ワカメとポンコツとミカン。※時系列はゾーンイーター君に食べてもらった(あまり考えてない)
夜の帳が下りる頃だった。
バルバロスは影を通して、自分の護衛している少女がまだ執務室にいることを確認する。
――あいつ、残業か?
ずっと影は繋いでいたが、今日は一日、バルバロスの方も用事があってあまり様子を窺っていなかった。事前に伝えてあったため、向こうから声をかけられることもなく今の時間に至る。
一応、直接顔を見ておこうかと、バルバロスは影に潜った。
執務室のソファに腰かけた少女――シャスティルは、ちょうど茶色い紙袋に手を突っ込むところだった。
「あん? なんだそりゃ」
来てみれば仕事自体は終えていたらしく、シャスティルは「職務中」の雰囲気を解除している。
「バルバロス! 今日は顔を見せないかと思ったよ」
そう言って表情をほころばせる様子に、どうにもむずがゆいような心地になる。
視線を逸らし、執務室の壁に背を預けたバルバロスは言った。
「まあ、一日一回はきちんと生存確認しとかねえとマズいからな」
「日々危うい生き方をしてるような言い方しないでほしいのだが」
「間違ってねえだろうが。それより、どうしたんだそれ」
「ああ、実は」
シャスティルはぱっと顔を明るくして、テーブルに置いた紙袋から、橙色の果実を取り出した。一見オレンジのようだが、オレンジより小ぶりで扁球形だった。
「黒花さんからおすそ分けでもらったんだ。リュカオーンで栽培されている『ミカン』という柑橘だ」
シャスティルによれば、ザガンの城に居るリュカオーン出身の夢魔宛てに、大量のミカンが届いたという。豊作過ぎたようで持て余し、おすそ分けしているらしい。
シャスティルのところへは、ケット・シーの少女経由で渡ったというわけだ。
「昼にもらったからひとつ食べようとも思ったんだが……仕事終わりの自分へのご褒美と考えて我慢していたんだ」
シャスティルから「待ちきれない」という雰囲気が伝わってくる。
「果物かよ。酒のツマミならよかったのに」
「私にそんなもの渡すひとがいるわけないだろう。あなたもひとつどうだ?」
「俺は遠慮しとく」
返答を受けたシャスティルが残念そうな顔をし、バルバロスはなんだか悪いことをした気分になった。
しかしシャスティルはよほど楽しみにしていたのだろう、すぐ気を取り直して、ミカンをいろんな角度から眺める。
「どうやら、オレンジと違って手で簡単に皮が剥けるらしい。でもどのへんからやればいいんだろう?」
「簡単っていうならどこからでもいいんじゃね」
「自分が食べないからって……」
へた部分を下側にしてミカンを持ったシャスティルは、一番柔らかそうな底の部分から剥くことにしたようだ。
「このあたりかな」
親指に力を込めた直後、ぐちゃっとその部分が沈んで果汁が滲む。
壁にもたれかかり様子を見ていたバルバロスはすぐに思う。
――あー。これ、なにかやらかすだろうな。
「んん? 案外きれいにやるのは難しいな」
そう言いながらもシャスティルはミカンを攻略しようと頑張る。
が、力加減を間違えたらしく、柑橘類特有の酸っぱい果汁が飛んでシャスティルの目を直撃した。
「ひゃあああっ、沁みる!」
「どこまでポンコツなんだよ……」
すぐに見ていられなくなって、バルバロスは壁から背を離した。ソファでめそめそと泣きべそをかくシャスティルの横に、呆れと共に腰を下ろす。
絶対そんなに難しくねえだろこれ、と思いながら手袋を外し、茶色の紙袋から新しいミカンを取り出した。
そしてシャスティルと同じようにへたを下側にしてミカンを持ち――そのまま、底の柔らかい部分に両の親指を当て、開くようにして真っ二つにする。片方の外皮を剥いて、出てきたみずみずしいミカンの粒をひとつ取った。
――なにやってんだ俺。
元魔王候補の魔術師である。それが、目の前で繰り広げられるポンコツ劇場に耐えかね、果物の皮剥きをしているとかわけがわからない。
ほっといて帰ればいい話なのだが、無意識にその選択を除外しているバルバロスはため息を吐くしかなかった。
胸の内に生じたやるせなさをぶつけるように、ミカンのひと粒を隣にいるシャスティルに向けてぞんざいに突き出す。
「ほらよ」
この時、すっかり消沈して遠くを見るような目をしていたバルバロスは、まったく気を配っていなかった。
ミカンを持った手は本人が思うより、シャスティルの顔に近かった。
そして、ミカンをそれはそれは楽しみにしていた少女は――反射的に口を開けてしまう。
「ぱくり」と持っていかれて、バルバロスは我に返った。
――あ? 待て今コイツなにした?
隣で、ぎこちなく咀嚼しているシャスティル。
手で受け取らなかったことは分かった。なぜだか顔がそのまま手に近づいて、小さな口がミカンを攫って。わずかに感じた空気の揺れは、吐息だった。
「えっと……お、おいしい、な?」
自分が何をしてしまったのか、理解したのだろう。真っ赤になったシャスティルの感想は、とても味が分かっているようではなかった。それどころではないのは明らかだ。
「はあああ? ななななにしてんだポンコツ!」
「すっすまない! めちゃくちゃ近くに突き出されたものだから、つい!!」
「つい?! どうしてそうなるんだよ手で受け取るだろ普通!」
「だってだって、反射でっ」
「てめえは見せられた餌に食いつく動物かよ! クッソ、殺す気か……?!」
自分の指先に触れそうになった唇を思い返してしまい、胸辺りの服をきつく握りしめて項垂れる。衝撃が大きすぎてとにかく物凄いダメージを受けた気分だった。
「こ、殺すだなんて、そんな激しく食いついてないもん! 人を飢えた魔獣みたいに言わなくったっていいじゃないかっ!」
「そういう話じゃねえ!」
わめきながらバルバロスは少し前の自分を恨んだ。こんな羞恥に苛まれる事態になるなら、「一応、直接顔を見ておこうか」なんて思わずとっとと帰ったというのに。
しばらく、噛み合わない二人の応酬は続いた。
翌朝の執務室。
先に来ていたケット・シーの少女が、気遣って置いてくれたのだろう。テーブルの上、いつでも気軽に食べられるようにと、器に盛られたミカンがあった。
それを見て真っ赤になり、早々ポンコツ化したシャスティルに、周囲はただ困惑したという。
2022.2.12