客が来てるとは思いもしなかった。
扉を開け放った先で、しゃがんで何故か猫と戯れていた美園が「あ」と声を上げる。ここ数日はほとんど部屋にこもってたせいで、こいつの顔をまともに見ること自体が久々だ。
何も言わずにいると、ぽかんとこっちを見上げていたツラがホッとしたように緩む。
「丁度良かった、ほら」
その場で立ったそいつから、忘れ物だと届けられた楽譜。それは単に自分が捨て忘れただけの物で、必要ないと伝えれば無駄足だったとでも言わんばかりにブツブツと文句を垂れていた。
用は済んだ。そう思い、部屋に戻ろうと踵を返す。開いた扉から勝手に入り込んでいた猫が、ベッドの上で毛づくろいを始めていた。
「お前、あんま寝れてないんじゃないのか?」
背後からかけられた毎度お決まりの質問も、一昨日までならまだしも今日に限っては的外れだ。
「お前には関係ねえ」
そう突っぱねてやると、不意に肩をトンと叩かれた。「那由多」と呼ぶ声に普段とはどこか違った響きを感じ取りながら、美園の方へ顔を向ける。
まだ何かあるのかと一応振り返り待ってみても、ただじろじろと人の顔を見るだけで何も言ってはこない。こいつにじっと見られるのも距離が近いのもここ数年で幾分か慣れはしたが、無駄に長い時間となるとやはりイラッとはする。
用もないのにいちいち呼び止めるんじゃねえ、とでも言ってやろうとした時だ。見つめてくるそいつの瞳が急に熱を帯びて揺れた気がして、喉まで出かけた言葉を呑み込む。
……そういうことか、と察した。
ぐっと肩を掴んで顔を近づけてきた美園と、唇を軽く触れ合わせるだけのキスを交わす。
互いの気持ちを確認し合い一度肌を重ねて以来、こいつとは時々こういう空気になる。顔を離したそいつは自分からしておいて明らかにやってしまったという表情で、微妙な沈黙が流れた。嫌ってのとも違うが、こんな時にどう反応を返せばいいのかは未だによく分からない。向こうは大方思わず、といったところだったのか、気まずそうに顔を赤らめる。この程度のキスで騒ぐような段階、とっくの昔に過ぎたってのに。内心でそんな風に甘く見ていたせいで、完全に油断した。
……一体、何がこいつに火をつけたのか。
急に距離を詰められたと気づいた時は既に、美園の顔が目の前にあった。言葉を発する余裕も与えられないまま唇を塞がれ、動揺する。それからせきを切ったように二度、三度と口づけてくるそいつの様子は明らかにいつもとは違っていて。
「……っ、おい」
さすがに戸惑い一旦距離を取らせようとしたが、美園は「なんだよ」とむしろ語気を強めた。
「言いたいことがあんなら……ハッキリ言えばいいだろ。いつも……みたいに」
求めるようにそう言いながら唇を首の方へと移動させたそいつは、首筋にもキスを落とす。その場所に吐息がかかりほどなくして、そこに舌を這わせてきたと分かる湿った感触に思わず肩が跳ねる。不覚にも反応して漏れ出そうになった声は、歯を食いしばってどうにか堪えた。ぞく、と身体に走ったこの感じは覚えがあり、このまま身を任せていればこいつとまたそういう流れになるんだろうと想像がつく。
……初めて身体を許した日と、同じ流れに。
そうなったこと自体、嫌悪はない。受け入れる覚悟があって、受け入れると決めてそうした。
だがあの行為を美園ともう一度、と考えただけで、心の奥底から羞恥のようなものがじわじわとわいてくる。突き飛ばしてやりたい衝動に駆られたが、それはそれで負けた気がして不本意だと舌を打つ。逆に向こうの頭をこちらへ強く引き寄せ、耳元に直接「しつけえんだよ」と小声で訴えてやる。案の定、力の入らなくなったそいつの腕を解くのは容易だった。顔を真っ赤にしてうるさく抗議する美園を無視して「寝る」と告げ、今度こそ部屋へ戻ろうとする。
「那由多」
再び呼び止められようと振り返ってやるつもりなどなかったのに、その後に続いた「おやすみ」の名残惜しそうな声色にほんの少し決心が鈍る。
……触れたい気持ちが、なかったわけじゃない。
だからと言って発言を今更覆すのも叶わず、「ああ」と返すことしか出来なかった。
後ろ手に閉ざした扉を隔てた向こう側で、ため息の後に美園が小さく呟いたのが聞こえる。
耳が良すぎるのも、時には考えものだ。
拒んだような形になった手前いたたまれない気持ちも多少はあったが、当初の予定通り眠るためベッドへ向かい端に腰をかける。既に中央で丸くなって寝息を立てる猫の毛に、指先を埋めた。
〝まだガキだな……俺〟
全くだ、と先ほどあいつが発した言葉に心の中で返事をする。だが反面、こっちだって似たようなモンだろ、と自嘲した。
……触れても構わない、と素直に伝えるための術を、何年経とうが持てないのだから。