延長戦(オフェぐだ♀)「立香、手が止まってるわ」
「あ、ごめん」
オフェリアの指摘で飛ばしていた意識を戻す。試験が近いから勉強に付き合ってって言ったのは私なのに、ぼうっとするなんて失礼だ。眠い訳ではなくて、単純に目の前の彼女に見惚れていた、だけなんだけど。真面目な彼女に言えばきっと怒られてしまうから、ぱちん、と頬を叩いて気を正す。
「眠いの?」
「ううん。集中しないとって気合を入れただけ」
成績優秀で真面目なオフェリアは問題集をもう二周は解いているだろうに、私はまだ一周すらしていない。しかもそれはこの科目だけじゃない。今回はまだ手をつけるのが早い方だ。オフェリアと一緒にいられる口実になるって気付いたときの私は天才だと思ったけど、彼女といて勉強に集中できるはずはなかった。うーん、まさかの誤算である。
問題集に向き直るとすぐに眉が寄った。何を言っているのかさっぱり分からん。こんなのやったっけ。……やったんだろうなあ。教科書を確認すると力尽きた時に出来る線が長く長く這っているものだから、過去の自分を呪いたくなる。流石に一から教えてもらうのは申し訳なさすぎるし、一回教科書読んでから……。甘える算段をしていると、ひりつく頬に手が添えられた。
「えっ!?」
「加減せずに叩いたでしょう。赤くなってるわ」
「あ、そ、そう?」
大きく跳ねた肩を気にする風もなく、オフェリアは私の頬を撫でる。へらっと笑っても心臓はとんでもなくうるさい。呆れた顔のオフェリアも可愛いけど、ちょっと、供給は加減して欲しいな! 言葉にしていない私の思いは彼女に伝わることはなくて、労わるように撫でる細い指の感触を甘受していた。
「それで、その問題が分からないの?」
「……寝ちゃってたみたいで……」
「やっぱり。授業はちゃんと聞きなさいっていつも言ってるでしょう?」
「ごめんなさーい」
天にも昇る気持ちから一転、もっともな指摘に冷汗をかく。だって先生の説明が難しくて! とか、言い訳は言うだけ無駄だ。悪いのは私。当然の結末である。
「ここまでは分かるのね」
「うん。間違ったけど解説見たら理解できたよ」
「じゃあそれほど難しくないわ。いい? ここを──」
俯くと明るいオレンジブラウンの髪がカーテンのように落ちる。ノートに擦れてさらりと音を出したそれに目を奪われた。だ、だめだめ。オフェリアが教えてくれてるんだからちゃんと聞かないと! そう思っても落ちた髪を耳にかける指先がさっきの感触を思い起こさせて、今度は別の理由で顔が赤くなった。
「──ちょっと、立香?」
「ひあっ!?」
「なんて声出してるの……。どうしたの? 全然集中してないじゃない」
オフェリアは顔も赤いし、なんて言葉を続ける。うううごめんなさい、でもこれでも頑張ろうとはしてるんだよ……! 自分の頭のキャパが小さすぎてどうにもならない事実に頭を抱えていると、ふう、とため息が聞こえた。
「私と一緒だと気が散るのかしら」
「ち、ちが、私」
「自分の席に戻るわ。分からない所があったら聞きに来て」
言うが早いかオフェリアは教材をまとめると席を立つ。自分の席って私と正反対の列じゃん! おかげで授業中何の関わりもなくてすごく嫌なのに、そんなところに戻ったら一緒に勉強する意味ないよ! 自分が蒔いた種だけどどうにか引き止めたくて、反射的に彼女の手を取った。
「ごめんなさい、ちゃんと勉強するから、だから」
絶対呆れてるだろうし、嫌われただろうな……。でもいつも忙しいオフェリアが時間を取ってくれたんだから、このチャンスは逃したくない。なりふり構う場合じゃないって判断したけど鬱陶しかったかも。いやそれでも。真剣に彼女を見上げると、またため息が落ちた。
やっぱりだめ、かな。じわりと視界が歪んだ気がして下を向く。ちゃんと授業を聞いていたら。いや、集中してたらこんなことにはならなかったはずなのに。後悔先に立たずとはよく言ったもので、遅すぎるそれは私の肩に重く圧し掛かってきた。
だから、オフェリアが私の問題集をめくっていることに気付かなかったんだ。
「下校時間までにここまで進められたら、ご褒美をあげる」
「えっ!」
「立香には効果的でしょ?」
数ページ先に付けられた印は試験範囲の三分の一くらいの場所で、多分彼女から見た私の限界なんだと思う。で、でもここまで頑張ったら、ご褒美くれるって。思いもしなかった提案にバカみたいな顔で見上げるしかない。確かに効果的だけど、でもオフェリアに何の得もないのに。自分の耳元で天使と悪魔が好き勝手喚く。それでもオフェリアはしょうがない子を見る目で私の返事を待っていた。
「やる、やります!」
「私が前にいても?」
「やります!!」
大きな私の声が教室中に響く。はっとして辺りを見回す。よかった、私達だけしかいない。……あれ、そんなことってある? 授業が終わってまだそれほど時間は経ってないはずなんだけど……。首を傾げているとオフェリアが前に座った。いけない、ちゃんと勉強しないと。
「ごめん、さっきのもう一回説明してください」
「これで最後だからね?」
「うん!」
手間をかけちゃったけど、オフェリアの説明はすっごく分かりやすかった。いや先生の説明より分かりやすくない? そんなことを言うときっと否定するんだろうけど、クラスでアンケートを取れば皆そう思ってるってことがはっきりすると思う。悲しいかな、彼女はよく勉強を教えてるから。
思考を切り替えて問題にとりかかる。やってみれば何とかなるものだった。もちろん全問正解とはいかないけど、分からなければオフェリアが教えてくれた。簡単な計算ミスから私の勘違いまで間違え方は様々だったから、彼女が出したノルマも何とか間に合いそうだ。本当にすごい。ちょうどいいラインを指定してくるんだもん。
「……え、なにこれ」
最終問題にとりかかってすぐに気持ちが零れ出た。今までの問題と全然違うんだけど。これ解けるの? もしかしてこれだけ今までの問題より先の単元だったりする? 確認してもその問題までが今までの単元で、つまり今日やった知識で解けるはずだった。
教科書を行ったり来たりして解き方を探す。取っ掛かりは多分これだろうなと思うものがあるけど、そこから先が分からない。どれをどうするんだ……? 手当たり次第に試してみるけど上手くいかず、最終下校を促すアナウンスが流れてしまった。
「どう?」
「……最後が解けなかった……」
「ああ……どこまで解けたの?」
無言でノートを差し出せば、彼女の綺麗な瞳がゆっくりと私の文字をなぞった。最初で躓いてるから解く以前の問題化もしれない。問題の意図が分かってないのかも。
「これ、私も解説を見るまで解き方が分からなかったわ」
「え!? そうなの!?」
「立香ったら、私だって分からないことはあるわよ」
帰り支度をしながら返ってきた言葉にそれもそうか、と納得する。何でもできるから勘違いしがちだけど、何でもできるのはオフェリアが努力したからであって、最初から出来る訳じゃない。それを彼女を一番よく見ていた私は知っていたはずなのに。思わず出た驚きの声は何も知らないクラスメイトと同じ反応な気がして悔しくなった。
「気にしなくていいわ。分かってるから」
「う~……ごめん」
「いいって言ってるのに」
困ったように笑うオフェリアはやっぱり綺麗で、女神様が降りてきたらこんな感じなのかなあなんて懲りない私は考えてしまう。優しく頭を撫でて、今みたいに私の手を引いてくれるから、彼女という沼から出られずにいる。
「頑張ったんだけどなー」
「そうね」
教室のドアを閉めながら呟くと返事が返ってきた。独り言のつもりだったからびっくりした。先に出ていたオフェリアの方を振り向くとばっちりと目が合う。いやまあ二人しかいないんだし目が合うのも当然なんだけど、条件反射のように跳ねる心臓がうるさい。
「でもすごい進んだよ。このペースなら余裕じゃない?」
「この教科は、ね。他もあるでしょ?」
「大丈夫なんとかなるって」
二人で並んで歩く廊下はいつもより広く感じる。この時間まで残っている生徒はほとんどいないだろうし、もしかしたら教室だけじゃなくて校内に二人きり、なのかも。次いつこんなシチュエーションに持ってこれるか分からないからたくさん話したいのに、意識すると話題が消えていく。いつもあれほど浮かんでくるのに。肝心な時に出てこないんだから!
「それで、これでおしまいなの?」
「え?」
かけられた言葉の真意が分からなくて踊り場に残ったオフェリアを数段下から見上げた。夕陽が眩しくて彼女の表情が見えない。
「オフェリア……?」
「やけに聞き分けがいいから聞いてあげる」
「え、と?」
「これでおしまいで、いいの?」
階段の差を埋めるように腰を折ったオフェリアの顔が目の前に来て、どういう意味で問いかけられているのか理解した。さらりと落ちる髪のカーテン。ノートは閉じられて音はしていないはずなのに、静かな階段にあの擦れた音が鳴った気がした。
「が、がんばったから、ご褒美欲しいな……!」
「しょうがないわね。今回だけ、ね?」
差し出された手を取って、ぎこちないエスコートを始める。彼女の言うご褒美が何なのかまだ分からないけど、どうやら今日はここまでではない、みたい。ちらりと盗み見たオフェリアは満足そうに笑っていて、きゅうっと胸が締め付けられるのを感じた。