Water lily Paradox サンプル猫が目の前を横切った気がした。
しっぽの長い真っ白な猫だ。しかし部屋の窓は閉まっており見回してもその姿は見あたらない。
彼と同じタイミングで迎えた我が家の猫様はおそらく姉が用意したリビングの指定席で寛いで居るはずだ。そもそもウチの猫は背中からしっぽにかけて大きなトラ模様が入っている。
今見たのはそう、彼の家にいるあの白猫によく似ていた。真昼の日差しを受けキラキラと輝く毛並みは眩しく膨らんで、目蓋の裏に焼き付いた残像が消えない。
柳は何か胸の奥で疼くものを押し込めるようにベッドへと寝転んだ。枕に顔を埋めながら無意識に枕元にあるケースへ手を伸ばす。硬いプラスチックのそれに触れているとザワつく何かがやんわりと包まれ静まるのだ。
そうしていると次第に温かな幸福感に満ちて嫌な気持ちはどこかへ消えていく。
同時に心の奥底でちらつく影の気配にもそれが何故なのかも、敢えて理由は考えなかった。ただ幸福感に包まれる結果だけを欲していた。
それはなんの前触れもなく、突然訪れた。いや、きっとその予兆はあったんだろう、見て見ぬふりをしていたのかもしれない。
今日もいつものように幼なじみの家へ上がり込んでいた。挨拶代わりに近況という程でもない話をして、栄養学を語りつつキッチンに入り新作ドリンクの構想を練る。この間はバレンタイン前だからとチョコレートに関連した試作を考案したのだが、学校で配った結果はまあ予想通りの地獄絵図になったようだ。飲みやすさという意味では改善の余地はあるものの、次々と青学メンバーが倒れていく様を嬉々として語る貞治の姿は少々妬けてしまう程キラキラとした目をしていた。
今回はひな祭り間近という事で麹甘酒をベースにしたドリンクの試作をしていたのだが、元々とても栄養価が高い米麹は題材として想像以上に面白くドリンクのみならず料理のベースとして後々まで使えそうな案で盛り上がった。
そうして思うまま話し込んでようやく落ち着いた頃合いになると我が物顔でベッドを占領し、データ整理をする彼の横で軽やかなタイピング音を聞きながら読みかけの本を開く。ふと横目にその背中を見れば真っ白なシャツがもそもそと動く気配に気持ちが緩むのが分かって、声に出さず口角を少しだけ上げた。
貞治と再会してから当たり前に過ごしてきたそんなささやかで心地のよい時間はこれからもずっと変わらないものだと思い込んでいた。だからここ最近彼が何か言いたげに俯いたり声のトーンがほんの僅かに上がっていた事も、日々の些細な起伏の一部で気に留めるようなものでは無いはずだった。それなのに。
「……いま、なんと言った?」
彼の声がタイピング音に掠れた訳でも読んでいた本に集中していて聴き逃した訳でもない。クリアに聞こえたからこそ発した言葉の意味が理解出来なかったのだ。パソコンのモニターに向かったままのその背中は心なしか擽ったそうな甘さが滲む。白いシャツに出来たシワが嫌に深く歪んで見えた。
「ん、だからさ……この前、バレンタインの日に俺、告白されたんだ。付き合って欲しいって」
今まで生きてきた中でこれ程一瞬のうちに思考を回転させたことがあっただろうか。告白、付き合う。そこから導き出される最適解からおそらく一番遠い可能性を探りたいのに、ツンツンとした黒い艶髪の裏で俺の反応を窺いつつもはにかむ表情が分かってしまうからそんな悪あがきも淡く消える。
何故俺はこんなにも動揺しているのか。自分でも驚く程心臓がドクドクと脈打って胸が痛い。彼がどう返事をしたのか、考えるだけでグラグラと地面が揺らいで体が暗い谷底へと崩れ落ちていくような感覚にギュッと固く目を閉じた。
パタン、とやけに乾いた音が響いて意識が現実へと引き戻される。目を開ければ貞治がこちらを向いて困ったように眉を八の字に曲げていた。
「どうしたんだ、蓮二。顔真っ青だぞ。具合が悪いのか?」
のそっと椅子から立ち上がると落ちていた本を拾い上げ俺の横に腰掛ける。そうして八の字眉のまま覗き込むように視線が傾くと大きな手が伸びてきて俺の額を包んだ。節立った指とラケットを握る皮膚の厚くなった部分が当たって、じんわりと温もりが伝わってくる。
「熱は…ないかな」
スッと離れた手に冷めていく温度が嫌で思わずその手を掴んでしまった。貞治はキョトンとした顔で俺を見つめる。
「なんでも、ない」
ようやく出た言葉は掠れるくらい小さくて、それでも彼の手を離せずにいる俺を宥めるようにもう片方の手で優しくポンポンとさすった。
「何か飲むもの持ってくるよ。蓮二は少し横になったら良い」
それは魔法がかかったみたいに解かれて、貞治はキッチンへ行ってしまった。
なんて自制の利かない子供じみた真似をしているんだろうか。貞治は嬉しい事として俺に報告してくれただろうにほとんど聞かないまま話の腰を折ってしまった。こんなの、俺らしくもない。
ベッドにゴロンと転がると彼の枕に顔を埋める。シャンプーなのか睡蓮とよく似た香りに爽やかな甘さが混じった貞治の匂いは包まれるような安心感で、俺のぐちゃぐちゃな感情ごと静めてくれそうだった。貞治が戻って来たらいつも通りの俺でいられるだろうか。
キッチンの棚に並ぶハーブティーから少し悩んだあと、ひとつパックを取り出した。冷蔵庫にあるペットボトルのお茶ならすぐに出せるが今は温かい飲み物の方が良いだろうと電気ケトルでお湯を沸かしている。
今日ウチに来てから体調が優れない様子は見られなかったのだが……あんな蓮二を見るのは久しぶりだった。寝不足でもあったんだろうか。マルチタスクが出来る男だが思った事を内に秘めやすく何でも一人で片付けようとしがちな所があるのだ。その思慮深さゆえに意外と抱え込みやすいタイプでもある。本人が気付かないうちに負荷が掛かっていたのかもしれない。グツグツと鈍い音を立てていた電気ケトルからゆらりと水蒸気が上がると固いスイッチの音がした。
ポットに沸かしたお湯を注ぐと立ち昇る湯気からカモミールの良い香りがする。お茶請けのドライフルーツをカップと一緒にトレーへ乗せた。
「お待たせ、……蓮二?」
部屋へ戻ると蓮二はベッドで横になっていた。近付いて見ると小さな寝息を立てていて、幾分顔色も良くなっているようだ。ほっと息をつくとベッドの傍らでその寝顔を見つめた。もうすっかり大人の顔になってしまったが眠っている時はあの頃と変わらない無垢な表情をしていて、どこか懐かしいようなくすぐったいような感覚にさせられる。自然と伸びた手は彼の頬に触れる寸前で止まった。
何を、してるんだ。俺は。
触れたいと思った。どうしてそう思ったのか、何故止めたのか分からない。妙な心地だった。
そうしているうち気付けば淹れたハーブティーは抽出時間も良さそうな頃合いになっている。飲ませたかった相手は眠ってしまったが勿体ないので自分のカップに注ぐと、途端にさっきよりも強い香りが鼻を抜けた。まだ熱いそれに注意しながら口に含んだあと、イチジクのドライフルーツを一口かじって舌に広がる甘味を味わう。
ああ、なかなかに悪くない。
優しい果実のような香りがふっと気持ちを緩めて、そこにドライフルーツの甘みがじんわりと体に染み渡っていく。データ整理で詰めているとこういった時間が良い気分転換になるのだ。
程よくリラックスしてパソコンの前に座るとスリープ状態を解除して、開いたノートから入力途中だった部分を指で辿る。そうしてふと、彼に言いかけていた話を思い出した。
今までも何度か女子から冗談混じりに好意を伝えられた事はあったが、あんなにも真剣な面持ちでハッキリと言葉にして伝えられたのは初めてだった。今までバレンタインというイベントはジョークのようなコミュニケーションの延長線で義理チョコを貰う日だったのに。
テニスに全身全霊を捧げていた所為か恋愛というものに興味はあってもどこか現実味のない、自分とは遠い世界の話なんだと思っていた。
蓮二からいわゆる女性関係の話を聞いた事はないが、俺よりも女の人への対応は慣れているはずだから参考までに聞いてみようと思ったのだ。
まあ、彼らしい軽口を聞く可能性はあっても何だかんだ真摯に答えてくれるし、冷静な分析が出来る蓮二ならではの客観的な視点を聞いてみたかった。たまたま切り出したタイミングで蓮二のあんな顔を見た所為か罪悪感に似た感情が過ぎってしまう。
単に疲れていただけかもしれない。しかし、胸の奥の古傷を撫でるようなモヤモヤとした違和感が支えて取れない。もう、蓮二にあんな表情はさせたくなかったのに。
彼の事を分かっていると思うのは俺の驕りなんだろうか。振り返ればベッドで眠るあどけない寝顔が、余計にチクチクとした疼きを俺に残していった。
いつの間にか眠ってしまったらしく気づいた時にはすっかり日も暮れ部屋のカーテンは閉められていた。貞治はパソコンの前に座っていて、その大きな背を丸め何やらノートに書き込んでいるようだ。
「貞治、」
俺の声にクルッと振り向くとメガネのブリッジを指で押さえじっと目を合わせた。二、三秒あっただろうか、その目を見つめ返しているとフッと口元を緩めてため息とも苦笑ともつかない息を零した。
「どう、調子は?」
「ああ、だいぶん良い。心配かけてすまなかった」
「気にするな……そうだ、お茶淹れ直してくるよ。さっき淹れたんだがもう冷めてしまった」
ガラスのポットにはハーブティーだろうか、黄金色の液体が半分ほど入っていた。そうか、せっかく淹れてくれたのに俺が眠っていたから残ってしまったんだな。
「いや、そのまま頂こう。今は冷めたくらいがちょうど良い」
トレーを持ち上げようとした手を制し空いていたカップに注ぐ。カモミールか、香りは弱いがほんのり甘い香りがする。すっかり冷えたそれは寝起きの喉を潤すのには十分だったが、貞治は少し残念そうに眉を下げモゴモゴと言い訳のようなものを呟いている。
「さっき飲んだ時は美味かったんだ。温かい方が香りも立つしリラックス効果が……」
きっと疲れが溜まっていると思ったんだろう、彼なりに俺を気遣って選んでくれたことが嬉しくて思わずクスッと笑みが零れる。
「大丈夫だ、十分美味い。ありがとう、貞治」
そう言うと貞治は目を瞬いて黙ってしまった。
「そうハッキリ言われると、照れ臭いな」
俯いた顔は白い肌にほんのり赤みが差していて、素直に可愛いなと思うと同時に胸をくすぐる感情が溢れて来て彼を抱きしめたい衝動に駆られる。貞治と居ると時折こんな気持ちが湧き上がって、でもそんな事をしたら貞治は驚くに決まってるからぐっと拳を握って堪えるしかなかった。
幼い頃はもっと自然に自分の感情を伝えられていた気がするのに、いつからこんな身構えるようになったんだろうか。その理由を知りたいのに深く探ることを拒絶する自分がいる。何か開けてはいけない蓋のような、そんな感覚がしていた。