七夕小話けんちゅ賢治先生は織姫と彦星をそれぞれ、アルタイル、ベガと呼ぶ。たったそれだけ、それだけなのに、先生のことをどこか遠い存在に感じてしまって悲しくなる。
今日は七夕だ。よく晴れた夜空に満天の星が眩い日だった。賢治先生は去年の誕生日にもらった望遠鏡を持ち出し、星を観察しようと言ってきた。今回はオレだけを連れ出して、他の文豪たちが集まっている大きな笹からは離れたところで望遠鏡を組み立てる。
「短冊に書くお願い事は決まった?」
「いや、まだ決めてねえな」
先生はなんて書くんだ? と訊くと内緒、とはぐらかされてしまった。
「はいよ、組み立て終わったぜ」
ありがとう、と賢治先生はオレに真っ先に、先生の見ている世界を見せてくれた。
「見える? あれが夏の大三角だよ」
ベガ、デネブ、アルタイル……賢治先生の口からすらすらと出てくる星の名称はぴんと来ないが、先生の書いた話に出てくる星座の名前を言われれば途端にあああれか、と上機嫌になってしまう。
星の一つ一つは現実味がないくらい煌びやかだ。それでも、賢治先生の話は面白いし、先生が言うならそんな場所もあるかもしれないと思う。
「へええ……。じゃああれが織姫と彦星なんだな」
「そうそう。ここからだと、とっても近いところにあるように見えるでしょう? でもほんとうはずっとずっと遠いところにある星なんだ。
一年に一度どころか、何万年に一度会えるか会えないか分からないくらい遠いの」
「また会う頃には恋も冷め切っちまうだろ」
オレのそんな反応にも確かにそうだね、と無邪気に笑ってくれた。先生は優しい。
「ボクね、中也くんの言っていたボール紙に銀紙を貼り付けたってお話もすっごく面白いなって思うよ。中也くんはそんな風に星を見ていたんだなって」
途端に顔が熱くなるのを感じた。先生まで嘲笑してくるのかと思ったら「中也くんの価値観にまた触れられた気がしたから」と心から享受してくれる。
「自分と全く違う価値観に触れてみるのも面白いんだよ。ああそういう見方もできるのか、ってかちかちに固まってた思考を柔らかくてしてくれるもの」
それこそ中也くんのあの詩は面白いんだ、と楽しそうに笑う。
──賢治先生はしばらく望遠鏡で空を眺めていた。オレは隣でそんな先生のことを見ていた。他の星が霞んでしまうくらい綺麗な北極星は、どうして今はこんなに近くにいてくれるんだろうと思いながら短冊に書く願い事をぼんやりと考えていた。
未だ、夢を見ているようだ、とふとした時に思う。
こうして転生して、賢治先生と直接会えただけでも僥倖なのに、毎日のように話して、一緒に飯を食べて、風呂に入って、遊んで、詩の合作をして、旅行にも行って、泣いたり笑ったり、時には怒ったり拗ねたりもしているのだ。過去のオレが聞いたら、きっとそんなこと嘘だ、と糾弾するのだろう。
──星といえば、空に行ってしまったあの子たちはどこにいるんだろうか。
「中也くん、望遠鏡見なくていいの?」
一人でぼんやりと考えていたところで、先生の声で現実に引き戻される。しぱしぱ光る星空を見上げ、すぐに地面に目を逸らしてしまった。
「……星を見てたら、なんだか悲しくなっちまってなあ」
先生は不思議そうに「どうして? 」と問うてくる。本当に分かってなさそうな、一点の曇りもない目だった。
それだけで胸がきゅう、と締め付けられるのを感じた。
「……人が亡くなるとよく"星になる"って言うだろ。オレの大事な宝物もさ、この中のどこかにいるんじゃないかって思っちまうんだ」
胸から熱いものが込み上げてくる。最後の方は、声が震えていたかもしれない。思考を巡らす暇もなく言葉が溢れてきてしまう。震える唇がぱくぱく動く。
「賢治先生も突然、またどっかに行っちまうような気がしてならないんだ」
自然、既にぼやけていた視界からぼろぼろと熱い涙が溢れ出した。涙越しでも、賢治先生の驚いた目ははっきりと見えた。
「……もう、オレを置いていかないでくれよ……」
涙と共に零れたのは、自分でも引いてしまうくらい幼稚な頼み事だった。抑えられない感情が、衝動のままにとめどなく溢れてくる。賢治先生もきっと、こんなオレを見て引いてしまっているのだろう。
ふと、視界が閉ざされ、暖かい感触が伝わってきた。
「先生……?」
先生がオレを抱きしめてくれている、そう気づくのに時間はかからなかった。次いで、暖かい手が優しくオレの頭を撫でる。まるで幼子でもあやすような優しい手つきだった。
「"ポラリス"って、いわゆる北極星なんだけれどね、ほとんど動かない星なんだ。
空を見上げれば、いつでもそこにあるから……だからね、そんなに悲しい顔しないでほしいな」
ボクまで悲しくなっちゃうよ、そう言って、オレの身体をよりいっそう強く抱きしめた賢治先生の声は微かに震えていた。
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中庭の一角には、折り畳みのできる縦長の机が置かれ、その上には長方形に切られた縦長の色紙と、ペンが乗っている。先刻までは、かなり大勢の文豪たちが集まっていたらしいが、今はオレと賢治先生以外には人っ子一人いやしなかった。
緑一色の葉に、色とりどりの短冊がさらさらと揺れている光景はとても微笑ましいものがある。
ただ、短冊の願い事はそのほとんどが可愛らしいものではなく、やれ金が欲しいだとか美味い酒が飲めますようにだとか(これはオレも同意見だが)芥川賞欲しいだとか、欲に塗れたものばかりだった。そこに場違いとばかりに揺れている、南吉の「今年もみんなといっぱい遊べますように」という純粋な願い事が見えて、思わず口元が緩んでしまう。
──賢治先生は、星に何を願うのだろうか。
先生のことだからきっと、みんなが幸せになりますように、とか書くんだろうなあ。きっとそうだ。いつも人の幸せばかり願って、自分のことは後回し。
……それが宮沢賢治先生なんだ。
ところが、賢治先生の手元に視線を落とすと「リンゴをたくさん食べられますように」と筆を走らせているのが見えた。予想外すぎて、出てくる言葉もなかった。
「欲張りすぎかな」
なんて苦笑いする賢治先生の表情には、そんな願い事に反して子どもらしさのかけらもなかった。そんな顔を見ると、オレの『賢治先生とずっと一緒にいられますように』なんて願い事の方がむしろよっぽど夢見がちで、子どもじみているような気がしてきた。
あれだけ遠くにあった星が、これだけ近くにある。それだけで僥倖なのに、もっと欲張ってしまうオレの願い事はきっと聞き入れてもらえないだろう。
「オレはいいと思うぜ」
オレのエゴだと分かっていても、つくづく賢治先生には自分本位で喜んでほしいとばかり願ってしまう。今回のそれはそれこそ賢治先生の、先生本意で喜んでくれるような内容で、オレは本来喜ぶべきであるはずなのに、何故か胸の奥では小骨がつっかえているような、得体の知れない違和感があった。
「そういえば、中也くんはなんてお願いしたの?」
だし抜けにそう訊かれ、思わず短冊を力いっぱい握りしめてしまった。
オレの手に握られた短冊に目を落とし、賢治先生がニコニコしながら訊いてくる。たちまち、ぼうっと顔が熱くなるのを感じた。
「べっ、別に大したこと書いてねえから!!」
「ボクのお願い事は見たのに、自分のは見せてくれないんだ?」
返す言葉がなかった。熱が冷めないどころか、むしろさっきよりも熱くなった顔を伏せ、さっき握り締めてしまったせいでくしゃくしゃになった短冊を渡す。賢治先生は、そんなオレを見ながらニコニコしている。あとで書き直そうと思った。
先生はオレの短冊を見て、大きな目をまんまるくした。その目は、賢治先生が鉱石とか星について語っているときの、あの、キラキラした目だった。
そうして、少し間を開けてから
「…ふふふっ……あはははっ……」けたけたと笑いだした。
オレはもう恥ずかしくて恥ずかしくて、半ばヤケクソになって──それでも飲み仲間に絡んでいる時ほどではないが──思わず声を荒らげた。
「笑えよ! どうせオレの……──」
「違うよ。
ボクも同じこと書いてたから」
「え」と間抜けな声が漏れた。
短冊を裏返すとそこには『中也くんと、ずっとずっと幸せに過ごせますように』と書いてあった。
先生の顔を見れば、ほんのり頬が染まっている。自ずと目が合って、互いの口から笑い声が溢れた。
「なんだよ、全く……」
「ね、欲張りでしょう?」
笑いすぎで溢れてきた涙を拭いながら先生が言う。
「いいだろ、たまにはワガママ言ってもよ。
あれだけ人のことを思いやれる賢治先生だ。お宮のお星様たちもきっと叶えてくれるぜ」
「ほんとう?」
先生はキラキラと目を輝かせながら破顔する。その目はいつになく吸い込まれそうなほどに綺麗な輝きを湛えていた。
「中也くん。ボクたちどこまでもどこまでも一緒、だからね」
よく知った物語のセリフを言いながら約束だよ、と小指を差し出す。オレは、綺麗な涙どころか、自然と笑みがこぼれるのを感じていた。
「ああ。どこまでも一緒だ」
オレは先生と指切りしながら、もう願いが叶った様な不思議な気持ちになっていた。