10巻2章あたりのワカメとポンコツ。※教皇崩御の時期について調べようとしてるところを妄想。
司教の礼服を纏う少女は、とある部屋の扉を開けた。
小さな窓一つの空間は夕刻を過ぎているせいでいっそう暗く、用意した灯りがなくては心許ない。空気が籠りやすいのか、ほんのりとかび臭いにおいが鼻孔を刺激する。
少女はにおいよりも暗さが苦手らしく、おっかなびっくり歩みを進めていた。
そんな様子を足元の影から眺めていた魔術師は、少女の背に声をかける。
『おい、ポンコツ』
「ひいいっ?!」
束ねた髪まで飛び跳ねるくらいに驚き、情けない悲鳴を上げる。勤務時間外ではあったが一応「職務中」状態のため、かなり控えめな悲鳴だったことは褒めるべきかもしれない。
「バ、バルバロス! いきなり声をかけないでくれっ」
『ああ? いつどこで声かけようが俺の自由だろ』
目尻に涙が滲むほど驚いたらしい少女――シャスティルを見て、バルバロスは影から姿を現す。
「へえ。ここが書庫か」
「……書庫といっても、『誰でも出入りできる』大きな書庫は別にある。ここには重要な書物や資料をまとめてあるんだ」
シャスティルの執務室よりは狭い部屋の中、羊皮紙で作られた本が棚いっぱいにひしめき合っていた。
バルバロスはからかい混じりの笑みを浮かべる。
「『誰でも出入りできない』はずの教会の書庫に、魔術師がいたら大問題だな?」
「先日も言ったが。あなたに隠し事はしないし護衛をしてもらっている以上、どこについて来ても私はとやかく言わないよ。それに出てきてしまったなら、あなたを遠ざけるよりも一緒にいてもらったほうが心強いし」
「……そうかよ」
返ってきたのは率直な言葉の数々。再び皮肉を言う余裕を削がれてしまい、バルバロスは目を泳がせる。シャスティルの言葉は、どう受け止めてどう返したらいいのか、未だによく分からなかった。
隠し事はしない、とか。一緒に、だとか。
そういうちょっとした台詞で胸の内側をきゅっと掴まれるような――慣れない妙な感覚に、いつも戸惑ってしまう。
その理由をとっくに知っていても、だ。
さらには、知っているからこそ毎度、煩悶してしまい拗れることになるのだが。
処理がままならない自分の気持ちを追い払うように、バルバロスは口を開く。
「んで、調べるっつーのは教皇の件なんだろ」
「ああ。あなたに教えてもらわなければ気づかなかった。魔王の崩御や先代ガラハット卿の死と合わせて……確かに色々と重なり過ぎているように思う。感謝するよ」
――感謝、ねえ……。
バルバロスは正直、この件に関しては後悔していた。話の流れでつい、教皇の件を「臭くねえか」と指摘してしまったが、シャスティルの仕事を増やしたかったわけではない。
あのときは、執務室に缶詰してないで気分転換したほうがいいと、だからどこかへ連れてってやると言いたかっただけなのに、どうにも面倒くさいことになってしまった。顔も名前も知らないお偉いさんの死など、本来ならバルバロスにはどうでもいいことである。
「とりあえず、関わりがありそうなものを探そうと思う」
バルバロスはこの件を指摘してしまった手前、「一緒に」いてやることにした。
そもそも、シャスティルの職務中に堂々と出てきて二人でいる機会というのは多くない。
ここ最近、表にいる理由は、ケット・シーの少女とダークエルフの少女の不在が重なっているからだった。
例の夜会があった直後などは割と影から出てきて執務室で過ごすことも多かったのだが、彼女たちがシャスティルを手伝うようになってからはどうにも居心地が悪くなってしまった。
――せっかく邪魔者がいねえんだ、こういうときくらい……。
そう考えた直後。
バルバロスは本棚に手をついて、がっくりと俯いた。
「バルバロス? 大丈夫か、気分でも悪いのか?」
「気にすんな……」
――なんだよ今の考えは。
まるで、独り占めでもしたいみたいな。
ものすごくいたたまれない気持ちになってしまい――顔を見られないよう逆方向に逸らす。この場所が非魔術師のシャスティルには暗く見えにくい空間だったのが救いである。
心配そうに緋色の瞳を向けられたものの、シャスティルは言われた通り気にせずにいてくれた。
それからなんとか気を取り直し。
シャスティルが本棚を漁る様子を眺めながら、念のため、いくつか魔術を発動しておいた。いつポンコツ化して大声を出すかわからないので、防音の魔術。教会にも暗部などという物騒な部署があったくらいだから、書庫に潜んでいる者がいないか探知する魔術。
表に出ている自分がこの場でできるとしたら、まあこのくらいだろう。
シャスティルは、教皇について調べることを手伝ってほしいとは言わなかった。バルバロスがこの場にいることを許しても、教会の重要な本の中身まで見ることを許しているわけではない。線引きは、きちんとしているのだ。
しばらくしてから、本棚の上段を眺めていたシャスティルが、バルバロスに聞いた。
「どこかに踏み台はないか?」
「踏み台? ……あれじゃね」
シャスティルは手に灯りを持っているが、見える範囲は狭い。対してバルバロスのほうはというと、魔術で夜目が利くようにしてあるので、暗い書庫の中でもどこになにがあるのかすぐにわかった。
とはいえ、向こうからわざわざ踏み台を持ってくるのは億劫である。
「どの本だ?」
「えっ。あ、取ってくれるのか?」
「他になんだってんだよ」
シャスティルが意外そうな顔をしている。
――ああ? なんでそんなびっくりしてんだ。
「ほらどれだ。とっとと教えねえと取ってやらねえぞ」
「ええと、そこの」
バルバロスを気遣い、シャスティルは近づいて灯りを掲げる。
「その茶色い背表紙の本なんだが」
「これだな」
「いや、違う、その隣だ」
「こっちか?」
「右じゃなくて左の……」
「ちっ、教えるの下手くそかよポンコツ」
――てか、ちょっと近いんだけどっ?
もちろん、近いのはただ位置をきちんと教えようとしてくれているからで。
灯りがなくとも、魔術で視覚を弄っているため問題はないのだが――シャスティルはそれを知らない。片手を掲げ、つま先立ちする体のバランスを取ろうともう片方の手でローブを握りしめていることは、なかなか問題だった。
普段、世話の範囲内での接触ならまったく意に介さないバルバロスである。しかし、シャスティルからの接触というのはまずないことで、少なからず動揺してしまう。それがちょっとローブを握りしめられているだけであっても。
どうにか冷静を取り繕いつつ、バルバロスは目的の本を渡してやった。
「ほらよ」
「ありがとう、助かるよ。あなたは背が高くて羨ましいな」
「はあ? そう、か?」
ローブが解放されほっとしたのも束の間。意外なシャスティルの言葉を受け、つい疑うような目を向けてしまう。
「背のことなんて、特別気にしたことねえけどな」
「そうなのか。いや実は、私はもう少し背が伸びたらいいのになと思うこともあって」
またしても意外で、バルバロスはシャスティルのてっぺんからつま先までをさっと眺めた。
「なんでだよ、ちょうどいいだろ」
「え? ちょうどいい……?」
「い、いやなんでもねえ。てめえの空耳だ」
「それにしては……まあ、うん。空耳か」
なにに対しての「ちょうどいい」なのか――軽率に口を滑らせてしまったが、その対象がバルバロス自身であったことなど、口が裂けても言えなかった。
随分はっきり聞こえただろうに、シャスティルは聞き流すことにしたらしい。自分の言葉を続ける。
「聖騎士として戦うからには、やはり少しでも上背があるに越したことはないからな」
強い眼差しでありながら、どこか遠くを見る目だった。
シャスティルは聖騎士長としての序列が四番目と、決して低いわけではない。その剣さばきに至っては最速と謳われるほど。
しかし、洗礼鎧を身に着け聖剣を振るうとはいえ、中身は十七歳の少女に過ぎない。元々大柄であるほうが筋肉量も伴い、多くの場合、戦いにおいて有利であることは間違いないだろう。
シャスティルとしても、最近の強敵を前にして、自分の実力になにか思うことがあったのかもしれない。
「……ないものねだりしなくたって、お前は自分にできることすりゃ充分なんじゃねえの」
敵がどんなに強大だったとしても。
この少女は、立ち向かうと決めたなら止まらないし、言葉では止められない。自分の持ちうる精いっぱいの力で挑むだろう。
剣を持っている限り後には引かない少女であると、バルバロスは知ってしまった。
それなら。
その意志を無視できないのなら、護衛を引き受けている以上、瀬戸際まで付き合ってやるしかないのだろうと思う。
バルバロスの返答に、シャスティルが緋色の目を丸くして驚く。
「もしかして、励ましてくれてるのか?」
「別に、励ましてなんかねえし?」
「そうだな……うん。聖騎士としても教会責任者としても、今の私にできる最大限を、果たせるように努めるよ」
バルバロスは否定してそっぽを向くが、対するシャスティルは、ふふっと笑い声を漏らす。
「そうそう、あともう一つあって。これはちょっとしたことなのだが……背が伸びたら、もっとあなたと話すとき楽じゃないかな、と」
しんみりした空気を払拭するように、唐突な明るい声が書庫に響く。
今度はバルバロスが目を見開いて驚いてしまった。外していた視線も、シャスティルへと向け直す。
「はーっ? なんだそりゃ」
「いや、大変だろう? ほら、身長差があるからこんなに近くで話していると、お互い首が疲れてくるし」
言われて、バルバロスは気がついた。
本を取ってやってから、そのままの距離だったことに。
手を持ち上げたら普通に接触するくらい間近に、シャスティルがいる。
「もっと、目線が近くなっていいんじゃないかなって」
なんの他意もなく「もしもの話」を無邪気に語る。そうして近距離で微笑む少女の顔が、薄暗い部屋にも関わらずどうにも眩しく見えてしまう。
状況を一度意識しはじめると、困ったことに意識しすぎて急に気恥ずかしさがこみ上げてきた。自分の心臓の音も、やけにうるさく聞こえる。
それゆえにバルバロスの思考は間違った言葉を選び、勢いのまま口を衝いて出てくるのだが――よくある、いつものことだった。
「てめえの顔なんて、今より近くで直視できるわけねえだろっ」
「ひどいな?! そ、そんな……見るに堪えない顔なのか私は……」
「ち、違う! そういう意味じゃねえ!」
「ううっ、まだ調べものの途中なんだ……しっかりしろ私! バルバロスの言うことになんか負けるな……!」
自分自身を鼓舞するが、どうやら、勤務時間外でも保っていた「職務中」はそろそろ時間切れらしい。
めそめそしつつ、シャスティルは手にした本の頁を捲りはじめた。涙で滲む視界で、どの程度本が読めているのかは謎である。ちなみに本は逆さまなので、お察しというものだ。
――お前は今のままでいいんだよ!
バルバロスは胸中で目いっぱい叫ぶ。
背の高いシャスティルがいたとして。
今と同じような状況があったとして。
シャスティルの顔があれ以上近かったら、たぶん心臓が持たないと思った。
2022.3.28