時系列は数日前に遡る。
仕事を終えたクリスは、帰宅前に海に寄らんと駅へ向かう途中だった。
その頬に突然、冷たい感触がひとつ。
人差し指ですくってみると、僅かに降り始めた雨の水滴だと分かった。
(おや……通り雨ですか。仕方ありません。今日は帰りましょう)
やむを得ない予定変更に残念な気持ちを抱きつつ、乗る路線の切り替えを決める。
目標の駅の前に、ひとつ踏切を渡らなければならない。運行間隔が長いわけでもなく、踏切の間に歩道橋めいた通路や階段が設置されてもいない場所だ。雨足が強くならないか不安なクリスは、踏切を渡り終えたらビニール傘を買うか買うまいか考えていた。
アスファルトが僅かに音をたてる道、赤く点灯する踏切のライト。遠くから聞こえてくる、電車が線路を走る音。
たったひとりで待ちながらそれを聞くクリスは、胸の鼓動が妙に逸るのを感じる。
それは、未知なる海へ潜るときの、少しの不安と大いなる好奇心にも似ていて。
何故今こんな気持ちを覚えるのか、クリスには少し不思議だった。
風を引き連れて、電車が眼前を通り抜けていく。
窓の向こうには空席ばかり。この時間にこれほど空いているのは珍しいような、と口に出すほどでもない感想を抱く。
電車は淡々と連結された小部屋たちを見せつけていって、そのまま通り過ぎるかと思われた。
だが、そうはならなかった。
ガチャン、と音を立てて。
最後の車両が切り離される。
コントロールを失ったそれは、案外ゆっくりと減速して。
呆然とするクリスの眼前で止まった。
鉄製の扉が重々しく開き、それから、ひとり座っていた男が降りてくる。
見覚えのある要望にクリスは仰天して、頭の整理が追いつかない。
車両側面の方向幕には、『急行 古論』と表示されている。
そこから下車した男は口角を上げて挨拶した。
「よう、古論」
「……雨彦?」
雨彦がどうしてこんな大胆な現れ方をしたのか、全くわからないクリスは瞠目するしかない。
突如コートのポケットから見知らぬ着信音もして、クリスはどちらに対処すべきか迷って、少し後ずさる。
レールの敷かれた中継地点から、やや水を纏い始めたアスファルトへ、雨彦は前進する。見慣れぬ衣装を纏って、一振りの剣を手にして。
「伏せられた目では見えない未来。
閉じられた目では見えない輝き。
見逃せないのは変わった景色」
鳴り続ける踏切の音。雨彦の進路を塞ぐ黄と黒のバー。
その前に立ち止まって、彼はゆらりと獲物を持ち上げる。
切っ先が眼前をギラリと輝いて、クリスの唇から微かに恐怖の息が漏れた。
「Legenders、葛之葉雨彦。
───さあ、掃除の時間だ」